
【近未来サスペンス】人間蒸留|#6 俺じゃない、でも俺
※note創作大賞2026「お仕事小説部門」応募作品『人間蒸留』第6回です。
【前回まで】
凛は記者・望月透子と接触し、HKS認証企業で同じような“静かな消失”が起きていることを知る。湊は望月の資料から、残されているのは本人の嫌がった跡ではなく、会社にとって使える判断だけだと見抜く。
※HKS=ヒューマン・ナレッジ・シェア制度。人の知見や判断を、組織の資産として保全する国の認証制度。
▼『人間蒸留』は連載形式です。
初めての方はこちらから。
――――――
#6 俺じゃない、でも俺
会社の資料の中で、樹はもう名前ではなかった。
安藤さん。
保全対象ID。
判断資産。
静かな消失の一例。
そのどれでもない言葉で、遥は連絡してきた。
少し見てもらいたいものがあります。
樹のものです。
凛はすぐに返信できなかった。
樹のもの。
その短い言葉だけで、喉の奥が詰まる。
会社には戻っていなかった。
戻れなかった、と言ったほうが近い。
六本木のオフィスに戻れば、自分はまた企画推進部の藤崎凛になる。
会議に出て、比較画面を開き、生成された提案に優先順位をつける。
凛の仕事は、見つけることではない。
整えることだった。
反論の順番を先に読み、決裁者が迷う場所をふさぐ。
それが凛の仕事であり、評価されてきた理由だった。
けれど今は、その整え方そのものが、どこかで待ち構えられている気がした。
望月の資料には、何度も同じ種類の言葉が出てきた。
高価値知見。
保全対象。
復帰支援。
療養措置。
接触制限。
家族説明範囲。
どれもひとつずつは、ひどい言葉ではない。
むしろ、正しそうに見える。
本人を守るため。家族を混乱させないため。企業の業務を止めないため。国の認証基準に沿うため。
理由は、いくつもあった。
ありすぎるほどあった。
その中で、本人だけがだんだん遠くなる。
凛は短く返信した。
行きます。
遥と会ったのは、会社でも、Cave Minuit(カーヴ・ミニュイ)でもなかった。
麻布十番の駅から少し離れた、通り沿いの小さな喫茶店だった。古い店ではないが、妙に静かだった。店内には観葉植物がいくつか置かれ、壁の時計だけが小さく音を立てていた。
遥は奥の席に座っていた。
黒でも紺でもない、色の名を言いにくいコート。前に会社へ来た時と同じように、姿勢は崩れていない。だが、指先は膝の上で強く組まれていた。
凛が向かいに座ると、遥は挨拶もそこそこに、薄い封筒を差し出した。
「家で見つけました」
「どこに」
「樹の机です。ちゃんとしたノートじゃありません。メモというか、紙切れです」
封筒の中には、数枚の紙が入っていた。
A5の資料コピーの裏。展示案内のDMの余白。社内資料を折ったような紙の端。そこに、黒いペンで短い言葉が散っていた。
凛は最初、それを企画メモだと思った。
樹はよく、正式な資料になる前に言葉を切れ端で残すヤツだった。
地名、誰かの発言、違和感のあった数字、現地で見たもの、会議ではまだ言えない引っかかり。そういうものを一度散らかしてから、あとで拾い直す。
樹の企画は、いつもその遠回りから始まっていた。
だが、その紙には、企画だけではないものが混ざっていた。
俺じゃない
でも俺
凛は、指を止めた。
別の紙には、こうあった。
作成者は誰
森脇?
HKS?
AI?
証拠はない
森脇。
あの企画案の名義になっていた若手担当者の名前だった。
さらに別の紙。
盗用?
企画書はまだ
凛は、息をするのを忘れていた。
盗用。
その言葉を使おうとして、樹は途中で止まっている。
盗まれたと言うには、盗まれた完成物がない。
企画書もない。送信履歴もない。提出したファイルもない。
あるのは、樹が立ち止まった場所。
樹が気づいた角度。
樹がまだ誰にも渡していないはずの、頭の中にあったアイデアの断片。
遥は何も言わなかった。
凛が読み進めるのを、ただ待っている。
俺の案ではない
でも、俺が考える前の形
先に出た
俺より先に
メモ書きはところどころ乱れていた。
けれど、乱れ方にまだ樹がいた。文字が少し右へ流れるところ。考えが追いつかなくなった時に、言葉だけ先へ飛び出している感じ。
凛は別の紙を手に取った。
遥に話した
その後
どこに残った
ログ?
音声?
検索?
