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人が辞める会社には「現代の脚気」がある~高木兼寛に学ぶ、回復資本経営という発想~

    人が辞める会社には、「現代の脚気」がある。

    売上が極端に悪いわけではない。
    制度が何もないわけでもない。
    上司が全員、悪人というわけでもない。

    それでも、人が辞める。
    管理職が疲れ切っている。
    若手が黙っていく。
    会議は増えるのに、決定は増えない。
    誰かが休むと、いつも同じ人が穴を埋めている。
    「大丈夫です」と言う人ほど、実は仕事を抱え込んでいる。

    このような職場を、私は産業医として何度も見てきた。

    表面上は、個人のメンタル不調に見える。
    本人の性格、家庭の事情、ストレス耐性、上司との相性。もちろん、それらが関係することはある。しかし、少し丁寧に職場を眺めると、そこには共通する構造が見えてくる。

    人が弱いのではない。
    人が回復できない設計になっているのである。

    これは現代企業だけの問題ではない。
    明治の日本海軍も、似たような問題に苦しんでいた。

    当時、日本海軍では脚気が大きな問題となっていた。脚気とは、現在ではビタミンB1欠乏によって起こる疾患と理解されている。倦怠感、しびれ、浮腫、心不全などを来し、重症化すれば命に関わる。だが、明治期にはその原因は十分に解明されていなかった。

    兵が倒れる。
    航海中に動けなくなる。
    命を落とす者まで出る。

    軍艦は、鉄と砲だけでは動かない。そこには人がいる。人が倒れれば、艦は動かない。艦が動かなければ、国家の防衛力そのものが揺らぐ。

    つまり脚気は、単なる病気ではなかった。
    医学の問題であると同時に、組織運営の問題であり、国家の危機管理の問題でもあった。

    この問題に取り組んだ人物が、海軍軍医・高木兼寛である。

    高木兼寛は、嘉永2年(1849年)、日向国、現在の宮崎県に生まれた。のちに英国医学を学び、海軍軍医として日本海軍の脚気対策に取り組んだ人物である。

    高木は、英国海軍に脚気患者が少ないこと、そして日本海軍では白米中心の食事をとる兵に脚気が多いことに着目した。練習艦「龍驤」では、376名の乗組員中169名が重症脚気となり、25名が死亡したとされる。

    この数字は、単なる医学史上の逸話ではない。

    376名のうち169名が重症化し、25名が亡くなる。
    これは、組織の約半数が機能不全に陥り、一部が命を落としたということである。

    もし現代企業で、ある部署の半数近くが倒れ、退職し、休職し、あるいは機能しなくなったら、経営上の大問題になる。原因分析が行われ、責任が問われ、制度や配置の見直しが迫られるだろう。

    だが、当時の脚気はまだ原因が明確ではなかった。

    感染症なのか。
    気候の問題なのか。
    体質なのか。
    精神力の問題なのか。
    食事なのか。

    確かな病因が分からない中で、高木は問いを立てた。

    兵が弱いのではなく、兵を支える仕組みに問題があるのではないか。

    この問いの立て方こそ、現代企業が学ぶべき核心である。

    多くの会社では、人が不調になると、まず個人に目が向く。

    「あの人は真面目すぎた」
    「ストレスに弱かった」
    「家庭の事情もあったらしい」
    「最近の若い人は無理がきかない」
    「管理職なのだから、もう少し踏ん張ってほしかった」

    もちろん、個人の事情を無視することはできない。しかし、同じ部署で不調者が繰り返し出るなら、同じ役職の人が次々に疲弊するなら、若手が反発するのではなく黙って辞めていくなら、それは個人の問題だけではない。

    組織のどこかに、見えない欠乏がある。

    明治の海軍でいえば、それが兵食だった。
    白米中心の食事は、兵にとって満足感があったかもしれない。だが、副食が乏しく、栄養の偏りがあれば、身体は徐々に壊れていく。見た目には十分に食べているようでも、必要なものが足りていなければ、人は倒れる。

    高木は、龍驤と同じような航路をとる練習艦「筑波」で、食事を改善した航海を試みた。白米中心ではなく、麦や肉、野菜などを含む食事に変更し、脚気の発生が大きく抑えられたとされる。

