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サウダージとんかつ

    スティングに『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』という古い曲がある。好きな曲なので、薄曇りや小雨の朝によく聴く。

    タイトルどおり、ニューヨークに住まう英国人の、どこか、ちぐはぐな矜持を歌ったものだけれど、早足で歩くようなリズムの上に、憂いをおびたメロディと歌声が乗ることで、「軽やかな孤独」とでもいうような、はすに構えた魅力があるように思う。

    スティングの歌声には、どこか「サウダージ」の雰囲気がある、というようなことが、たしか『レッド・ホット+リオ』というエイズ撲滅チャリティー・アルバムのライナー・ノーツに書いてあった。

    (このコンピレーション・アルバムには、スティングとアントニオ・カルロス・ジョビンの『How Insensitive』や、カエターノ・ヴェローゾと坂本龍一の『É Preciso Perdoar (You Must Forgive)』など、聴きごえのある曲がたくさん入っていて、長らく愛聴している。)

    「サウダージ」という単語は、ボサ・ノヴァやMPBの歌詞にはしょっちゅう出てくるけれど、どうやら日本語には相当する言葉がないようだ。無理に訳そうとすると、「たぶん望郷、郷愁、…的な感じ?…でも、それとも全然違うっぽい……」、というような、歯切れのわるい感じになってしまう。
    私自身もうまく理解できていないからだろう。

    「この店の扉を開けたとたんに、ぷうんと鼻先にただよう香りこそ、まさに、戦前の、日本の洋食屋の、なんともいえぬ香りだ。
    私にとっては、まことに貴重で、なつかしい、うれしい香りなのである。」

    と、池波正太郎は、「煉瓦亭」という銀座の洋食店について書いている(『とんかつとカツレツ』)。扉を開けた瞬間、ふと思いがけず、遠い過去に引きもどされる、その小さな驚き。……なんということはないけれど、素直で優しい、「ああ、粋だな」、と思う文章である。

    粋。
    私にとっての三粋人といえば、池波正太郎、小津安二郎、細野晴臣だ。
    共通するのは、独特のリズム感と天性のバランス感覚、だと僭越ながら思っているけれど、もうひとつ付け加えるとすれば、三人とも大の「洋食好き」だということだ。

    彼らはとりわけ、とんかつを偏愛していたようだ。

    池波は先に引いた「煉瓦亭」だけではなく、特に目黒の「とんき」に関しても、繰り返し、同様の文章を残しているし、細野晴臣も店名こそあげないものの、洋食・とんかつ好きを、折りにふれ表明している。
    小津安二郎に至っては、足繁く通ったという御徒町のとんかつ専門店「蓬萊屋」を作品内にそのまま登場させてしまったくらいだ。

    『秋刀魚の味』で、トニー・レオンによく似た、佐田啓二(逆か)が、同じ職場の後輩、三浦に、妹との縁談を持ちかける場面である。
    結果的には、三浦には既にきまった相手がいて、ふたりとも落胆しながら、とんかつを食べることになるのだけれど、そのセットは「蓬萊屋」の二階をそのまま再現させているそうだ。

    私はとんかつは大好きだが(とんかつを嫌いな人なんていない)、どういうわけか、キャベツが苦手だ(キャベツが苦手な人だっている)。
    そして、とんかつのつけ合わせにキャベツがついてこないことは「絶対に」ない。……とは言っても、とんかつ+キャベツの組み合わせに、難癖をつける勇気はさすがにないので、出されれば大人しく食べている(当たり前だけど)。

    ただ、食べ方は少しばかりおかしいのかも知れない。私は基本的に肉や魚にソースのたぐいをかけないので、とんかつ自体は塩だけで食べてしまい、とんかつソースやウスターソースはキャベツの方にたっぷり、ということになる(どうでもいいようなことだけれど)。

    キャベツといえば、新宿の老舗洋食店「アカシア」はロールキャベツシチューが名物、看板料理である。でも、それを頼んだことは、おそらく一度もない。理由は前述のようにキャベツが苦手だからだけれど、「アカシア」には他にもおいしい料理はたくさんあるから、別に困らなかった。
    東京を離れて以来、ずいぶんご無沙汰しているけれど、以前は職場から近かったこともあって、よく通ったものだ。

