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描く事だけは、取り上げないでください!

    5歳の誕生日の朝、私の父は他人になった…

    それまでの父は、夜になると私を膝に抱き、ざらりとした無精髭を頬にこすりつけて昔話をしてくれる人だった…
    とても優しくて大好きなお父さん…
    私は、お人形が好きで、かぎ針編みが好きで、母が鏡の前で口紅を塗る横顔を、息を止めて見つめているような子どもでした…
    父の腕の中はあたたかく、母もとても優しく、ケーキ屋を営む両親の甘い匂いの中にいるかぎり、世界には何の隙間もなかった。
    私は確かに、愛されて育った…

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    私が生まれる直前まで両親は、「女の子」を望んでいた。
    母は産婦人科で「次は女の子ですよ」と告げられ、かぎ針で小さなベビードレスを編み、女の子の産着をそろえて、その日を心待ちにしていた。けれど生まれてきたのは、二人目の、男の子だった。両親は私を、兄と同じように「男らしく」育てようとした。それでも私の手は、いつのまにか、お人形や毛糸のほうへ伸びていった。だからこそ、その朝のことを、私は一生忘れられない。

    「お父ちゃん、おはよう」といつものように声をかけた私を
    父は見たことのない冷たい目で見下ろして言った。

    「今日から『お父さん』と呼びなさい。
    おままごとも、人形遊びも、今日から一切禁止!」

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    理由を、私はずっとあとになって知った。急に女の子らしくなっていく我が子を見て、両親は、このままでは小学生になったら、いじめられることを本気で恐れていた。思い詰めた母は、ラジオの人生相談に、匿名で胸の内を打ち明けたのだという。返ってきたのは「お母さんが男っぽい喋り方だから、息子がそうなった。母親のせいだ」「それとお父様が甘やかすのもよくない!厳しく育てると男の子は男らしく育ちます」という、今では考えられない断定だった。

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    その一言が、私の家の空気を、まるごと作り替えてしまった。恐怖から出た愛情だったと、今なら頭ではわかる。けれど、当時の子どもの私には、そんな親心は何ひとつ伝わらなかった。たとえ「あなたを守りたい」という思いから出たものであっても、子ども本人にとっては、それがいちばん深く心を傷つけることがあるのだ。
    私、何か悪い事した…?

    その日から、私の世界から「好き」や「かわいい」が、一つずつ消えていった。4歳のとき、「5歳になったら、くまかうさぎのぬいぐるみを買ってあげる」と、約束してくれていた。私はその日を、指折り数えて待っていた。

    けれど、5歳の誕生日に父が買ってきたのは、ブリキのロボットと、超合金の戦隊ヒーロー。洋服も貰ったけど、どれもこれも、「男の子のもの」だった。約束のぬいぐるみが、私の腕に抱かれることは、とうとう一度もなかった。

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    そんな中で、唯一の味方は、母の妹である叔母だった。お花畑で、一緒に花冠を編んでくれた。ファンシーショップで、キラキラのシールやかわいい小物を、一緒に選んで買ってくれた。「あんたはそのままでええんよ」と、私という存在を、いつも丸ごと肯定してくれる、たった一人の人だった。そんな唯一の理解者である叔母に買ってもらった宝物も、父に見つかれば壊され、破られ、捨てられた。

    叔母までもが、両親に激しく叱られた。やがて叔母は、私の前から遠ざけられていった。たった一人の味方を失ったとき、幼いなりに私は学習した。自分さえ我慢すれば、この家は壊れずに済む。私が「私」をやめれば、みんなが少しだけ楽になる…

    そうやって私は、いちばん最初に、自分で自分を消す術を覚えてしまった。それがどれほど自分を傷つけていくか、まだ何も知らないまま…

    おかま、と呼ばれて

    小学校に上がる前から、その締めつけは始まっていた。入学のとき、私はずっと、大好きな赤いランドセルで学校に通えると信じていた。けれど父が買ってきたのは、真っ黒なランドセルだった。どうしても赤がいいと、私は一晩じゅう泣いた。それでも、赤が私の背に乗ることはなかった。
    黒いランドセルを赤色のマッキーでどんなに塗ってもランドセルが赤くなる事はなかった…

