
『そこで牛鬼は殺せない』 #8
我々もアスミの運転する車で駅の近くに向かった。日は沈んで、生き残った街灯が灯り出す。どうやらこの辺りの電気は復旧したようだった。祭りに向かう村人たちは皆徒歩で、走っている車はほとんど見られない。人を掻き分けながら車がゆっくりと進む。道中は米軍のヘリの話題で持ちきりだった。
「航続距離は?」
ミリタリー知識に明るい翔が、夏雄の問いにすぐさま答える。
「1600km。海まで十分運べます」
「……いや、海ではなく」
夏雄は眉間に皺を寄せていた。運転席のアスミが、行先を塞ぐ人を追いやろうと、短くクラクションを鳴らす。
「そのままインド国外に連れ去る気では?」
アスミも同じことを考えていたようだった。ハンドルを握る手が、苛立ちからか握ったり離したりを繰り返す。
「そう思う。インドの領空からガウムルディを出してさえしまえば、奴らの手で殺せる」
「そうしてもらった方がよくないか?」
翔が純粋な気持ちから疑問を投げかける。しかし、アスミは首を横に振った。
「……よくない」
「これだけの被害があってもなお、ガウムルディを殺しちゃいけないっていうのか? 自分たちの手を汚すわけでもないのに」
「殺しちゃいけないとは言ってない。“ここ”では殺せないだけだ」
開け放った窓の外から、人々の活気ある声が聞こえ出した。最近インドで増えてきたフードトラックが並び、サイクルリキシャに乗ったタンクトップ姿の痩せた男が甘味を売っている。駅が近い。
「インドの外のことは、ヒンドゥー教の神々は見ていない」
「じゃあなにが“よくない”んだ」
翔の言葉を無視して、アスミが乱暴にハンドルを切った。翔が呆れたようにため息をつく。助手席に座る私にだけ聞こえるようにアスミが呟いた。
「奴らに任せても、うまくいかない気がする」
駅の周辺は村人たちが持ち寄った絨毯が地面に直に並べられ、即席の宴会場と化していた。牛鬼によって破壊された街の復興などはとりあえず傍に置いておいて、30年に1度の祭事を楽しもうとしている。牛鬼がずっと寝ているなど、誰も保証できないのに、皆、呑気なものだった。屋台の青年が大きな鍋にギーやフレッシュなホールスパイスを投げ込み、リズミカルにスチールのお玉を捌いていた。切り刻んだトマトを潰すと、蒸気が立ち上り、心地よい青臭さが漂ってきた。
牛鬼は同じ体制のまま横たわったままだった。寝息も立てず沈黙を続ける牛鬼は、その無機質な真っ白な表皮も相まって、大理石の彫像のようだった。アスミが撃ち抜いたはずの目は回復している。やはり、既知の生物とは異なるとしか言いようがなかった。宴会場に到着した村人たちは、まず牛鬼に手を合わせ深々とお辞儀をしてから、絨毯に腰を下ろしていた。誰1人の例外もなく、みな当たり前のように、牛鬼への慇懃な挨拶を怠らない。
インドでの最後の宴だな、と思う。さすがに明日にはチャーター機も来るだろう。これでインドとはおさらばだ。仕事のために来たのだけれど、その仕事は果たせぬまま、予想だにせぬ土産話だけをもって日本に帰ることになりそうだった。『牛追いのサクラメント』はおそらく列車の機関室の中にある。ただ、祭りが終わるまでは、決して立ち入れないだろうし、海に着く頃には私たちも雲の上だろう。アスミは『牛追い』の在処は知っているし、ディペスが上手いこと事を収めてくれるはずだ。
村の若い女の子に案内され、一角に敷かれた絨毯に腰を下ろした。別にヒンドゥー教徒ではないから、牛鬼には礼はくれてやらなかった。女の子が「これでよい?」と尋ねるように首を傾げながら、ビールの缶をよこす。私は笑顔で受け取って、去ってゆく彼女に手を振った。翔はまたふらふらとどこかへ行ってしまい、アスミも我々を送り届けたあとは、軍の仕事に戻ってしまった。北インド特有のペルシャ風に似た鮮やかな赤の絨毯には夏雄と2人だった。
「仕事辞めるって話、聞きましたよ」
「え、誰に」
「もちろん、飯島館長ですよ」
夏雄は「あの人はおしゃべりだから」といって笑った。
