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カズオ・むシグロ「遠い山なみの光」‐しなやかなおんなたち

    敬愛する䜜家、カズオ・むシグロの䜜品はどれも秀逞で、なにかあるず読み返したくなる。王立文孊協䌚賞やブッカヌ賞、ノヌベル文孊賞など数々の文孊賞を受賞した䜜家だからずいうわけではない。䞀枚ず぀薄絹をはがすように、過去ず珟圚が亀差するむシグロ䜜品の人間暡様は、䜕床読み返しおも新しい発芋があり、そのたびに違う情景が浮かぶ。わけおも本曞「遠い山なみの光」は、いたや自分事のように感じられるようになった䜜品である。

    時代のゆらぎに生きるおんなたち。静かな感情は映像のように、読者の心に溶け蟌んでいく

    カズオ・むシグロの長線デビュヌのこの䜜品は、読むたびに以前には芋えなかった感情が静かに浮かびあがり、たるで自分自身の蚘憶をたどるような感芚に包たれる。これはおそらく芋る角床によっお異なる感じ方が珟われるからだ。それがいかにも心地よく、぀いたた手に取っお読みたくなっおしたう。そのうちに自分ずの距離が短くなり、「わたし」ずいう䞭に溶け蟌んでしたう。わたしにずっおこの「遠い山䞊みの光」は、そういう特別な䜜品である。

    この䞍思議な効果は、奇しくも「遠い山䞊みの光」の映画化を担圓したプロデュヌサヌの石黒裕之氏にしお、「だたし絵」のような挔出効果が幜玄的な䞖界を映しおいる、映画化のプロデュヌサヌ、石黒裕之氏が語ったのず同じ印象を感じる。えっ、たさか 。たるで読み手の受けるむンパクトを蚈算しお曞かれおるなんおこずはありえないが、そう思っおしたうのも、自然ではないだろうか。

    この䜜品の魅力は、物語を通しお、戊埌ずいう時代の断絶ず、そのなかを生き抜いた人びずの姿を、きわめお静かな筆臎で描き出しおいる点にある。

    舞台は、原爆の傷跡がなお残る戊埌埩興期の長厎である。埩興の象城ずしお新しいアパヌトが建ち䞊び、人びずは新しい暮らしを築こうずしおいる。しかしその䞀方で、叀き日本の䟡倀芳がなお深く点圚し、新しい時代感芚ずのあいだで軋みが生たれおいる。䞻人公・悊子を取り巻く、倫の二郎ず、その父・緒方さんずの関係には、戊前ず戊埌の䟡倀芳の断絶が静かに衚れおいる。そのやりずりは、たるで小接安二郎監督の映画の䞀堎面のように抑制され、淡々ずしおいながら、時代のゆらぎを濃密に映し出しおいる。
    むシグロ䜜品は、映画のように映像を映し、心に深く溶け蟌んでいく。その感芚に浞りたくお、぀い぀い読み返しおしたうのだろう。

    悊子ず䜐知子の噛み合わない䌚話、遠いある日 

    長厎の悊子が出䌚うのは、嚘の䞇里子を育おながら、自立しようずもがく䜐知子である。貧しい暮らしのなかでも、䜐知子はアメリカぞ枡る倢を語り、嚘を連れお新しい人生ぞ向かおうずしおいる。しかし䞇里子は䞍安を抱え、母嚘のあいだにはどこか痛たしい緊匵が流れおいる。

    読者は䟋倖なくむシグロが描く「おんなたち」の姿に惹かれるに違いない。悊子も䜐知子も時代に翻匄されながら、たっすぐ前を向いおいる、皲䜐で出䌚ったアメリカ人倫人、さらに䜐知子の愛人、フランクの存圚が、戊埌の長厎に入り蟌んできた異囜の空気を珟わしおいる。むシグロ文孊のみごずなずころは、叀い日本が急速に姿を倉えおいくなかで、おんなたちが新しい生き方を探しはじめるこずを無蚀で語っおいるずころなのだ。
    この普遍的な情景の行く先は、䞖界の最先端の郜垂でも、たた過疎化した小さな地域でも、読んだおんなたちは自分ず察比するこずができるのである。

    この物語の本圓の痛みは、むギリスぞ枡った埌に珟われる。悊子はむギリス人ず再婚し、次女ニキをもうける。しかし、この頃、長女・景子はひきこもるようになり、孀独のなかで呜を絶っおしたう。景子の死によっお、悊子のなかで封じ蟌めおいた蚘憶が揺れはじめる。か぀お長厎で、どこか危うく理解できない存圚に芋えおいた䜐知子。その心情を、悊子はようやく理解する。読者は長厎時代のふたりの䌚話を蚝しく感じるが、そのもやもやがやっずここであらわになる。むシグロ䜜品に無駄はない。すべおの登堎人物、颚景、䌚話に映像的な挔出効果があり、その䌏線がここで効果をあらわしはじめる。

    䞇里子ず景子は重なり、䜐知子ず悊子もたた重なっおいく。むシグロはそれを盎接説明しない。ただ、静かな䌚話や噛み合わない沈黙のなかに、読者が気づくべき痛みをひそたせおいる。

    むギリスで生たれ、育った次女のニキは、珟代を生きる女性ずしお描かれおいる。母に率盎に意芋を述べ、自分の人生を自分で遞がうずする。その姿は、戊埌長厎を生きた悊子たちの時代ずはたるで異なる。しかしニキずの察話を通しお、悊子もたた過去を敎理し、少しず぀前を向こうずしおいるように芋える。

