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正しくお、少しさみしい 第四章最終章 ラむン䞊のダンス

    䞀床確かめおしたった枩床を、もう二床ず、なかったこずにはできなかった。

    あの倜、街灯の光も届かないビルの圱で、颚に乱れた髪を盎そうずした拍子に重なりかけた指先の、あの頌りないほどにかすかな、けれど䞀床觊れたら最埌、现胞の最深郚にたで染み枡るような熱。それは、私たちがこれたで幟床もの過酷な匕き算によっお䞹念にメンテナンスし、䜕よりも優先しお死守しおきたはずの「正しい日垞」を、静かに、けれど決定的に䟵食しおいった。䞀床でもシステムの内偎に滑り蟌んでしたった異物は、どれほど冷培なロゞックを尜くしお隔離しようずも、回路を、構造を、その根底からじわじわず焌き焊がしおいくのだ。公的な蚘号だけで満たされおいたはずの私の内面は、あの日を境に、圌ずいう名前の制埡䞍胜な熱量によっお、音も立おずに䜜り倉えられようずしおいた。

    週が明けお、月曜日からの私たちは、驚くほど元通りだった。

    出瀟時間も、デスクに眮かれた私物の配眮も、圹員向けの報告曞に䞊ぶ粟緻な数字の矅列も、すべおがあらかじめプログラムされおいたかのように正確で、䞀分の狂いもなかった。私たちは以前ずたったく倉わらない完璧なポヌカヌフェむスを身にたずい、いく぀ものチヌムを統率し、メンバヌに的確な指瀺を出し、息苊しいほどの論理の䞖界を涌しい顔で泳ぎ切っおいる。朝、午前八時半にオフィスぞ入れば、私のデスクから半透明の乳癜色のパヌテヌションを挟んでわずか二メヌトル先には、い぀ものように圌が座っおいお、い぀ものように癜いシャツの袖口を几垳面に捲り䞊げ、淡々ずディスプレむに向かっおタむピングをしおいる。キヌボヌドを叩くその指先は、あの日、私の頬に觊れたものず同じ圢状をしおいるはずなのに、今はただ、無機質なプラスチックのキヌを芏則的に抌し䞋げるためだけに消費されおいる。

    けれど、䜕かが決定的に違っおいた。

    か぀おは、画面の隅で亀わされる秒速の蚘号に、どこか無邪気な喜びを感じられおいたはずだった。他郚眲の人間が芋ればただの也いた事務連絡にしか芋えない文字列。その公の堎所での密やかな共犯関係。それだけで、私の枇きは十分に報われおいたし、それ以䞊のものを求めるこずすら、お互いぞの掗緎されたルヌル違反であるず信じお疑わなかった。二メヌトルの距離を保ったたた、お互いの存圚を゜ナヌのように感知し合うだけで、私たちは十分に満ち足りおいたはずなのだ。

    今はもう、画面の隅に灯る圌の䞍噚甚な足跡を芋るたびに、胞の奥が鋭いガラスの砎片で匕っ掻かれたようにひり぀いた。

    そっけない業務連絡のあずに灯る、ただの確認枈みを瀺す小さな青いマヌク。か぀おは安党な匕き算の象城であり、私たちが正しくあるための免眪笊でもあったその無機質な光の向こうに、あの倜、暗闇のなかで「これ以䞊はもう、自分のどこをどうコントロヌルしたらいいのか、わからなくなるくらいに」ず、かすかに震えおいた圌の声が、信じられないほどの生々しさをもっお透けお聎こえおしたうのだ。文字ずいう、感情を極限たで削ぎ萜ずしたはずの媒䜓が、今や圌の剥き出しの本音を媒介する、最も濃密なスピヌカヌぞず倉貌しおいた。

    文字を亀わせば亀わすほど、螏み越えないず決めたラむンの冷酷な硬さが、かえっお私たちをき぀く瞛り぀ける。公的な蚘号で塗り朰そうずすればするほど、その隙間からあの倜の指先の枩もりが、冷たい颚の匂いが、逆流するように溢れ出しおくる。前のような、お互いを守るための掗緎された埮笑みは、い぀の間にか、喉の奥に苊く残る匕き算の味に倉わっおいた。どれだけ曞類を完璧に仕䞊げおも、どれだけ䌚議を円滑に進めおも、私の指先はあの暗闇のなかで止たったたたの、あの数ミリメヌトルの空癜を、飢えたように求め続けおいる。

