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「名前のない居場所」最終章

    エピローグ 途中の人

    あの日から半年が過ぎた。

    季節は一つ巡り、街の景色も少し変わった。

    会社の窓から見える並木は緑を深めている。

    小倉は相変わらず会社に通っていた。

    特に大きな変化はない。

    役職も変わらない。

    給料も変わらない。

    会議もある。

    報告書もある。

    面倒な案件もある。

    昔なら、それを退屈だと思ったかもしれない。

    だが最近は少し違った。

    以前ほど焦らなくなった。

    誰かと比べることも減った。

    もちろん、まったくなくなったわけではない。

    同世代の活躍を見ることもある。

    出世した後輩の話を聞くこともある。

    羨ましく思う日もある。

    不安になる日もある。

    人間だから仕方がない。

    ただ、そのたびに思い出す言葉がある。

    ――お前はアホやなあ。

    思い出すたびに笑ってしまう。

    会社の廊下で。

    出張帰りの新幹線で。

    コンビニのレジに並んでいる時でさえ。

    なぜだろう。

    昔はあんなに悔しかった言葉なのに。

    今は少し違う。

    あれは叱責ではなかった。

    慰めでもなかった。

    ましてや励ましでもない。

    もっと不思議なものだった。

    部長は、あの日も答えをくれなかった。

    結局何一つ教えてくれなかった。

    人生の正解も。

    働き方も。

    生き方も。

    何も。

    ただ笑っただけだった。

    お前はアホやなあ、と。

    それだけだった。

    だが不思議なことに、その一言で肩の力が抜けた。

    今になって思う。

    部長はずっと同じことをしていたのだ。

    新人営業だった頃も。

    管理職になってからも。

    会社を辞めてからも。

    答えを教えるのではなく、その人が自分で持っている答えを見つけるのを待っていた。

    少し離れたところから。

    辛抱強く。

    気長に。

    小倉は窓の外を見る。

    街には人が歩いている。

    急いでいる人。

    立ち止まっている人。

    迷っている人。

    みんな途中なのだと思う。

    昔の小倉は、どこかへ到着しなければならないと思っていた。

    課長になれば。

    部長になれば。

    責任者になれば。

    成功すれば。

    何者かになれば。

    そこにゴールがあると思っていた。

    だが部長は違った。

    あの人はたぶん、途中を面白がっていた。

    結果よりも。

    肩書よりも。

    途中で出会う人や景色を。

    だから街を歩いていたのだろう。

    あてもなく。

    寄り道ばかりしながら。

    小倉はふと思う。

    今頃、部長は何をしているのだろう。

    相変わらず商店街を歩いているのかもしれない。

    閉店した店の前で立ち止まっているのかもしれない。

    学生たちと映画の話をしているのかもしれない。

    知らない音楽を教わっているのかもしれない。

    また誰かに怒られているのかもしれない。

    そしてきっと本人は、それを特別な人生だとは思っていない。

    ただ、その日を生きているだけなのだろう。

    面白そうな方へ。

    少しだけ。

    小倉は笑う。

    昔、部長が言っていた。

    営業は人に会う仕事や。

    商品を売る前に、人に会え。

    その意味が当時はよく分からなかった。

    今なら少し分かる。

    部長はずっと人に会っていたのだ。

    会社にいた頃も。

    辞めた後も。

    肩書があっても。

    なくなっても。

    人に会い続けていた。

    だから居場所がなくならなかったのだろう。

    小倉は机の上の手帳を閉じる。

    夕方になっていた。

    そろそろ帰る時間だ。

    明日も仕事がある。

    来週も会議がある。

    来月もたぶん同じような毎日だ。

    それでいい。

    今はそう思える。

    エレベーターへ向かいながら、小倉は窓に映る自分を見た。

    少しだけ表情が柔らかくなっている気がした。

    もちろん気のせいかもしれない。

    だが、それでもいい。

    人生は案外長い。

    そして思ったより短い。

    だからたぶん、急がなくていい。

    一階へ降りるエレベーターの中で、小倉は小さく笑った。

    もし今ここに部長がいたら、きっと言うだろう。

    「まあ、お前はアホやなあ」

    そして、その顔を見てまた笑うに違いない。

    小倉はビルを出る。

    夕暮れの街に人が流れている。

    その中へゆっくり歩き出した。

    どこかへ向かうためではない。

    まだ途中だからだ。

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門


     
     
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