
あわいのひと ~ 間が活きる、間に生きる~(仮)⑨
シートの説明をし、私自身のことをシートに入れ込んでみた場合の話をしました。その上で、過去、現在、未来の縦軸、本人、家族、地域・・といった横軸の隣り合ったところとの間、あわいの部分で、ギャップが生じた時、そこに変化を起こすキッカケがあることを話しました。
いつの時代からなのか、ある出来事について、物事を単純化する議論が主流になったように感じます。分かりやすさが尊ばれるようになり、白か黒かはっきりさせることが良しとされ、曖昧な返答をすることは何かを隠している、卑怯といった偏った評価を受ける、何とも行きにくい世界になったように思います。
物事を分かりやすく、単純化する過程で、議論を呼びそうなところ、悩みそうなところは切り落とされていく。0と1で構成された機械のような世界であり、悩むという行為を極力、しない、させない仕組みを世の中が作っているように思います。SNSが隆盛を極め、AIがすごいスピードで導入される世の中にとっては、親和性の高いものなのかもしれません。ただ、果たしてそれで良いのか。生きづらさという言葉が近年、たびたび言われるようになりましたが、その言葉が言われるような背景として、このような時代の変化、生きにくさが影響しているように感じます。
SNSの発達により、様々な機会が増えたと言われますが、情報が溢れただけで、果たして中身は伴っているのか。周りから見られることで、結局はこれまで以上に、流れを読まなければならない。しかも、スピードは速く、一度にたくさんの情報が流れる。でも、中身は単純化した議論の繰り返し。進んでいるようで、停滞しているようにも感じます。
勿論、今の流れを止めることはできず、時計の針を戻せという話にはなりません。この流れは一層進んでいくのだと感じますが、人を見る見方に関しては、単純化せず、曖昧な部分を曖昧なまま見つめ、悩むということが必要なように思います。
それは、選択するまで待つということでもあります。期限を決め、白か黒かのいずれかの選択を迫るのではなく、選択をする(提示された選択肢以外の選択肢を考える、選択しない選択も含め)のを待つことができるか。早く選択したいと損をするとの強迫観念に急き立てられる状況がありますが、果たしてそれは正しいのか、ただの思い込みではないのか。選択できるタイミングは人それぞれ異なり、タイミングが来れば、人は選択することができる。
そう話せば、そのような世の中ではないとの反論もあるのかもしれないが、そのような世の中ではないと言うのも、何を根拠に言っているのか。
人が社会を作っている以上、人がどのように認識するのかで、社会は構成される。早いタイミングで選択するのが良く、白か黒か、限定された条件で選択することが良いと言うのも、多くの人が、それが良いと、根拠があるのか否か分からない、ある種の考えのもとで作っているに過ぎない。他の意見をただ、排除し、その人たちにとって都合の良い社会を形成しているだけのように感じます。声の大きな人、発言力があると思われている人の声に押され、そのような社会を人が作っているだけで、人の認識が変われば、社会のあり方も当然、変わっていくように感じます。
「あわい」を切り口にすることで、人を、人を通した社会を見直していくことができるように、私は思います。