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Photo byseven_seas127

人生のお稽古〜完璧じゃなくて大丈夫。1は8になれる。10じゃなくていいんだよ、と自分を認められるまでの私の22年間〜


    あれは、12月の冷え込む朝6時。さあ、行こう。と身体を起こし隣で眠る小さな命をフワフワのスリングでくるみ首から掛ける。外に出ると吐く息が白く、空気の冷たさを感じる。「寒くない?」何食わぬ顔で眠る息子に声をかけながら歩く道。仮住まいの寮から10秒歩き、ガチャっとドアを開ける。大きな寸胴鍋に火をつける。うどん店の朝は早い。産後5日目、いつものように仕込みを始める。スリングをかけた状態でもいつも通り作業ができる自分に、「私って器用だな」と思いつつ。

    産後5日目は、まだ入院している人も多いだろう。4月にオープンした自分の店。意地悪な近所の年上のおばちゃんパートさん達にどうにかされてしまうかもしれないという危機感があった。「お嬢様店長は、お偉いからまだ出勤しないのかしら」そんな嫌みを言われて放っておけない。邪魔させない。この店は私が守る。絶対に私がやるという気負いもあった。

    9時になる。パートのおばちゃんたちが出勤してくる時間だ。「あら、もう出勤して大丈夫?」「ゆっくりすればいいのに」・・・どの口が言っているのと思ったのはその通り。素知らぬ顔で笑顔の挨拶。おはようございます。

    11時。開店する。あ、今日もやってきた濃縮だしをこれ見よがしにお盆に乗せているお客さん。「おまえんとこの出汁は、うまくないけんな」「そうですか。うちは持ち込み自由なのでどうぞ」負けない。とびっきりの笑顔の私。

    出汁には自信がある。あなたの口に合わないだけですよ、とは言わないけれど。22年の月日がたった今、そのお客様は、毎日通ってくれる超常連さんになっている。お盆に濃縮だしはもう乗っていない。私の勝利。

    こうして、さまざまなものと笑顔で戦っていた私。今思い出すと笑っちゃうけど、その当時は眉間にしわ寄っていたよと、仲良しの八百屋のおじさんに言われる。「負けたくない」「勝たなければいけない」「完璧でなければならない」当時の私は、自分を追い込むことを美学だと思っていた。

    昭和の時代、男尊女卑の色濃く残る田舎で生まれた幼少期の環境に、私の人格は支配されていたのかもしれない。

    私には兄がいる。妹との三兄妹の真ん中だ。真ん中の女の子はしっかり者が多いらしいが、私もその最たるものである。小さなころから勉強は得意だった。2つ上の兄の隣で、同じ勉強をすらすら解いていった。
    祖父母も同居する7人家族。祖母は「私の孫は男だけ」という、よくわらかないことをいう人だった。ばあちゃんも女なのに。幼心に思ったものだ。優しくよく笑うけれど寡黙な人だった祖父は、勉強ができる子をとてもほめてくれた。祖母も、良い成績を取るたびに、女だけれど自慢の孫へと変わっていった。
    昭和の時代、習字や読書感想文コンクールというものがあった。特選を取ればほめてもらえた。大きな賞状を見せることが幼い私の唯一の武器だった。オール5の通信簿、と言いたいところだが、体育は苦手だった。特に鉄棒とマット運動。頭を下にして、くるくるまわる意味が分からなかった。
    中学生になり部活動が始まる。負けたくないから、必死だった。誰よりも練習した。軟式テニス。身長の高い私は、前衛として部で一番上手な子とペアを組むことができた。コンプレックスが役に立つこともある。郡部では無敵のペアになった。県大会では、頼みの綱のペアの子が足をけがして走れない。ベスト32で終わった。
    田舎の学校では、根性ありそうな子を集めて冬はマラソン部を作る。「おまえ、根性あるからやってみろ」勧誘ではなく、強制だ。ちなみに夏は、陸上部。どちらもそこそこの結果は出たが、県大会で入賞どまり。同じ中学から京都女子駅伝の県選抜メンバーが2名排出されたが私は見向きもされなかった。それでも、県をぐるりと回る駅伝大会に郡のメンバーとして選ばれたことがある。3日間に及ぶ駅伝大会初日、同じ中学の2人と私の女子区間は、何と県1位の成績だった。私のタイムは自己ベスト。ゴールテープを切る役割だった私を、両手を広げて涙ながらに待ってくれていた母の姿が今でも思い浮かぶ。限界を超えた走りに、しばらく意識を失っていたらしい。
    後の打ち上げで、大会関係者からこう言われた。「お前には、期待していなかったけどすごかったな」それ、褒めてるの?全くうれしくないけど、ちょっと認められた気がした自分が情けない。

