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それでもパリを愛している|Et pourtant, j’aime encore Paris|入院と再会の先に残った、私のパリ【創作大賞2026 エッセイ部門応募作品】

    明け方の五時、スマートフォンの電池は残り三%だった。お金もない。食べ物ももうない。あるのは空の水筒と画材だけ。
    方角は合っているはずなのに、ホテルはまだ遥か遠かった。レピュブリック広場すら見えない。

    仕方なく、私は見知らぬ若者たちに声をかけた。
    一見して、気軽に声をかけるにはためらうような若者たちだった。
    でも、そんなことを気にしていられる状況ではなかった。
    「Excusez-moi, monsieur」
    彼らは最初、怪訝そうな顔をした。
    私はスマートフォンの翻訳画面を見せながら、必死に事情を説明した。

    夫がきっと今ごろ心配して探していることも伝えた。最後に私は、夫を愛しているのだと伝えたくて、
    「J’adore mon mari」
    と言った。
    すると、彼らの目つきが変わった気がした。
    一人が目で「ついてきな」と合図した。
    私はその合図を信じて、ついていくことにした。

    少し歩いて、電波の入りやすい場所まで移動する。仲間の一人が警察に電話をかけてくれた。
    ひとまず警察につながれば、夫にも何かしら伝わるかもしれない。けれど最初の電話はつながらなかった。
    「Non」
    すると、別の一人が自分の携帯を差し出し、「これでかけろ」というように仲間へ渡した。

    今度はつながった。

    「今、一人の日本人女性を保護している。名前は……」
    私はとっさに自分の名前を告げた。
    彼はにこっと笑って、その名前を電話口に伝えてくれた。これで少しは大丈夫だと思えた。
    私はタクシーでホテルへ帰りたいことを伝えた。
    電池はもう、いつ切れてもおかしくなかった。
    「こっちだ」
    私はまた彼らについていった。
    何度も「Merci」と言うたびに、彼らは「De rien」とやさしく返してくれた。
    やがて彼らは一台のタクシーを止めてくれた。
    運転手にホテルの住所がわかるものはないかと聞かれ、私はあわててカバンを探した。
    すると、海外旅行保険証書のコピーの中にホテルの住所を見つけた。

    これで帰れる。

    そう思って安堵し、彼らに礼を言ってタクシーに乗り込もうとした、その時だった。

    片方の青年が、「ここまでしたんだから、お礼に十ユーロほしい」という意味合いのことをフランス語で言った。
    するともう一人が、「彼女から金を取る気か」とでもいうように言い返し、二人のあいだで言い争いのようなものが始まった。
    私も、ここまで助けてもらって何も渡さないのは気が済まなかった。カバンの中を探ると、もしもの時のためにしまってあった五十ユーロ札が一枚だけ出てきた。
    私は迷わずそれを渡した。

    青年は目を輝かせた。
    するともう一人が、その札をすっと取って「タクシー代も払わないといけない」と交渉してくれた。
    結局、彼らはそれぞれ数ユーロ札を握りしめていた。
    「あんたは神様みたいな人だ!ありがとう!」
    そんなふうに言われた気がした。
    私は思わず、
    「Merci beaucoup!À demain!」
    と言った。もう二度と会わないだろうとわかっていたのに、その時はなぜか「また明日」と言ってみたくなった。
    すると彼らも「À demain!」と叫びながら、天に投げキッスを飛ばして走り去っていった。


    十五分ほどタクシーに揺られてホテルへ着くと、ロビーにいた夫が私を見つけて抱き止めた。
    「無事でよかった……」
    夫は一晩中、私の行方を探していた。
    警察に捜索を頼んだ頃、ホテルの近くでは別の事件まで起きていて、私が巻き込まれたのではないかと気が気でなかったらしい。
    心配をかけてしまったことが胸に刺さった。

    その数時間前まで、私は長年の夢だったパリで、ホテルのベッドに焦れていた。

    幼い頃、ジャンヌ・ダルクに憧れて以来、いつかこの国へ行ってみたいと願い続けてきた。
    けれど、その夢はすぐに叶うものではなかった。幾度も機会を逃し、ようやく手が届きそうになった頃、私は病気になり、そこから十七年、治療を続けることになった。