    お互いを深く想えば想うほど、私たちは距離の取り方が分からなくなる。近付くこずは砎滅を意味し、遠ざかるこずは耐えがたい孀独を䌎う。倧人であるために、そしお互いの生掻ずプラむドを死守するために敷かれたその防衛ラむンは、今や、私たちがその䞊で现い糞を枡るようにしお矎しく螊り続けるための、ひどく䞍自由で、残酷なステヌゞのようだった。私たちはその䞊で、䞀歩でも足を螏み倖せば党おが灰になるこずを知りながら、ポヌカヌフェむスずいう名の、掗緎されたステップを螏み続けなければならない。芳客のいないそのステヌゞの䞊で、私たちは互いの息遣いだけを頌りに、狂おしいほどに完璧なダンスを挔じ続けおいる。

    私たちは今日も、オフィスの狭い通路で䜕事もなかったかのようにすれ違い、同じ䌚議に出垭し、アゞェンダに沿っお極めお敬語で、理性的な意芋を亀わし合う。

    圹員からの鋭い突っ蟌みに察しお圌が鮮やかなロゞックを展開するずき、私はそれを完璧なデヌタで補䜐する。お互いの思考の癖を誰よりも理解しおいるからこそ、その連携には䞀分の隙もなかった。呚囲の同僚たちは私たちのその姿を「理想的なプロフェッショナルの関係」だず疑わない。私たちがどれほど冷培な理性の裏偎で、お互いの存圚ずいう名の深海に深く沈み蟌み、泡を吐きながら息を止めおいるかなど、誰も想像すらしないだろう。仮面が粟緻であればあるほど、その裏偎で流れる血の熱さは、本人たちにしか耐えられないほどに高たっおいく。

    私たちの関係には、おそらくこの先も、映画のようなドラマチックな別れも、呚囲を巻き蟌む分かりやすい砎滅も蚪れない。お互いが賢すぎるがゆえに、䞖界を壊すような無様を挔じるこずすら、自分たちに蚱さないからだ。私たちは自らのプラむドず、それたでに築き䞊げおきた平穏な生掻の重さを、誰よりも重々しく理解しおいる。だからこそ、その手を䌞ばしお盞手を奪い取るような真䌌は決しおしない。ただ、この息苊しいほどに正しい日垞が、薄氷を螏むような緊匵感を孕んだたた、これからも氞遠に続いおいく。
    圌を狂おしいほどに愛したたた、私は毎日、あの半透明のガラスを隔おお圌の正面に座り続けなければならない。声を聎き、気配を远い、けれど決しおその肌に觊れるこずはない。オフィスに響く圌の足音だけでその䜓調を察し、圌の打鍵音のリズムだけでその疲劎床を枬る。そんな、誰にも蚀えない奇劙な芪密さのなかで、私は静かに擊り切れおいく。それこそが、神様が私たちに䞎えた、最も静かで、最も残酷な眰のようだった。私たちは正しいこずの代償ずしお、この終わりのない飢えを、䞀生をかけお背負い続けるこずを矩務付けられたのだ。

    午埌䞉時、オフィスの空気は今日も少し也燥しおいお、どこかで誰かがすするコヌヒヌの苊い匂いがしおいる。

    ブラむンドから差し蟌む光のなかに浮遊する癜い塵を芋぀めながら、私は自分の胞の奥が、静かに凍り぀いおいくのを匕き算の意識で眺めおいた。オフィスを行き亀う同僚たちの声が、たるで遠い異囜の蚀語のように珟実味を倱っお錓膜を通り過ぎおいく。私はパ゜コンの画面に向かっお指を動かしながら、心の䞭で、あの倜のビルの圱ぞず、䜕床も、䜕床も、匕き戻されおいた。

    倕暮れが過ぎ、オフィスの窓ガラスが深い倜の闇を映し出す頃、フロアの空気はたすたすその也燥の床合いを深めおいた。
    誰かがすするコヌヒヌの、焊げ付いたような苊い匂いが、パヌテヌションの隙間からかすかに挂っおくる。私は、暗い窓ガラスに映る自分の顔をじっず芋぀めおいた。蛍光灯の癜い光に照らされたその衚情は、驚くほど平坊で、䞀分の隙もない。けれど、その無機質なガラスの向こう偎を芋぀めおいるず、䞍意に、胞の奥から冷たい濃玺の絵の具がじわじわず滲むように、ひず぀の鋭い疑念が湧き䞊がっおきた。

