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「心臓が止まりかけた夜、私は寿司を食べていた。——24年の闘病と復活の記録」


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    37歳で心筋梗塞、その後、糖尿病、心不全、脳梗塞、心臓バイパス手術。 24年間の闘病生活、復活までを書いてみました。第八章に昨年の夏、上半身を撮影した画像があります。


    37歳で心筋梗塞、その後、糖尿病、心不全、脳梗塞、心臓バイパス手術。 24年間の闘病生活、復活までを書いてみました。第八章に昨年の夏、上半身を撮影した画像があります。

    現在、61歳の私は筋トレができるまで回復しています。
    胸囲100cm、体重73kg、体組成計は「筋肉質」と表示されるまでになりました。
    でも、ほんの数年前までは、犬の散歩で100メートル歩くたびに立ち止まる状態でした。
    37歳で心筋梗塞を発症し、6年後に再発。さらに糖尿病、心不全、脳梗塞。
    病魔は何度も私に襲いかかり、最終的には心臓バイパス手術を受けることになりました。
    「自分はどうなってしまうのか」
    そんな不安の中で生きてきた24年間の闘病と回復の記録を書いてみました。

    第一章|37歳の冬、突然の異変
    第二章|救急搬送、そして「心筋梗塞」の診断
    第三章|奇跡の「ナイス心筋」
    第四章|6年後の再発ーー命がけの日常
    第五章|脳梗塞、そして心不全ーー重なる病魔
    第六章|バイパス手術前夜——脳梗塞の告知と糖尿病との戦い
    第七章|6時間の手術、そして生還
    第八章|回復の3年間ーー62kgから73kgへ
    おわりに|あなたへ伝えたいこと




    第一章|37歳の冬、突然の異変

    37歳のころ、私は建設業で重機オペレーターとして働いていました。
    ある冬の日、現場で重機に乗っていた時のことです。
    「ドクン」
    と心臓が大きく脈打つ感覚に襲われました。
    これまで経験したことのない動悸で
    「今のは何だ」
    不安な気持ちにおそわれましたが、疲れからだろうと自分に言い聞かせ、その時は深く考えませんでした。
    しかしその症状は、たびたび発症するようになりました。

    冬の朝、4時に起きて雪かきをしていた時のことです。
    雪を力いっぱい押していると、胸の奥にジリジリと焼けるような感覚が広がりました。
    「何かおかしい」
    そう思いながらも、病院へは行きませんでした。
    今思えば、この時点で受診していれば、その後の大きな病気にはならなかったのかもしれません。

    そして2月17日。 友人と出かけ、帰り際にガソリンスタンドで給油していた時でした。
    突然、心臓のボリュームをいきなり下げられたような今までに感じた事が無い感覚に襲われました。

    急いで家に帰り、車を降りた時も息が苦しく、寝室のベッドに座ると額から冷や汗が流れ、脈が異常に遅いことにきづきました。
    意識が遠のいていき、
    「このままだと心臓が止まる」 「死ぬのか」
    と本気で思いました。

    このままだとやばい、とにかく息をしようと、必死で深呼吸を繰り返しました。
    しばらくして冷や汗が止まり、幾分楽になったので居間にいた妻に症状を伝えると
    「救急車呼んだほうがいいんじゃない」
    と言われたのですが、 その日は、様子を見ることにしてしまいました。

    とてつもない経験をしながらも、
    「これは疲れから来てるんだ」と言い聞かせ、
    寿司のパックを半分食べ、湯船に浸かっていました。
    今思えば、本当に危険な判断でした。




    第二章|救急搬送、そして「心筋梗塞」の診断

    翌日、市立病院を受診しました。

    待っている間も脈が遅く、胸が痛かったので、診療の順番を早めてもらい、
    胸に負担が掛からないよう、車いすで移動となりました。

    エコー検査では原因が特定できず、そのまま検査入院となりました。

    1回目の採血で心筋が壊れている数値が出ていたようで、2回目の結果が出ると看護師が慌てて病室に飛び込んできました。
    「心筋が壊れていく値が上がっています。これから大学病院に搬送します」と。

    救急車で、大学病院に搬送されるなか、
    「今後の生活はどうなるのか」
    そんなことばかり考えていたのを覚えています。

    大学病院に着くと救急外来室へ運ばれ、そこには数名の医学生がいて、医師よりいろいろ説明を受けていました。

    その後カテーテル手術室へ移動し、室内には大きなモニター、奥にはガラス張りで制御室があり、医師とインカムで会話していました。

    太ももからカテーテルを入れ、閉塞した冠動脈に達すると、
    医師から
    「造影剤を入れるので、冷たく感じます」と。
    何とも言えない冷たい感覚が全身を駆け巡りました。

