メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byshine_little

おいらはこれでも外資系勤務さ

    昭和の頃の話。日本という国もまだまだ伸び代があった1980年代。親会社は米国のゲーム会社で、業績も良くその親会社創業メンバーの1人が日本に作った名ばかりの外資系法人が舞台の七転八倒の物語。モデルとなった会社はあるが、あくまでもフィクションです。でも、今やこんな会社日本社会では成立しないんだろうな......。

    珏1獠

    アンテラジャパンと聞いても 何人が会社の名前を知っているか。松田は知らなかった。転職活動中に リクルテイーング社のコンサルタントの館山から聞くまで そんな会社があること自体 知らなかった。

    「外資系ですか?」
    「そうだよ。ナスダックにも上場している。」
    「英語は駄目ですよ。」
    「いや、英語は必須条件になっていないから大丈夫さ。簿記二級あればいい。」
    「応募してみるかい?」
    「場所はどこですか?」
    「蒲田。降りたことある?」
    ない駅だった。自宅のある藤沢から東海道線で川崎までいき、乗り換えかあ、1時間くらいはかかるかなあ。
    「どうします?」
    「受けてみます。よろしくお願いいたします。」

     32歳で転職歴3社。決して、少ない方ではない。また、最初の会社こそ営業であったが、あとはすべて国内系の中小企業経理。もちろん、外資系など、初めての経験である。外資というとIBMとかアップルコンピュータとかが思い浮かぶが、アンテラ?きいた事がない。テレビゲームの会社と館山から聞いていたが、テレビゲームはファミコンを 昔買ったことがあった、というだけで深い思い入れがあるわけではない。ゲームセンターにも足を運んでいない。ただ、就職先の選択肢の一つにすぎなかった。

     リクルーテイング社のオフィスのある西新宿のビルを出て駅にむかう途中に 量販店が軒を列ねる一角があるが、その中のひとつ淀川カメラに入って、ソフト売場をのぞいてみた。ちょうど、学校帰りの高校生が、5人ほど、おそらく友達同志だろうか、物色していた。コーナーに入ってすぐの目立つコーナーには、昨日発売になったファミコンソフトが、20本ばかり並んでいた。また、当時はソニーはまだプレイステーションを 出しておらず、任天堂が6、セガが4といった売場の構成になっていた。ただ、どう探しても、アンテラのソフトは見つからなかった。店員に聞くと、品切れで、取り寄せにになるという。ゲームといえば、日本の会社がまず思い浮かぶし、アメリカにゲーム会社がある事自体、松田は知らなかった。いずれにしても、自分で納得のできる商品を扱っている会社にはいりたかったから、ゲーム会社であることに、なんら異論はない。アンテラの広告チラシのサンプルを見せてもらったが、レッスルマニアとかNBAとか日本ではいかにも うれないだろうなというタイトルが並んでいた。また、紀伊国屋書店でゲーム雑誌を見てみると、とにかくマニア受けするゲームしか出していないという印象をうけた。

     家に帰ると、リクルーテイング社から 面接の連絡がきていた。妻の恵は、聞いた事のない名前に「なんの会社なの?」と不安気ではあったが、アメリカのゲーム会社で、親会社がナスダックに上場していることを言うと、多少は納得してくれたようではあった。ただし、館山からもらった資料を見ると、日本の会社は資本金1000万円で、社員は30名。あきらかに、中小企業そのものだ。それも出資の60%は親会社だが、40%は株式会社コウとある。あしたの14時に蒲田の本社にこいとの連絡に、転職活動3社目の面接だが、入るかどうかはともかくとして、面接の切符を手に入れたのだから、内定を手に入れるだけだ。むろん、この時点では、ナスダックが何を意味するのか、二人とも理解しているとはいいがたかった。親会社が上場しているのだから、いいんじゃないか?という気持ちであった。
     面接の日、松田は はじめて蒲田の駅に降り立った。大森は映画館に行くためにおりた事があったが、蒲田は初めてであった。しかし、かつて松竹の撮影所があった街として、憧れに近い思いをこの街に有していた。撮影所は、このときすでに蒲田から大船に越して半世紀たっていたが、それでも、蒲田行進曲という映画を20回見た松田にしては、面接と言う局面にむかうにもかかわらず、映画の街という印象が第一であった。

     駅に着くとまず、駅の構内にあったマックで昼食をとった。もっと気のきいた店は、とも思ったが、面接前でもあり、マックに妥協した。時計は12時半。駅からは5分くらいの距離だ。いちおう想定問答集のようなものは作っていて 転職理由とかを、ハンバーガーを頬張りながら、時折、コーラを口の中に流し込んだ。ただ、外資系だから、英語のことはどう答えよう?ふと不安がよぎった。しかし、館山は 英語は必須になってないと言っていたが、そうは言っても外資系だ。口の中で モゴモゴと英語らしきことばを 喋ってみたものの、そこはいつもの楽天的な性格からか、なんとかなる、と結論づけてしまった。

     松田はマックを13時半に出た。まず会社の場所を確認しておきたかった。館山からもらった地図をみながら、駅前の大きなロータリーを渡り、京急蒲田方面に大きな通りを歩いていった。バブル前であったが、そしてバブル後も実はそうなのだが、この街の構造自体ほとんど変化していない。ある意味で昭和の街がそこにあるといった感じなのだ。駅ビルこそマックがあったが、通りの両側には昔ながらの喫茶店とかゲームセンターがあり、あとは普通の商店街が連なり、そこへ申し訳けなさそうに 三菱銀行と富士銀行が通りをはさんで屹立し、駅前には三和銀行もあったが、その風体は、新規の出店店鋪とは違い、石造りの銀行然とした建物であった。それは、とりもなおさず、この街が、昔から経済的に動いていたことを物語っていたことに他ならなかった。

     さて、目指す会社は300メートルほど歩いたところで右折し、100メートルほど行ったところにあった。一階はモスバーガーとラーメン屋。松田は和風指向のモスが好きだったから、一瞬、後悔もしたが、けっこう 会社の周りには下町らしい雰囲気がただよっていて、心地よさを感じていた。

     松田は、少し先の京急蒲田通り商店街を歩き、途中みつけた小さめの書店にはいった。小さいながらも、文庫、新書は最新刊がそろい、新刊の単行本も、あらかた揃っている。専門書がないだけで、必要最小限の本に対する松田の欲求は満たしてくれる、そんな印象だった。
     時計を見ると45分になっていた。松田はふたたび商店街を出て、今きた道を戻るように向かった。いよいよ面接だ。
    アンテラは、生保系ビルの二階にあった。入るとすぐに内線電話があり、その隣に「御用のかたは、ベルをおしてください」とある。おすと、身長155センチくらいの、化粧はすこし濃いめの女性があらわれた。年齢は松田とさほど変わらなそうだが、妙な色気を振りまく女だな、という印象をもった。

    「きょう、2時に面接でうかがう事になっています松田といいますが。」
    「お待ちしておりました。どうぞこちらへ。」

     およそ10メートルほど玄関から歩いたところに社長室があった。社内はパーテションで仕切られ、カーペットも比較的値段のはるものらしく、松田の靴が若干ながら 吸い込まれるかんじがあった。もちろん、誰が来たんだ?という好奇の視線を強く感じた。

    「社長、松田さんがいらっしゃいました。」

     社長室は通りに面した窓際にあり、そのそばで、70センチ近い筐体の移動対電話になにがしか英語で話していた。松田が来た事を知ると、電話の相手になにがしか 挨拶のような言葉をいい、電話を切った。

    「おう、松田さんね。わたしはね、縁というものを大事にするんだよ。こうして君がここに来た。これもなにかの縁だ。ところで、いつからこれるんだ?あしたから、アメリカの本社にいくからね、君の出社可能な日を知りたい。」

     松田はあっけにとられた。ファーストフードのアルバイトじゃあるましし、面談即決?茫然としているところに さきほどの女性がコーヒーをもってきた。シュガーとミルクを置こうとしたが、もともとブラックを好むので、それは断った。

    「今月末申告書だすんだよ。一刻も早くきてほしい。」

     しかし、申告書がこの月末提出なら、決算はおわっているはずだ。それともまだ終わってないのか?それよりなにより、これが面接なのか?松田の頭は混乱をきたした。

     「そうだ、社員を紹介しとく。江頭君。」

     さきほどの女性が顔をみせた。

    「彼女は江頭君。国際部の部長をやってる。」

     若いのに国際部長か、できる女性なんだ、とその時点では思った。

     「あとなあ、社内を案内するか、そうだ、まだ君の返事をきいてなかったなあ。入社の意思はあるかい?」
     「あります。明日からでも、と思います。」

     言い過ぎかとも思ったが、過剰すぎるほど言ってもバチはあたるまい。これは、面接の際によく言われることだ。
    深田はまず、経理のブースへ案内した。安藤と赤城、二人いて、それぞれ安藤は、ロータス123のシートになにやら 打ち込みをしていて、赤城は、請求書の束の入ったファイルを、必死になってめくっていた。

    「紹介する。こんど経理に来てもらう松田君だ。」

     安藤は、目をパソコンのモニター3センチくらいの至近まで目を近付けてデータを打ち込んでいて、深田に気付かない。

    「安藤、あんどう!」

     我にかえった安藤が 深田の顔を見た。

     「あっ、」
     「あっ、じゃないだろう。今度 経理にきてもらう松田君だ。頼むよ。」
     「そうだ、赤城君もな。」
    「つぎは 開発だ。開発と言っても、アメリカで開発した商品をローカライズするのが仕事だ。神野君。」

    スポーツ刈りで、あご髭をはやした男が、ゲームに向かいながら、これまた深田の声など聞こえないかのように手を動かしていた。

    「ちくしょー。」
    「じんちゃん、今度 経理にきてもらう松田君だ。」
     「はじめまして。」
     「よし、と次は営業だけど、いま 誰もいないなあ。マーケテイングは、休みか。」

     そのとき移動対電話が 着信音を発しはじめた。深田社長は、たえず片手にこのずっしりとした移動体電話を持ち歩いており、なにやらボタンを押すと電話にむかって英語でなにやら話しはじめた。

