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小西行長の物語* Ⅱ


    月は自分だけで光れない。
    太陽の光をもらって輝く。
    キリシタンの人生は月のよう。
    たとえ世界が暗い時も
    主イエス・キリストの
    光をうけて輝く。


    我が家から天草にあるコレジョ館は130キロの彼方、約3~4時間だ💦交通手段はマイカーのみ。でも美しい景色の天草五橋を走り抜け、牛深で美味しいお刺身をいただく。崎津教会周辺を散策し、コレジョ館を見学できた。
    1591年にコレジョが、この地に移転できた背景にも行長はいる。

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    道の駅うしぶか海彩館でランチ

    ⭐️前編はこちらから⭐️


    ⭐️後編⭐️


    小豆島での活躍

    行長は、瀬戸内海の島々の領主となった時、高山右近のビジョンに倣い、ここに「神の王国」を建てあげたいと願い、宣教師セスペデスを招く。
    もちろん王国といっても、世俗的王国の事ではなく、見えざる信仰による王国の事だった。


    1400人近い洗礼者が与えられ希望と喜びがあった。
    「青天の霹靂」はそのわずか一年後にやってきた。

    晴天の霹靂

    翌1587年 秀吉がバテレン追放令を出す。キリシタン、宣教師らは仰天した。宣教師の20日以内の日本退去命令がでた。
    この時、行長29歳、高山右近は36歳だった。
    行長にとって右近は、敬愛する兄のよう又、師のようであったろう。
    けれどこの2人が、秀吉の命令に対して全く違う反応をしていることがわかる。


    右近は以前より、この日が来るであろう事を密かに察知し、秀吉に誤解を与える言動を慎むよう周囲に警告し、配慮もしてきた。
    宣教だけに専念し、政治に介入しないという鉄則があった。
    なので驚くよりは来るべき時が来たと受け入れる。そして、棄教を迫る秀吉に「信仰は捨てられない。領地は秀吉に返還する。」というものだった。
    何故か?この9年前に、主君荒木村重の信長への反乱事件があり、権力者の歯車になる苦しさや虚しさを経験し、以来、肝に命じてきたのだ。

    "権力は肉体を奪えても、自由は奪えない。むしろ信仰の自由を選択するのだ"と。


    行長の、秀吉の命令への反応は妥協的であった。秀吉の怒りを買う事を恐れ怯え、宣教師に「立ち去って欲しい」というメッセージを弟に託し送った。
    フロイスはこの時のことを「行長は宣教師達に冷たかった」と記している。
    再び要請があり、行長は激しく迷い悩む。そしてどこかで宣教師達と会っている。(場所の記録はない)

    オルガンティーノは行長と議論し、自分はもはや殉教覚悟である事を告げた。この言葉を聞いた行長は泣き始めたという。
    右近やオルガンティーノの決意の前に、行長は自らを恥じたと遠藤周作は「鉄の首枷」の中で言う。
    自分もいよいよ腹をくくる時がきたと覚悟したのかもしれない。その時抱いた恐れや恥、自責、後ろめたさは誰もが理解できるものだと思う。行長は結城弥平次ジョアンと3時間一室にこもり話す。

    こうして、行長は自分の領地にオルガンティーノと高山右近を隠した。


    そして右近の家臣の大部分を行長は、扶養するために引き受けている。
    これは主君に逆らう命がけの決断だったはず。

    右近は言った。「今後行う戦いこそが苦しいが、最も尊い戦いだ。」
    それは、地上の軍人から神の軍人に変わった右近の宣言だった。

    旧約聖書エステル記の王女エステルが「私が死ななければならないのなら死にます。」と言ったその同じ覚悟を思う。


    遠藤はいう。「行長には、洗礼だけは受けたが神をほとんど問題にしなかった長い時期があった。
    しかし神の方は、いつも行長を問題にしていた。
    神はこの右近追放を踏み台にして、行長にもおのれの内面を見るよう仕向けたのである。」という。まさに、アーメン。


    1587年 行長は、高山右近と宣教師オルガンティーノを自分の領地、小豆島に匿う。

    秀吉の九州統一(征伐、平定)