    意地と根性で駆け抜けた中学時代。朝練から始まり、授業、部活、陸上にマラソン。土日は遠征。長期休みは合宿と、年中無休の3年間だった。そりゃあ強くもなるよねと思いつつ、もう部活はやり遂げたつもりだった。なのに。高校へ入学した私は勉強そっちのけで弓道にはまってしまう。

    田舎では優秀な進学校に入学した私は「道」のつくものをやりたいと思い立つ。この高校には「弓道」と「剣道」があった。剣道、痛そうだから弓道しよう。これがいけない選択だったのか。必然だったのか。弓道にドはまりした私は、勉強そっちのけ。放課後は道場へ直行。土日も道場へ。最後の大会では県3位に。女の子からよくモテたなあ。と振り返る。
    失った勉強の時間は計り知れない。そんなわけで、志望大学に見事に落ち、何とか法学部に進学したものの、つい最近まで、1月が来ると胃がキリキリ痛んでいた。

    性別で人を判断しない法律を使う人になりたかったのに。法律家になりたいと願う自分は、法律家になるために努力できなかった。どこかぴんと来ない。自分がわからない自分になっていた。人には恵まれて、特にバイト先ではかわいがられた。喫茶店で一緒に働いていたパートのおばちゃんは、いつもご飯を作ってくれて、娘のように接してくれた。よく飲みにもつれて行ってもらった。大学を卒業するときにはおばちゃんがお祝いしてくれた。そこで、一生忘れられない事件が起こる。

    当時、流行っていた高級居酒屋。おばちゃんのパート代だとかなり背伸びしてくれていたと思う。カウンター真ん中に通される。料理好きの私のために、板前さんの手元が見える場所にしたのよ。とおばちゃんが言う。キビキビとカウンターの中ではお弟子さんたちが作業している。和食の世界、動きもきれいだなと見つめながら手元に届いたビールで乾杯する。「今日はありがとうございます」その時。ガン!!と大きな音。目の前で頭を押さえるお弟子さん。大将の怒号が飛ぶ。太いすりこ木で思いっきりお弟子さんの頭を殴ったのだ。私たちは顔色を失った。何秒経ったのだろうおばちゃんがぽつりとつぶやく「ごめんね。お祝いの日に。こんな店に連れてきて。ごめんね。」おばちゃんは悲しそうに, でも強いまなざしで席を立ちレジへ向かった。一口も食べていないお料理の支払いをして、「違う店に行こうね」と私に優しく微笑んだ。

    次のお店は二人の行きつけの思い出の店。何もなかったかのように、素敵な時間を過ごした。一生懸命働いたお金。一生懸命選んでくれたお店。ごめんなさいと、ありがとうの入り混じった気持ちが、お店の失態を許さなかった。

    卒業式の日には、マスター、おばちゃん、お隣の美容室の先生。常連のお客さんたちが門出を祝い喫茶店を貸し切りでお祝いしてくれた。月日が過ぎて、おばちゃんは本当の娘さんのところでゆっくりしていると聞いた。みんな元気かな。

    卒業してからも、実家には帰らず、バイトで生計をたてていた20代。法律家になりたいのかどうか自分の答えが出せず、勉強も続けていた。そんな時、オーストラリアから帰ってきた後輩と久しぶりに会う。yesとnoくらいしかしゃべれなかったはずの彼女がペラペラになってる!私も英語やってみようと思い立つ。親に頼み込んでNOVA に入会。3か月でしゃべれるようになった。外国人の先生や友達とにぎやかな飲み会三昧の日々を過ごした日々。早朝からのコンビニのバイトをしながら、着付け師の免許もとった。他のひととは違う何かをしていないと自分の存在がわからなくなりそうで不安だったのかも。「私は、何者にもなれない、ダメな人だ」そう思っていた。

