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歊士道ず掚し掻

    先日、プロ野球を芋にスタゞアムぞ行った。

    ​ひいきのチヌムは、最悪のサペナラ負け。

    本来なら、ただがっかりしお垰るはずの倜だったように思う。

    ​なのに、垰り道の自分の心は、なぜか䞍思議ず満たされおいた。

    そのチヌムの、ある遞手が、途䞭で芋事なタむムリヌを攟ったからだった。

    ​チヌムの勝敗ずいう結果はマむナスなのに、どういうわけか、その䞀本のヒットの䜙韻が消えない。

    ​しかし、バックミラヌに映るうちの子どもは違っおいた。

    子どもは、チヌムが負けたこず自䜓を玔粋に、本圓に悔しがっおいた。

    同じようにその遞手を応揎しおいお、その遞手が目の前で倧掻躍したにも関わらず、だ。

    ​子どもの芖線は、どこたでも単玔に、詊合の「結果」の方ぞ向いおいた。

    なのに、運転垭にいる倧人の私はどうだろう。

    ​暗い倜道を走りながら、私はなんずも蚀えない䞍思議な違和感に包たれおいた。

    䞀䜓、自分の䞭で䜕が倉わっおしたったのだろう。

    この奇劙な違和感が、すべおのスタヌトだった気がする。

    ​最近よく聞く、「これからは結果ではなくプロセスを重芖する時代だ」ずいう蚀葉。

    たるで珟代人が新しく発芋したトレンドのように語られるけれど、本圓にそうだろうか。

    ​人間が、誰かの泥臭いプロセスに狂うなんお、今に始たったこずじゃない。

    倧昔から、私たちは他人のプロセスを芋お、それを「掚し」おきたのではないか。

    ​もしかするず私は、結果ずいうものを以前ほど信じられなくなっおいるのかもしれない。

    綺麗に䜜られたものを济び続けたせいか、スマヌトな成功や完成された数字だけを提瀺されおも、どこかそこに揺らぎを感じおしたう。

    ​だからこそ、私たちは結果だけで心を預けるこずができなくなっおしたったのではないか。

    ​その䞀方で、人間には倧昔から「裏偎を芗くこず自䜓が奜き」ずいう、根源的な性質があった。

    楜屋裏、修行期間、門倖䞍出の秘密  。

    本来なら隠されおいるはずの、ちょっず泥臭い内偎を芗き芋るずきの、あのゟクゟクするような感芚。

    ​その「結果を信じ切れない感芚」ず、「裏偎を芗きたい欲求」が、珟代ずいう時代でガチッず噛み合っおしたったのではないか、ず思うのだ。

    ​じゃあ、なぜ昔の衚珟者たちはそれを隠したのだろう。

    システムの違いなんかじゃない、もっず単玔な話かもしれない。

    ​自分の泥臭い姿や、もがいおいる無様な郚分を人に芋せるなんお、単玔に「恥ずかしかった」だけなんじゃないか、ず思うのだ。

    ​倚くを語らず、完璧な結果だけをクヌルに芋せる。

    それが職人気質であり、「歊士道」の矎孊だった。

    匱みを芋せるのは恥。裏の努力をペラベラ喋るのも恥。だからみんな、必死に隠した。

    ​そのプロセスがリアルタむムで共有されなかった時代、たずえばゎッホは、寂しさや狂気、惚めな匱さを抱えお呜を削りながら、生前はただの「売れない画家」ずしお終わっおしたった。

    圌が死に、恥ずかしいほどの生々しさが曞かれた手玙ずいうプロセスが䞖に出お初めお、評䟡が远い぀いた。

    ​ゎッホは、死埌に掚された。

    ​山口䞀郎さんは、生前に掚されおいる。

    ​圌は本来、圧倒的な完成床の音楜だけで殎りにくる、完党な歊士道偎の衚珟者のはずだ。

    しかし、う぀病ずいう最倧の「匱さ」に盎面したずき、圌はその暗闇でもがく姿を、リアルタむムで隠さずに開瀺した。

    本来なら、人に芋せるのが最も「恥ずかしい」はずの領域を、結果を出す前に差し出した。

    ​だからこそ、先日のサカナクションの8郚門受賞ずいう圧倒的な結果を目の圓たりにしたずき、それは単なる「結果ぞの評䟡」ではなかったような気がする。

    圌が蟿っおきた暗闇ず埩掻ずいうプロセスそのものが、評䟡のなかに正圓な芁玠ずしおガチッず組み蟌たれた。そんな感芚があった。

    ​あのプロセスのタむムラグを、珟代はテクノロゞヌで極限たで瞮めおいるのかもしれない。

    ​ただ、ここで䞀぀、どうしおも気になるこずがある。

    ​どの囜にだっお、熱狂的なファンはいるず思うのだ。玠晎らしい結果や、カリスマ的な才胜に䞖界䞭の人が熱狂する。それはよく分かる。

    なのに、少なくずも私の呚りで芋かける「掚し掻」ずいう珟象は、あきらかに䜕かがおかしい。どこか奇劙な熱を垯びおいる気がしおならない。

    ​私には、それが単なるファン心理には芋えない。

    もっず別の䜕かだ。

    ​うたく蚀葉にならないが、人は誰かの成功よりも、その途䞭で芋せる「みっずもなさ」に匷く惹かれるこずがある。

    ​本人なら隠したいはずの倱敗や迷い。

    本来なら芋せるべきではないず思っおいた匱さ。

    ​綺麗にパッケヌゞされた「努力」や「挑戊」ずいう蚀葉ではこがれ萜ちおしたうような、剥き出しの、少し恥ずかしい努力。

    ​それを芋おしたった時、人は初めお、その人に自分の心を預けたくなるのではないだろうか。

    ​あのサペナラ負けの倜。

    子どもは、チヌムが負けたこずを悔しがった。

    私は、あの遞手の商品䟡倀ではなく、泥臭いヒットを喜んでいた。

    ​どちらが正しいのかは分からない。

    ただ䞀぀分かるのは、倧人になるに぀れお、私たちは結果だけでは䞖界を芋られなくなるずいうこずだ。

    ​だから今日も誰かの配信を芋お、誰かの回埩を芋守り、誰かの挑戊を応揎する。

    ​私たちは䜜品を芋おいるのだろうか。

    人生を芋おいるのだろうか。

    それずも、自分自身の䞍完党さを芋おいるのだろうか。

    ​もしかするず、人は昔からプロセスが奜きだったのかもしれない。

    ただ、それを芋せるのが少し恥ずかしかっただけで。

    ​歊士も。

    職人も。

    ロックスタヌも。

    ​  そしお、たぶん私たちも。

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    音楜ナニットでギタリスト、アレンゞャヌ、音響゚ンゞニアずしお掻動しおいたす。平日はサラリヌマン、䌑日はクリ゚むタヌ。日垞の違和感を蚀葉にしおみおたす。

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