そこで、遥が小さく息を吸った。
「それを見つけた時、私、しばらく動けませんでした」
凛は顔を上げた。
遥はテーブルの上の紙を見ていた。
その目は濡れてはいなかった。だが、泣くよりもずっと奥で何かが削れているように見えた。
「たぶん、私のせいです」
「何があったんですか」
遥はすぐには答えなかった。
指先でカップの持ち手に触れ、また離した。
「樹がいなくなる少し前です」
遥は言った。
「会社の文化事業室で、新しい都市体験の展示案を見ていました。街の履歴をARで重ねて見せる、みたいな企画です。まだ試作段階で、いくつかの街区を選べるようになっていて」
凛は黙って聞いた。
「その中に、仙台坂の案がありました」
凛の背中が、少し冷えた。
「社内提案だったんですか」
「たぶん。文化事業室に共有されたものなので、誰が作ったかまではわかりません。でも、画面に出てきた言葉が」
遥はそこで一度、口を閉じた。
画面では、仙台坂の上に古い地図が重なっていた。
ナレーションが流れた。
このあたりには、かつて大名屋敷が並び、坂の名や橋の名に、その記憶が残っています。
井戸の水脈、古い道の角度、消えた境界線。
街は塗り替えられても、土地はすぐには忘れません。
遥は、その一文で顔を上げた。
土地はすぐには忘れません。
樹が言ったことではない。けれど、樹が言いそうだった。
樹はよく、街を人みたいに言った。
覚えている、忘れている、黙っている、隠している。
そういう言い方をする人だった。
「私は、悪気なく言いました。これ、樹が言いそう、って」
凛は、何も言えなかった。
遥は続けた。
「その時、樹は笑いませんでした。いつもなら、そうかな、とか、いや違う、とか、何か言うのに。画面を見たまま、黙っていました」
遥は目を伏せた。
「あとで思ったんです。言いそう、ではなかったんだって」
凛は、紙に残された言葉を見た。
遥に話した
その後
どこに残った
遥はゆっくり言った。
「樹にとっては、言いたかった、だったんだと思います」
その一言で、凛の中に仙台坂の夜が戻ってきた。
五差路。
古地図。
伊達家。
南部家。
橋の名前。
床下の井戸。
白い店内。
樹が、まだ形にならない発想を遥へ渡していた夜。
あれは企画ではなかった。
少なくとも、まだ会社のものではなかった。
樹が最初に遥へ渡した、未完成の見え方だった。
その見え方が、本人より先に画面へ出た。
「そのあと、樹は何か言いましたか」
凛が聞くと、遥は小さくうなずいた。
「その場では、何も。でも家に帰ってから、少しだけ」
遥は記憶を探すように、カップのふちを見た。
「俺が言う前に、俺が言いそうなことが出るなら、俺は何を言えばいいんだろうな、って」
凛は目を閉じたくなった。
だが閉じなかった。
閉じたら、その言葉が自分の中に深く入りすぎる気がした。
遥は封筒から、もう一枚の紙を出した。
「これが最後に見つけた紙です」
そこには、短く書かれていた。
俺じゃなくてもいい
が増える
その紙だけ、折り目が深かった。
何度も折って、開いて、また折ったような跡がある。
凛はその紙をしばらく見つめた。
樹が失ったのは、仕事だけではなかった。
企画だけでもない。
発想でも、言葉でも、判断でもない。
自分でなければならない理由だった。
凛は、あの会議のことを思い出した。
樹がいなくなる一週間ほど前だった。
企画推進部の会議室で、新しい街区提案の比較案が投影されていた。
画面に、仙台坂とは別の土地の企画文が出た。
古い道の角度を、現在の歩行者動線に重ねる。
消えた町名を、施設名ではなく体験導線に残す。
いつもなら、樹が真っ先に食いつく種類の案だった。
だがその日、樹は黙っていた。
凛が横から小さく聞いた。
「どうした」
樹は画面を見たまま言った。
「これ、俺が書いたんだっけ」
「違うだろ」
「だよな」
樹は笑おうとした。
だが、口元だけが少し動いて、すぐに戻った。
「最近さ、俺が言う前に、俺が言いそうなことが出るんだよ」
凛はその時も、疲れているのだと思った。
HKSで残されるものが細かくなってから、みんな少しずつ疲れていた。
何を開いたか。どこで戻ったか。どの案の前で黙ったか。
思いつく前の揺れまで、仕事の記録になっていく。
だから、ちゃんと聞かなかった。
その会議の議事録には、樹の発言は一行も残っていなかった。
ただ、樹が三十七秒間黙っていたことだけは、閲覧ログに残っていた。
その日の午後、凛は黒瀬真紀に面談を申し込んだ。
返事は早かった。
HKS統括室にて。
十七時にお待ちしています。
透明な会議室は、前に来た時と変わっていなかった。