    コンビニのバイトに向かう途中、ふと、京料理店の勝手口に板前募集の張り紙を見つける。帰り道、勝手口のドアをたたく。思い立ったら早い。石橋は叩かずに走る。運よく、店主に会えた。「女だてらに、しかも大卒で、きみ面白いね。明日から来る?」

    うどん店の20周年祝いに駆けつけてくれた時、すぐ辞めると思ってたんよね。とおやっさんは笑った。予想を覆して、今まで来た板前さんの中で1番。ずば抜けたセンスと根性をもっていたと。嬉しかったな。

    朝8時から夜23時までの修行時代。遅いときは日が変わる。お昼休みは電話番。熱が出ても注射を打って仕事した。月給は13万円。日曜日は休みだけれど、仕込みに出ていた。ここでも年中無休である。
    入店してから最初のお正月。おやっさんからのお年玉。お運びの女の子にも小さな包みが渡されたのだが。私にはなかった。「まだ、日が浅いから」と言われた。誰よりも仕事をして、誰よりも掃除して、誰よりも・・・。お金が欲しかったわけではない。悔しかった。見えない努力をわかる人になりたいと飲み込み、技術をたくさん学んだ。魚も下手なうちから触らせてもらえた。感謝しかない。
    1年が過ぎるころ、妹から長女出産の便りが届く。日曜日を待ちわびて、実家へ帰った。その道中、鈍い痛みが下腹部を襲う。

    赤ちゃんの横で寝転がる。身体が重い。これはいけないと、実家へ戻る。様子がおかしいと心配した父が近くの診療所へ行くように促す。聴診器をあてた医者が、総合病院へすぐ行くようにと顔をこわばらせた。「え、何?」車を走らせ到着した時にはおなかがポッコリと出ている。私こんなに太ってたっけ?院内をたらいまわしにされ最後にたどり着いた産婦人科。「卵巣出血を起こしている可能性、緊急手術」このときには、切れた動脈からあふれ出た血液が横隔膜を押しあげ、息ができないほどの痛みにのたうちまわっていた。ああ、死んじゃうんだ。手術台で麻酔がかかる瞬間、そう思った。

    痛い。目覚めたとき、生きていることを知った。酸素マスク の角が鼻にあたって痛い。マスクのゴム、きつすぎない?痛いんだけど。自分でマスクを引きはがし、無事生還。

    しばらくたって、数時間椅子に座れるようになり、実家のステンレス加工業を手伝うことにした。設計の仕事。CADを学び図面を引きながら、中途半端な毎日を繰り返すことになる。

    ある日のお昼休み、運命の出会い。ぼーっと眺めていたインターネット広告に「製麺機展示販売試食会」の文字。「これ行ってみよう」当時社長だった父を誘った。讃岐出身の祖父はうどん名人だった。そんなルーツもあるのか父は無類のうどん好きで、引退したらうどん屋、が父の夢。うなずかないはずがない。

    11月の展示会だった。そこで私達は、半機械打ちのうどんを侮りすぎていたことに気づく。一口食べたとき「これ、勝負できるな」声をそろえてうなった。そこから翌年4月のオープンまで、駆け抜けることになる。
    店舗のリフォーム設計は自分で行い、修正だけしてもらった、20種類ほどの粉を毎日練り、社員に食べてもらう日々。試作は2月まで続いた。結局、人の意見など聞かずに自分の好きな粉を選定したことは言うまでもない。

    店舗の改装中に、新しい命が宿ったことを知る。つわりがきつく妊婦なのにやせ細っていく。我が子も店も両方手にすることを決めた私は、妊娠8か月まで誰にも気づかれることなく気合で立ち振る舞った。

    お店を経営していると、お友達や古い知人が訪ねてきてくれることがよくある。

    あの日もそうだった。薬味の台を布巾できれいに整えていた時、影を感じる。「いらっしゃいませ」といいつつ見上げる「わあ!先生!!」幼いころ習っていたピアノの先生ご夫婦だった。思い出話に花を咲かせること数分。旦那さんは横でニコニコとほほ笑んでいる。「先生、うちの息子がめっちゃ音痴でゾウさん歌えないんです。教えてもらえませんか?」先生は言う。「あのね、私は1のものを10にはできないと思ってるの。5を12にすることはできるわ。それは才能ある人の話ね。でもね、1のものを私は8にすることはできるわ」いやあ、プロだな。信用できる。そして、この言葉は私の中に深く突き刺さった言葉でもある。10じゃなくて良くない?普通が5なら、8って、すごくない?