「水臭いじゃないですか。結構、長いこと一緒に仕事してきたのに」
「なんか言ったつもりになってた。ごめん」
仕事で会う以外、個人的に飲んだりもしてこなかったが、インドでは毎晩のように酒を交わしている。腐れ縁も悪くない。ふと聞いてみたくなって、夏雄を肘でついた。
「夏雄さんは、仕事楽しい?」
夏雄はビールを飲み干すと、缶のプルタブをいじりながら言った。
「まあ楽しいか、楽しくないかと言えば、楽しいですよ。他に生きがいもないですしね」
私も特に生きがいというものを持たずに、気づいたらこの歳になっていた。ただ私は仕事に対して使命感はありつつも、胸を張って楽しいとは言えなかった。その点、理由は同じでも、夏雄とは違っていることに、少し羨ましさを抱く。
「歳とると新しいこと覚えるのもしんどくなって。でも歳が上がれば求められる仕事の質も変わってきて、新しいことを“させる”側に回れましたし、まあなんとか」
突然拍手や歓声が上がる。先導者の夫婦が到着したようだった。夫の顔は幾分和らいでいた。ウーマから祭りの次第変更という嬉しい知らせを聞いたに違いなかった。
「とはいえ、新しいこともしてますよ」
近くを通った村の男を捕まえて、空のビール缶を示す。彼は機嫌よく頷くと、持っていた氷の詰まったカゴの中から、新たなビール缶を取り出して夏雄に投げやった。
「最近はうちの会社で新しい輸送方法を開発してるんです。大した役職ではないですが、ありがたいことに拝命してるんで、現場もあんまし出ることもなくなりましたし、もともと技術職で入りましたから。意外と楽しいですよ」
いつも仕事の打ち合わせのたびにルーティン化していた名刺交換で、彼の肩書が変わっていることは確認していた。公務員の単純な役職名と違って民間のそれは聞いてもピンとこないことが多く、特に気には留めていなかったが。「新たな輸送方法って?」と私が尋ねると、「待ってました」とばかりに饒舌になる。
「ナノ粒子のジャミング転移を用いることで梱包材と輸送物を一体化するんです」
「ジャみ……なんて?」
夏雄がその辺から拾った長い木の枝で地面に図面を書いて説明してくれたが、ほろ酔いのせいだろうか、よくわからなかった。
ざわついていたあたりの空気が、一転、静まり返る。遠くで鳴くカエルの声だけが低く響く。他より一段高く据えられた台の上にウーマが立っていた。彼女は先導者の夫婦を手招いて、2人が揃って、自身の目の前でかしずくのを確認すると、胸元から青い鐘を取り出した。ヒンディー語でなにか呪文のようなものを唱える。いよいよニルガンダの鐘が先導者を選ぶようだった。意思を持たないはずの物体に過ぎない鐘が、どうやって夫婦のうちから一方を選ぶのだろう。
ウーマが鐘を夫婦の頭の上で鳴らす。高低差の極端な倍音が長く響く。夫と妻の頭上を行ったり来たりする。鐘の音が次第に小さくなってきたが、ウーマの動きが止まることはなかった。目を瞑ったまま一定のペースを崩さない。とうとう音が止むというタイミングで、鐘を操る手の動きが止まった。鐘がほのかに光を発している。その下で照らされていたのは夫の方だった。青白い光と真紅のターバンが対照的だった。
ウーマが何かを叫ぶと、それまで固唾を飲んで見守っていた村人たちから歓声が上がる。どこからともなく現れた踊り子たちが、妻の手を取り、列車の方へ走り出した。妻は破顔して、夫の方に照れくさそうに目をやると、背を向けて夫の元から離れていった。
ウーマは生まれ落ちたばかりの赤子を母に手渡す産婆のように、夫に鐘を授け、深々と頭を下げた。常に頭を下げられる側のウーマがそのような姿を見せることが新鮮で、部外者であるはずの私も身が引き締まる。本来のサガルサマルパンの次第に基けば、この後は妻が山車の上で踊り、おびき寄せられた牛鬼をニルガンダの鐘で先導者が眠らせることになっていた。しかし、今回は次第が異なる。ウーマと先導者が牛鬼の元へ向かう。
牛鬼は未だ目を覚ます気配がない。マローンが腕を組んで少し離れたところから様子を伺っていたが、いよいよ出番が来たとゆったりとした歩調で近づいてきた。