    ここで重要なのは、高木がビタミンB1という真因を知っていたわけではないという点である。

    ビタミンB1欠乏が脚気の原因であると理解されるのは、さらに後のことである。高木は、海軍の脚気克服に大きく貢献したが、真の原因であるビタミンB1欠乏そのものに到達していたわけではなかった。

    つまり、高木は完全な理論を持っていたわけではない。
    だが、
    現場を見た。
    分布を見た。
    食事の違いを見た。
    そして、組織の仕組みを変えた。

    これは、現代の経営にも重要な示唆を与える。

    問題の原因がすべて解明されるまで、何もしない。
    完璧なデータがそろうまで、動かない。
    誰かの責任が明確になるまで、対策を先送りする。

    もちろん、医学にも経営にも慎重さは必要である。しかし、現場で人が倒れているとき、すべてが証明されるまで放置することもまた、一つの判断である。

    現代企業にも、これと似たことが起こる。

    給与は出ている。
    制度もある。
    研修もある。
    目標もある。
    会議もある。
    チャットもメールも動いている。

    それでも、人が倒れる。辞める。黙る。疲れ切る。

    なぜか。

    必要な「回復」が、職場の仕組みとして用意されていないからである。

    ここでいう回復とは、単に休暇を取ることではない。疲労した身体が戻ること。緊張した神経が緩むこと。相談できる相手がいること。誰かが休んでも職場が崩れないこと。責任を引き受けた人が、次の負荷に向かう余力を取り戻せること。

    私は、こうした回復を支える資源の総体を「回復資本」と呼びたい。

    もともと Recovery Capital、すなわち回復資本という概念は、依存症や精神保健の領域で、回復を支える個人的・社会的資源を指す言葉として用いられてきた。ここではその考え方を、働く人と組織の持続力に引き寄せて用いる。

    睡眠、栄養、休息、運動、相談できる関係、適切な人員配置、休める制度、属人化しない業務設計、管理職を支える仕組み、繁忙期の後に負荷を落とす余白。これらは、福利厚生の飾りではない。

    人が働き続けるための基盤である。

    企業は、人材を資本と言うようになった。人的資本経営という言葉も広がっている。だが、人を資本と言うなら、その人が回復する条件まで設計しなければならない。

    能力開発やリスキリングだけでは不十分である。
    学ぶ余力がない人に研修を増やしても、効果は出にくい。
    睡眠不足の管理職に理念を語っても、判断力は戻らない。
    疲れ切った現場にDXを入れても、混乱が増すだけのことがある。

    人は、補給なしに前進できない。

    高木兼寛の仕事が現代に響くのは、まさにこの点である。
    彼は、兵に「気合で乗り切れ」と言ったのではない。
    食事を変えた。
    兵を支える条件を変えた。

    これは、現代企業でいえば、個人面談だけでなく、業務設計、人員配置、休憩、管理職支援、情報共有の仕組みに手を入れることに近い。

    不調者が出たとき、面談はもちろん重要である。しかし、面談室の中だけで完結してはならない。本人の訴えの背後に、どのような作業環境があるのか。どのような業務量があるのか。休みは取れているのか。相談先はあるのか。権限と責任は釣り合っているのか。誰かの善意に依存していないか。

    そこまで見なければ、同じことは繰り返される。

    もっとも、ここで一つの疑問が生まれる。

    回復資本が必要だというなら、そもそも回復を必要としない職場にすればよいのではないか。
    職場の負荷をできるだけ減らせばよいのではないか。
    ストレスの少ない職場こそ、理想なのではないか。

    一見すると、もっともな考えである。

    実際、過剰な長時間労働、理不尽な叱責、慢性的な人員不足、相談しても何も変わらない職場環境は、減らさなければならない。これらは人を成長させる負荷ではなく、人を傷つける負荷である。

