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義母が喜んでくれた。それでも私はあのヨシナ、食べたかった。

    先週末はヨシナ(ミズ、赤ミズ、ウワバミ草)三昧であった。登山の下り道で太くて立派なヨシナを見つけたので、いっぱい採ってきた。
    当初は、それは自分達で食べるつもりであったが、義母が「これはいいヨシナだ」とまじまじと眺めているのをみて思わず全部譲ってしまった。義母はそれを袋に入れて出荷したところ、全て売れたらしい。

    だから、翌日も夫と二人で近所の山道を探し回ってきた。義母が喜ぶなら、と少しでも太いヨシナを次々と採取すると大量に収穫できた。店頭に並べると他の人が持ってきたヨシナよりずっと立派なものであったと大変満足そうであった。

    地場産の売り場は、主に地元の人が作った野菜や山菜を出荷しているのだが、出来栄えによって売れ行きが異なり、競争が激しいようだ。義母は高齢化により昔みたいに上手に野菜が作れず、重労働の割になかなか売れなかったりと売り場で随分と悔しい思いをしているのが伝わってきた。
    だから、私達が採ってきた立派なヨシナを店頭に並べて、それが真っ先に売れていったことをとても喜んでいた。

    義母が喜ぶならそれでいいや、と思って譲ったものの、ふと、あんなに立派なヨシナはそうそう出会えないし、やっぱり自分達で食べたかったな…という思いもでてきた。

    私って、昔からこうだった。
    いつもお母さんを喜ばせることが最優先事項で自分のことは後回しするか我慢するか。
    一緒に買い物へ行っても、お母さんに買ってあげるばかりで自分のものは買わない。時には、自分の仕事を犠牲にしてでもお母さんを喜ばせるために必死になった。お母さんが喜ぶように、お母さんがやりやすいように、お母さんが好きだから、お母さんが…だから、お母さんが‥だから、と全てお母さん中心。
    いつしか、自分はどうしたいのか、何が好きなのか、何をやりたいのか、全くわからなくなってしまった。自分の意思で物事を考えたり決めたりすることが何もできなくなっていった。

    今回のヨシナに関しても、かつてと全く同じパターンがでていた。義母が喜ぶならこれを全部譲って好きなように出荷してもらえばいいや、って。私達の分は我慢すればいいや、って。

    しかし、でもあれはいいヨシナであった。やっぱりあれをちゃんと料理して食べたい。和え物でも煮物でも酢の物でも昆布締めでもきんぴらでも、なんにでもできる万能食材なのだ。その、極上品なのだ。確かに商品としても大変立派なのだが、食材としても立派だ。

    義母が喜ぶなら…と我慢する一方で、やっぱりあれを食べたい。気が付くとちゃんと自分の意思ができていた。

    今週末、また山へヨシナを採りに行くだろう。まだまだ食べられる時期は続く。
    でも今度は自分達のぶんはちゃんと取り分けて、しっかりと季節の味を頂こうと思う。

    他人軸、母軸から自分軸へ。主語がお母さんから私へ。
    しっかりと自分を取り戻していることに気が付き、ふふふとおかしくなった。

     
     

    聖子

     
     
    田舎で働くフリーランス健診医です。 専門医も何の肩書きもありません。 一度は医療の世界から完全に離れ、無職無収入の期間も経験しています。 現在ではフリーランスの健診医として再起動しました。 生活者の視点から健診という仕事と、田舎での日々の暮らしについて書いています。

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