    「松田君、悪いなあ、ちょっと長引きそうだ。来週から来れるね。」

    深田社長は、受話器を押さえながらそういう。

    「ええ、まあ。」
    「じゃあ来週月曜日9時半だからね。」

     松田はかつて 面談即決の会社は良くない、避けるべきだと就職転職の指南書に書いてあったのを覚えている。つまりは、人の出入りが激しいか、もしくは、超過酷労働でつぎつぎ人がやまていくか、いずれにしても難しい会社ということだが、このときなんとも言い様のない心地よさをその深田社長に感じていた。それが、ひょっとしたらカリスマというものかもしれない、と思った。そうこうしていると、さきほどの女性 江頭が領収書と封筒を持って松田のところに来た。なにか 松田の動きを見られているようで、少々恐い感じもした。

    「ここに住所と名前、印かん持ってたら押して、なければサインだけでいいです。」

     はあ、この人は経理の人なのか?同僚?いやいや さっき深田社長は 国際部長と言ってたし、さっきは赤城さんと安藤さんだけだった。どういうことだ。
    そんな疑念もあるにはあったが、交通費をもらえる喜びのほうが勝っていた。松田はサインを終えると封筒を 内ポケットにしまい、社長室、そしてアンテラジャパンをあとにした。この間 わずか20分弱であった。

     帰りの電車でも、はたして自分が内定したのか疑心暗鬼このうえなかった。川崎駅で東海道に乗り換えるために下車したが、家に電話していないことに気が付き京浜東北線のホームの公衆電話から電話した。

    「もしもし、俺。来週から来てくれって。」

     一瞬 妻が沈黙になったのがよくわかった。それはそうだ。一回の面接で内定なんて思ってもなかった。妻にしても同様だろう。逆に「大丈夫なの?その会社?」ときた。
     私としては 社長深田の人柄というか、背丈はそんなでもなく、その一方で、英語を巧みにあやつり、どこか人を引き付ける魅力を 有している。それが、これまで接したことのない社長像でもあった。

    「まあ、なんとかなるんじゃないか?アメリカの親会社しっかりしてるようだしね。」

     外資系という未知の世界に入ることに興奮を覚えたのも事実である。そして30代になったばかりで 新しいことを吸収したいという思いが、松田の背中を押したのは確かだし、また、これ以降、松田もジャーナリズムへの飽くなき挑戦もついえ、新しい経理という世界にどっぷりとつかることになるなど、松田にとって、それは転機となったのは間違いなかった。
     この日は、前職で得た退職金の残金と、アンテラでもらうことになる年収から、今後の家計をどう運営していくか、松田は妻の恵と電卓を片手に相談した。500万の年収と恵のパートの120万。苦しくないといえば、ウソになるが、なんとかやりくりしていくしかない。マンションを買って2年たつがあと3年たつとステップ償還が終わり 返済額が1.5倍にアップする。それまではなんとかなりそうだが、3年後を見据えると なんとか年収をアップしてもらえるように頑張るしかない。

     初出社の日、と松田は自覚して出社したが、深田の姿と国際部長の江頭の姿はなかった。

     「安藤さん、おはようございます。」

     安藤は身体が悪いのか、大きな薬の袋を がさがささせて 薬を取り出そうとしていた。

     「あっ、松田さんですか。ちょっと待っててくださいな。」

     ごっつい身体のわりには か細い印象の人だ。安藤は袋のなかから、カプセルとか粉末とか5種類の薬をだし、コップに注がれた水を含んでは ひとつほとつ薬を飲み込んでいった。

     「赤城さん、松田さんの席を。」

    珏2獠

     見た感じ3人で経理をまわしてくようであった。深田は海外出張らしく入り口近くにあった行き先掲示板に 深田と江頭のところにUS本社と書いてあった。ただ帰社日は 今日になっている。しかし 姿は見えない。

    「赤城さん、社長は今日でしたよね。帰ってくるの。たしか昨日の成田着で今日は会社でしたよね。」

    少々厚めの眼鏡をかけた赤城は、

    「どうしたんですか?たしか、そうきいてましたが。」
    「さっき本社から電話あって、深田を出せってうるさいんだ。」
    「また、いつものことじゃないですか?」

     松田は会話の展開についていけない。いつものことって何なんだ?

    「いつものことってなんですか?」

     そう松田がきくと 安藤と赤城は顔をあわせた。

    「ま、いまにわかりますよ。」
    赤城が意味深に答えた。今にといわれても、と松田は思ったが。
    「また、行ってんのか?」

    営業の安川が、安藤のところへやってきた。先週はいなかった。そうなのだ。名前を聞いていない人 まだ8人はいるはずなのだ。安川は、たばこのにおいを漂わせて

    「しょうがねえよなあ、会社の金つかってさ、おんなとさあ。」

     それまで、外資系というとどちらかというと、スマートなイメージがあった。また、英語がとびかうオフィス。パーテションに仕切られた個室空間。とうぜん、ガイジンの社員。しかし、パーテションとか、オフィス環境はともかく、社員は、日本の会社そのものなのだ。安藤にしろ、赤城にしても、聞けば、日本の大手おもちゃ会社バンミー出身で、深田の引きではいったらしい。
     ちなみにアンテラジャパンは親会社は、ニューヨークにある、アンテラエンターテイメント。深田は、そのアンテラの創業3人衆の一人で、実力者。ふつう、親会社100%出資がよくあるが、このアンテラジャパンは、50%、深田の経営する株式会社フカダが50%出資している。

     そう、スマートさはまったくないのだ。そして、社長の愛人問題。

    「きょう、やるんだよな。」
    「やるさ。」

     安川と安藤の会話は、よくわからなかったが、この夜のある事件が、松田が、長くこの会社にいることになる原因のひとつになるとは、この時点では思いもよらなかった。

     翌朝、会社にでると、深田社長がファックスのまえで、おそらく親会社からきたであろうファックスの束を、ひとつひとつ見ては、仕分けをおこなっていた。

    「おっ、松田君。きのうはすまなかったね。初日に不在で。本社の会議が延びちゃってね。そうだ、金曜、夜はあけといてくれよ。何か?松田君の歓迎会に決まってるだろう。いけるんだろう?」

     なにやら、口あんぐり状態。でも本社の会議がのびた?きのうの話とはちがうなあ。本社から電話あったっていう話だったもんなあ。やっぱ、愛人か?

     そう思っていたっところへ、

    「おはようございます。」

     歳の頃は30代なかばくらい。でも、そう見えるのは濃い化粧のせいで、実際はもっと若いのかもしれない。そして、あとで聞いた話では、29歳ということだった。江頭国際部長である。エルメスのバックを机のわきにおき、さっそく始業前だが、かかってきた本社からの電話を深田にとりついだ。

     会社は、ネットワークは、アップルトーク使用のネットワーク構成。もちろん、各自、いまでは古典的な趣さえ感じさせる厚みのあるモニタ、インターネットも草創期で、信頼性がいまひとつのため、親会社との間のメールのやりとりは、ダイヤルアップで本社のサーバーにつないで、メールやデータのやりとりをする。ただ、この会社でアップルコンピュータに最初のコンタクトしたことが、松田をアップル狂への道をあゆませるきっかけになったのは、言うまでもない。

     きのうは、かえるとき机の上にはなにもなかったが、今朝は大きな躯体のパワーピーシー搭載もMacintoshコンピュータが鎮座していた。パーテションに区切られた環境は、まんざらでもない。そうだ。アメリカのドラマみるとよく家族やらの写真をはってるよなあ。などとたあいのない事を考えていると、江頭の声がオフィスに響いた。

    「応接会議室にあつまってくださーい。」

     そこには、すでに顔と名前が一致する社員もいたが、はじめての社員もそこにはいた。おそらく営業の人か?たしか、行き先を書くボードに西日本とかあったから、そうなんだろう。

    「こういう全体会議はよくやるんですか?」
    「気まぐれですよ。でも、今日は松田さんの紹介でしょう。」

     そんなこんなしているうちに、深田社長がはいってきた。

    「おう、おはよ。」

    あとから、江頭もはいってきた。15名の社員がいるが、松田が目で数えると13名。2名ほど足りないが、深田は、かまわず話をはじめた。

    「今日から11月だ。わかっているとは思うけど、年末商戦で、いそがしくなる。営業には土日も現場にはりついて会社に貢献してもらいたい。そこで、ついてはだが、これから年内、土曜日も出勤とし、株式会社フカダの業績アップを狙うからな。」

    きがつくと、新しくかった自動車が乗ったとたんに、猛烈なスピードで、それも急激に走り出した印象。それに株式会社フカダ? アンテラジャパンに自分は、はいったんじゃなかったのか?

     まわりの空気は、あきらめにも似た境地であった。またはじまったか?と口にこそださないが、社員の顔には、不満の片鱗がうかがえた。そう、深田の思いつき、なのだ。
    深田の思いつきはまだまだ つづく。

    「それから、まだ日程とか詳しいことは決まっていないが、月一回の土曜日に、自己啓発のセミナーをおこなう。費用は会社がもつ。決まったらしらせる。」

     隣に立っていた赤城が

    「どうせ、日経ビジネスあたりにのってたことの請け売りですよ。」

    と、松田に言った。あの手の雑誌は、ほかにもダイヤモンドとか東洋経済とかあるが、読ませる記事は日経ビジネスが多い。また、いまでこそ日経ビジネスは書店でもかう事ができるが、そのころは通販のみで、おまけに申し込んでも、ステータスのない購読申込みはお断りすることもある、という非常に高飛車な雑誌であった。内容はよくどこそこの会社は、こういうことをしているとか、よく書いているが、深田はよくそれをまねるのが好きらしい。

    「あともう一つ。」
    「CFOのトムが今日の午後からくる。内部監査だ。安藤、よろしく頼む。」

     安藤は、顔を上気させまるで鳩が豆鉄砲くらったような表情で、深田の顔を凝視していた。

    「さいごに、松田君。」
    「きのうから仲間に加わった松田君だ。病気がちな安藤を助けながら、経理をもりたててもらう。よろしく。松田君。」

    「松田です。よろしくお願いします。」

    「安藤、おまえ、松田君をたのむよ。なにか質問あるか?ないようなら、これで終わりっ。そうだ、金曜夜、松田君の歓迎会やるからな、6時にいつものとこで。」

    「ああ、土曜日なしか。やってられないよな。」

     安川が、深田に聞こえるか、聞こえないかわからないような声で、ぼそっとつぶやいた。それは社員全体の空気を代弁しているようでもあった。そのせいか、会議のあとの空気は、なんとも重いものが、オフィス全体を覆い隠しているような感じだった。