    しかし、だからといって、職場から負荷そのものを消せばよいわけではない。

    仕事には、必ず一定の負荷がある。
    期限がある。責任がある。人との調整がある。思い通りに進まない局面がある。新しい役割に挑めば、緊張も生まれる。

    これらをすべて取り除けば、職場は一見やさしくなるかもしれない。だが同時に、人が成長する機会も、組織が前に進む力も失われてしまう。

    問題は、負荷があることではない。
    負荷が、回復と適応につながる形で組まれているかどうかである。

    このことは、スポーツ医学の世界ではごく基本的な考え方である。

    選手は、負荷を避けて強くなるのではない。
    練習という負荷を受け、その後に回復し、身体が適応することで強くなる。

    筋肉も、心肺機能も、神経系の反応も、刺激を受けたあとに適切な回復があって初めて向上する。負荷が弱すぎれば成長は起きない。負荷が強すぎても、回復が追いつかなければ故障や不調につながる。

    スポーツドクターとして選手を見ていると、この原則は非常に分かりやすい。
    良い練習とは、ただ追い込むことではない。
    試合で力を発揮できるように、負荷と回復の順番を考えることである。

    現役の競技者としても、これは実感に近い。

    若い頃は、練習量を増やすことで乗り切れる場面がある。しかし年齢を重ねるほど、ただ積めばよいわけではなくなる。睡眠、栄養、筋力、可動域、疲労の抜き方、試合前の調整。これらを誤れば、努力しているのに動きが悪くなる。練習しているのに記録が落ちる。追い込んでいるのに、身体が重くなる。

    つまり、成長に必要なのは、負荷そのものではない。
    負荷と回復の組み合わせである。

    これは職場も同じである。

    責任ある仕事、難しい交渉、新しい役割、期限のある課題。これらは人を鍛える可能性がある。しかし、その後に回復できる時間や支援がなければ、成長ではなく消耗に変わる。

    私は前者を「快なストレス」と呼びたい。
    人を前に進める負荷である。

    そして後者を「不快なストレス」と呼びたい。
    人を静かに削る負荷である。

    快なストレスは、人を前に進める。
    不快なストレスは、人を黙らせる。

    両者の違いを分けるものは、負荷の大きさだけではない。
    その負荷の後に、回復できる余地があるかどうかである。

    この条件があれば、ストレスは成長の材料になる。
    この条件がなければ、ストレスは消耗の蓄積になる。

    つまり、回復資本とは、負荷をなくすためのものではない。
    負荷を、成長に変えるための土台なのである。

    ところが、現代の職場は、負荷をかける仕組みには長けている一方で、回復を組み込む仕組みが弱い。

    目標管理、売上計画、進捗確認、評価制度、会議、報告、チャット、メール、即時対応。これらは仕事を前へ進めるために必要な仕組みである。

    しかし、回復させる仕組みは驚くほど弱い。

    休憩は個人任せ。
    有給休暇は制度としてはあるが、使うと周囲に迷惑がかかる空気がある。
    管理職は相談されるばかりで、自分の相談先を持っていない。
    繁忙期が終わっても、次の繁忙期がすぐに来る。
    人が辞めても補充されず、残った人の責任感で現場が回る。

    これでは、組織はいつか脚気になる。

    脚気の恐ろしさは、最初から劇的に見えるわけではないことだ。少し疲れやすい。足が重い。しびれる。息切れがする。だんだん動けなくなる。身体の中で欠乏が進んでいても、外からはすぐに分からない。

    職場も同じである。

    人が壊れる前には、静かな兆候がある。
    会議で発言が減る。
    雑談が消える。
    ミスの報告が遅れる。
    若手が相談しなくなる。
    管理職の表情が固くなる。
    「大丈夫です」という言葉が増える。
    新しい提案が出なくなる。
    退職理由が「一身上の都合」だけで処理される。

    これは、組織の中で回復資本が不足しているサインかもしれない。

    この不足は、長時間労働や人員不足のような、分かりやすい場面だけに現れるわけではない。
    一見すると、よい制度が整っている職場にも起こり得る。

    たとえば、産休や育休を代表とする両立支援制度である。

    出産、育児、介護、病気治療など、人生の局面に応じて働き方を調整できることは、これからの企業に欠かせない。制度があること自体は、組織の成熟を示している。

    制度がうまく機能している職場では、そこに陽性感情が生まれる。

    「困ったときはお互いさま」
    「自分も将来、助けてもらえる」
    「誰かの人生の大事な時期を支えられている」
    「この会社は人を簡単に切り捨てない」
    「この職場には温かさがある」

