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多様性を受け入れられないのは、その人自身が「マイノリティを社会から押し出す側」だったから、かもしれない

    道成寺スピカ

     多様性の時代である。マイノリティにだって人権はある。そんな当たり前のことがやっと認められてきた。良い時代になったと思う。
     私自身、いわゆるマイノリティに属するのかと問われれば、そうでもない、と思っていた。正直なところ、マイノリティと呼ばれる人たちの苦しみを、対岸の火事のように感じていたのも事実だ。

     と、思っていた。

     知人が「多様性の社会になってから、社会が窮屈になった」という意図の話をしていた。知人はこう続けた「昔は良かった。今は様々な人に配慮しなくてはならなくなったから、何をやるにも今まで通りにはいかなくなった」。

     私は知人に対し、もう少しでこう言い返してしまうところだった。
    「は?」

     大人な私はその場を適当にやり過ごし、しばらくそのことについて一人考えていた。その結果、「多様性が重んじられるようになったのは、それが社会にとって必要だったからだ」という当たり前のことに知人が気づけないのは、知人がマイノリティの要素を一切持っていないからだ、ということに気が付いた。
     逆を返せば、私はマイノリティの要素を持ち合わせていたのだ。

     確かに思い当たる節がある。左利き、未婚子なし、異常な運動音痴。「自分は少数派なのだ」と感じる場面は今まで何度もあったし、そのことで不便な思いや不快な経験をしたことだって何度もある。大きく捉えれば、自分だって「マイノリティ側」であるとも言えるのだ。

     一方、知人はマイノリティの要素を一切持っていないように私には見えた。むしろ、マジョリティの線路から脱線しないよう、意識的に人生を進めているようでもある。
     それならば仕方がない、と私は思った。自分が経験したことがない立場を理解することは難しい。正直それでも、「理解しようと努力する」ことくらいはできそうな気がするけれど、そもそも多様性が叫ばれる以前の社会を「良かった」と感じるようでは、その努力をする気にもならないに違いない。

     恐ろしい、と思う。「無知は無罪だ」と考える人もいるかもしれないが、この場合、私はそうは思わない。マジョリティに属する人たちは、無知であるがゆえにマイノリティの人たちを軽視したり傷つけたりしてきたのだ。大げさに言えば、彼らが「数の暴力」で制してきたのが、今までの社会だったのだ。

     多様性の時代になって、世の中はやっとフェアになってきた。純粋に良かったと思う。

     マイノリティの人たちが今までどんな苦しみを受けたのか、多様性が尊重される今でも消えないつらさはどんなものなのか、私にはわからない。けれども私にはそれを想像することができる。私は骨折をしたことがないけれど、転んで擦りむいたことがある。だから、骨折したらすごく痛いんだろうなと思う。きっと、擦り傷の何百倍も痛いのだろう、と。

     マジョリティが生きやすい社会は、マイノリティには生きにくい社会だ。今までの社会のほうがよかったと感じる人は、自分たちが感じてきた「生きやすさ」がマイノリティを押し潰し続けることで成立していたことに、気づいていないのだろう。

     良い世の中になったと思う。「みんなが生きやすい世の中」の実現まではまだまだ道のりは遠いけれど、それでもこの一歩は大きい。

     私は、マジョリティの線路を時折脱線しながらここまで進んできた。良かった、と今は思う。私はマイノリティの気持ちを想像することができる。だから、多様性の世の中がどれだけ大切か、理解することができた。

     本当に苦しんでいる人たちには、たかが擦り傷で分かったふりをするなとお𠮟りを受けるかもしれない。けれども、その痛みを分かろうとする努力だけは、認めてほしいと思う。

     これからの世の中が、みんなにとって生きやすいものになりますように。

     
     
     
    子なし行き遅れ、将来を嘱望されないタイプの万年平社員。みんなが羨むようなものは何ひとつ持ってはいないけれど、なぜか毎日ご機嫌に暮らしています。丁寧な暮らしとはほど遠い、雑な毎日。だけど本人が幸せならば、それでいいじゃない。みんな私みたいにテキトーに生きればいいのに。

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