    冠動脈の閉塞した部分を確認し、バルーンで閉塞した部分を広げ、ステントを留置し、約2時間の手術は無事成功しました。

    その日は、部屋の準備ができていなかったので、処置室で一夜を明かしました。

    私には当時小学生の娘が二人いました。実家の母に私が入院したことを泣きながら電話をしていたと、妻から聞きました。
    その事を聞いた時、いてもたってもいられず、今すぐ娘たちのもとへ飛んでいきたい思いでした。




    第三章|奇跡の「ナイス心筋!」

    手術から2日後、主治医からの説明がありました。
    「心筋梗塞は通常40代での発症が多いですが、あなたはまだ37歳。発症が早すぎます。処置が発症から12時間以上経過しているため、ダメージが大きいと思われます。後遺症も考えられるので、2週間後に再検査します」
    呆然としました。
    後悔だけが湧き上がり、
    「あの時救急車を呼んでいれば」と。
    でも後悔しても仕方がない。まずは安静にして時を待ちました。

    手術から一週間過ぎたあたりに看護師から
    「経過はすごく順調ですよ」
    と声をかけてもらった時の嬉しさは、今でも忘れません。

    再検査の数日前に体に電極をつけ、自転車をこいで負荷テストを行いました。心機能がどれだけ回復しているかの評価テストです。

    2週間後、不安なおもむきのまま、再検査のカテーテル手術室へ向かったのでした。

    検査の時は手首からカテーテルを入れ、造影剤を注入し、モニターを見ていた助手の医師が不思議そうに言いました。
    「この方、本当に心筋梗塞を起こしたんですか?」
    そして主治医が、興奮した声で叫びました。
    「ナイス心筋!」

    翌日の説明で、主治医は、
    「通常、12時間以上経過していれば何らかのダメージが残ります。
    しかしあなたの場合、心筋の壊死がまったく見られません。
    不思議なことですが、あなたの心臓にはバイパスのような血管が1本あり、
    心臓の裏から左心室に伸びています。この血管が酸素を送り続け、ダメージを防いだのかもしれません」と。

    声を上げたいくらい嬉しかったです。
    医師からは、力仕事をしても大丈夫とお墨付きをもらい、一週間後、仕事に復帰し、徐々に通常の生活に戻していきました。




    第四章|6年後の再発——命がけの日常

    しかし、6年後の43歳の時、再び異変が起き始めました。

    仕事中、看板の設置をしていた時の事です。
    右肩から腕にかけて急に鈍い痛みを感じました。
    「40肩かもしれない、毎月処方されている薬を飲んでいるから大丈夫」と
    自分に言い聞かせていましたが、病魔はすでに迫っていました。

    やがて夜中に胸の痛みで目が覚めるようになり、30分ほど深呼吸しないと治らない日々が続きました。
    犬の散歩でも、100メートル位歩くと胸に痛みを感じ、休んでは歩いての繰り返し。
    今思えば、命をかけての犬の散歩でした。

    冬の雪かたづけの時も、少し力を入れるだけで胸が苦しくなる状態でした。住宅営業の仕事を抱えていたので、
    「病院に行かなければ」
    と分かっていながら、休むことができませんでした。




    第五章|脳梗塞、そして心不全——重なる病魔

    55歳の秋、昼寝から起き上がった時のことです。

    右足と右腕に強い違和感を覚えました。
    慌てて外に飛び出したのですが、右足も右腕も自由に動かない事に気付きました。
    「このままだと仕事ができないではないか。」
    今後の生活はどうなるのか、頭の中でさまざまなことが駆け巡りました。

    なぜそうしたかは分からないのですが、必死に右腕と右足に力を込めました。
    「動け」と。
    すると別の回路が起動した様に、手足が動いたのです。
    「今のは一体なんだったのか。」
    その時、脳裏をよぎった言葉は
    「脳梗塞」。
    この事が実際に何であったのか、数年後の検査で判明することになります。

    翌56歳のある朝、会社で突然パソコンの文字入力ができなくなりました。
    入力したいことと、手が連動しない。
    文字配列も思い出せない。
    一瞬パニックになりました。