    こうした感情は、単なる優しさではない。職場への信頼であり、帰属意識であり、組織の回復資本である。人は、自分が一方的に搾取されていると感じる職場では長く働けない。しかし、自分の負担が誰かの人生を支え、いずれ自分も支えられると感じられる職場では、多少の負荷にも意味を見いだすことができる。

    問題は、制度そのものではない。
    制度を支える設計があるかどうかである。

    制度を利用する人がいる。
    その人を支える人がいる。
    その穴を埋める人がいる。
    急な欠員に対応する人がいる。
    シフトを組み替える人がいる。
    残った仕事を黙って引き受ける人がいる。

    外から見れば、その会社は制度をきちんと運用している素晴らしい会社に見えるかもしれない。実際、それは大切なことである。だが、制度を利用しない人、あるいは利用できない人たちに負荷が偏り、その状態が長期間続けば、陽性感情は少しずつ陰性感情に変わっていく。

    最初は「お互いさま」で済む。
    次に「仕方がない」と自分に言い聞かせる。
    やがて「なぜ自分だけが」と感じるようになる。
    そして、その感情を口に出せないまま、静かに職場から離れていく人が出てくる。

    これは制度への反対ではない。
    制度を本当に機能させるための、もう一つの視点である。

    制度を作ることと、制度を支える現場を設計することは違う。制度を使う人を守るだけでは足りない。制度を支える人が回復できる仕組みまで用意しなければ、職場には陰性感情が蓄積していく。

    制度は、使う人だけでなく、支える人の身体にも影響する。

    制度が陽性感情を生むか、陰性感情を生むかは、制度そのものではなく、支える人の回復が設計されているかで決まる。

    ここにも、現代の脚気が潜んでいる。

    あなたの会社に、次のような兆候はないだろうか。

    休んだ人の穴を、いつも同じ人が埋めている。
    管理職が相談されるばかりで、相談する場所を持っていない。
    会議は増えているのに、決定は増えていない。
    若手が反発するのではなく、黙って辞めていく。
    繁忙期の後に、回復期が設けられていない。
    制度はあるのに、使うと周囲に迷惑がかかる空気がある。
    人員不足を、責任感の強い人の善意で埋めている。
    優秀な人ほど、仕事を抱え込んで孤立している。
    「忙しいのは良いことだ」という言葉で、疲労の蓄積を見ないことにしている。

    これらは、現代企業における脚気の兆候である。

    栄養が足りないのではない。
    回復が足りないのである。

    では、企業は何をすればよいのか。

    第一に、疲労を個人の感想として扱わないことである。

    「疲れています」という言葉を、単なる弱音として扱ってはいけない。疲労は、判断力、注意力、感情の安定、対人関係、事故リスクに直結する。現場の疲労は、経営上の重要情報である。

    第二に、不調の分布を見ることである。

    誰が悪いかではなく、どこで繰り返されているかを見る。同じ部署で退職が続くのか。同じ上司の下で不調者が出るのか。特定の時間帯にミスが増えるのか。繁忙期の後に休職が増えるのか。突発休が出たとき、誰に負荷が集中するのか。

    高木兼寛が脚気の発生状況を観察したように、企業も職場の不調を観察しなければならない。

    第三に、回復を制度ではなく運用として設計することである。

    有給休暇制度があるだけでは足りない。実際に使えるかが重要である。相談窓口があるだけでは足りない。相談した後に現場が変わるかが重要である。休職復職制度があるだけでは足りない。復職者を受け入れる現場の負荷まで考えなければならない。

    制度は、紙の上では人を救わない。
    運用されて初めて、人を支える。

    第四に、管理職を孤立させないことである。

    多くの企業で、管理職は職場の安全弁になっている。部下の相談を受け、上層部の方針を伝え、欠員を埋め、クレームに対応し、数字も追う。しかも、自分の疲れは見せにくい。

    その結果、最も責任感の強い管理職から先に削られていく。

    これは非常に危うい。管理職が倒れると、組織の判断系統が崩れる。部下の不調にも気づけなくなる。現場の声も上層部に届かなくなる。だから、管理職支援は福利厚生ではなく、組織防衛である。