     外資系の会社に入った、というよりも、中小企業オーナー会社にはいってしまったんだな、と松田は会議を終えたとき、そう思った。深田社長は、少々頭ははげ上がってスダレ状態だが、バイタリテイー、行動力には負けない、といった自信にみなぎっていた。ある意味で、カリスマ性をもちあわせているんだろうなと思った。しかし、その強権的手腕、今回のような休みをけずるとか、いったやり方、社員がついていける人でないと、難しいだろうなと思った。

     席にかえると、ITの担当者である愛川が、安藤となにやら話をしている。

    「どうしたんですか?深刻そうですね」
    「監査あるっていってたでしょ。その準備ですよ。ある意味でね。」

    安藤が重い口を開いてくれた 。

    「でも、ただ日々の証憑と帳簿を準備していればいいだけの話ではないのですか?」

    愛川と安藤は顔を見合わせた。

    「それが、そういうふうにいければいいんだどね。」
    「というと?」
    「この会社はね、二回決算をするってことなんですよ。」
    「二回?」
    「そう、二回ね。」
    「会計基準の違いからですか?」
    「そんなまっとうなもんじゃないんですよ。数字をつくっていくんですよ。」

     つまり、こういうことだ。親会社から、おまえのところはこれだけの利益をだせ、とせっついて来る。バジェット、予算だ。しかし、根本的に日本のマーケットを理解していないから、アメリカで売れるソフトが海外で売れないわけがない、という理屈が出てくる。アメリカの会社は、ヨーロッパの会社にくらべてこれがきつい。

     そこを気骨ある社長なら押し返すところだが、そう、アンテラアンタテインメントの設立メンバーなんだから、もっと強く主張すべきを主張してもいいはずなのだが、できない。今にして思えば、面子というのもあったのかもしれない。また、浅草のおもちゃ問屋の「おやじ」といった風体からして、なんでも「いいよ、まかせとけ」となったのかもしれない。

     しかし、売れないものは売れない。

     そこで、たとえば、100本の注文があったソフトの発注書を修正液で1000本に直し、売上本数を水増しする。なおかつ、販売ソフトを正式のものとは別にもう一本はしらせ、それで偽の売上を管理する。それは、深田の発案らしかった。そのためかどうかわからないが、入社の一ヶ月前に愛川が入社したのは、そのITの腕を見込まれてというより、深田の発案を、実現できるということで採用されたらしかった。

    「でも監査でアメリカから来るって言ってましたけど、その人が日本語の請求書とか見てわかるんですか?」

    安藤がはき捨てるように言った。

    「わかるわけないじゃないか。私に通訳というか翻訳させるんだよ。」

     安藤は、いくぶん手をふるわせながら、セブンスターをとり、火をつけた。一見、温厚そうに見えるが、どこかにいらだちをかいま見せる。深田が安藤が病気がちというのも、深田の判断ひとつひとつが彼にストレスの病根をうえつけているのかもしれないと思った。

     しかし、売り上げを水増ししたところで、ばれるのは目に見えている。売ったのにお金が回収されないままだと、「これはなんだ?」となるのはひをみるよりあきらかだ。

    「監査は日本の会計事務所がやるんですよ。」

     赤城が、パソコンにむかいながら言った。

    「トーマツとかああいった?」
    「そんな大きなとこじゃなくて、ちっちゃいところですよ。」
    「向こうからくるのは、そのまえに日本の決算の状況を
    、会計監査まえに見にくるってことでね。」

     それは例年どおりということだった。それはそうだろう、半日で帳簿を全部みれるわけがない。それにいまさら、数字をどうこうできるわけもない。結局、恒例のアジア観光という趣だと安藤は言った。

      もうかっていると深田は言っていたが、なんだかとんでもない会社にはいってしまったような気がした。

    日本のように帳簿記録係でない経理をやりたくて移ったが、入社初日にして、その願いがどうもかなわないことを、松田は実感した。

    珏3獠

     本社からきたCFOと称する人間は 歳の頃は松田とそんなに変わらない歳格好で、昼過ぎの飛行機で成田についた。蒲田の事務所に着いたのは5時近くになっていた。大きなキャンバス地のボストンをひとつ持った中肉中背の男で、深田と大きな声で挨拶をすると、社長室のドアはしめられ、10分、20分と時間は過ぎていった。赤城と安藤はなにごともないかのように、パソコンに向かって打ち込んでいる。松田は、安藤から指示のあった月末支払いの「物品購入依頼書」を整理していた。時計は6時近くになっていた。

    「安藤、ちょっと。」

     社長室があき、安藤は中にはいっていった。安藤の手にはさきほどまで作成してチェックを重ねていた、ロータス123で作成した資料があった。そのB4の資料といっしょにカシオの12桁どりの電卓、それもかなり年季のはいったものを手に社長室に入っていった。

     しばらくすると、そのCFOはドアから出てきて、安藤、深田と握手すると事務所を出ていった。江頭も、行き先表示板に手早く「NRと書いて、一緒に出ていった。
    安藤は宿題と称するファイルを手に席に戻ってきた。そのファイルは さきほど安藤が持ってはいったファイルで、そこに色取りあざやかな付箋が何か所かついていて、ぴらぴらしていた。

    「これの証憑を用意しろだと、明日までに。」
    「明日ですか?」

    松田が、びっくりした声をあげた。

    「日本の時間じゃなくて本社の明日だよ。監査する会計事務所のアメリカの本部がデータほしいらしい。」

     ニューヨークと東京は時差が半日ある。あすということは 明日中に仕上げればニューヨークの明日と言う締切に間に合う。これには、松田も多いにこのあと助けられる。だから本社の始業前までに仕上げて、会社を後にすれば、クレーム対応は あすの仕事になるわけだった。

    「じゃあ、そろそろ行こうか。」

    深田が、経理のところへ、すでに上着を着て、鞄をもった風体で顔をだしてきた。

    「安藤、あしたまでだからな。たのむよー。」

     深田はそういうと、ポケットからマイルドセブンをとりだし、火をつけた。まだ、この時、オフィス内は禁煙にはなってなかった。自分の机の隣はあいているのだが、そこにはファイルが3冊重ねておいてあった。あけてみると、証憑類、つまり領収書とかのコピーが綴じ込まれていた。

    「これ、なんですか?監査の資料ですか。」

     一瞬 赤城の顔色がかわったことに松田は 気付かなかった。

    「あした説明するよ。赤城、キャビネットにいれとかないとまずいんじゃないか?」
    「監査とか決算の資料ですか?」

    そのとき深田の携帯がなった。

    「どちらでもないんですよ。王女様のうたげの後ですよ。」

    赤城が小さな声で松田に教えた
    その「うたげ」の意味。翌日、赤城は知る事になる。

    歓迎会は近くの焼き鳥屋であった。6時すぎに安藤、赤城と焼き鳥屋の縄のれんをくぐった。なぜか、深田がはちまきをしめてカウンターにはいっている。

    「松田君、おれの焼き方は天下一品だぞ。それだけでもアンテラはいってよかった、と思えるからな。」

     別に焼き鳥を食べるために会社にはいったわけではない。とまどいともなんともいえない微妙な表情を松田は見せた。それとも深田は 焼き鳥屋もやっているのか?
    外資の経理をやりたくて はいったのだが.....。 なんなんだ、この会社は。

     安川が、松田をこっちへこいと手招きをしたこともあり 安川そして菊山というデザイナーの間に座った。

    「これから、たいへんだね。」

    菊川が挨拶もそこそこに切り出した。

    「えっ?どういうことですか?」

    そこへ安川が口をはさむ 。

    「菊川はね、今週いっぱいでやめるんだよ」

     当然、会社は入社する人がいれば、やめる人だっている。人が会社を辞めるというのは相当なエネルギーをつかう。それはそうだ。一日の多くの時間、それも家族よりも長い時間を過ごす場が、変わると言うのは、大変に精神を疲労させる。だから、やめる、というのは大きなきっかけがないとやめられない。また、日本の社会は転職に対して昔ほどではないにしても、寛容さはいまひとつときている。

     ここに誤解をといておくと、アメリカでも職を点々とするのはあまりこのまれない。ジョブホッパーなどと揶揄される。そう、いい仕事もとめてぴょんぴょん移る、という意味。そして、大きな会社となれば、やはり生え抜きがトップにつくことが多い。

     なぜ、やめるんだろうと松田が思った、そのとき、

    「王女さまに刺されたんだよ。」

     安川は、松田の質問を見透かしたように、菊川にかわって答えをくれた。また王女様だ。松田は思った。菊川は見たかんじ文字どおりクリエイター然とした雰囲気をもっている男で、歳は29歳だった。当時としては珍しい ふち無しの眼鏡をかけていたが、その奥底の眼底は、人の本質をえぐり出すような厳しさをもっているようだった。そんな彼がなんだって、王女様にさされたんだろう。

    「安川さん、古巣に戻るだけですよ。松田さんがびっくりするじゃないですか。」
    「古巣って?」
    「バンミーだよ。」

    なぜかまた安川が答えた。安川はまだ乾杯前にもかかわらず、すでに中瓶を1本たのんで、グラスに注いではぐいぐいやっていて、すでに顔は赤ら顔になっていた。

    「じゃあ、深田社長と同じ。」

     聞くところによると、アンテラは、バンミー含めて社長が集めてきた人材と、人材紹介会社で採用した人材のに分かれた。菊川はその前者らしい。当然、深田社長が菊川を引き抜いた。

    「どうしてやめるんですか?」
    「ま、いろいろ考えるところあって、ということかなあ。」

     深田は、5メートルほど離れたカウンターで、汗を流しながら、焼き鳥を焼き続けている。その姿が50センチほどあいた障子の隙間からみることができた。気が付くと、10人ほどのカウンターは人で一杯になっていた。

     松田も、安川にコップになみなみとつがれ、コップに口をつけたときだった。菊川が、ぼそっとつぶやいた。

    「松田さん、江頭さんには気をつけてくださいよ。」
    「どういう意味なんですか?」
    「だから、気をつけろってことですよ。でも、菊川のような人材、アンテラにはもったいないよ。」