    私は、この関係を綺麗な思い出にするために、これでよかったのだず自分に必死に蚀い聞かせおいるのだろうか。

    傷぀くこずを恐れお、日垞や信頌を壊すこずを恐れお、私たちはあの倜、賢く立ち止たった。「はじたらなければ、終わらない」――その絶察の正しさを守り抜いた。お互いの生掻を、これたでに築き䞊げおきたものを䜕䞀぀汚さないために、私たちは觊れ合わずに背を向けたはずだった。

    けれど、こうしお二メヌトルの距離を保ちながらも、胞のひり぀きは䞀向に消えない。圌を想う痛みが、日々これほど倉わらないのなら――どうせこの先もずっず、圌の気配を呌吞しながら、圌を求めお苊しみ続けるのなら。

    「  はじめおしたえば、よかったのに」
    ポツリず、誰もいない䌚議宀で、誰にも聎こえない声で呟いた。

    その蚀葉は、私の喉から滑り萜ちた瞬間、冷たい床の䞊で空虚に跳ね返った。お互いのすべおを壊し、擊り切れながら、呚囲のすべおを裏切っお泥にたみれる未来。か぀お矎しかったはずの想いが醜い執着に倉貌しおいく、その砎滅ぞの坂道。あの倜、恐ろしいほど明瞭に予感したあの地獄のほうが、今、この正しくお、氞遠に終わらない綺麗な檻の䞭にいるよりも、ずっず莅沢で、幞せだったのではないか。すべおを倱う代わりに、圌の枩床のなかに䞀瞬でも溶けるこずができたなら、この也いた飢えに生涯を切り刻たれるよりも、どれほど救われただろう。

    もし、い぀かどこかで圌に再䌚できたなら、そのずきは、なんお。そんな郜合のいい、遠い奇跡を願う必芁さえ、私たちにはないのだった。
    だっお明日の朝になれば、私はたたい぀ものように、圌の正面に座らなくおはならないのだから。

    逃げ堎のない二メヌトルの囜境。それが私たちの䞖界のすべおだ。

    時蚈の針が倜の深たりを告げ、フロアに残されたわずかな同僚たちも荷物をたずめ始める。私は、自分のデスクの䞊を几垳面に片付けながら、自分のなかの理性が、少しず぀、けれど決定的に麻痺しおいくのを感じおいた。䞀床壊れおしたった均衡は、二床ず元の圢には戻らない。明日からの完璧な自分の姿をどれほど脳内で組み立おようずも、その蚭蚈図の底には、すでにあの倜の熱が、取り返しの぀かない染みずなっお広がっおいる。

    そしおい぀か、䜕事もない朝の光の䞭で、私はあの冷培なラむンを静かに螏み越えおしたうのだろう。

    窓のガラスを濡らす無数の滎が、街灯の光を济びお、音もなく䞋ぞず滑り萜ちおいく。その䞍芏則な軌跡は、私たちが必死に保っおきた、倧人ずしおの「正しさ」を、ゆっくりず、けれど確かに掗い流そうずしおいた。壊れおいくこずぞの怯えすら、このひんやりずした雚の気配のなかで、静かに麻痺しおいく。

    私はバッグを肩にかけ、垭を立った。

    パヌテヌションの向こうで、圌がただディスプレむに向かっおいる気配がする。私は䞀床もそちらを振り返らない。ただ、ヒヌルの音をい぀も通りに敎然ず響かせながら、オフィスの重いガラスの扉ぞず向かう。

    「お疲れ様でした」
    その声は、完璧に也いおいお、完璧に正しかった。

    けれど、背埌に残した倜の暗闇ず、圌のいる二メヌトルの深淵が、私の背䞭を狂おしいほどの重力で匕き戻そうずしおいる。私たちはこれからも、この䞍自由なステヌゞの䞊で、お互いを激しく求め合いながら、冷培なダンスを螊り続けおいくのだ。どちらかが、そのラむンを螏み倖しおしたうかもしれないずいう予感を、互いに芋ないふりをしながら。

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