    周りの社員にこのことが知られないよう、なんとか昨日の日報を入力し、会社を出ました。
    車の中で、記憶が飛んでいたことがないか確認しました。
    暗証番号などは記憶が飛んでいなかったのでメモし、携帯に入れて持ち歩きました。
    この状態は数日で回復しましたが、恐怖は消えませんでした。

    同じ年の秋、足が異常に腫れ上がりました。
    最初はむくみだと思っていましたが、足の甲からふくらはぎ、ももまで腫れが広がり、靴が履けなくなりました。

    症状はそれだけで終わりませんでした。
    1日中せきが出て止まらず、 階段を上るだけで息が切れ、ちょっと動くだけで溺れるような苦しさが襲ってくる毎日でした。
    この「溺れるような苦しさ」は
    文字だけだと分かりにくいと思いますが、
    プールで誤って水を飲んだ時のあの苦しさが、日常の何気ない動作のたびに襲ってくるのです。
    一旦その症状がでると、深呼吸を何回もしないと酸素が肺に入って来ない感じで、日々苦痛でした。

    仰向けに寝ると、その苦しさがやってくるので、夜は眠ることができず、ソファで頭を高くし寝ていました。
    息をしても、常に胸が張っている感じで、常にパンパンでした。
    夜寝るのが怖かったです。
    「私の体はどうなってしまったのか」と、
    不安でたまりませんでした。

    新築の着工を控えていたため、息苦しさと、足の腫れからくる痛みをこらえ、現場の除雪を完了させてから、ようやく病院へ行きました。

    普段薬をもらっている病院でレントゲンを撮ると、医師がこう言いました。
    「心臓に水が溜まって、倍に膨らんでいます。これは心不全です。しかも糖尿病も悪化しています。紹介状を書くのですぐに大学病院を受診してください」
    レントゲンの映像を見せられ、一目瞭然でした。
    その日は利尿剤が処方され、3日位で足の腫れや、溺れるような息苦しさ、せきなどの症状はおさまり、ようやく夜にぐっすり眠ることができました。

    しかし、これからがさらに大きな病魔への入口だったのです。




    第六章|バイパス手術前夜——脳梗塞の告知と糖尿病との戦い

    大学病院での検査の結果、冠動脈の完全閉塞が判明しました。
    内科の医師からは
    「バイパス手術しか方法はありません」
    と告げられました。
    ここまで詰っているとカテーテルでの手術は危険とのことでした。
    翌週からバイパス手術前の検査が続き、MRI検査の後のことでした。
    看護師に
    「検査が終わったので先生のところへいってください」
    と言ってきたのです。
    通常は受付に行き、精算書を持って会計に行くだけなのに、
    「何かあるな」
    と直感しました。

    内科に行き、診察室で医師に告げられました。
    「単刀直入に言います。脳梗塞をおこしています」
    病魔の連鎖に、頭の中は真っ白でした。

    55歳の秋に手足が動かなくなったのは、まさに脳梗塞が原因だったのです。
    さらに医師から
    「車を置いて、このまま脳卒中センターに行ってください」
    と言われたのですが、さすがにそれは無理だと突っぱねると、待合室で待たされ、、脳外科の医師から
    「そこまでしなくてもいい」
    との指示があり、大学病院内の脳外科へ向かいました。
    脳外科では、記憶のテストやちょっとした握力の検査が行われました。
    医師は
    「今は心臓バイパス手術が優先ですので、脳の手術はそのあとにしましょう」
    と告げ、検査の日程を抑え、その日は帰宅しました。

    翌週、脳の検査を行いました。
    まずベッドに仰向けで寝た状態で注射され、ヘッドギアのようなものを被せられ、頭上ではカメラがゆっくり回っていました。
    頭を固定したまま30分、周りには誰もいなく、不気味な時間でした。

    バイパス手術後、脳の手術がすぐ出来る様にと、検査入院までしたのですが、大きな手術を2回も行うのかと思うと、気が滅入ってしまいます。

    手術の方法としては、頭蓋骨を開け、頭皮から酸素を送るバイパス手術で、術後はしばらく安静にしていないといけないとの説明でした。

    心臓のバイパス手術だけでもおっくうなのに、頭蓋骨を開けての手術は、後遺症が出た場合のリスクと、仕事にも影響がでると思うと、受けようという気にはなれませんでした。

    大学病院の指示で、バイパス手術の連絡が来るまでは、市立病院で内科と糖尿病科を受診しました。

    大学病院の外科医から言われたのは、
    「糖尿病のHbA1Cの値を正常値まで下げなければ感染症のリスクがあるため、手術できない」
    と説明をうけていたため、地元の市立病院で治療に専念しました。