     安川は、そういうと口をつけていたグラスをテーブルに置き、その上においていたハイライトから一本取り出し、火をつけた。昼から、思わせぶりな話のふり方をする。松田の好奇心はそそられる一方だった。
     テーブルの対面には 安藤と赤城がなにやらぼそぼそと話をしている。今日の昼、安藤と昼を食べたが、感情を露出するタイプではなく、もくもくとお昼のハンバーグステーキライスのライスを、フォークの背にのせて、ゆっくりと口のなかに運ぶ姿をみて、安藤の記帳面さの一面をかいま見たような気がした。
     酒宴は 全員参加とはいかなかった。菊川は、筆さばきがうまく、酒はあまりすすまない方であったが、鞄からスケッチブックを取り出し、各人の似顔絵を書いてくれた。それを見て、皆が強嘆の声を都度あげた。深田は和の中で、というよりは、いるだけで存在感をかんじさせた。机の上には、深田が焼いた焼き鳥はすでに尽き、すでに二皿目が 塩とタレといった具合にしわけてならべてあった。ビールも二回転め。安川は 日本酒をはじめていた。松田はあいかわらずビールを楽しんでいた。
     はじまって1時間ほどして、トイレにたったとき、菊川と一緒になった。

    「松田さん、江頭に嫌われたら、この会社ではやっていけませんよ。自分はそれなりにやりがい感じてたけど、なぜかある日突然、無視されるようになってね。社内の行事の案内とかもこなくなったんですよ。なんか、いやになっちゃって。」
    「なんかあったんですか?でも古巣にかえるんでしょ?」
    「そうだけどさ、ま、話せば長いし、松田さんは、がんばってくださいよ。」

     あとから聞いた話だと、江頭に嫌われた社員は、ことごとく会社を去っていったらしい。それが、単純に江頭の気分の問題なのか、それとも、深田の意思がそこに働いているのかは分からない。しかし、小さな会社だと、そりのあわない、もしくは人間関係がうまく円滑に動かないと仕事はまわらなくなる。

     大企業でも 人間関係は悩み多い問題だ。しかし、組織が大きいおかげで、何年か我慢すれば 異動だって可能である。願い出て異動となるケースもある。それによって、いくぶんか人間関係の毒気も薄められるが、少人数、小組織だとそうはいかない。会社を去るのも、勢い選択肢のひとつにはいってくる。
     席に二人してもどると、さきほどとはちがって、冷たい空気が漂っているのに松田は気が付いた。それは菊川も同様のようであった。そして、深田のとなりに座っていた女性、江頭みさえの存在がその原因であったことも、すぐにわかった。

    「松田さん、乾杯しましょう。」

     国際部長様の乾杯だ。丁重にと思いながらも顔はこわばってしかたがなかった。

     結局、冷たい空気をひきづりながら酒宴は終わり、江頭のかん高い笑い声が10畳ほどの部屋にひびきわたるばかりで、安川などは、不満を顔一杯にあらわしているようにみえた。

     家では妻が松田を心配そうに迎えた。

    「どうだったの?」
    「ん、まあね。」
    「まあね、じゃわからないわ。」

     妻の気持ちもいたいほどわかる。転職初日。どんな会社なのか?ある意味で松田家の食い扶持の根幹をなす松田自身の勤め先がどんな感じなのか、妻の心配する理由もよくわかった。

    「ひとことで言えば、いろいろある会社ってかんじだなあ。」
    「いろいろって?」
    「まだ、よくわからないけどね。」

     と自分でいいながら、個性的な社員の多い会社であることは確かだな、と松田は思った。多士済々と言おうか。そういう意味では面白い会社とも思うが、少なくとも外資にはいったという実感は まったくわかなかった。

    次の日。

    朝から、きのうのCFOが安藤をつかまえてはいろいろ話をしていた。松田は引き続き、支払い処理のまとめをおこなった。そのとき江頭が、今月の小口現金の精算をするべく、手提げ金庫と領収書、出納帳をもってきた。これを 経理は会計ソフトに入力するとともに、つかった金額分を補てんして20万円になった手提げ金庫を渡す。これが月末のルーチンのひとつになっていた。
    「松田さん、じゃあ、この処理やってもらえますか?」
    松田は クリアファイルにごっそりと綴じ込まれた領収書の束をみながら、すこしため息がでた。金銭出納は深田が書いたらしく、よく読めないし、見てみると、飲食もそうだが、サンプルという、おそらく深田の書いたメモのはいったものが やたらと多い。
    「赤城さん、サンプルって試験研究費ですか?」
    「よくわからなければ、直接聞いてみちゃってくださいよ。」
    「江頭さんにですか?」
    「えーっと、どこの領収書ですか?」
    「高島屋ですが。」
    「じゃあ、高島屋に。」

    変な話だ。使った本人がいるのになぜ、お店にいくのか、その時はまだ、理由はわからなかった。赤城はすこし、にやっと笑ったようにみえた。
    松田は領収書に記載された電話番号に電話してみた。

    「高島屋でございます。」
    「お店でいただきました領収書のことで伺いたいのですが。」
    「領収書の上の方に記号というか番号はついてないですか?それで売場がわかりますが。」

     サンプルだから玩具売場だろう。松田はきわめて浅く考えていた 。

    「化粧品売場でございますが、おつなぎしますか?」

     松田はきつねにつままれたように、返す言葉をなくしていた。なんでサンプルが化粧品売場にあるのか?聞いてわかったのは、聞いた事のある高級化粧品の名前だった。

    「赤城さん、化粧品でしたよ。これどういう意味なんですか?」
    「そんなの、江頭に聞いてくださいよ。そうだ、松田さん、すみませんが、そういうのあったら、すべて領収書コピーとって私にください。頼みますね。」
    「どうするんですか?」
    「経理やってると会社の金の流れも分かるし、金に対するみんなの姿勢もわかる。それはそれでおもしろいんだけど、会社の金で女に化粧品はないでしょ。松田さん、ね、そう思いません?」

    赤城は いつもはもの静かな雰囲気を漂わせているが、なにかあれば、激するタイプであった。社長はもちろん、江頭も社内にいる。ちょっと声おおきかうないかと心配した。
    赤城が手渡してくれた領収書のコピーの綴りをみると、わきに注記があり、その内容に驚かされた。まず ある日曜日。どうも日本橋の高島屋が好きなようで、高級バックを買って、そのあと日本橋の有名なフレンチのお店でランチをとり(お店の領収書。メモはセガ某氏とのうちあわせ)、そのあと給油して横浜にドライブし(高速券)、夜は横浜で夕食(これも取引先と打ち合わせ)。

     松田はまるで 安っぽい三文小説を読んでいるような気分になった。つまるところ、会社の金で女と遊んでいるだけ。そんなこんなの領収書がバインダー一杯に綴られていた。それが3冊ほどになっていた。男と女のいる世界のこと。不倫とかになることだって世の中にはある。たまたま好きになった相手が既婚者だったということだってあるからだ。それに昔から「英雄色を好む」ともいわれる。たしかに深田は、バイタリテイー溢れるところがある。アメリカから帰った翌日もあさ早くから会社にきて仕事しているし、奥さん以外に女性がいても、それ自体は本人の問題だ。ただ、会社のつかって、なおかつポストまで与えているとなると話は別だ。その女のために有能な社員が会社をさっているとしたら、なおさらだ。

    そんなアンテの社員のストレスと怒りが臨界点に達するのに それからさほどの時間はかからなかった。

    珏4獠

    その日は、土曜出勤の日だった。朝、会議室に召集がかけられた。深田は、皆が集まったとみると口を開いた。

    「みんないるか?」
    「そろっています。」

    江頭は、そう答えた。しかし、本当は 開発の神野は、電車の遅れでまだ会社についていなかった。それに気付かないまま深田はつづけた。

    「今度。江頭君に研修としてロンドンに行ってもらうことになった。こんどグループで社員を相互に研修と称して各社が派遣しあうことになってな、彼女がその第一段というわけだ。」

     みんな、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたが、信じるものなぞだれもいないことくらい、入社してものない松田にもよくわかった。おまけに、最初の一週間、一緒にUK(イギリス)の関係会社ユーケイアンテラに出張するという。

     ここでアンテラいついて書いておく。本社はニューヨークにあり、関係会社がイギリス、ドイツ、フランス、スペイン、オーストラリアにある。従業員はグループで1000人。そのうち日本は、ゲームメーカーが日本にあることもあって、おもに世界のグループ会社から発注をうけて、資金を銀行から借りて製造し、それを輸出する。松田がはいるまではそれが、業務のほとんでといってよかった。

     この年から、円高もあって、輸出はなくなり、国内のマーケットを相手にしていかざるをえなくなった。しかし、アメリカではハッスルマニアとかソンプソンズとか、そして今でこそ日本人大リーガーが人気のメジャーだが、当時はそれもなく、マニアックなゲームばかりをラインナップしていた。そのため、国内の売れ行きは、芳しくなかった。なんらかの対処が、親会社から会社に求められていた。しかし、創設者のひとり 深田の首に縄をつけることができる本社の人間は ひとりもいなかった。

     江頭はそんななか、ロンドンへいくことになったということだった。

     本社の情報は深田をとおしてしか入ってこない。だから、江頭の話も、日常が日常だから、うさん臭いものを、社員はかぎとっていたのである。

     席にもどるとしばらくして赤城が松田に耳打ちした。

    「きょう夜6時、あとで知らせる場所にきてくれますか?」
    「なにかあるんですか?」
    「松田さんにも、知っておいてもらいたいことがあるので。」

     といいながら、鞄のなかから、多少しわのよった地図をとりだした。そこは大田区の施設で、蒲田と大森の中間くらいの場所にあるらしかった。その地図を赤城は松田に渡した。

     夕方になり、定時になると会社をすぐにでた。ちょうど土曜日ということもあって、駅近くのスーパーは、夫婦とか家族連れの姿をみかけた。なんだか、意識の落差を感じざるをえない瞬間でもあった。けっきょく、土曜に会社にでてもなんの意味もないように松田には思えた。

     駅の公衆電話で妻には夕食はいらないと伝えた。そして、蒲田の駅そばの三菱銀行わきを線路ぞいにあるいていく。すると10分ほどでメリーチョコの本社工場があり、その斜め前にめざす場所があった。

     ステップをあがり、重い硝子戸を押して中にはいると会場案内版があった。

    201 アンテラジャパン労働組合

    その案内版を見ていると、あとから会社をでた赤城が 、

    「そういうことですよ、さ、二階へ行きましょう。」

    と肩をたたいた。階段を踏むかかとの音がコツコツと反響する一方で、どこだかの部屋から尺八の音が聞こえてきた。案内版に、二階で、たしか「尺八サークル」とあったのを思い出した。 すりガラスの窓がついたドアをあけて中にはいると 、すでに全社員が集まっていた。
    演壇には 安藤がいた。