紙は少なく、端末は薄く、机の上は整っている。黒瀬は、同じように静かな顔で凛を迎えた。
「安藤さんの件ですね」
黒瀬は、最初からそう言った。
凛は座る前に、少しだけ息を整えた。
「樹は今、どこにいるんですか」
黒瀬は、表情を変えなかった。
「安藤さんは現在、HKS適応支援プログラムの対象になっています」
初めて聞く言葉だった。
「会社の療養施設ではないんですか」
「当社単独の施設ではありません。国の認証制度に基づく指定支援機関です。運用は民間ですが、基準は国が定めています」
「国」
凛はその言葉を繰り返した。
黒瀬は端末を操作し、必要な範囲だけを画面に表示した。
そこには、いくつもの制度名と文言が並んでいた。
HKS適応支援プログラム。
指定支援機関。
高価値知見保全対象者。
復帰可能性の保持。
情報刺激の制限。
業務関連接触の一時停止。
凛は、ひとつずつ目で追った。
言葉はどれも整っていた。
整っているのに、触れると指先が冷たくなる。
「HKSは、もともと一つの省庁だけで扱える制度ではありません」
黒瀬は淡々と言った。
「労働、医療、産業競争力、AI基盤、個人情報。複数の領域が関わります。安藤さんのように、急激な知見分離により心理的負荷が生じたケースについては、本人保護と復帰支援の観点から、指定支援機関での支援が行われます」
「急激な知見分離」
凛は、その言葉だけを聞き返した。
黒瀬は一拍置いた。
「安藤さんの判断資産は、社内で高く評価されていました」
「評価?」
「地形、旧地名、過去の土地利用、地域記憶。通常は別々の資料に散らばっている情報を、企画価値へ変換する判断です。安藤さんは、その変換精度が高かった」
黒瀬は、淡々と言った。
「言い換えれば、土地の履歴を商品価値に変える人でした」
凛は反論できなかった。
その判断は、会議の初期段階では遠回りに見える。
けれど、最終的には企画の差別化になり、販売価格の根拠になり、街区のブランドストーリーになる。
樹の遠回りは、会社にとっては利益に変えられる知見だった。
「本人の判断資産が業務上高い価値を持つ場合、その活用範囲と本人の心理的安定のあいだに、調整が必要になることがあります」
「人から何かを剥がしたことを、そう呼ぶんですか」
自分でも、思ったより鋭い声が出た。
黒瀬は怒らなかった。
「藤崎さんのお気持ちは理解します」
「理解できるんですか」
「制度運用上、類似の反応は想定されています」
凛は言葉を失った。
怒りも、違和感も、痛みも、もう想定済み。
すでに項目のどこかに分類されている。
そのことが、ひどく疲れる。
黒瀬は続けた。
「安藤さんの判断資産は、現在も安定して保全されています」
「本人は」
「指定支援機関の判断により、外部からの業務関連接触は制限されています」
「遥さんは、樹の妻です」
「ご家族への連絡は、段階的に行われています」
「会えないんですか」
「現時点では、本人保護の観点から制限されています」
本人保護。
家族説明範囲。
情報刺激の制限。
どの言葉も、反論しにくい。
本人を守ると言われれば、外からは何も言えない。
家族への説明にも制限があると言われれば、そこで扉は閉じる。
医療情報と言われれば、会社員の凛には踏み込めない。
「樹は、自分の意思でそこにいるんですか」
黒瀬はすぐには答えなかった。
「安藤さんの意思を尊重した措置です」
「意思を確認できる環境を作ったのは、誰ですか」
凛は、言ってから、それが自分の言葉ではない気がした。
望月の声が混ざっている。
黒瀬も、それに気づいたように見えた。
「望月透子さんと接触されましたか」
凛は答えなかった。
黒瀬は責めなかった。
ただ、ひとつ確認した、という顔だった。
「藤崎さん。HKS適応支援プログラムは、対象者の安全と復帰可能性を守るための制度です」
「復帰可能性」
「はい」
「樹本人に会えないのに、復帰可能性だけが残るんですか」
黒瀬は、少しだけ目を伏せた。
「復帰には、時間が必要です」
凛はそこで、初めて黒瀬の声の奥に、ごく薄い摩耗のようなものを聞いた。
ほんの一瞬だった。すぐにいつもの静かな顔に戻った。
黒瀬は悪人ではない。
そのことが、また凛を追い詰めた。
面談室を出ると、廊下のガラスに自分の顔が映った。
凛は、そこでようやく理解した。
樹は消えたのではなかった。
会社の外へ出されたまま
会社の中で使われ続けていた。
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note創作大賞2026「お仕事小説部門」応募作品です。
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