    市立病院の糖尿病科を受診すると、医師から何の説明もなくインスリン注射を処方されたのでした。
    いきなりのインスリン注射はものすごく抵抗がありました。
    午前の診療後に、看護師から打ち方の説明があるといわれたので、しばらく待合室で待っていました。
    午前の診療が終わって、看護師から
    「インスリン注射を処方されびっくりしたでしょう」と。
    私はその言葉にうなずき、一応やり方のレクチャーを受けました。
    しかし、その時点で、インスリン注射を打つことは否定していました。
    2型糖尿病なので、自力で、インスリン注射は使わず、食事制限と、食後のスクワット運動を徹底しました。

    10月の手術に向けて、私も必死でした。
    食事は、ごはんの量を200gに抑え、大好きな甘いものを全て断ちました。
    1ヶ月後の採血の結果は、HbA1Cは7.2から5.7まで下がり、正常値に戻りました。
    市立病院の内科の医師から
    「かなり頑張ったでしょう、糖尿病は寛解するんだね!」と
    びっくりしていました。

    8月の後半、大学病院から連絡が来て、
    「10月27日に手術の日程が決まったので前日に入院手続きをしてください」と。

    日程が決まったのはいいが、手術、その後のリハビリを考えると、気が重くてたまりません。
    それでも準備を進めるしかありませんでした。

    その後、大学病院の窓口に呼ばれ、手術費用の概算説明を受けました。
    渡された書類には確か310万円の金額が記されていました。
    思わず目を疑いました。
    同時に、高額医療費制度の案内をもらいました。
    加入している健康保険に申請することで、窓口の支払いを自己負担額まで抑えられる制度です。

    この手続きをしないと310万円がそのまま請求がくるところでした。

    病気は自分自身だけでなく、家計にも容赦なくかかってきます。




    第七章|6時間の手術、そして生還

    手術前日に妻に送られ、大学病院にむかいました。
    コロナの影響もあって、病棟には本人しか入れず、完全看護状態でした。

    受付を済ませ、病棟に入った後、足の剃毛と、ICU専属の看護師から術後の説明を受けました。

    緊張のせいで、その日の夜はなかなか寝付けませんでした。
    翌朝は早めに起きて手術着に着替え、心の準備をしてストレッチャーで手術室へ行きました。

    手術室には多くの看護師が待機しており、
    「一体何人が関わるんだろう」と。
    入室後2~3分ぐらい、看護師と話をしていたのですが、その後、
    麻酔科医師から説明を受けて、1分程で記憶が無くなりました。
    次に気がついたのは、口から酸素の管を抜く時でした。

    麻酔が効いていたのでぼんやりとでしたが、
    「終わったんだな」と
    生きていることを実感しました。
    あとで妻に聞くと、手術は6時間かかったとのことで、執刀してくださった先生には、感謝しかありません。

    翌朝、目が覚めると天井がぐるんぐるん回っていました。麻酔がまだ残っていたのでしょう。

    その日のうちにICUへ移動し、3日目には一般病棟へ移動しました。
    最初の1日は個室で、そのあとは4人部屋で過ごしました。

    ICUから移動した午前中のうちに、体から全ての管、点滴が取れたので、歩行許可がおりました。
    早速トイレに行こうと思い、 ベッドから起き上がろうとした時、なかなか起き上がれず、
    「頭ってこんなに重かったのか」と驚き、
    腕の力を振り絞って、ようやく起き上がれる状態でした。

    後で看護師から聞いてわかったのですが、歩行許可はトイレまでだったようで、調子をこいて、1階のコンビニまで行っていました。

    待望の 入浴許可が出たのは術後6日目でした。

    鏡の前に立ち、自分の体を見て絶句しました。

    胸も肩も腕も、筋肉がまったく無くなっていたのです。

    さらに、胸骨を切断して手術をしたので、胸の中央には30cmほどの手術痕(しゅじゅつあと)が刻まれていました。
    自分の体でありながら、直視することができませんでした。