    「松田さん、早く座って。」
    「そろそろ、いいんじゃねえか?」

    安川がノートにペンを走らせながら言った。
    「これから、第二回アンテラジャパン労働組合の臨時会をはじめます。今日はとりあえず、松田さんにも来てもらいました。というのも、松田さんも、この会社の嫌な面もたくさんみたとおもいますが。」

    と 安藤は松田に視線をやると、みんなも松田に目をやった。

    「さっそくですが、今日の議題は。」
    「委員長、それより今日の江頭の件、どう思うよ?やってられねえよなあ。」

    安川が、議事の流れを仕切っているようだった。

    「この件もいれますか?」
    何のことだろうと思った。入れる?ただ、話をきいていくうちに、ファックスを親会社に送って告発してやろうということらしかった。どうも、先月、つまり松田がはいる前の月に、その告発の話がでていたが、決算で立ち消えになっていて、それが今日の「研修」話で一気に爆発したらしい。

    「当然だろう。」

    意義なし!の声があがった。

     労働組合といっても、労働委員会に届けだしたものではなく、任意の団体。もちろん、上部組織とかもない。労働組合と名乗っているが、義憤にかられた社員の決起集会といった雰囲気だった。

     いよいよ、アンテラの激動が始まろうとしていた。


     深田は、ある意味でアンテラにおいては、不可侵な存在で、それでいてアメリカにとっても、日本の従業員にとっても、どこか目の上のコブのようなところがあり、取り除きたいところなのだが、深田の人脈、ビジネスセンスには一目おかざるをえないところがあった。

     たしかに、アメリカのナスダック上場まで会社をもっていけたのは、深田によるところが多いのは議論のないところだった。アメリカ本社と任月堂幹部との顔つなぎをしたのは深田で、深田が京都本社に行くと、他の業者と違い、別室にとおされるなど特別待遇であった。それはバンミー時代からのコネクションであったのだろう。それはおそらく、任月堂のアメリカ市場戦略と方向性が合致していた。つまり、利害の一致があったということだ。つまり、任月堂も深田の商才を買っていた、言い方をかえれば利用していたわけだ。

     しかし、社員も自分の給与なり待遇が、うまくまわらないとなると話は別だ。いくらビジネスセンスに優れていても、それが自分の食い扶持に直結しないと、ちょっと待て、となる。人間は、まず自分の生活を守らなければならない。深田に声をかけられて入社したにもかかわらず、条件としてあげられた給与に届かないばかりか、まったく業務と関係ないところに、お金を注ぎ込む。そして、今回のような名ばかりの「海外研修」である。

     松田は、紹介会社経由だから、給与年俸については十分に合意があって入社したが、直接、深田から声がかかって入社の場合、書面をかわさなかったこともあったらしい。たしかに契約の文言について。一字一句ものを言うような風体には見えないが、けっこう、そこが狙いであったのではないか、そんな議論が、今日の会議であった。それを聞いて、数字にシビアなアメリカ流ビジネスと純日本的な風体のあいだのギャップを深田は、江頭をとおして楽しんでいたのかもしれない、と松田は思った。

    「じゃあ、深田がロンドンから帰る来週金曜日に団交を申し入れます。それで色好い返事がなかった場合は、アメリカ本社に告発をします。みなさん、いいですか?」

     いまでこそ、ホイッスルブロウワーなど、会社内の不正の告発について、制度的な側面で整備が進んできているが、当時としてはなんらそんなものはなく、一途に会社を思えばこその告発であった。

    「書記の赤城に今日の議事をまとめてもらいます。おっ、赤城したの事務所でコピー13部とってきてくれ。」
    「それから、松田さん、会計をやってもらえますか?赤城ひとりでは書記と大変なんでね。」

     内心、入社してすぐに泥をかけるような所業はしたくないという思いがあるのも事実だったが、社員のおかれた状況の難しさも理解出来た。会計と言う裏をささえる仕事でもあり、そこは快諾した。
     会社の事務所内では、病的にみえる安藤が、いきいきとみえたのが不思議であった。


     経理には もうひとつの課題があった。それは、二度目の決算である。それも、ことのほかこの年は 成績が芳しくなかった。アメリカでヒットした作品を毎月のようにリリースしたが、すべて予想を下回る売り上げしかでなかった。当然である。いくらアメリカでヒットしたところで、それが日本でヒットするとは、決してかぎらない。それに対する自覚が アメリカにはない。アメリカの基準、この場合はヒットの基準だが、それが世界で通用すると思い込んでいる。そして、深田も本音のところではその点をわかっていても、日本の会社を守るためにアメリカにものをいうこともない。いま、いちばん大事なのは、江頭との関係だからだ。
     それどころか、アメリカがいってきた数字にあわせるように、経理とITに指示が飛んだ。つまり、粗利を増やすために、各社の発注を水増しするわけだ。

    ファックスの発注書がくれば そこに7本とあれば 17本と増やすようにである。
     もちろん、ただ単に増やせばいいのではなく、それを証憑(エビデンス)として整理して、監査に備えなければならないのだ。だから、販売管理ソフトももう一つ決算用の領域を用意し、発注書、請求書をアウトプットしておかねばならない。そう、決して出す事のない請求書である。

     次の日からは、その準備におわれた。

    日本の商法にもとづいた法定監査ではないが、それなりの準備は求められる。松田は、問屋からおくられてきたファックスをコピーにとっては、本数を安藤がまとめたとおりに受注数を改ざんしていき、それをコピーして証憑ファイルにとじていった。
    松田には、このとき謎が頭をよぎった。あれだけ、深田を糾弾する労働組合の委員長をやりながら、こういう作業には加担してしまう。

    「食うためじゃないか。仕方ないだろう。」

     そう安藤は言うが、松田は釈然としないものを感じていた。しょせん、売り上げを水増ししたところで、回収自体があり得ない話だから、結局、損の繰延べでしかありえないのだ。数字をアメリカ本社の求める、言い方をかえるならば予算(バジェット)にあわせたところで、自己の体力を消耗するだけなのではないか?むしろ、会社の経営がおかしくなれば、それこそ「食う」ことができなくなるのではないか?

     証憑の整理、および会計ソフトへの入力、元帳出力などがあったため、時間がかかり、終わったのは明け方になっていたが、松田の気持ちは晴れずじまいだった。ただ、その気持ちがはれるのにはさほどの時間もかからなかった。やはり人間、表と裏はあるものだ。

     監査は、深田が不在ではあったが、3日の日程で、会計士が2人、会計士補が1人、税理士1人の4人体制でおこなわれた。松田にとっては はじめての監査の現場体験であった。基本的には、バランスシート、貸借対照表の数字を、サンプリングしながら、正しいかどうか見ていく作業であり、手提げ金庫にある現金の実査からはじまり、ひとつひとつ作業を彼らはこなしていった。質問などには安藤が対応にあたり、赤城と松田は通常業務にあたった。

     正直いって、松田には二つの気持ちが交錯していた。ばれずにいくものなのか?これは、今回の件にコミットしたがゆえにでてくる気持ちにほかならない。もうひとつは、会計担当として、こんなことやっていていいのか?よかったのか?という気持ちであった。どちらが強いかといわれれば、後者のほうが強いものがあった。 

    「あのう。」 

     最初の顔あわせで名刺交換をした会計士の安保だった。

     「銀行に残高確認状ださなければならないので、これに記入してください。」

     ひょろっと背丈のある男で、会計士といってもたかぶったところのない、松田と同年の男であった。

    「残高証明はだしましたし、お渡ししてあるはずですよ。」
    残高証明はすでに赤城が銀行に手配済みで、取得した証明書はすでに渡しすみであった。
    「ちがうんですよ。うちから出す徳山会計事務所の名前でだす証明書ですよ。」
     確かに銀行は残高証明書をだす。しかし、隱し口座を会社がつくっていれば、会社が請求した証明書だけではわからない。そこで会計事務所からも、口座番号が書かれていない証明書を出し、銀行にその会社の残高情報などを記入確認をしてもらうわけだ。しかし、そんなことを当時の松田は知らない。

    「なんで、そんな二度手間、三度出間なことをするんですか?」

     昨日の寝不足と、いますすめられている監査に対する複雑な気持ちが交錯し。思わず安保にあたってしまた。

    「監査でしなければならないんですよ。」
    「どうして、そんな無駄なことするんですか?そのたびに手数料とられるわけでしょ?会計事務所が払ってくれるんですか?」
    「それは決められた手続きなんですよ。」

    松田にしてみれば、初めての監査がこのような不本意な形で進まざるをえないことに忸怩たる思いがあった。そして、ふと我にかえる松田。

    「わかりました。ここにゴム印、銀行印押せばいいんですね?」

     その間、安藤は3日間貸し切り状態の会議室に、なかば缶詰め状態で、質問ぜめにあっているようであった。ときどきでてきては、赤城となにやら打ち合わせを ボソボソとしてはまた中にはいっていった。
     松田は不満だった。自分はまだ入社して間もない。わからないことも多いだろう。それは認める。しかし、3人しかいない部署で、なんで自分は話の中にくわえられないのか?蚊帳の外なんだ?赤城もなぜか、松田を無視しているように感じられた。
      三日間の監査は、つつがなく終わった、と思うように松田は考えるようにした。三日目の午後、徳山会計の会計士徳山が会社にきた。背丈は170くらいの白髪頭の好々爺といった感じであった。徳山会計の所長で、会計士協会の役員をつとめているとそのあと聞いた。

    「深田社長はいないの?」
    「イギリスに出張中です。」
    「なに、イギリス?いつ帰国?」
    「月曜出社です。」

    しょうがないな、といった顔をしつつ、3人に監査の結果をはなした。その内容は、多少のケアリスミスの仕訳はあったものの、特に問題はない、ということであった。

    「でも、よく売れてますね、こんなのもはやるんですね。」

     徳山会計士が手にしたのは、監査前に注文数を水増しした、どう見ても売れないゲームソフトのサンプルパッケージであった。
     安藤は、何ごともなかったかのように、「そうですね」と笑っていたが、松田はとてもわらえなかった。そして思った。
     こんなこと、もうしたくない。