    1年生と2年生の担任は、同じ女の先生だった。口癖は「男は男らしく」「女は女らしく」「男は泣くな」。「シャキッとしなさい!」当然のように、私は男子たちからいじめられた。泣いてばかりの毎日だったけれど、先生も親も、口をそろえて言うのだ。「お前が悪い」「いじめられるのが嫌なら男らしくしろ」と。私はいつも、たった一人で泣いた、戦った…

    ある日には、教室の絵の具がなくなったというだけで、担任は真っ先に私を疑い、みんなの前で「あなたが盗ったんでしょう」と決めつけた。やっていないと訴えても、聞く耳は持たれない。「問題児のあの子なら、やりかねない」。私はもう、そういう目でしか見られていなかった。

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    守ってくれる大人が一人もいないと知ったとき、子どもはどうやって自分を守るのだろう。私の場合、それは反抗という、いびつな形をとった。いじめてきた子のお弁当に砂を詰め込み、泥棒扱いした担任への仕返しに、先生の腕時計を盗んで砂場に埋めた。今思えば、ひどいやり方だ。けれどあの頃の私には、威嚇し反抗すること以外に、自分という存在の輪郭を保つ方法がなかった。

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    逃げ場は、家の中にもなかった。「お前のせいで、俺までいじめられるんだ」―そう言って、兄が振るう暴力は、日に日にひどくなっていった。両親は「お兄ちゃんはあなたを鍛えてくれてるんだから」と助けてくれなかった…
    父は私を「男らしく」しようと、空手を習わせラグビー教室に通わせ、日曜や長期の休みにはヨットスクールに預けられた。
    けれど、どうしても嫌でたまらず、頭を坊主にすることと引き換えに、私はそれをやめさせてもらった。学校で殴られ、家でも追い詰められる。安心して息のできる場所は、もうどこにも残っていなかった。

    それでも、すべてが地獄だったわけではない。3年生のときの先生は、私が私のままでいることを、わりあい許してくれた。

    4年生の担任は、新任の、とても厳しい女の先生だった。「問題児」「異端児」と決めつけられ、毎日ヒステリックに怒鳴り散らす。いじめは、いっそうエスカレートしていった。叱られるのは、いつも私。女の子らしい持ち物も、仲のよかった女友達まで、次々と取り上げられた。その度私は反抗と抵抗と威嚇を強めていった…
    校長室は私の指定席になり、親は何度も学校に呼び出された。

    高学年になると、男女が分けられる場面が、苦痛でたまらなくなった。体操服に着替えるとき、男の子たちと同じ部屋で服を脱ぐこと。男子トイレに、どうしても入れないこと。自分の体が、まるで自分のものではないようだった。

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    大人に説明を求められても答えられないほど、自分でも自分がわからなかった。苦しかった…

    6年生の修学旅行のことは、今でも忘れられない。みんなで入る大浴場が、どうしても耐えられなかった。男の子たちと裸で同じ湯につかる。それは私にとって、自分の存在ごと引き裂かれるような時間だった。その夜、私はこっそり宿を抜け出して、逃げた。先生たちが血相を変えて探し回り、連れ戻され、こっぴどく叱られた。でも誰一人、どうして私が逃げ出したのかを、尋ねてはくれなかった。

    中学に上がる頃には、私のひねくれは、もう頂点に達していた。どの教師にも食ってかかり、手のつけられない問題児として扱われた。顔を白く塗りたくって登校し、全身全霊で反抗していないと私はもう、自分を保てなかった。本当は心の奥で、誰か一人でいいから、私の声をちゃんと聞いてほしいと、ずっと叫び続けていたのに…

    美術準備室で、頬を叩かれた日

    その凍りついた心を溶かしたのは、中学3年で担任になった、美術のM先生だった。

    先生は、3年間ずっと私の美術教科担当教員だった。担任になってからの1学期のあいだ、何も言わず、ただ私の様子をじっと見ていた。そして2学期のある美術の授業中、とうとう私は先生と正面からぶつかり、生まれて初めて、教師に本音をぶつけた。

