
白い霧の約束 最終話
前回の話
「……死神?」
ナミの問いに、男は静かにうなずいた。
夜の高架橋には潮の匂いを含んだ風が吹いていた。
川は黒く、どこまでも深い。
まるで世界そのものが息を潜めているようだった。
「ナミ。君は本来、今日この場所から身を投げて死ぬ予定だった」
男の声は静かだった。
しかし、その言葉は重くナミの胸に落ちた。
ナミは首を振る。
「……ミチ?」
かすれた声で言った。
「ミチって……一体、誰だったの?」
男は足元に落ちていた枝を拾い、
湿った土の上に文字を書いた。
未知
「ミチ。
誰にも知られていない存在――それが俺だ」
男はその文字を見つめながら言った。
「この日まで、ずっと君を監視していた」
ナミの目から涙がこぼれた。
「違う……」
首を振る。
「あれは監視なんかじゃない」
「あなたはいつも、私のことを気にかけてくれていた」
声が震える。
「勇気だってくれた……」
ナミは男を見つめた。
「それにあなたは言った。
今日、私が死ぬって」
ゆっくり振り向く。
「でも……私は生きてる」
「水の中で見たの。
あなたが青い光をくれたこと」
男は少し黙った。
そしてナミの隣に腰を下ろした。
「さあな」
小さく笑う。
「気がついたら、そうしていた」
困ったように頭をかく。
「上は……もう気づいてるだろうな」
息を吐く。
「困ったよ」
それでも男は静かに言った。
「君はこのまま生きていけばいい。
もう君に何かをする者はいない」
ナミは首を傾げた。
「それって……どういうこと?」
その瞬間だった。
ナミの胸の奥で、
青い光が脈打った。
視界に映像が流れ込んでくる。
――廃墟ビル。
――倒れているユミカ。
ナミの顔が青ざめる。
「……ダメ」
男の腕を掴む。
「お願い……助けて」
男は少し驚いた。
「本気か?」
ナミは強くうなずく。
男はしばらくナミを見つめていたが、
やがて諦めたように笑った。
「……やれやれ」
ナミを抱き上げる。
次の瞬間――
二人の姿は消えていた。
⸻
そこは使われていない廃墟ビルだった。
床にはユミカが倒れている。
「ユミカ!」
ナミは駆け寄った。
ユミカはかすかに目を開ける。
「……お、おねえちゃん……」
ナミの胸が締め付けられた。
母がマンションから落ちた後、
ユミカは精神を壊したように街をさまよっていた。
その事実を知ったナオコは激怒した。
そして――
弱みを握られた者たちを集め、
ユミカをリンチさせたのだった。
ナミは震える声で言う。
「ユミカ……どうして?」
「どうしてあんなことを……」
ユミカは呟いた。
「どうして……?」
首を傾げる。
「……あれ?」
「なんで……だろう……」
その時、男が言った。
「それはこれのせいだ」
男はユミカの胸に手を当てる。
そして――
黒く禍々しい紙を引き抜いた。
そこには文字が浮かんでいた。
『ナミを憎み続ける』
ナミは息を呑んだ。
胸に手を当てる。
青い光が溢れ出した。
光がユミカを包む。
呼吸が安定し、
傷がゆっくり消えていく。
「やめなさい!」
鋭い声が響いた。
黒い装束の女が立っていた。
「その子の死神よ」
女は冷たく言う。
「この二人は本来、今日死ぬ予定だった」
男を睨む。
「こんなことをして、
ただで済むと思っているの?」
男は苦笑した。
「ああ。分かってる」
そしてナミを見る。
「ナミ。巻き込んでごめん」
ナミは首を振った。
「巻き込んだなんて……」
涙を浮かべて笑う。
「こちらこそ、ありがとう」
その瞬間――
二人の身体が光に包まれた。
⸻
ナミが目を開けると、
そこは白い霧の世界だった。
空も地面も曖昧な空間。
そこは
魂の振り分け装置。
死んだ魂を、
次の生へ送り出す場所。
上空から響く
「ここは転生を司る空間
お前たちの行動は相当な罰に相当する」
男は白い霧の柱に触れた。
「つまり……」
静かに言う。
「システムってことだろ?」
霧に亀裂が走る。
空間が震え始めた。
「やめろ!」
「世界の秩序が壊れる!」
男は笑った。
「もう壊れてるさ」
ナミの手を取る。
「君の未来を変えた時点でな」
空間が崩れ始めた。
ナミは言う。
「ねえ」
「もし、ここで離れてしまっても」
男を見る。
「また会えるかな?」
男は少し考えた。
そして言った。
「それなら約束しよう」
ナミは微笑む。
「白い霧の中でも
必ずあなたを見つける」
男も笑った。
「俺もだ」
「どんな世界でも
必ず君を見つける」
それが
白い霧の約束。
光が溢れた。
二人の姿は消えた。
⸻
それから十年。
ナオコと岸本の結婚式が行われていた。
ユミカもいる。
世界は少しだけ変わっていた。
だがこの世界にはもう
ナミも
ミチも
誰一人覚えていない。
⸻
そして………どれほどの時が経ったのだろう。
長い黒髪の少女が歩いていた。
静かな道だった。
風がやさしく吹いている。
少女は足を止めた。
胸の奥が、なぜか懐かしく痛む。
理由は分からない。
でも――
何かを思い出しそうだった。
視線の先に
一人の男が立っていた。
背の高い男だった。
少女は、なぜか涙をこぼしていた。
初めて会うはずなのに
ずっと前から知っている気がする。
男は少し困ったように笑った。
「……どこかで会ったことある?」
少女は涙をぬぐい、笑った。
「うん」
「きっと、ずっと前に」
男も笑った。
そのとき、風が吹いた。
空の向こうに
白い霧が静かに流れていた。
少女はそれを見上げた。
胸の奥で
言葉にならない記憶が揺れる。
なぜだろう。
なぜか――
とても大切な約束を
した気がした。
少女は男を見る。
少し照れながら言った。
「ねえ」
「もしまた、どこかで迷っても」
男は首をかしげる。
少女は笑った。
「きっとまた会えるよね」
男は一瞬驚いた顔をした。
そして静かにうなずいた。
「ああ」
「きっとな」
二人は並んで歩き出した。
世界はきっと
思い通りにはならない。
理不尽なことも
悲しいことも
これからもきっとある。
それでも――
人は変わることができる。
未来もまた
変えていける。
二人の背中を
白い霧が静かに包んでいた。
遠い昔
誰にも知られない場所で交わされた
あの約束のように。
――白い霧の約束。
最終話
了
※本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものです。
実在の人物や団体、出来事とは一切関係ありません。