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四度目の出逢いは、パンの香りのなかで

    エピローグ:キャンバスに描く未来

    あの銀色の色彩がアトリエの闇に弾け、窓の外に一瞬だけ異世界の夜空が広がった衝撃の夜から、さらに数ヶ月の時が流れた。
    季節は移り変わり、爽やかな初夏の風が街を吹き抜けている。
    あの夜、キャンバスの上の私が描いた紗月が妖しく微笑み、世界が反転したかのような錯覚を覚えた後――光はふっと消え去り、窓の外にはいつもの見慣れた街の夜景が戻っていた。翌日、私たちは確かめるように、あの古い時計たちが時を刻む骨董屋へと向かったが、そこには「テナント募集」と書かれた空き店舗があるだけだった。店主は、仮面と共に、完全に私たちの前から姿を消したのだ。
    手元に残されたのは、あの画材箱の底に眠る、正体不明の「四本目の絵の具」だけ。
    「……ねえ、颯。早く私の絵、完成させてよ。焼き立てのパンがお店で待ってるんだから」
    アトリエの大きな窓から差し込む、瑞々しい光の中で、紗月が愛おしそうに笑った。
    彼女は今、ベーカリーのエプロンを脱ぎ、お気に入りの白いワンピースを着て、キャンバスの前でモデルを務めてくれている。
    「分かったよ。もう少しで描き終わるから、動かないでくれ」
    私は苦笑しながら、再びパレットの上へと目を落とした。
    そこにあるのは、画材店で買った、ありふれた赤、青、緑、黄色の絵の具。あの魔法の絵の具のような、劇的な奇跡を起こす力はない。だけど今の私には、この普通の色彩で、目の前で笑っている生身の彼女の「今」を描くことが、何よりも誇らしかった。
    魔法の絵の具がなくても、私たちは描くことができる。二人の手で、二人の言葉で、私たちがこれから生きていく未来を。
    「よし、できた。見てごらん」
    私が筆を置くと、紗月は嬉しそうに駆け寄り、キャンバスを覗き込んだ。そこには、初夏の光を浴びて輝く、世界で一番美しい彼女の姿があった。
    「すごい……。ありがとう、颯。家宝にするね!」
    私たちはしっかりと手を繋ぎ、これ以上ないハッピーエンドの余韻に浸りながら、遅めの昼食をとるためにアトリエを出ようとした。
    ――その時だった。
    カラン、カラン。
    アトリエのドアの郵便受けに、何かが投函された音が響いた。郵便配達の時間にはまだ早いはずだ。
    不審に思った私がドアへ向かい、床に落ちていたもの拾い上げる。それは、切手も消印も貼られていない、ひどく時代がかった分厚い羊皮紙の封筒だった。
    封蝋(ふうろう)の跡には、あの骨董屋のカウンターに刻まれていたものと全く同じ、不気味な紋章が押されている。
    「颯、それって……」
    紗月が顔を青くして私の腕にすがりつく。私は緊張で指先を震わせながら、封筒を破り、中の一筆箋を取り出した。そこには、あの店主の掠れた声が再生されるかのような、鋭い筆跡でこう記されていた。
    『一つの物語が終われば、次の幕が上がるのは世の常。
    画家よ、お前たちが紡いだ世界は、確かに現実(ここ)に繋がった。
    だが、向こうの世界の住人が、こちらの世界へ歩いて来られないとでも思ったかね?
    間もなく、最初の“客”がそちらへ到着する――』
    「住人が……こっちに……?」
    私が言葉を失ったその瞬間。
    アトリエの机の上、完全に固まって眠っていたはずの、あの「四本目の銀色の絵の具」のチューブが、触れてもいないのに激しくカタカタと震え出した。
    驚愕して振り返ると、私がたった今、**市販の普通の絵の具だけで描いたはずの「紗月の絵」に、恐ろしい異変が起きていた。
    絵の背景の片隅。私が描いた覚えのない、あの異世界の「白いお城の街」のシルエットが、じわじわと油絵の奥底から染み出すように、リアルなディテールを持って浮き上がってきたのだ。それだけではない。お城の門の前には、小さな「黒い人影」が、こちらをじっと見つめるように描き足されていく。
    まるで、絵画が現実世界と異世界を繋ぐ、新たな“扉”になってしまったかのように。
    チリリン、とタイミングを合わせるように、今度はアトリエの1階にある、紗月の働くベーカリーのドアの鈴が鳴った。まだ開店前の、誰も入ってくるはずのない時間帯。
    階段の下から、ゆっくりと、誰かが上がってくる足音が近づいてくる。不規則に時を刻む、あの骨董屋の時計のようなテンポで。
    「……颯」
    紗月が私の手を強く握りしめる。恐怖に震えながらも、その瞳には、私と共に立ち向かう強い覚悟の光が宿っていた。
    私もまた、彼女の手を握り返し、画卓の上の絵筆を力強く握り直した。
    魔法の絵の具は、まだここにある。そして、私たちの本当の戦い――現実と異世界が交錯する「第二幕」は、今、静かにその扉を開けようとしていた。

     
     
    仁神 蓮(にかみ れん) 作家 ファンタジー小説やフォトエッセイを作っています。「四度目の出逢いは、パンの香りのなかで」2026創作大賞 ファンタジー小説部門応募。 現在、「真夜中二時の神隠し」、「未分類の箱庭」をnote、TALESに連載中です。

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