    珏5獠

    経理にはルールがある。それは、会計基準であり、日本の場合は税法、商法が、会計原則にからみあう。ルールは赤、青といった信号機のように明確なところもあるが、企業サイドの選択で動かせる部分も多く、恣意的な要素も経理判断にははいりこむ場合が、ないではない。
     しかし、売り上げの水増しは、それ以前の話。会計基準がどうこうというレベルの話ではない。これが、公開会社であれば、投資家を裏切ったことにほかならない。投資家が、かりに100万円でその会社の株を買ったとする。この100万円は会社にとって借金ではないから、返す必要はない。しかし、投曽家は100万円が増えると思うからお金を出している。その会社が100万円をふやすべく利益をあげてくれる、と思えばこそ投資する。もうからないとなれば、そのお金を引き上げるだけだ。そうなると公開会社だと、資本、つまりかえさなくていいお金は減り、結果、 公開会社だと株価は下がる。そこで、売上げの水増しをすれば、投資家に対する裏切りになる。
     アンテラジャパンは公開会社ではない。しかし、予算が達成したと親会社に報告したい。そのための売上げの水増し。これによって、深田は日本というか自分の存在を大きく誇示したかった。プライドもあったかもしれない。それが、逆にアンテラの体力を奪っている事にこのとき深田は気付いていなかった(外資トップは、けっこう日本のマーケットの特異さに理解のない親会社とのバトルで明け暮れる場合が多い)。
     その日、安藤、赤城、松田そしてITの愛川の四人で決算終了の打ち上げをした。蒲田駅近くの居酒屋で、畳敷きのスペースをあらかじめ赤城がおさえていた。
    蒲田には昭和40年代といっていい雰囲気をもった歓楽街があり、その店は、駅まで続くその通りのちょうどまん中あたりにあった。

     松田には打ち上げと言っても、決算の実感などもうとうなかった。入社したのは、表の決算が終わったあとで、ひたすら裏決算のニセ証憑作りをし続けた以外、なにもやっていないからだ。
    安藤と赤城は、いつになく饒舌であったが、不思議な事に決算のはなしであるとか、深田の話はひとこともでなかった。

    「団体交渉は、うまくいきますかね。」

     唯一、松田が安藤に聞いたときも、だまってセブンスターをくゆらせて、さっきまでの饒舌がうそのように、天井にむかって紫煙をふきかけるだけであった。そして、

    「天のみぞ知る、さ、松田さん、飲みましょうよ。」

    と 安藤にかわって赤城が答える。でも、どうして赤城は松田の質問をはぐらかすのだろうか?

     そこへエリンギバター焼きが、テーブルに運ばれてきた。エリンギにバターをすりつけると、バターのいい香りが食欲をそそった。箸で小さくわけると、口にはこんだ。

    「おいしそうに食べるね。すきなのか?」

    安藤が聞いた。

    「けっこう好物ですね。居酒屋ではかならず頼みますよ。」

     金曜日の夜。週末あけたら団交。団交の行方は この時松田は知る由もない。また 安藤の描くシナリオもまた知る由もない。

     いつもの月曜日と同じであった。朝9時半、社員はそれぞれの持ち場でいつもと同じ朝をはじめた。会社は、江頭の好みで、社内いたるところにラジカセがあり、FMが流れ続けていた。経理のキャビネットの上にもラジオがある。松田はもともと ながらで仕事をするタイプではないが、音楽が流れていると、けっこう気分をソフトな気持ちにしてくれる。

     しかし、松田は、そしておそらく全社員も同様に、午後1時半からの深田との団交がどういう展開になるのか、そのことを表立って口にはしないが、深田の考えで作られたリフレッシュスペースで、社員が二人集まると、団交の話でになった。社員の気持ちとしては、深田には江頭との関係を絶って、仕事に真向取り組んでほしいというところであった。なぜなら、社員の気持ちとして、経営手腕は買っていたからである。
     その団交の時間。まず、安藤、赤城、安川が会議室にはいっていき、ドアがしめられた。会議室にはいる間際、赤城がドアの中心にあるプレートを会議中にかえた。おくれて、深田がはいった。
     なかなか出てこない団交の結果が、どうなるか気が気でなかった。途中、赤城がでてきたが、デスクにある電卓を手にとるとすぐにまた会議室に戻っていった。
    「どんな感じですか?」と声をかけたが、答えることなく、無表情のまま会議室に消えていった。
     結局、団交が終わったのは4時半。3時間におよんだことになる。出てくると深田は社長室のドアをしめ、しばらくすると、いつものような大きな声でなく、電話でどこかへ電話をしているのが、松田の机の上のビジネスホンのランプでわかった。また、安藤、赤城、安川の三人は会社から出ていった。外出掲示板にはなにも書いていかなかったが、どうも外で打ち合わせをするらしかった。しかし、どうして外なんだ?松田はそのとき素朴な疑問をもった。
     5時になってようやく2人が帰ってきた。安藤の姿はなかった。

    「松田さん、このまえのところ今日、空いてるかどうか確認してください。」

    赤城が手元の書類を整理しながら言った。

    「団交の結果報告ですね。」
    「そう。」
    「どうなったんですか?」
    「あとでね。」

    赤城の表情からは その結果はわからないし、読み取れなかった。

    しかし、安藤は6時近くになっても帰ってこなかった。

    どうしたのか?

    部屋は電気が消え真っ暗であった。しかし、たばこの鼻をつくにおいが、部屋全体をおおっていた。電気をつけると4列ほどのテーブルの一番うしろの窓際のところに、灰皿が置いてあり、10数本くらい吸い殻がまだ一部、残り紫煙をくすぶらせていた。

    「あぶないっすね。」

    高山はそういうと、灰皿をとって洗い場の脇にある吸い殻入れにそれを捨てにいき、かえりに雑巾をとってきて、机のうえにちらばった、たばこの灰をきれいにふきとった。

    「誰なんでしょうね。」

    松田には、それが安藤とすぐにわかった。吸い殻はセブンスターという安藤お気に入りのたばこだったし、フィルター部分を噛む癖が安藤にあり、まさに噛んだあとのあるフィルターのやまだったからだ。

    安藤はいったいなにをしていたのか?

    サンドイッチをほおばり、パックのコーヒー牛乳をひとのみしたとき、社員がはいってきた。この感じだと6時と同時、松田とそんなに違わない時間に出てきたのであろう。しかし、そのなかに赤城と安藤の姿はなかった。安川もいない。

    3人が姿をみせたのは7時近くになってであった。

    「みなさん、おくれてすみませんでした。」

    安藤がホワイトボードを背にしゃべりはじめた。前回、はじめてみたいきいきとした姿をみたが、いま、松田の前にいる安藤は、ストレスをためにためた仕事中の安藤ともちがうし、先週の安藤とも違う。

    「結論からいうと、江頭はやめる。それ以外は明解な回答は得られませんでした。」
    「それにしては、ながかったっすね。話のながれを説明してくださいよ。」

    開発の神野が、立ち上がった。

    「深田がさあ、のらりくらりで話の行く末が見えないんだよ。ま、どうにか江頭のクビはとったってかんじでさあ。」

     安藤にかわって、安川がしゃべった。

    「でも、やめるというけど、どういう理由でやめると言ったんですか?そこんとこがわかんないと、クビとりました。シャンシャンとは、俺的にはいかないなあ いつづけなのか、ロンドンはなんだったのか、あしたから江頭はアンテラと縁がきれるのか、ぜんぜん見えないよ。」
     それは神野にかぎらず、全社員が煮え湯を飲まされているといっていいなか、きわめて素朴な質問だった。だれもが、程度の差こそあれ、嫌悪は抱いていても、プラスの感情はいだいていなかったからだ。だから、江頭がやめるといわれても、結局、江頭が深田のそばにいるかぎり、深田はかわらないという気持ちにならざるをえなかった。

    「それでさあ、ここで、はかりたいんだけどさ。」

    安川は、安藤が方向がさだまらなくなると、軌道修正をはかるべく話のながれをかけてきた。

    「おれもさあ、深田の野郎の姿勢がきにいれねえんだ。はっきりいって先週みんなときめた1 江頭と縁を切る 2 個人的な支出は精算する。このふたつだけど、きょうの深田の話はこたえにやなってない。おれたちをなめきってるとしかいえねえ。俺ははらたってしかたねえ。やはりアメリカ本社に告発のファックスを流そうじゃないか?」

    安川のこのひとこで,流れはできてしまった。というか安川のシナリオ通りに話はすすむことになる。

    外資系の会社は12月決算が多い。3月決算は稀だ。ましてアンテラのように11月決算というのは希有といっていいだろう。12月決算で外資系となれば、正月はあってないようなもの。10営業日までに決算をして報告書をだす、という会社はけっこう多いし、それまでに監査を終えるとなると正月もない状況になる。

     となれば、年内にできるかぎりのところまでやって、年明けの労苦を最小限にしようと考えるのが人情だが、年内は親会社の担当者がクリスマス休暇をとるなどして、結局、本社の判断をあおぐ事項も年明けになり、三が日も出勤の憂き目にあう外資系経理マンは多い。

     松田が入社のとき、すでに決算はあらかた終わっていた。それはそうだろう。でないと監査なんてやるわけがない。ある意味で、それからすると、12月末の本社への報告書の提出はひとつの区切りではある。幸か不幸か、12月決算でなかったことは、松田にとって心穏やかなる年末年始休暇となる。ま、いろんな問題もあるが、会社組織はどこでも多かれ少なかれ問題をもっているし、年末年始はゆっくりしたい、と思っていた。江頭問題も年明けかなとも思っていた。ひょっとしたら、社員のほとんども、そう思っていたかもしれない。江頭の存在が、なにはともあれ消えたこともあるし、なぜか深田も本来の業務に力を注いでいるようにみえたからだ。

     しかし、簡単に年はこせなかった。30日が仕事納めで、松田はお昼をたべたあと、身の回りの整理にはいっていた。といっても入社して一か月あまりでは、そんなに時間はかからなかった。ふと気がつくと安藤、赤城の姿がみえなかった。また社長室か?と深くは考える事もなく、パソコンのモニターを化学雑巾をつかって拭いたり、キーボードの隙間にたまったほこりを掃除するなどしていた。そのとき、不意に社長室のドアがあき、安藤、赤城、安川の三人がでてきた。どこか冗談をいいつつ、顔には笑顔が感じられた。

     そして、安藤がでてくるなり、
    「松田君、ちょっといいか?」
     そういって松田を社外に連れ出し、会社近くにあったコーヒーチェーンに一緒にはいった。店はすでに近くの会社はもう正月休みにはいっているせいか、お客は常連らしき近くの商店主らしき男が、カウンターごしにマスターらしき男と話しているだけであった。

     安藤は、このお店ではいつもカウンターが好きで、そこにお昼休みなどコーヒーをすするのが好きで合ったが、その日はちがった。おくまったところにあるテーブル席に腰をおろし、ブレンド2つと、松田に特に好みをきくことなくオーダーした。そのあと、いつものようにハイライトをとりだした。

    「吸っていいか?」

     まるで、こころをおちつけるかのようにやおら火をつけ、深く一服した。松田にしてみれば、そんなことよりも安藤がなにを話そうとしているのか、それを早く聞きたかった。

    「松田君、入社早々なんなんだけど、私と赤城は年内で辞める。というか年明けからはもうこない。」

    松田は、安藤の口からでたことばが何を意味しているのか、すぐには理解できなかった。

    「委員長の座をほうりだすことはないって言ったじゃないですか、このまえ。それがどうして辞めることになるんですか?」
    「松田君、おちついてくれよ。」

    たしかに、松田は自分でも感情が瞬間的に高揚してきているのがよくわかった。運ばれてきたコーヒーを持つ手もふるえているのが自分でもかんじられた。

    「ただ、深田の首もとったから。」
    「それはどういう意味ですか?」

    たしか、深田のクビをとるのは組合でなにも議論されていなかったはずだ。それがなぜ?