    先生は、私を黙って美術準備室へ連れていった。油絵具とテレピン油の匂いが濃く立ちこめる、その狭い部屋で。

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    先生は、私の両頬を、力いっぱい叩いた。

    そして次の瞬間、ぼろぼろと涙をこぼしながら、私を強く、強く抱きしめた。「あんたの行動は間違ってる!でもね、何が苦しいんか言葉にしてくれないと、私らはどうしてあげることもできない。逃げんと、ちゃんと喋り」驚いて固まったままの私の背中を、先生はさすり続けた。「叩いた先生の手も、痛いんやで」と泣き笑いして、それから、これまで私を傷つけてきたすべての大人に代わるように、こう言った。

    「今まで、ごめんな」「苦しかったな」「辛かったな」「よう頑張った」

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    5歳のあの朝から、誰にも本当には触れられてこなかった私の魂が、その腕の中で、震えた。叩かれたのに、抱きしめられた。怒られたのに、謝られた。私は生まれて初めて、誰かに「ここにいていい」と言われた気がした。

    先生は、ほかの先生たちにも掛け合ってくれた。「あの子を、あの子のままでいさせてあげてくれませんか」と。おかげで、残りの中学校生活は、友達やクラスメイトと笑い合える、あたたかい時間になった。私は少しだけ、自分のままで息ができるようになった。

    分かってくれる大人が、たった一人。それさえいれば、人は生きていける。私はそのとき、心の底からそう思った…
    先生の影響で、私は美術に興味を持った…
    隣町の画塾に通ったのもこの頃からだった…

    死の淵で、手放せなかったもの

    けれど、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。卒業すると、みんなはばらばらになり、私の胸には、また不安だけが残った。

    高校に進学する頃、心と体の成長の食い違いは、いよいよはっきりとしてきた。私は別人のように内向的になり、自分を固く隠して過ごした。
    それでも、どこからか漏れたのだろう。「気持ち悪いおかまが来た」と嘲笑され、お弁当は、トイレの個室で一人きりで食べた。少し心を許して話せば、からかわれ、ひどいいじめに遭う。友達のいない、たった一人の高校生活だった。誰1人心を許せる人もなく、身体の成長と共に自分でも自分に嫌悪感が増えていった…

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    そんな毎日でも、大好きな絵を描いているときだけは、自分が今、確かにここにいると思えた。画用紙に向かうその数十分だけが、私をかろうじてこの世界につなぎとめていた。

    高校2年のある日、ずっと憧れていた同級生が、「一緒に帰ろう」と声をかけてくれた。初めてのことに、胸が高鳴った。「俺の家に遊びにおいでよ」――そう言われるまま、彼の家に行った。すると突然、彼が顔を近づけてきた。何が起きたのか分からず、私は混乱して、そのまま家へ逃げ帰ってしまった。

    翌日。いつもより早く登校した彼は、教室じゅうにこう言いふらしていた。「あいつはホモだ。言い寄られた。気持ち悪い」と。

    そこからは、地獄だった。私の机は教室から消え、黒板には悪口が書き殴られた。学校全体が、私を変態のように扱った。教師に相談しても、返ってきたのは「お前のほうにも問題がある」という言葉だけ。またしても、誰も助けてはくれなかった。

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    そして、最後の砦も崩された。「絵ばかり描いているからダメになるんだ」と、私の唯一の心の拠り所だった絵の道具まで、親に取り上げられ画塾もやめさせられたのだ。追い打ちのように、親戚の集まりで、父の姉が母に向かって、私に聞こえるように言い放った。「あなたは、こんな子を産んで……こうぶんの家の恥だわ」と。私のせいで、母までもが辱められている。その事実が、私の最後の力を、静かに奪っていった。