「鐘を渡してもらえるかな」
マローンが右手を差し出す。先導者に指名された若い男が戸惑い、救いを求めるように隣に立つウーマに目を向ける。ウーマは苦虫を噛み潰したように言った。
「ニルガンダの鐘が其方を選んだ。お前が決めればよい」
先導者は目が泳ぎ少し悩んだ顔をしつつも、震える手で鐘をマローンに手交した。マローンは手にした青い鐘を眺めていたが、部下を手招きした。針で突かれたように駆け寄ってきた部下が鐘を受け取ると、一目散に牛鬼の元へ向かった。十分なシミュレーションが行われていたのだろう。複数人の米兵が手際よく牛鬼の首に細い鎖を巻き、針金で簡易的な輪をこしらえて、鐘と鎖を繋ぎ止めた。牛鬼が目覚めるのではないかと皆心配していたが、杞憂に終わり、鐘を首に据えてもなお、牛鬼は眠り続けたままだった。異常がないことを確認し、米兵たちがすぐさま次の手順に移る。ヘリで輸送するためか、牛鬼にホルダーを巻き付ける。恐怖心など一切ないのだろうか、手際よく進め、ものの2分ほどで準備が整った。
私はてっきりすぐにでもヘリがやってきて、牛鬼を運ぶものだと思ったが、一応祭事の次第は尊重する気があるらしく、マローンは一旦退いた。今度は妻の出番であった。踊り子である妻が山車に登る。そこに集う者たちはみな山車を見ないように背を向けた。かすかに衣擦れの音だけが聞こえてきた。本来、牛鬼に向けたエンターテイメントのはずだったが、当の観客は眠りについて見てはいない。先導者の夫の方は牛鬼の方向を気にしていた。少しでも動きがあるようなら、すぐさま妻の元に駆け寄る気でいるらしい。
踊り子が山車から飛び降りる音がした。どうやら踊りが済んだようだ。皆が山車の方向に向き直る。それを見届けたマローンが部下に耳打ちする。しばらくすると遠くからヘリの音が聞こえてきた。上空でホバリングするスーパースタリオンから牛鬼を持ち上げるためのコードが降りてきた。吹き下ろす強風に耐えながら下から眺める。とてつもなく大きな機体。牛鬼より遥かに大きい。
兵士たちが躊躇なく牛鬼の背に登り、ヘリと牛鬼をコードを介して繋ぎ止めた。1人の兵士がヘリを見上げ、ハンドサインで準備が済んだことを告げる。ヘリが高度を上げる。コードが張り、牛鬼の身体に食い込む音がした。牛鬼の身体がわずかに浮き上がり、地面から離れた。ヘリの音に少しばかりかき消されてはいたが、揺れ動く鐘から不思議な音色が響く。山車に乗せ込むのに十分な高さまで到達した。牛鬼の6本の脚がだらりとぶら下がり、所在なげにヘリの動きに合わせて、右往左往する。牛鬼が空中で並行移動して、山車に近づいていった。
その時だった。垂れ下がって、ヘリの動きに合わせるだけだった脚の内の1ぽんが痙攣する。そのざわめきが伝播するように、痙攣が脚先から牛鬼の身体の方に伝わる。皆に緊張が走る。ただマローンは微動だにしない。鐘が鳴っているのだから、牛鬼が起きるわけがないとたかを括っている様子。しかし、その油断は間違いであった。
牛鬼が目を覚ました。アスミが撃ち抜いたはずの目は完全に元通りだった。寝起きのせいか、眼球が小刻みに震えた。ここにおいてもなお、マローンに焦る様子はなかった。
「心配いらない。奴が足掻けば足掻くだけ、鐘は高く鳴る」
言葉の通り、牛鬼の動きが大きくなるにつれ、比例してニルガンダの鐘も騒がしくなり続けた。牛鬼は寝惚けたように首を回していたが、ふと自分の首元にその眠気の原因があることに気づいた。どう見ても脚では鐘に届きそうもない。人間の肘が構造的に顎にくっつけることができないのと同じことだ。脚が長すぎる。ぶら下がった脚を懸命に動かすが、何の役にも立たない。鐘の音が効いてきたのか、足掻く脚の動きが緩慢になってきた。牛鬼の瞼が再び閉じだす。うまくいきそうだ、と私は胸を撫で下ろした。
それは勘違いだった。牛鬼の目が力強く見開かれた。牛鬼は笑っていた。だらしなく笑みを浮かべる口元から、勢いよく舌が飛び出す。放たれた異常に長い舌は、迷うことなく首元の鐘に伸びていって、鐘の音が途切れた。