    だから今回の旅は、私にとってただの海外旅行ではなかった。やっと辿り着いた憧れの街で、私は一歩でも多く、自分の足で歩きたかった。けれど現実には体調を崩し、ホテルで横になっている時間が増えていった。このままでは、私のパリが、ホテルで眠っているだけで終わってしまう。そう思った時、悔しさは焦りに変わっていた。
    せめてあの夜だけは、この街を自分の目で見たかった。


    深夜二時ごろ、私はオペラ・コミック座のあたりまで歩いていた。
    そこで気づいた。地面から温かい蒸気が出る排気口の上は、思いのほか暖かいのだ。
    ホームレスの人たちがそこに身を寄せる理由が、少し分かった気がした。私も疲れて、その近くに寝そべってみた。匂いはなかった。
    ふと見上げた空は、思ったよりもずっとやさしかった。
    ああ、私はこの街を見たかったのだと思った。
    危険であることも含めて、愛したかったのだと思った。

    夜の街は、不思議なほどやさしく見えた。

    ときどき通りかかるタクシーが、フランス語で「Ça va?」と声をかけてくる。私はそのたびに「Ça va bien」と返しながら、オペラ座近くのカフェの前に寝そべって、気の済むまでスケッチをした。一本一本、ゆっくり線を引いていく。
    ようやく自分のパリを描いている気がした。

    けれど、美しさと危うさはあまりに近かった。
    親切そうに見えた人の善意が、ふとした瞬間に別のものへ変わりかけた時、私はようやく、自分が安全な場所にはいないのだと理解した。歩いて帰れる距離ではないことにも、その頃には分かっていた。
    引き返さなければならなかった。

    気がつけば、空は白み始めていた。
    開店準備をしている店の人に声をかけ、現在地を確認する。歩いて帰るには少し遠いところにいた。
    そうして私は、朝の街で見知らぬ若者たちに声をかけることになった。

    そして、あの一晩が決定的だった。
    夜通し街を歩いたことで、症状は一気に悪化した。

    もともとの不調に、眠れなさと疲れと焦りが重なっていた。精神科に行かなければ、本当に帰れなくなってしまう。そう思った私は、その朝、病院へ行く決意をした。

    ホテルからタクシーでパリ中心部のビシャを目指す。移動するタクシーの中で、私はだんだん壊れていった。

    もしもの時のために、夫へ自分のスマートフォンを渡し、パスコードも伝えた。夫のスマートフォンは壊れていて、ほとんど使えなかったからだ。
    このまま私が入院すれば、夫は限られた手がかりだけで日本へ戻らなければならない。
    せめて、必要な情報だけは渡しておきたかった。

    移動の途中、凱旋門やルーブル美術館の前を通ったらしい。けれど、悪化している時は刺激を避けなければならず、私は目を閉じていた。夫も一緒に目を閉じた。

    憧れ続けたパリの象徴を、私たちはそのまま通り過ぎた。

    今思えば、少しくらい見てもよかったのかもしれない。けれどあの時の私は、見られないことへの悔しささえ、怒りに変わっていくほど追い詰められていた。

    やがて救急を呼んでもらうことになった。

    救急車に乗ってからは早かった。
    救急隊員の一人が英語で「楽にして大丈夫」と言ってくれた。その言葉だけでも少し救われた気がした。


    着いた病院には広い中庭があり、一瞬、観光名所のようだとさえ思った。その中を足早に通り、入口をくぐると、そこには救急隊、看護師、そして次々と運ばれてくる急患がいた。

    私はしばらく眠った。

    目を覚ますと、夫はいなかった。

    通訳の方が、「転院先が決まったので、今から二十区の病院へ行きます」と教えてくれた。夫はきっと先に日本へ帰るのだろう。
    私は、長くなるかもしれない入院生活に備えながら、それでもまだ少しパリにいられるのだという奇妙な熱に浮かされて、救急隊と一緒に夜のパリを走った。外では雨が降り始めていた。

    次に着いた病院は、驚くほど静かだった。
    入院手続きは通訳の方がすでに済ませてくれていたらしく、私はすぐ病室へ案内された。
    部屋に入る前に、タオル、石鹸、ソープ、パジャマ、生理用品、使い捨てのショーツまで渡してくれた。

    そして扉の向こうにあったのは、完全な個室だった。少しだけホテルのようにも見えた。
    トイレットペーパーはなかったけれど、手洗いやシャワーは近かった。
    鍵は外から閉められたが、身体拘束はなかった。
    時計はなかった。それでも、鳥の声が聞こえ、朝日が昇れば、いつか扉は開くのだろうと思えた。
    スマートフォンがなくても、その夜の私は不思議と不安ではなかった。ただ、通訳の方にどうお礼を言えばいいのか、それから、夫に会いたい、夫の声が聞きたい、そんなことばかり考えていた。