    カラオケがうまい人はヒーローになれる。逆に音痴はつらい。せめて音を外さず歌えるように。と指導をお願いした。自宅でも、車の中でも、いつもみんなで歌を歌う日々。大きな声で歌う子供達。

    絶対音感がある2人の幼い妹が音階を外す兄の歌を笑おうとする。「今練習しとるんやから、教えるのはいいけど、笑うのはだめ」長男も今年22歳。人並み以上に上手く歌う。音痴は矯正できると断言できる。1は8になった。8.5くらいかも。と思うのは親バカかもしれない。

    息子の恩人ピアノの先生は、私のお姉さんのような存在。事あるごとに長話をする。雑談の中で先生がぽつりと言った。「あなたって、器用貧乏ね」毎日全力だけれど、中途半端で何もないといわれた気がして、息ができないような感覚になる。先生に言われてはっとしたけれど、自分がそう思っていたのかもしれない。

    たくさんのことに気をもみながらも時間は過ぎていく。長男の誕生から8年後、長女5歳に、次女2歳。当時の夫がマラソン大会に出場するから応援に来てほしいという。幼い子供の手を引いてゴールに行ったけれど、結局最後まで走れずバスに回収されている始末。「練習もせずに参加して、本気で走ってる人に失礼じゃない?次は私が走る!」中学時代の自分の頑張りを馬鹿にされたような気がした。決めたからには真剣に取り組むのが信条。とはいえ走りに行く時間がない。子供もいる。大型のトレッドミルを購入し、仕事の後、着替えずに走ってからお風呂に入る。早朝、寝静まる自宅でドタバタとパジャマのまま走り、シャワーを浴びる。時短この上ない。子供のいる場所で走れるし、一石二鳥どころか三鳥。なんなら晩御飯のお鍋を火にかけて走れるというわけだ。中学時代は「やらされていた」が、大人になって自分の意思で走ると、理論を考えるからか結果が出て面白くどんどんはまる。体幹も強くなり腰痛・ヘルニアもおまけで治った。ついには「市の女性ランナーで1位」に。自分もうれしかったが、子供たちがうちのママすごい!と喜んでくれた懐かしい日々だ。その後も、100キロマラソンを走破し、次は鉄人レースだなと思っていた矢先、全く記録が伸びなくなる。そのうち歩くことができないほどの痛みに襲われ、「臼蓋形成不全」が発覚。「このまま走れば歩けなくなる」と医者に告げられ、泣く泣く引退。自己ベストは4時間13分。届かなかった4時間切りに本当に辞めてよかったの?と問う自分が今も時々現れる。

    年中無休の店。マラソン大会の日以外は仕事を休んでいない。うどん店には他の仕事も入るように。私のライフワークともいえるお弁当の仕事だ。それは近所のおばあちゃんの一言から始まった。「敬老会のお弁当をつくって欲しい」突然電話が鳴り、今日の18時に届けてほしいといわれる依頼が、時折入るようになった。朝10時に電話がかかってきて、「12時までに」と言われることも。断りたくはない。いつでも対応できるように野菜のお惣菜を毎日作ることにした。そうすれば手持ちの野菜は常にあり、急にお弁当の仕事が入っても対応できる。材料も回る。こうして、当時のセルフうどん店では珍しい、野菜小鉢がたくさん選べる店として定着し、よそにはない新たな武器となった。

    お弁当の仕事は大きな仕事を連れてきてくれた。地元の大きなお寺のお祭りのお弁当、その数460個。初めての大仕事に、母、妹、義姉、総出でのイベントとなった。

    早朝2時。一人で仕込みを始めていると母がやってきた。「みんな3時からくるよ。こんなに早くて大丈夫?」大丈夫大丈夫、と、母が作業を始める。星空がきれいな静かな夜。トントンと、包丁の音が響く厨房。夜の空気がそうさせたのか、母に無理させてしまっていることを、申し訳なく思ったのか。ずっと胸に引っかかっていた言葉を口にした。「大学まで出してもらったのに、飲食の仕事についてしまってごめんな。ずっと言えなかった。」母は一瞬包丁を止めて、きゅうりを見つめたままこういった。「あんたが、楽しく元気に、充実して毎日過ごしとったら、それが一番。何をしてても人様に後ろ指さされることしてなければええんよ。こんな大きな仕事さしてもろて、えらいでえな。」「うん。」小さくつぶやいた私は酢の物のきゅうりを切りながら、あふれる涙をかくすのに必死だった。「おはようございます!」元気よくお手伝いの人たちが出勤してくる。3時だ。さあ、やろう。とても大きな漬物石が私の心からどいた瞬間だった。