    第五に、負荷の後に軽い期間を作ることである。

    スポーツでは、強い練習の後に回復を置く。試合に向けて調整する。疲労が抜けなければ、どれほど練習しても結果は出ない。むしろ故障する。

    企業も同じである。繁忙期の後に、すぐ次の大型案件を入れる。欠員が出ても補充せずに走り続ける。プロジェクトが終わっても振り返りも休息もなく、次の仕事に移る。これでは、人は適応する前に壊れる。

    強い組織は、負荷を避けているのではない。
    負荷を成果に変えるために、回復を組み込んでいる。

    高木兼寛が見た脚気も、単に「病人が出た」という話ではなかった。兵を支える食事、航海、生活、組織の問題だった。彼はそこに目を向けた。だからこそ、兵食改善という現実的な手を打つことができた。

    現代企業に必要なのも、同じ視点である。

    メンタル不調者が出た。
    退職者が増えた。
    若手が定着しない。
    管理職が疲れている。
    会議が機能しない。
    現場の空気が重い。

    そのときに、個人の資質だけを見ていては足りない。

    この職場には、何が不足しているのか。
    何が過剰なのか。
    誰に負荷が集中しているのか。
    どこで回復が途切れているのか。
    誰の善意で組織が持ちこたえているのか。

    その問いを持てる組織だけが、同じ失敗を繰り返さずに済む。

    歴史を学ぶ意味は、昔の偉人を称えることだけではない。過去の失敗と改善の中から、現代の構造を見抜く補助線を得ることにある。

    高木兼寛の脚気対策は、医学史の一場面である。
    同時に、現代企業への警告でもある。

    人は、根性だけでは働き続けられない。
    組織は、理念だけでは動き続けられない。
    戦略は、身体を持つ人間によって実行される。

    だから、経営はもっと身体を見なければならない。
    疲労を見なければならない。
    回復を見なければならない。

    人を休ませることは、甘やかしではない。
    人が再び前に進むための兵站である。

    兵站とは、前線を支える仕組みである。食料、医療、補給、休息、輸送。どれほど勇敢な兵でも、補給がなければ戦えない。どれほど優秀な社員でも、回復がなければ働き続けられない。

    明治の海軍が脚気から学んだことを、令和の企業はまだ十分に学びきっていないのかもしれない。

    人が辞める会社には、現代の脚気がある。
    それは、目に見えにくい。
    すぐには数字に出ない。
    しかし、確実に組織の力を奪っていく。

    その処方箋は、決して精神論ではない。

    人を責める前に、回復を設計せよ。

    快なストレスは、人を育てる。
    不快なストレスは、人を黙らせる。
    そして、その違いを決めるのが、回復資本である。

    強い組織とは、負荷を避ける組織ではない。
    負荷を成果に変えられる組織である。
    そのために、働く人の身体と心が戻る仕組みを持っている組織である。

    経営とは、人を動かすことではない。
    人が動き続けられる条件を整えることである。

    高木兼寛が兵食を変えたように、現代企業もまた、自らの「見えない欠乏」を見つめ直す必要がある。

    その会社には、十分な回復があるか。
    その職場には、人が倒れずに働き続けるための兵站があるか。
    その管理職には、相談されるだけでなく、相談できる場所があるか。
    その若手には、黙って辞める前に声を出せる余白があるか。
    その制度には、使う人だけでなく、支える人を守る仕組みがあるか。

    もし答えに詰まるなら、そこにはすでに、現代の脚気が始まっているのかもしれない。

    回復は、休みではない。
    回復は、戦略である。

    そしてこれからの企業に必要なのは、売上や効率だけでなく、人が壊れずに働き続けるための「回復資本経営」なのである。

    #創作大賞2026            #ビジネス部門


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    昔、大学で日本史を専攻。その後、人生の進路変更で医師に。日本史と医学(心身問わず)を絡めたお話をしていきたいと思います。

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