    「それ以上はいまはいえない。引き継ぎもろくにできない状態で申し訳ないが、あとは頑張ってくれよ」

     結局、噂は本当だった。だれがリークしたのかわからないが、火のないところに煙はたたない。そう言い残して安藤は机のうえに二人分より、300円ほど多い千円さつを一枚置いて、店をでていった。今日が最後となれば、荷物の片付けもあるのだろう。
     しかし、年明けから自分の仕事はどうなるのだ?赤城、そして安川も当然やめるのだろう。経理のルーチンでさへ一人でまわせるか疑問なところへ、安川は発注管理をやっていた。それも自分がやることになるのか?いや、それはないにしても、会社が動いている以上、だれかがそれをあすからやらねばならない。それは誰がやるか?すべて、自分しかない。松田以外は管理部門の人間はいなくなるわけだから、それは当然の成り行きであった。社歴の浅いとかは関係なかった。

     松田は暗澹たる気持ちになった。自分にそれだけの能力、キャパはあるのか?不安でいっぱいになった。もう、深田、江頭の問題は松田の頭からほとんど消えかかっていた。

    珏6獠

     事務所にもどると、赤城、安藤のふたりは大掃除から 一転、私物の整理をおこなっていた。安藤は自分の使っていたファイルであるとか、ロータス123で作成したファイルの在り処、昨年はいった税務調査の資料の場所などを 早口にしゃべりたてたが、ペンでもってそれを書きとる気力はなくなっていた。というよりも 途方にくれたというのが正直なところかもしれない。

    「松田さん、おれたちの分も頑張ってくれよ。」

     帰りぎわ、安川は多少おちゃらけたような雰囲気で、松田にかたりかけた。なにが頑張ってくれよだ。そんな憤怒に近い気持ちを安川のことばに覚えた。

    「安藤さん、次はどうするんですか?」
    「まあな。」

    安藤はそれ以上を語ろうとはしなかった。
     松田は、なんともいえない気持ちになりつつも、荷物をまとめた三人を一階の入り口まで見送った。ある意味で、意識をして見送りにいったというよりも、脳よりさきに足が動いていた、というのが正直なところであった。

    「じゃあ、松田君、いい年を。」

     いい年かあ。いい年になるんだろうか?それは、はなはだ、心もとないところであった。松田の頭のなかは、すでに江頭がどうとか、深田の経営手腕がどうとか言う前に、自分の仕事のことで一杯になっていた。それに、安川が言っていたことが事実とするならば、深田が社長でいる時間もそんなに長くないことになる。あとは、だれが就くのか?

     管理部門のスペースは、3つの主を失ったデスクが、それに気付かないかのようにスタンバイしている風にみえた。

    「3人やめちゃったんですか?」

    ITの愛川だった。そこへ高山の加わった。

    「でも、やめたのかなあ、やめさせられたのかなあ。」
     高山のこの一言はたしかに言える事であった。冷静になって考えれば考えるほど、そのことはみえてこなかった。あの組合の打ち合わせでファックスをおくることを決め、それをアメリカに送った。そのあと何度となくあの三人は深田と話し合いをもった。それは、ファックスを送ったあとの、アメリカからのレスポンスをめぐる動きかと思っていた。やめさせられたのであれば、それは組合をつくって、なおかつ告発のファックスを送るといった行動に対する懲罰的意味合いになる。深田も辞めるとなれば喧嘩両成敗といったところだろう。

     しかし、やめたというのであれば、それはアメリカへのファックスで深田をゆすって、いい条件をひきだして退職したということになる。それは、松田をふくめ組合員に対する裏切りでもある。それは、ゆるされる話ではない。

     自分の年明けからの仕事も頭を悩ますが、不自然な今回の3人の退職も残された社員には後味わるいものだったし、深田のクビもとってしまったことで、ある意味、アンテラの将来が決定ずけられたと言っても過言ではなかった。将来といっても、終焉にむかう、けっして平たんとは言いがたい道ではあるが。

     正月休みはまたたく間にすぎてしまった。1月5日、初出勤の日であるが、浮かない気持ちにかわりはなかった。もちろん、休み中は勤めて会社のことは考えないようにした。しかし、三が日がおわると、気持ちがいくぶんではあるが暗くなった。そんな松田に、初出勤の朝、

    「チャンスじゃない?そういうのって。」

     妻の恵のその一言が松田のモチベーション、仕事に対する思いを再び、若干ではあるが、よびおこさせてくれた。恵のひとことにはいつも救われるところがある。
     会社につくと、空いた机が3ついつもと同じ朝日をあびていたが、今日からは違う一日が始まる。松田は自分にそう言い聞かせた。デスクにつき、総務として年賀状を各人ごとに仕分ける。安藤、赤城、安川あての年賀状もあったが、やぶり捨てたい衝動にかられた。そんななか、松田あてにも年賀状が数枚きていて、なかに会計士の安保からのものがあった。

    「ことしもよろしくお願いいたします。」

     事務所の既製はがきに、自分の手をくわえたものと見受けられた。そう、今年はほんとうにお世話にならなくてはならない、と思った。そのとき、深田の声がした。

    「おーい、集まってくれ。」
     これまでなら、赤城と一緒に「なんなんだろう」とか喋りながらいくところだが、きょうからは1人だ。といっても、ほかの社員とも2か月めにはいろうとしているとはいえ、組合活動で顔と名前は一致するようになった。

     会議室にはいると、真正面のまん中に深田。そのとなりに、多少ウエーブのかかった髪の毛をした、そして年齢は40代後半といった感じの男が、多少、おどおどした雰囲気で部屋にはいってくる社員をみていた。

    「おめでとう。今年は川崎大師もいかなかったから、みんな初めてだな。」

     2年前までは、正月二日に蒲田の本社に集まって、川崎大師に初もうでをしていたらしい。しかし、組合発足前夜の去年から、その恒例行事はなくなった。もちろん、この話をきいたところで、このアンテラジャパンが外資系という一般的なイメージで語れないことは松田もじゅうぶんに承知できるようになっていた。

    「まず、ここにいるのは川越君だ。今日から副社長としてアンテラにきてもらうことになった。川越君は今後、実務を私にかわってやってもらう。かれは、みんなも知ってるかもしれないが、おもちゃの外資チェーン トイダラケのバイヤーをやっていた。優秀なバイヤーだったというはなしだ。な、そうだったな?よろしくたのむ。じゃあ、川越君」

    「優秀は言い過ぎですよ。川越です。みんなよろしく。」

    社員の好奇の目が川越に注がれた。安藤、安川、赤城のことは特に語られることもなく、自身の進退についての話もない。そして、この川越だ。
     松田の第一印象は、にやけた男、だった。トイダラケといえば日本でも着々と商圏を拡大してきている。そんな会社のバイヤーが副社長待遇で入社するなら、かなりの実力派ということになるだろうし、そうでないなら....。松田としては 「そうでないなら」でないことをひたすら祈りたい気持ちであった。

     川越入社の翌日から、深田は川越に引き継ぎをおこなった。水、木、金の三日間、昼休みも、アンテラのあるビルの斜め前にある 蛇の芽寿司からにぎりの上をたのむなどして 社長室にふたりはこもりっきりになった。そして、夕方ちかくなると、挨拶回りでふたりともいなくなった。

     松田はというと、さっそくひとりでルーチンをまわすことになった。とりあえずは、小口現金をやらねばならない。毎日、なにがしのお金は動くからだ。 これは去年まで赤城がやっていた。といっても一か月ほど前までは、江頭がやっていた仕事であって、松田自身、この一か月のあいだ、仕訳は入れていたこともあったし、苦になるしごとではない。さっそく、蛇の芽寿司の出前がくると、代金3000円を手提げ金庫からとりだし、領収書をもらう。もらえば、それをコピーに失敗した用紙の、白紙面にのりで貼付ける。そして、仕訳をおこす。その一方で、新聞の集金がくればお金を用意し、支払う。

     いわゆる出納業務に関しては、やはり月末の支払いが大きなヤマだ。これは、かなりの仕事量。毎月月末1週間まえまでに紙ベースで銀行の窓口にだす必要があった。パソコンバンキングはサービスとしてはあったけれども、アンテラのメインバンクは118銀行という地方銀行で、深田が個人的な縁で口座を開いた地方銀行であって、その東京支店のサービスは都市銀行に比べれば見劣りした。バンキングもサービスをおこなっていなかった。むろん、地元、つまり本店のある市では都市銀行と同じレベルのサービスを提供していたのはいうまでもないが。
     しかし、松田にとって一番の懸念は、アメリカへのレポートであった。もちろん、任月堂への発注という作業もあるが、それは、ある意味で営業との共同作業という側面もあるから、煩わしさからいくとアメリカへの毎月のレポートであった。引き継ぎがなかった以上、残ったファイルを頼りにやっていくしかないが、慣れるまでは試行錯誤でいくしかない。もちろん、このレポートふくめてすべてをこれまでは4人でこなしていたのだから、キャパ以上の仕事量であることにかわりはない。
     仕事始め3日はなんとか生き延びた。しかし、帰宅時間は1時間から2時過のびた。一月まえも 同じくらいの時間、残業をした日もあったが、それは安藤、赤城の残業している最中に帰る事に、まっ先に帰ることに気が引けたところもあった。だから、どちらかといえば今日 残業しなくてもいいことをやって時間をやり過ごしていたところがあった。いまは、気が付くと終業時間を過ぎている。松田が、充実を感じたのは言うまでもない。