    たまに温泉に行くのですが、この傷跡だと、しばらくは行けません。

    入院してから更に痩せたようで、あばら骨も見えて、情けなかったです。

    大病と糖尿病の悪化で、1週間足らずで10kgも痩せていたのですから、当然かもしれません。 でも私は諦めませんでした。
    「退院したら、また一から体をつくり直す」と。

    退院当日、脳外科の受付の方が来て、再検査の予定を入れてきたのですが、後日予定をキャンセルし、それ以降脳外科には行ってません。

    いまここで開頭手術を受けたら、1年位は激しい運動も、雪かたづけも、なにもできなくなるのではないか。
    脳外科の待合室で、奥さんに付き添われて来る旦那さんたちを見ていると、妻一人に長期間の介護をさせることは出来ないと強く思いました。

    結局、いろいろ考えた末、脳の手術は受けない決断をしました。




    第八章|回復の3年間——62kgから73kgへ

    退院後、まずウォーキングから始めました。

    朝・昼・夕、食後に必ず歩きました。
    血管を採取した左太ももが引っ張られて痛かったのですが、とにかく歩き続けました。

    当時はかなり痩せていて、脂肪が全然なく、寒さに震えながら歩いていました。。

    犬の散歩コース3kmを歩きましたが、体力が無くなっていることが身に染みてわかりました。
    家に着くころには足に力が入らず、ヘトヘトでしたが、月日がたつにつれ、家にたどり着く時間が半分まで短くなりました。

    上半身を鍛えようと10kgのダンベルを持ち上げた時の衝撃は忘れません。
    以前なら20回は上げられた重さが、1回もできなかったのです。 腕立て伏せも1回やれば限界でした。
    それでも
    「必ず元の体に戻す」
    と決め、リハビリに励みました。

    トレーニングのメニューは、まず膝を床に付けての腕立てから始めました。
    一回の回数を最初は20回と決め、2セット。慣れてきたら30回、40回、50回と増やしていきました。
    退院から2年過ぎた頃から、普通の腕立て伏せが出来るまでになりました。
    それと同時にラジオ体操と、スクワットなど、トレーニングメニューも徐々に増やしていきました。


    退院時の体重は62kgで、体組成計に乗ると、
    「痩せすぎ」
    の表示が出るほどでした。
    すき家の牛丼大盛を食べても腹いっぱいにならないほどガリガリに痩せていましたので、退院後はとにかく食べました。

    トレーニングを続けて3年、現在の体重は73kg、体組成計は「筋肉質」と表示されるまでになり、胸囲は100cm、元の体型を超えるほど筋肉がつきました。
    ダンベルも20回以上は上げられるようになりました。


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    しかし、手術の後遺症もあります。

    胸の中央方向に力を入れるのは問題無いのですが、腕を広げて胸を開く動作をすると、痛みが走ります。

    術後の痛みはまだ残っていますが、体を動かせる何気ない毎日が、とても有り難く感じます。


    おわりに|あなたへ伝えたいこと

    今振り返ると、「体の異変を感じた時にすぐ病院へ行っていれば」そう思うことが何度もあります。

    「痛みを我慢することは、決して強さではありません。」
    私は遠回りをしてしまいました。
    時間も、お金も、体力も、
    多くのものを失いました。

    もし体の異変を感じたら、どうか迷わず病院で診てもらってください。
    健康診断で「要観察」と言われたなら、そのまま放置せず、必ず病院でしらべてもらってください。
    初期段階なら、費用も、日数も少なくてすみます。
    どうぞ自分の体をいたわってください。

    37歳で心筋梗塞、その後、脳梗塞、糖尿病、心不全、バイパス手術。
    それでも今は、大型バイクに乗り、犬と1時間歩き、筋トレを続けています。
    3カ月に一回の採血と薬の処方を受けていますが、見た目も行動も、アクティブなおじさんです。

    シニア世代に入ってきましたが、心の中ではまだ24歳です。
    まだまだやりたいことがたくさんあります。
    脳梗塞が今後どう影響するかは、正直わかりません。それでも、病気と前向きに付き合いながら、諦めず精一杯生きていくつもりです。
    「信念あるところに、道は必ず開ける。」
    24年間の闘病を通じて、私をずっと支えてきた言葉です。



    病気は突然やってきます。当たり前だった日常を一瞬で変えてしまいます。
    この闘病記が、病気と戦っているあなたの小さな希望になれば嬉しいです。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    大病から復帰した懲りないおじさん。 血糖値の記録、無理せず筋肉をつける運動、たまに笑える話を書いています。