    そして私は、その旅の中でいちばん深く眠った。



    朝、目を覚ますと、看護師さんが扉を開けてくれた。
    「Bonjour, ça va ?」
    私は笑って、
    「Ça va bien, merci beaucoup」
    と答えた。

    この日、最初の目標はひとつだった。
    この病棟での一日の流れを把握すること。

    まもなく診察に呼ばれた。体調を聞かれ、採血をされる。私は血管が太いから大丈夫だと身振りで伝えると、看護師さんは少し安心したような顔をした。
    採血が終わると薬を渡される。どうやら食前に飲むものらしい。

    そのあと、部屋へ戻ろうとすると、
    「Je… manger ?」
    と聞かれた。
    たしか manger は「食べる」だったはずだ。
    朝ごはんのことだとわかり、私は元気よく
    「Oui !」
    と答えた。

    食堂にはすでにテーブルセットが並び、席も決まっていた。私の向かいには、少し意地悪そうに見えるおばあさんが座っていた。
    私は持てる限りのフランス語で親しげに話しかけたが、彼女はすぐに「シーッ」と静かにするよう合図した。どうやら、静かに食事をしたい人らしかった。

    そのおかげで私はすぐにわかった。
    ここでは、食事もまた大切な治療の一部なのだと。
    フランスの食事は、食べ終えるまで思いのほか時間がかかる。

    私は残すと退院が遠のくのではないかと勝手に恐れて、お腹がいっぱいでもきちんと食べ切った。

    食べ終わると、そのおばあさんは、自分の食器を片づけ、どこからか濡れたふきんを持ってきてテーブルを拭いた。そして私の肩をぽんとやさしく叩き、目くばせで「あなたもあとで自分のところを拭くのよ」と教えてくれた。
    その仕草が、胸にしみた。異国の病棟で、最初の朝のルールを教えてくれたのは、彼女だった。

    そのあと病棟内の図書室で、私は彼女と再会した。朝のお礼がしたくて、私は彼女の似顔絵を描いてもいいかとジェスチャーで伝えた。
    彼女はにこりと微笑んでくれた。
    夢中で描いたその絵に名前を書いてほしくて、
    「Comment tu t'appelles?」
    と聞くと、
    彼女は「Suzanne」と書いてくれた。

    「スザンヌ!merci beaucoup!」
    私は何度もそう呼びかけた。

    うまく気持ちが伝わったかどうかはわからない。
    それでも、言葉より先にあたたかい気持ちがそこにあった。

    病棟の空気は、いつも均一にやさしいわけではなかった。ある時、私の食事の食器だけが、わざと外されたように並べられていないことがあった。どうしていいかわからず座っていると、スザンヌがさっと他の場所の食器を私の前に置き、まっすぐこちらを見た。その目は、「あなたのほうが先に座っていた。何も悪くない」と言っていた。あの時の私は、その無言の味方にどれほど救われたかわからない。    

    図書室を見回していると、日本の漫画があるのに気づいた。私は嬉しくなって図書室で日本の漫画を模写していると、看護師さんが目を輝かせた。
    「Wow!mosha!」
    翻訳アプリを通して、息子さんの好きなキャラクターを描いてほしいと頼まれ、私は曖昧な記憶をたどりながら何とか描いた。うまく描けたとは言えなかったのに、彼は日本語で「ありがとう! ありがとう! ありがとう!」と何度も言ってくれた。異国の地で聞く母国語が、あれほど心にしみるものだとは思わなかった。
    それをきっかけに、私たちは紙に「merci」「de rien」と書いて言葉を教え合うようになった。「どういたしまして」は長くて言いづらいらしく、私がローマ字で「DOUITASIMASITE」と書くと、彼は何度も言い直しながら発音してくれた。最後に彼が教えてくれた言葉を、私は今も覚えている。
    “Toujours dans le respect.”  