    私は飲食の仕事を天職だと胸を張って言えるようになった。仕事に没頭する日々。子供達の学校行事にはあまり行けなかった。子育て世代の、パートさんを優先していたからだ。
    たまに行く参観日には、ユニフォームのまま覗きに行く。廊下から我が子を探し、目が合うまで手を振る。見つけてくれたら、「か・え・る・ね」と口パクする。きれいに着飾った保護者の間を潜り抜け、店に戻る。滞在時間、5分。そんな母を子供たちはどう思っていたのだろう、と尋ねたことがある。「みんなとちがう服だから、見つけやすくていい」思わず笑ってしまった。母の仕事をカッコいいと思っていると、三人とも答えてくれた。恥ずかしい思いをさせていなくてよかったと、安堵した。

    子供たちも大きくなった。長男は22歳。大学4年生を休学して、ドイツへ行っている。彼は大学進学に苦戦したが、幼少期から好きで続けた習い事、ピアノ、草月流の生け花、能楽。(能楽をしたことで、当時の皇太子様(現天皇陛下)とお話しすることもできた)この経験を国際系の大学が拾いあげてくれた。たった20分の、しかもzoom面談で合格。世の中は変わっていっている。そう感じた出来事だった。私も変わろう、変わりたい。私自身の世界が広がっていくのを感じた。

    長女はいわゆる優等生。県内トップの進学校へ。しかし、上には上がいると知り、自分は平凡だと思った瞬間、暗闇に落ちてしまった。好きなメイクの道を選ぼうとするが、専門学校への進学は前例がない。友達から変人扱いされないかな。いじめられないかな。学校に行けなくなった時期もある。3年生の夏。彼女は覚悟を決めた。「センター試験、受けない。美容専門学校に行きたい。許してもらえる?」今までかけてくれたお金と期待を裏切ってごめん。ごめん。ごめんなさい。長く書き綴ったLINEが送られてきた。きっと泣きながら書いたんだろう。「自分の好きなことすればいいやん」あなたが医者になるから応援してたんじゃない。職業じゃなくてあなたを応援してるんよ。娘に生気が戻った。担任の先生から電話がかかってくる。「センター試験、受けないといっていますがお母さん、いいんですか?僕は彼女に後悔させたくない。」「先生、面白いこと言いますね。彼女の選んだ道です。私は娘を信頼しています。後悔するならすればいいです。この選択をした娘を、私は全力で応援します。」あきれたのか、あきらめたのか。担任の先生は専門学校の願書手続きを滞りなく進めてくれた。

    娘に会う度にメイクをしてもらうことが普段メイクしない私の楽しみ。鏡を見ながら結構いけてるやんママ。と私が呟く。娘が笑う。

    末っ子の次女は、好奇心旺盛なやんちゃな子。狭い田舎の19人1クラスの学校で幼稚園から中学まで兄弟のように過ごす友達と毎日楽しく過ごしていた。やりたいことを見つけては、「やっていい?」のシャワー。そんな彼女が中学1年生になって、変化していく。つまらない、勉強したくない。you tube三昧、ソファーでぐたっとしてる娘。大好きだった運動もしなくなっていく。中学1年生の1月。彼女の転機が訪れる。それは長男の大学のお友達との出会い。私立学園出身の彼女は輝いていた。どう育てばこうなるのだろうと興味を持った。聞けば娘も同じことを考えていたようで3月に学校見学へ。「ここに来たい。」じゃあ、準備しよう。7月に受験、中学2年生の9月に編入した。バンドにバスケに、剣道に。寮の生活も含めて毎日楽しく過ごしているようだ。高等部一年生になった今、勉強は・・・。まあいいか。