    そして、どうしても行きたくない修学旅行が、目の前に迫っていた。あの数日間に、もう一度耐えられる気が、どうしてもしなかった。逃げ場は、もうどこにもない。残っていたのは、底のない絶望だけ。
    そしてある夜、私は、最悪の決断をした…

    意識が戻ってまもなく、頭が割れるように痛んだ。ふらつく足で鏡の前に立った私は、見たことのない顔と向き合った。毛細血管がすべて切れ、紫色に膨れ上がった、自分のものとは思えない顔だった。死のうとしたはずなのに、気がつくと私は、両親の寝室に向かって、助けて、と声を上げていた。

    救急車で運ばれた最初の病院で、医師は首を横に振ったのだという。「もう、ダメです。諦めてください」と。それでも母は、ベッドの上の私を見つめて、譲らなかった。「この子は、まだ生きている」と。母のその一言に押されるように、私はもっと大きな病院へと移された。そして、なんとか私は一命を取りとめた。

    私がようやく意識を取り戻したのは、それから1ヶ月半が過ぎたあとのことだった。それでも、私は、生きていた。

    ぼんやりとした頭で、私は親にすがった。たった一つの、嘘のない願いを口にした。

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    「絵を描くことだけは、許して……絵だけは、取り上げんといて」

    自分という存在を、ほとんど全部諦めかけていた、その同じ口で、それでもどうしても手放せなかった、たった一つ。それが絵だった。命を捨てようとした人間が、最後の最後にしがみついたのが、一本の絵筆だった。

    退院してからの私は、高校にいる時間のほとんどを、図書室で過ごすようになった。そこで、たくさんのアートの本を読んだ。中でも、いわさきちひろさんの描く子どもたちに、私は心を奪われた。

    子どもの頃教科書の挿し絵で見慣れた絵だった…

    やわらかな水彩のにじみの中で、その子たちは、ただそこにいるだけで、まるごと肯定されていた。
    どんな子も1人のにんげん…

    誰にも肯定されなかった私が、いつか、ああいう絵を描きたい。その憧れが、凍りついた私の中で、小さな光のようにともり始めた。

    家賃1万8000円の部屋で
    18歳で、私は故郷を離れ、都会で一人暮らしを始めた。

    とにかく早く、あの家を出たかった。だから私は、「デザインを学ぶ」という口実で、美術の専門学校に入った。せっかく入ったのだからと、その1年で、できるだけたくさんの学科を受けるだけ受けた。そして1年経ったところで、私は中退した。人から教わるより、自分の手を動かして覚えていったほうが、よほど確かなものが残ると思ったからだ。

    新聞配達、ビルの清掃、皿洗い。アルバイトをいくつも掛け持ちしながら、私は街角に出て、公募展に挑戦しながら、ストリートアーティストになった。道ゆく人の似顔絵や、自分の作品を、一枚500円で売った。出版社に作品を持ち込んで、3000円ほどの挿絵の仕事ももらった。アパートに帰っては、明け方まで絵を描いた。お腹はいつも減っていたけれど、心は妙に静かだった。ここでは誰も、私に「男らしくしろ」とは言わない。

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    1人っきりの小さなアトリエが本当に幸せだった…
    貧しさのどん底で、私はようやく、自分の時間を取り戻し始めていた。

    どうしても描きたいモチーフがあった。「子ども」だ。かつての私のように、世界の理不尽の前で、どうすることもできず立ち尽くす、小さな存在。かつての自分…けれど大人になった私は、いつのまにか、子どもの本当の表情が描けなくなっていた。だから20歳から25歳までの5年間、私は学童保育の指導員になり、子どもの姿と心を学ぶために、子どもたちと、心ごと体ごと、本気でぶつかった。叱り、叱られ、泣かれ、泣かされ、育て、育てられ、その全部を私は作品に流し込んだ。

    そうして25歳のとき、私はとうとう、初めての個展を開いた。それが、画家としての私のデビューになった。会場に来ていたギャラリーのオーナーに声をかけられ、そこからは、寝る間も惜しんで絵を描く毎日が始まった。誰にも認められなかったあの子どもが、絵で食べていける、一人の画家になったのだ。ようやく全部、報われたように思えた。

