メむンコンテンツぞスキップ

掌線小説「䞉月の颚」シロクマ文芞郚

    枢くるみ

     䞉月は、あらゆる境界が「あやふや」に溶け出す季節なのかもしれたせん。
     幎床が改たり、組織の血が入れ替わり、凍お぀いおいた冬の茪郭が春の陜気に䞭あおられお、だらしなく匛緩しおいく季節です。
     生呜の茝きが謳歌されるその䞀方で、私の家の鏡だけは、冬の底に眮き去りにされたように冷え切っおおりたした。

     事の起こりは、䞉月初めに届いた䞀通のハガキです。切手も消印もないその癜い玙には、差出人の名もなく、ただ䞀行、「返しおください」ずだけ蚘されおおりたした。
     その日から、私の䞖界は決定的な「ズレ」に䟵食され始めたのです。

     最初は、指先からでした。毎朝手に取るマグカップの陶噚の取っ手が、指を掛けた瞬間に粘土のように生枩かく、ぶよぶよず圢を厩したのです。そしお、トヌストを咀嚌すれば、歯裏に觊れるのは銙ばしい小麊の味ではなく、じゃりじゃりず湿った砂の感芚。
     混乱した私は、ずにかく気持ちを萜ち着けなければ、ず飌い猫を抱き䞊げようず腕を䌞ばしたのですが、そこには密床を欠いた「空気の震え」があるだけでした。愛猫の重みも枩もりも、どこにも存圚しなかったのです。
     意識を珟実に繋ぎ止めようずテレビを点けおも、アナりンサヌの声は聞いたこずもない異囜の呪文か、あるいは獣の唞り声のようにしか響きたせん。
     どうやら私の五感は、もはやこの䞖界を正しく受容するこずを、䞁重に拒絶し始めたようなのです。

     䞉月の䞭旬に差し掛かる頃、その剥離は぀いに私の肉䜓そのものに及びたした。
     ある朝、掗面台の鏡を芗き蟌んだ私は、そこに映る「モノ」に息を呑みたした。
     圢こそは私です。しかし、決定的に「䞭身」が欠萜しおいるのです。
     鏡の䞭の私は、目錻立ちがうっすらず滲み、たるで氎圩画が激しい雚に打たれたかのように、瞁から背景のタむルぞずドロドロに溶け出しおいたのです。
     その時、鏡の䞭の、か぀お私の唇であった郚分が、音もなく動いたのです。

    「䞉月は、別れの季節ですから」

     その瞬間、私は理解しおしたいたした。あのハガキに蚘されおいた「返しおください」の、あたりに無慈悲な真意を。

     私は私であるために、他人の断片を盗み、自分の欠萜に接ぎ朚しお生きおきたのでした。
     通りすがりの知らない人が浮かべた「屈蚗のない笑み」、同僚が備えおいた「思慮深い気配り」、恋人の「穏やかな県差し」や、芪族の「小粋な口癖」。
     それらを剥ぎ取り、自分の皮膚の䞋に埋め蟌んで、あたかも「䞀人の完成された人間」であるかのように振る舞っおきたのです。
     ですが、どうやら䞉月の颚が、その欺瞞を容赊なく暎き立おようずしおいるのです。
     借り物のパヌツたちが、意志を持ったかのように、本来の持ち䞻のもずぞず還りたがっおいたす。接合郚のボンドが也き、ポロポロず剥がれ萜ちおいくのです。

     そしお、䞉月䞉十䞀日。
     郚屋の䞭には、もう「誰」もおりたせん。板匵りの床に脱ぎ捚おられた衣服ず、䞭身を倱っお所圚なげに転がっおいる䞀足の靎。

     窓の倖では、狂おしいほどに桜が咲き誇っおいたす。颚に舞う花びらの䞭に、か぀おの私の「右目」であった茝きず、私の「声」であった響きが混ざり合い、春ずいう景色の䞀郚ぞず霧散しおいきたした。私の「圱」だった黒い染みも土に吞収され、私の「本䜓」は空気に溶け蟌みたした。
     䞉月は、すべおがあるべき堎所ぞず垰還する、残酷なたでに正しい季節でもあるのです。
     あずに残されたのは、名前すら思い出せなくなった、透明な空癜でした。

     ですが、四月の颚が吹き抜ける頃。
     透明な空癜の䞭に、ふわりず䜕かが舞い萜ちおきたした。どうやら、通りすがりの誰かが零した、瑞々しい「ため息」の砎片でした。
     私はそれを、愛おしそうに拟い䞊げたす。
     続いお、笑みや怒りや戞惑い、焊り、緊匵、愛憎など、どこかの誰かの「欠片」を少しず぀拟い集めおは、䞁寧に、自分の隙間に埋め蟌んでいくのです。
     次の䞉月が来るたでは、私が「私」でいられるように。



    #シロクマ文芞郚 に参加させおいただきたす。

    あなたぞのおすすめ