    子供たちが誰もいなくなってさみしくないの?と聞かれることがある。そんなに早く手放すなんて、信じられないとも。大丈夫。私の中に、子供達は住んでいる。子供達の中にも私は住んでいると思う。遠くにいても、それぞれがそれぞれの場所で活躍し、笑って生きている。一人一人が自分の足で立って、歩いている。子供達は別々の人間だ。それぞれの人生があり、それぞれの人格がある。親としてできることは応援すること。あとはお財布になること? 子供たちによく言う言葉がある。「ママは今日、命が終わっても、やりたいことは全部やってるから、笑って送り出して。今日までに教えられることは全部教えてるから、自信を持って生きて。世界中、どこにいても、何をしていても、応援してる。困ったときはいつでも全力で助けるから。自分の人生に責任をもって、自分で決めて。自由に生きて。人に迷惑をかけない。大切に。感謝する。これを忘れずに。」

    振り返ると、人生の点が繋がって今の私を作り上げてきたと思う。子供たちと、うどん店とすべての出会いと出来事と共に。

    うどん店の開店から私は走り続けていた。年中無休。閉店から翌日の開店までは毎日休み。と、自分を洗脳した。「休まない生活」こそ美徳だ。真面目に、勤勉に。働き続けることこそ偉いのだ。
    開業から3年を過ぎたころ、だらしないスタッフの働き方を友人に愚痴ったことがある。「そんなに文句言うほど、あなたは偉いの?一番偉いと思っているなら、あなたが全部すればいいじゃない」という答え。それから何年も、私の心の中にあったその言葉は、開店から8年ほどたった時にきっかけをくれた。「自分は完璧じゃない。12になるために、人を認めて助けてもらおう。私がやりきれない部分に、みんなの力を借りよう。」苦手なことはさせず、個々の得意分野を伸ばす指導へシフトさせた。大学卒業祝いの事件をきっかけに怒らない経営を貫いてきた私が、5の能力の仲良しクラブを12のプロチームへと導いていく新たな指標になった。

    彼女からはもう一言。「休まず働くことがそんなに偉い?そんな人生、何が楽しいの?」開業から20年が過ぎた頃だ。この時、私の周りの環境は変化していた。10年以上レギュラーメンバーが変わることなく店を支えてくれ、安定している。
    自分が休まないことで、社員となったみんなも休みにくいのかも。私も休む稽古を始めた。

    何事にもお稽古が必要なのだと私は思う。お稽古には、昔のことを知り学び、精神的な成長や人間力の向上を重視するという意味合いがある。

    人生は日々お稽古の連続だ。「今、この瞬間を生きる」「自分のために学ぶ」。

    大きくなった息子から「器用貧乏っていわれた。これって褒め言葉?」と聞かれたことがある。昔、同じこと言われたな。と思いつつ彼に言った。「最高の褒め言葉やん。器用貧乏でいいよ!いろんな経験をしている人の方が、してない人よりずっとかっこいい。笑って、そうです。って言っとけばいい。ただ、自分を磨くことは忘れずに。」

    自分の核を磨きつつ、日々変わり続けてしていくこと。自分にしかできない「自分をつくる」ということ。「何者かになりたい。」という全ての人に、あなたはあなたですよ。と教えてあげたい。

    昨年秋、近くにうどん店の競合が現れた。顕著に売り上げが急降下している。一人勝ちだった状況が一転、リアルな試練が訪れている。そんな時こそ、今までの点がつながるとき。救いの手が伸びてくる。母校からの昼食販売の依頼。高校を中心として近隣事業所への移動販売を始めた。マルシェや催事への出店依頼もいただけるようになった。大切なスタッフを守るために、何でもやろう。

    店舗の老朽化に伴い、わくわくするような食のテーマパークを作るためのプロジェクトも進めている。人口減少が進む田舎の商売。都会にポップアップを作るのもいいな。海外への進出もありだ。

    できない言い訳より、できる方法を考える。人生は考え方ひとつでマルにもバツにもなる。

    変わらないために、変わり続ける。私の人生のお稽古はこれからも続く。

    #創作大賞2026
    #エッセイ部門

     
     

    coco

     
     
    うどん店経営22年目です。3人の子供のママ。優等生な人生をやめ、「変わり続ける」ことを楽しみながら毎日爆走しています。いけばな、バイク、スキューバダイビング、の趣味もですが、新しい食のプロジェクトなど、ワクワクすることに挑戦中!人の三倍生きたいと願う50代です。

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