    「自分は、何者だろう」

    画家として歩き始めた頃、私は初めて、心から安心できる友人たちに出会った。ゲイの友達だった。私を笑わない、否定しない初めての友達と過ごすうちに、私は「自分もゲイなのだ」と思うようになった。

    それまで知らなかった世界に、彼らは私を連れていってくれた。そんな日々の中で、私は一人の素敵なカナダ人男性と出会った。アンドレ。彼と付き合うようになった私の中には、けれど、自分でも説明のつかない違和感が、ずっと消えずに残っていた。

    決定的だったのは、ある日、アンドレが友人に私を紹介したときのことだった。「僕のボーイフレンドだよ」。そう言われた瞬間、私はどうしようもない違和感があった…
    私が紹介されたいのは、「彼女」としてだ。心の奥が、そう叫んでいた。

    その違和感をぽつりと打ち明けた夜、アンドレは、しばらく私を見つめたあとで、静かにこう言った。

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    「君は、ゲイなんじゃない。君は……トランスジェンダーなんだよ」

    その一言が、長いあいだこんがらがっていた糸を、するりとほどいた。そうか。私は、女性なんだ。生まれて初めて、自分という存在に、ぴったりの名前がついた気がした。アンドレは、私の恋人ではなくなった。けれど、それからもずっと、いちばんよく私を分かってくれる友人として、そばにいてくれた。

    私は、人の目を気にしながら、初めて化粧品を買った。レーザーで髭を消し、少しずつ、心が望む姿へと近づいていった。手を貸してくれる女友達もできた。鏡の中の自分に、ようやく「おかえり」と言えるようになっていった。

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    過去を消す、という間違い

    30歳のとき、私はテレビの1時間のドキュメンタリー番組で、カミングアウトした。「私は、女性として生きたい」と。

    それからの世間は、覚悟をはるかに超えていた。街を歩けば、冷ややかな視線が刺さる。「あれ、男?女?」という囁きが、すれ違いざまに聞こえた。容姿が女性に近づくにつれ、近所では「子どもに悪影響だ」と噂され、私はとうとう、住んでいたマンションを追われた。

    その一方で、私は奇妙なほど、もてはやされもした。ジュエリー会社とのコラボレーション。「元・男性の画家だなんて珍しい」と、まるでタレントのように扱われ、撮影と取材が続いた。「次は四国、その次は九州、全国を回りましょう」。気づけば私は、絵を描く時間さえ持てないまま、各地のイベントに連れ回されていた。

    排除されながら、同時に、物珍しい見世物のように消費される。その引き裂かれた日々の中で、私はだんだん分からなくなっていった。私は、いったい何者なのだろう。

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    日本のアートの世界そのものにも、深い疑問を感じ始めていた。そしてある日、私は決めた。もう、過去の自分なんて、全部捨ててしまおう、と。「こうぶんこうぞう」という名前も、男だった日々も、なかったことにする。女性として歩きはじめた私のそばには、新しく出会った年下の男性がいた。私はその人と結婚を約束し、誰も私を知らない土地で、まっさらな新生活を始めた。それこそが幸せになる、唯一の道だと信じて。

    けれど、どれだけ完璧に女性を演じても、心はいっこうに晴れなかった。過去の自分も、絵を描いてきた自分も、全部「なかったこと」にして生きる。でも日々情緒はみるみる不安定になり、彼との暮らしも、やがて壊れてしまった。

    なぜだろう。欲しかったものを、こんなにも手に入れたはずなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。考えて、考えて、ある夜、私はその答えにたどり着いた。背筋が凍るような、答えだった。

    私自身が、誰よりも、自分の過去を差別していた…

    子どもの頃の私を「恥ずかしい」と隠し、男だった私を「なかったこと」にし、傷ついてきた歴史のすべてを否定する。かつて世間が私にしてきたその仕打ちを、私は今度は、自分の手で、自分自身に向けてやっていた。誰よりも私を差別していたのは、他でもない、私だった。