    もちろん、入院生活がやさしさだけでできていたわけではない。三日目あたりから、食事を始めて五分ほどすると胃が痛んで食べられなくなった。次第に悪化し、私は詰所に駆け込んで、胃を指さしながら「ici、pain」と必死に訴えた。夜に来てくれた医師はわかりやすい英語で説明してくれたのに、今度は私の方がうまく伝えられなかった。「ストレス」と言いたかったのに、その言い方に自信が持てず、彼女の「stomach?」を私は別の意味だと思って「oui」と答えてしまった。言葉がわからないというのは、やさしさがあってもなお、自分の苦しさを自分で取りこぼしてしまうことなのだと、その時はじめて思った。

    五日目あたりには、日本語がまったくないことが、思っていた以上にこたえていた。夫がいつ来るのか、退院の目安がいつ決まるのかもわからないまま、私は時々、寂しさと心細さで一人で泣いた。

    だからこそ、通訳の方の存在は何より大きかった。診察のたびに電話で通訳として入ってくれたのも、退院と帰国の段取りのため、連絡手段のない私に直接会いに来てくれたのも、その人だった。

    少し風のある晴れた日、中庭で彼女と話した時間を、私は今も忘れられない。

    彼女は、私と同じような病気を持つ人たちを何人も見てきて、皆、日本へ送り届けてきたのだと言った。その人たちは帰国後、普通に暮らし、働き、ときに揺らぎながらも、その人らしく生きているのだと。うまく話せない私をそのまま受け止めてくれた。
    家族が帰国に向けて動いてくれていることへの感謝も、心細さも、不安も、彼女は何も急かさずに聞いてくれた。

    フランスの人には発音しにくいらしく、私の名前はたいてい「SU」と省略されてしまっていた。
    彼女は、まっすぐにこう言ってくれた。
    「すばるなら大丈夫だよ」
    自分の心を全部見透かされたような、やさしい声だった。私は涙が止まらず、何度もお礼を言った。


    退院当日、私は残りの時間をお世話になった先生や看護師さん、患者さんたちへの手紙を書くために使うことにした。

    参考にしたのは、図書室にあった日本の漫画だった。その別れの場面をなぞるように、私は一枚ずつ、震える手で手紙を書いた。
    日本の漫画文化がパリ二十区の病棟にも届いていたことが、あのときの私にはひどくうれしかった。

    あの場所で、漫画はたしかに私の言葉の代わりになってくれた。


    一方、夫は日本で奮闘していた。
    どこの病院にいるのかもはっきりしない私と合流し、その日のうちに日本へ連れ帰らなければならなかったのだ。
    退院日も定かでないなかで航空券を手配し、旅の疲れも癒えぬまま、食事も満足に取らず、帰国の段取りを整えてくれていた。

    国際電話でようやくつながった三分間、夫は「自分ひとりで迎えに行く」と言った。
    そして本当に、それをやり遂げてくれた。

    病室で九日ぶりに再会した夫は、少し頬が痩せていた。私たちは病棟の廊下で、しばらく言葉もなく抱き合った。


    通訳の方のおかげで、退院手続きも驚くほどスムーズに終わった。
    配車してもらった車に乗り、シャルル・ド・ゴール空港へ向かう。

    窓の外を流れていくパリの景色を、私は少しでも記憶に留めたくて、許される限り目に焼き付けた。

    日本にいるあいだ、私はパリについてたくさん読んだ。夜は危険だとも、英語は通じるとも書かれていた。けれど実際にその街を歩いてみると、そのどちらだけでも足りなかった。夜のパリは、無防備でいていい場所ではたしかになかった。それでも、どんな夜景よりも美しく、危うさと静けさと人の気配が同時に息づく街だった。本やサイトの言葉は街の輪郭を教えてくれる。けれど、その温度までは教えてくれないのだと思った。

    そしてもうひとつ、この旅で強く残ったのは言葉のことだった。英語が通じる場面はあっても、本当に相手に近づきたい時、敬意を伝えたい時、私が頼ろうとしたのは拙いフランス語だった。うまく話せたわけではない。それでも、その不格好な言葉が、閉じていた扉を少しだけ開けてくれることがあった。外から眺めるだけでは、その国の現実にも、人の文化にも触れきれない。自分の足で歩き、自分の口で言葉を差し出してみて、私はようやくこの街の温度に触れたのだと思う。そこは、危うさとやさしさが同じ顔で並ぶ街だった。

    それでも、私はパリを愛している。

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    2026年春、パリで過ごした17日間の記録を書いています。美しさだけでなく脆さや不安、人のやさしさに出会った旅でした。 日本語版・フランス語版で発信中。記事の受取額の17%はお世話になったGHU PARIS PSYCHIATRIE & NEUROSCIENCES へ寄付します。

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