    1586~87年 九州征伐
    一方、九州では島津・大友・龍造寺が睨みあっていた。
    島津氏の力は巨大になりつつあり九州統一の総仕上げとして、大友氏の所領であった豊前、豊後、筑前への侵攻を開始した。
    そこで大友氏は秀吉に助けを求めたのだ。
    秀吉の尽きぬ野心は九州に向かう。後に九州名護屋城を拠点とした朝鮮征伐を考えていた。

    また秀吉はその朝鮮を通過し、明国(中国)までも日本の下に置きたいと考えた。
    (このことは信長が言っていたので、その影響を引き継いでいるかもと遠藤周作はいう)


    秀吉はポルトガル貿易を優先するために、バテレン追放令は徐々に緩和、有名無実化されていく。
    キリシタン達にとって、通り雨は去っていった。

    肥後国人一揆


    1587年 九州征伐により、佐々成政(さつさなりまさ)が肥後領主となるが。
    しかし、隈部親永(くまべちかなが)らが、肥後国人一揆を起こす。
    収めきれなかった成政は、秀吉よりその責任をとらされ、切腹する。
    また、463年も続いた長き歴史もつ菊池氏の城、菊池本城(隈府城、隈部城ともいう)は、秀吉により完全に壊されてしまった。今、その敷地は菊池神社と市民憩いの公園になっている。


    行長 肥後南半国へ

    1588年 行長、肥後国(南半国)宇土・益城・八代の三郡を与えられ、転封となる。
    加藤清正は、肥後国(北半国)隈本へと転封となる。
    行長と清正は犬猿関係でありそれはこの後も続く。

    この時、行長が小豆島に隠した右近、オルガティーノ、結城弥平次ジョアンも共に肥後へと移る。

    この知らせに天草島原に隠れていた宣教師達は非常に喜ぶが、秀吉をよく知る行長と右近は、宣教師達に人目をひかぬ服装に変えるよう、又反抗的態度は取らぬよう戒めたという。

    天草の新領地の上津浦に小さな教会を建て、志岐、栖本、大矢野に伝道所ができる。
    寺社を破壊したというデマはあったが、これは犬猿関係だった加藤清正らの流した噂であった。
    宣教師達に、目立たぬように戒めた行長が寺社を壊すなどとは、考え難いと思う。また、記録にも残ってはいない。

    天草五人衆の一揆


    1589年 行長、防衛強化するため、宇土古城の東に新城を築城する。
    しかし。その普請費用の徴収に対して天草五人衆(大矢野・志岐・上津浦・栖本・天草)に拒否され、佐々成政と同じように窮地に立つ。

    五人衆はキリシタンであり、またキリシタンの多い天草衆に対して、行長は事態を穏便に済ませたい、話合いでの解決を望むが、それが手緩さとなり、制圧できず敗退する。

    元々不仲だった清正に援軍を要請せざるを得なくなり、強引な出兵と介入で武力征伐に踏み切ることになってしまう。

    このころ天草は人口3万人、その2/3にあたる2万3千人がキリシタン。約60人の神父、30の教会が存在した。

    1590年   天草五人衆との戦いは終結する。


    天草にキリシタン文化開花

    キリシタン領主行長の庇護のもと、天草にはキリシタンの文化が開花していく。
    ドン・ジョアン天草久種の旧領地は安堵され、ドンジョアンは、コレジョ(カレッジの意味・大学・神学校)を天草に移してほしいと、バリニャーノに熱心に働きかける。


    1591年 天草コレジョが完成する。日本各地から若者達がやってきてここに学んだ。
    志岐氏にもセミナリヨ(小学校)、画家ジョアン・ニコラオ修道士が招かれ油絵・水彩画・銅版画・聖画や像の制作・パイプオルガンと時計の制作など学ぶようになる。
    この頃の天草はイエズス会にとっての宣教の拠点となった。
    行長はこれらイエズス会の働きを援助、保護した。

       天草のコレジョ↑↑↑
      ↓↓↓現在の天草コレジョ館

     跡地が美しい公園になってます



    🍁🍁コレジョのマイアルバム🍁🍁

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    コレジョ学生名簿
     
     
     
    キリシタンの足跡👣を探す人です。 遠く阿蘇山噴煙の見える家から、紀の川ほとり和歌山城下町へ、犬のCocoa🐾と引越しました。キリシタンは元気のなかった私を回復してくれた恩人。このブログは九州キリシタン史跡巡り備忘録です。いずれ和歌山と京都、畿内のキリシタン史跡を巡るのが夢です。

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