     そんな感じで、10日ばかりすぎた、というよりも川越が実質的にアンテラを仕切るようになって2週間たったというべきか。そして、深田はほとんど会社にでてこなくなった。行き先表示板には、外出と走り書きがしてあるだけで、どこに深田がいっているのか、社員は誰も知らなくなったし、興味ももたなくなった。そんなある朝、会社に蛇の芽寿司の出前をもってきていた娘が、ドアが半開きになった社長室で川越と話している姿を松田はみかけた。

    「あさから寿司か?」

    そして、もうひとり松田とさほど歳はかわらない風の女性が、やはり座って、川越と笑いながら話をしている。

    「松田さん、ちょっと。」

     松田が席について、パソコンを立ち上げていると内線で川越が社長室にくるように呼ばれた。
     社長室にはいると深田のデスクの脇にすこしだけ小振りなデスクが設えてあり、その前の応接セットに蛇の芽寿司の娘、広田順子が座っていた。さきほどまでいた、もうひとりの女性は、いなくなっていた。

    「松田さん、今日から私の秘書をやってもらう広田さんだ。空いてる時間は経理でつかっていいからな。」
    「ひろた、です。よろしくお願いします。」
    「よろしく。」

     カナダ留学経験、大手での秘書経験もある広田は、このあと松田の仕事をバックアップしていくことになるが、消えた「もうひとりの女性」もまた、別の意味でアンテラにとって,また松田にとってキーとなる意味をもってくることに、松田はまだ気付いていない。

     広田は、経理実務の経験こそなかったが、日商簿記2級の資格は持っていた。日商簿記は、経理に携わる人間なら2級は持っている人が多い。ある意味で、基本は身に付けていますよ、という証のようなものでもある。もちろん、受験の簿記と実務は違う。たとえば、帳簿転記。これはけっこうやり方、しめ方が問われるところだ。しかし、パソコン会計でやると、仕訳をおこすと同時に転記もなされてしまう。テキストで語られている内容と実務では乖離がある。ただし、それは実務がパソコンによってよりスムースに処理がおこなわれるようになった、というちがいであり、会社経理の基本が学べる資格であることには相違ない。

     だから、広田が日商簿記2級の資格を持っていると聞いて、松田はほっとした。小口現金の処理であるとか、支払いの請求書の処理をたのむことができる。この二つは、簡単なようでないがしろにできない業務であり、仕訳の入力にしても簿記2級の資格があれば、まわしていける。判断もまかせることができる。ただ、広田の身分は副社長川越付の秘書であり、松田の仕事を100%フォローできるわけではない。自分で全部やる自覚はもっておいたほうがよさそうだ、と松田は思った。
     2週間ほど、ひとりで経理の島を仕切る日々がつづいた。任月堂への発注も、銀行借入もなんとかこなすことができた。そんなある日、

    「まつさん、今度、CFOのトムがくるみたいだよ。」

     そのころから、広田には「まつさん」と呼ばれるようになっていた。その彼女の情報によるとCFOのトムがまたくると言う。

    「用件とかは?」

    「うーん、ホテルをとってくれっていわれただけだからなあ。」

     決算で来日したのは先月だ。ほんとうに1日も会社にいなかった。今度はなにだろうか?もはや公然の秘密となったといっていい、トップ交代の関係だろう。

    「そういえば、深田さんって連絡あるの?」

     広田は、赤城の席で、彼が残していった 蛇腹式の名刺入れをぱらぱら手でまわして遊んでいる。実際、副社長秘書として採用されたが、仕事はせいぜい電話番くらいで、仕事がない。経理で広田をつかっていいと川越が言ったのも、秘書をつけるにしても、仕事がないということを川越本人が一番、知っていたのかもしれない。それでもしばらくは、川越の着任あいさつ状の手配であるとか、仕事はあった。しかし、2週間たち一段落すると、やること、時間をつぶすことを考えるのが仕事になってしまっていた。

    「深田さんね。ときどき店にはくるけど、みないなあ。」
    「お店はともかくさ、川越さんに電話してくるとか。」
    「ないなあ。」
    「おーい、広田さん。」

    川越の声がした。

    「おっ、ボスがおよびだ。」
    「そうだ、トムがくるのはいつ?」
    「来週の月曜と火曜にホテルっていわれたから、月曜にきて水曜にかえるんじゃない?」

    そう言って広田は社長室にかえっていった。
    松田は内心、広田に経理を手伝ってもらえる時間も多くなるんじゃないか、と思った。それはそれで、そうなってくれると、おおいに助かる話だ。というのも本社への月次にかからなけれならないからだ。まず、どこから手をつけていいのか、その時点では、かいもく見当がつかない。そこを、ルーチンのこまかい業務を広田にまかすことができれば、安藤の残していったファイルを見ながらしあげていくこともできるのではないか、と思った。
     翌週、広田からの情報通り、CFOのトムがやってきた。月曜の夕方に事務所につくと社長室で、川越とさしで話をしていた。トムはCFOであると同時にジャパンの監査役でもある。おそらく、今後のジャパンの方針について話しているんだろう。そう思いながら、たまった仕訳をパソコンに打ち込んでいた。
     すると川越が、トムをつれて経理の島にやってきた。

    「松田君、パスポートは持ってるね。」

    昨年10年有効のパスポートを取得し、台湾に旅行している。

    「はい、もってますが」
    「来週、アメリカ本社へいってきてほしい。用件は日本の会計処理の説明だ。いいね。」

     アメリカへいく?英語もろくに話せないのに?一人でか?

    「英語なら心配するな、こんごうちのコンサルテイングをやってもらう大沢さん、いっしょに行ってもらうから。」

     そこには、広田順子が初出社のときに姿をみた女性だった。大沢愛子。差し出された名刺には エイジコンサルテイング 代表とあった。

    「よろしく。」

     すくなくとも、あすからの日常がこれまでと、確実にちがってくることだけは、そのとき、松田にも強く感じられた。

     その日から、というより紹介されたその時から、松田の領分に大沢は深くコミットするようになっていった。その日も、紹介されるとすぐに、

    「川越さん、松田さんと今後のうちあわせします。」

    と川越の了解をとると、比較的おおきくずっしりとした黒い上側がふたのような形であくビジネスバックをもって経理の島にきて、安藤の机のわきにそのビジネスバックを置き、安藤の席にすわった。

    「ちょっと、ファイルとか見ていいかしら?」

     松田は、別に断る理由もないので了解した。この女性が月次のパッケージを作る算段について、ひらめきのアイデア、みちびきをしてくれるのであれば、願ったりである、とも思った。

     月次のパッケージは、外資系の経理マネージャーにとって、おおきなタスクのひとつになっている。要は、日本ベース、もしくは日本の会計ソフトで作成した試算表の数字を本社がつくったパッケージに入れていく作業なのだが、会計基準の違いをただす必要があったり、注記事項で伝えるべき簿外情報があったりと、けっこう手間を食う。最近はERPソフトの普及で、仕訳入力と同時に本社のホストコンピュータに数字が反映される、といったことも多くの外資系でおこなわれてきている。そのために、経理マネージャー募集のスペックにも SAP経験者(導入経験者尚可)などとあったりする。

     しかし、会社の状況が全部、本社に筒抜けになるため、それをいやがる外資トップは多い。また、ERPソフトは、会社の業務全体をひとつの統合システムソフトウエアで管理しようというコンセプトのソフトだから、日本の商慣習にあわない部分もあったりする点、また導入にケースによっては億単位のお金がかかる点などで、抵抗する外資トップも多い。もちろん、この小説の舞台になるような中小規模の外資の場合、導入までの時間はかかる。

     松田は、ひきつづき仕訳の入力をおこなっていたが、アメリカへ出張にいくという事実が、すでに頭のかなりの部分を覆っていていた。ときおり、大沢の方も見遣った。5センチ幅のファイルをひざの上に置き、足をくんで窓際にむいてその内容を読んでいた。安藤は律儀に、アメリカに送ったファイルはすべてファックスのカバーシートと一緒に綴じ込んでいた。それをじっくり読み込んでいけば、見えてくるのは確かであった。それは、大沢にまかせるか、松田は思った。

     それにしても、入社2か月でアメリカ出張。本社はニューヨーク。ニューヨークといえば「危険な街」というイメージだ。そこへ英語もろくすっぽ話せないのに出張とは。でも、恵に話せば「がんばってきなさいよ」と言ってくれるだろうなあ。
    「まつさん、ユーエーでいいよね」
    「とくにこだわりはないよ。」
    「でも、けっこう一杯みたいだからどうなるか。」

    松田は航空会社のこだわりはなかった。

    「松田さん、ちょっとすみません。」

     大沢がファイルを見ながら松田を呼んだ。

    「なんですか?」
    「会計ソフトはなにをつかってるんですか?」
    「PCA会計です。」
    「見せてもらえます?あっ、それからアメリカで日本の証憑を見たいっていってるらしいから、去年一年の証憑を送るように手配して下さい。証憑は社内?」
    「いえ、書類倉庫ですが。」
    「すぐとりよせられますか?」

     大沢はなにやらカタカタ電卓をたたきながら、書類を読みこんでいるふうであった。話をするんなら 手をやすめてこっちを見てほしいと思ったが、そんな松田の思いは通じるはずもない。

    「もう夕方なんで、あした受付になると思いますよ。あさって着で書類は事務所に届きますが。」
    「じゃあ、届き次第、アメリカに送るようにしてください。」

    そう言うと、それまで見ていたファイルに綴じ込んであったものを何枚かコピーして、その日はかえっていった。

    「なんか、わたしあの人あわないなあ。」

    そばで、松田と大沢のやりとりを聞いていた広田がぽつりと言った。

    そして松田もこころのなかでつぶやいた
    「おれもあわない。」


    完


    #創作大賞2026 #お仕事小説部門 #エンタメ原作部門

    あなたへのおすすめ