    こうぶんこうぞうとして

    過去を消そうとするのを、やめた。ただそれだけで、私はようやく、まともに息ができるようになった。

    辛かった日々も、死のうとした夜も、白塗りで尖っていた中学生の私も、その全部を含めて、私は「こうぶんこうぞう」という、たった一人の人間なのだ。新たな旅立ちとして女性名も考えましたが、私は、いったんは捨てようとしたその名前を、あえてもう一度、名乗ることにした。隠すのではなく、引き受ける。それは敗北なんかではなく、私にとって生まれて初めて自分を抱きしめる…

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    止まっていた絵筆が、また動き出した。再出発を心に決めて、私は2年をかけて、まったく新しい画風で作品を描き溜めた。そして、その作品を抱えて、東京・銀座のギャラリーを、一軒、また一軒と訪ね歩いた。「すみません、ちょっと……」「ご期待には添えません」。断られても、断られても、もう怖くはなかった。もう二度と、自分で自分を消したりはしない。

    そして、ある一軒で、オーナーがこう言ってくれた。「ぜひ、個展をやりましょう」と。

    一度は手放しかけた絵の世界で、私はもう一度、今度は誰にも奪わせはしないと決めて、筆を取った。

    絵に生かされて

    私は、絵に救われてきた。描かなければ、生きていけなかった。あの日の病室で「絵だけは取り上げんといて」と泣いたとおりの、絵に生かされ、絵と共に歩んできた人生だった。

    私は今でも、絵の中に、ずっと子どもを描き続けている。子どもの頃の自分自身なのか、叶わなかった自分なのか、それとも、世界のどこかにいる等身大の子どもたちなのか、あるいは、昔子どもだった大人たちなのか…
    描きながら、自分でも、まだはっきりとは分からないでいる。

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    その子たちの髪は、たいてい、ばさばさと不揃いに描かれていたりする。
    散髪が嫌で、自分の手でめちゃくちゃに切ってしまった、あの日の私の髪のように。または着ぐるみを着て何かを覆い隠してある子どもも主要モチーフです。
    自分ではなく別の何かで本当の姿を隠さないと生きられなかったあの頃の自分なのかもしれません…
    父に捨てられたサンリオのシール、キラキラの付録、許してもらえなかった赤いランドセル。あの頃、私から取り上げられた「かわいい」のすべてを、私は今、絵の中に、自分の手で取り戻している。子どもを産めないこの体のことも、男だった日々の苦しみさえ、私は作品の餌にしてしまう。そうやって生まれた絵が、これから進むべき道を、静かに照らしてくれる。

    個展ごとに、私はそのときの自分にいちばん近い言葉を、ステートメントとして添えてきた。テーマも、タイトルも、個展ごとに変わる。けれど絵筆はいつも、あの幼い子どもの私のところへ、戻ってきてしまう。

    私のもとには、今も子どもたちから、切実な声が届く。「LGBTという言葉にすら当てはまらない、曖昧な私は、いったいどこへ行けばいいの」と。安易なラベルは、ときに新しい檻になる。だから私はいつも、こう答えることにしている。

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    「100人いたら、100通り。同じ人は、一人もいない。一人として同じ人はいないけど、みんな、同じ命なんです。だから、誰も、排除したらダメなんです。」

    そしていつか、生きづらさを抱えた子どもたちの駆け込み寺になるような、美術館を作りたい。それが、あの夜をなんとか生き延びた私が思い描く夢だ。

    5歳のあの朝、約束のぬいぐるみをいつまでも待っていた、小さな子どもの頃を、私は今でも、ときどき思い出す。けれど、もう泣かない。あの子が、こうして大人になり、絵筆を握って、今日も生きていることを誰よりも、あの子自身に、伝えてあげたいから。

    あなたのそばにも、きっといる。「ちょっと違う」と言われて、自分で自分を消そうとしている、誰かが。

    分かってくれる大人が、たった一人いればいい。

    あの日、油の匂いのする準備室で、森本先生が、私にそうしてくれたように…

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
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