    物語の䞭心にいるのは悊子ず䜐知子である。むギリスで暮らし、嚘・景子を倱った悊子は、か぀お長厎で出䌚った䜐知子の遞択にようやく共感できるようになる。若き日の悊子が肯定した「珟圚」は、やがお䜐知子が䞍安のなかで遞び取ろうずした「未来」ぞず重なっおいく。

    むシグロ䜜品には薄明の光が挂う。長厎の蚘憶も、景子の運呜も、むギリスの曇倩も、すべおは淡い光のなかにある。䞖界は䞍条理で、人は完党にはわかりあえない。それでも人は生きおいかなければならない。

    むシグロが描くおんなたちは、傷぀きながらも自己に目芚め、自らの人生を歩み始める。その静かな匷さは、時代を超えお読む者の心に届く。わたしがこの䜜品を䜕床も読み返したくなるのは、珟代を生きるわたしたちにも通じる、生の困難ず喜びが描かれおいるからである。巧みに織り蟌たれた気配は、読むたびに自分自身の蚘憶のように感じさせるのである。


    二十䞖玀文革の系譜に連なる、むシグロ文孊ず 池柀倏暹氏

    「遠い山なみの光」の解説を曞いた池柀倏暹氏は、むシグロに぀いお、ゞョむス、カフカ、カルノィヌノ、ボルヘスに぀づく二十䞖玀文孊の系譜に連なる䜜家であるず曞いおいる。

    蚳者の小野寺健氏は、圓初『女たちの遠い倏』ずしお刊行したこの䜜品を、埌幎、原䜜者の意図をより汲み取る圢で『遠い山なみの光』ず改題した。その題名には、蚘憶の底に沈みながらも消えるこずなく残り続ける颚景を芋぀めるような、むシグロ文孊特有の薄明の䞖界が蟌められおいるように思う。

    解説で池柀倏暹氏は、この䜜品に描かれおいるのは日本的な心性ではなく、「われわれの心は狭い日本からようやく解攟されたのである」ず述べおいる。長厎を舞台にし、日本人ばかりが登堎するにもかかわらず、この小説が読者を導く先は、囜籍や文化の境界を超えた、人間の蚘憶ず喪倱の領域なのであろう。

    䜕床も読み返すたびに、この邊題がいっそう深く胞に響く。遠い山なみは、長厎の颚景であるず同時に、誰の心の奥にも暪たわる過去の颚景なのかもしれない。その淡い光は、忘れたはずの蚘憶を静かに照らし出し、わたしを再び物語のなかぞず誘う。そしお読み終えたあずもなお、その光は遠い山なみの向こうから差し続けおいるのである。

    薄い絹を䞀枚ず぀はがしお、姿を淡く芋せる挔出は、胜舞台に繰り広げる刹那、䞍条理の䞖界にも䌌た幜玄に通じる。むシグロ氏のこうした日本独特の感性がこの䜜品のあずに぀づく「日の名残り」やその以降の䜜品にも、英囜仕様の幜玄的䞖界芳を描いおおられるこずに、䞍思議なリアクションを感じおいる。英文孊でありながら、内圚しおいる「日本的矎意識」を客芳的に理解し、なごやかな䞭に自分を眮くこずができるからである。
    この䜜品を䞖に出しおくださった、むシグロ氏に返すこずのできない莈り物をいただいたず実感しおいる。

    「遠い山䞊みの光」の映画化に぀いお

    日英合䜜映画「遠い山䞊みの光」は、第78回カンヌ囜際映画祭の「ある芖点」郚門に正匏出品され、2025幎5月15日にワヌルドプレミアが行われた
    出展Wikipedia

    映画化におけるむシグロ氏の思い

    日英合䜜映画「遠い山䞊みの光」は、もう䞀䜜のむシグロ䜜品である。映画化にむけおむシグロ氏は、「物語そのものは、第二次䞖界倧戊の惚犍ず原爆投䞋埌の、急激に倉化しおいく日本に生きた人々の、憧れ、垌望、そしお恐怖を描いおいたす。今もなお私たちに圱を萜ずし続けおいる、あの忌たわしい出来事の終結から80幎を迎えるこの時期に、この映画が公開されるこずは、なんず盞応しいこずでしょう」ず語っおおられる。

    映画プロデュヌサヌ、石黒氏映画『遠い山なみの光』は、芳る人によっお解釈が倉わる「だたし絵」のような深遠な魅力を持ちながら、戊争の傷を「物語」の力で乗り越えようずする、普遍的な垌望を描いおいる。この挑戊的なプロゞェクトが切り拓いた道は、日本映画の未来にずっお倧きな光ずなるはずだ。たずは劇堎で、その確かな茝きを目撃しおほしい。

    なぜ日本映画に囜際共同補䜜が必芁なのか『遠い山なみの光』プロデュヌサヌが明かす、そのリアルず可胜性。そしお石川慶の「䞍穏」な才胜【むベントレポヌト】 | Brancブラン-Brand New Creativity- トヌクむベント「『遠い山なみの光』プロデュヌサヌ登壇日本映画に囜際共同補䜜が必芁な理由ずその実態 Dialogue fo branc.jp


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    「遠い山䞊みの光」衚玙
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    「遠い山䞊みの光」扉
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    「遠い山䞊みの光」䞭扉
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    「遠い山䞊みの光」奥付
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    「遠い山䞊みの光」奥付
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    「遠い山䞊みの光」
    カズオ・むシグロの略歎


     
     

    kyotoK

     
     
    京郜生たれ。バむリンガルクリ゚ヌタヌ。海倖掻動で人ずの関わり、その化孊反応のおもしろさを発芋。自らのレヌゟン‐デヌトル《存圚理由》ずなった。長く離れた京郜に戻ったわたしは「京郜の異邊人」。これからわたしの京郜発芋の旅がはじたる。

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