
4/20 牧歌的に賢ぶる
のどかな時間
牧歌的な生活を送りたい。焦り続ける生活から抜け出したい。
こうやって読者のいないnoteを書いている時間は心地良い。罪悪感なく負荷から逃れられる。頭にある無形のものが目に見えるようになると安心する。もちろん読んでくれる人がいたらそれに越したことはない。
飽き性の僕が不定期なnoteの更新をここまで続けていることが意外。もしかしたらアイデンティティはこういうところに芽生えたりするのかもしれない。
いらいらするな
人にイライラする自分が好きじゃない。何かにイライラするとき、自分の中の均衡が崩れている。アンバランスである間は客観的、合理的にものを考えることは難しい。だから、イライラする時は自分自身に非があることがよくあるということ。
そこまで認められるのに、イライラはそう簡単に収まらない。いやいやあいつが悪いでしょ、と自分を納得させる理由を探せば探すほど、自分はあらぬ角度に傾いて崩れていく。穴の中で穴を掘ると、地上に戻るのは簡単じゃない。
イライラはしてないけどムカっとするようなことはよくある。けどこれは問題ない。整った自分がちゃんと見ているから安定している。何事もここまでで食い止めたい。
表面と内面の多面
人は多面的だと理解しているつもりだったけど、その面は増えたり減ったりするものだとはちゃんと考えたことがなかった。
僕の小学生のころの一面は消えている。人生で1番優等生だった頃の面。けど中学生の頃の面は残っている。
表面の多面性は人間関係によるところがとても大きい。だから、コミュニティや人間関係が増えたらあるコミュニティや関係が消えるとき簡単にその人のある一面も消えてしまう。
人を好きになったと思った時、もしかしたらそれは人ではなく面を好きになったのかもしれない。頭を撫でる時も、とある一面に触れているだけかもしれない。人間は簡単に死なないけど、面はあっという間に消える。面が消えたら虚空を撫でることになる。なるほど、この人間と面のギャップが時に人を苦しめるんだ、と今気づいた。やっぱり適当に思いつきで文字に起こしてみると発見がある。
人は面からできている。表面と内面からできている。「あの人はあーだこーだ」みたいな会話をする時、「人」という言葉は「面」を指しているのかもしれない。「あいつがさー」って誰かを指差したとき、それは人間ではなく、ある面を指さしているのかもしれない。
人の面は平面なのか曲面なのかとかを考えるのはやめる。そこまで頭が良くない。人を差す指の先から光線が出て、それが人の表面にぶつかったらどんな反射をするんだろうと思った次第。もちろん服とか肌の反射を考えたい訳ではない。
表面と内面の距離は人それぞれ。僕は最近、内面を表面に近づけたり遠ざけたりを意図的にする努力をしているけど、上手くはいっていない。どの距離がいいのかも分からない。
知らないけど少子化
無知だけど、少子化が問題だと考えられている理由の多くはロボットやAIで解決できそうなんじゃないか。
才能や競争の分母が減ってしまうのと人類の存続危機は回避できないかもしれない。けどこれら自体もいつまで問題とされるか分からない。
本当はもっと調べて知見を深めた方がいいけど、そうはしない。牧歌的に過ごしたいから。
チームみらいの安野さんが牧歌的という言葉を使っているのを聞いて、はまっている。使ってみたかった。