    ただ「アカシア」に来て、ロールキャベツを注文しないというのは、なんとなく居心地がわるい。天下一品であっさり、インド料理店で白米、スターバックスで紅茶…、そんな感じだろうか。……まあ別にいいんだけど。

    私の母はそのロールキャベツが得意で、好物でもあったのだろう、よく作ってくれた。彼女の作るロールキャベツは「アカシア」のようなシチュー仕立ての(おそらく)濃厚なものではなく、コンソメベースのあっさりしたものだった。

    家庭料理らしい素朴な味で、おいしいのだけれど、「これキャベツで巻くのをやめてくれないかな」、と内心ではずっと思っていた。
    もちろんそんなことを口にしたことはない。物理として難しいのはわかるし、私以外の家族はみんな、おいしそうに食べていたので、こども心に水をさすのは憚られた。

    母は生まれも育ちも東京は世田谷だけれど、20代半ばで父と一緒になってからは(父も東京、なんと港区出身だ)、仕事の都合など諸々あって、半世紀近く、故郷には戻れないでいる。そもそも両家とも、とうの昔に実家といえるものは失われており、戻ろうにも、戻る家もない。

    彼女はそのことに別段、不満があるわけでもなさそうだけれど、時折、「いつかは東京に戻りたいな」とか、「死ぬときは東京タワーの見える場所がいいわ」などと、どこまで本気がわからない口調で、もらすことがあった。

    母の話す「東京」は、朧げでとりとめもなく、どこか牧歌的でモダンな田園都市といった雰囲気である。どうやら彼女の中での東京はいつしか現実とは少し違う「理想の都市」となっているようだった。

    ごく稀に東京に行く機会があっても、母はなんやかやと理由をつけては、行きたがらない。
    それは少しだけわかるような気がする。

    私は池波の愛した「煉瓦亭」や「とんき」にも、小津が通ったという「蓬萊屋」にもいったことがない。そして、今後もいくことはないだろうと思う。その三店は現在も営業を続けている(すごい)ので、いこうとおもえば勿論いける。

    でも、食通で知られる池波が通った店は、書き残されたものだけでも、たくさんあって、その中には既になくなってしまった店も数多くある(その方が多いかも知れない)。

    小津が撮影した「蓬莱屋」は忠実に再現したとはいえ、セットとして作られたものだし、『お茶漬けの味』に登場する「カロリー軒」という妙に気がかりな名前の定食屋はセットだけのもので、実店舗はない。つまりそこに実際に足を運ぶことはできない。

    それでいいのだ。
    彼らの文章や映画を見て、「おいしそうだなあ、いつか行ってみたいなあ」、と焦がれることが楽しいのであって、実際にその味を確かめてみたいわけではない。

    母は小津の映画を見ると、「なつかしい」と言って目を細める。小津はロケ撮影を好まなかったので、彼の撮影したほとんどの場面は(飲食店に限らず)撮影所内にたてられたセットの中で撮影されたものだ。

    だからこそ、あのような偏執的なまでに、シンメトリックな画面構成が実現できるわけだが、その極めて人工的な世界が、母のなかの「東京」に近いのは、どこか「なるほど」と思えるところがある。

    「モスクワへ帰るの! モスクワへ帰るの! 一日も早く、私たちのこの町を出て、モスクワへ、モスクワへ!」という有名な台詞で知られるアントン・チェーホフによる『三人姉妹』は、モスクワ出身の三姉妹が、時の流れと共に次第に色褪せてゆくさまを描いた残酷な戯曲だ。

    「いつか帰ろう、モスクワへ」という願いだけが、ロシアの片田舎に住まう三姉妹を支えるのだが、その願いは決して叶えられることはない。その事実を、生活苦のなかで、次第に姉妹が受け入れていくさまを、チャーホフは静かに、そして容赦なく描いている。

    「いつか帰ろう、東京へ」
    おっとりしていて、いつも朗らかな母も、そんな風に思うときがあったのだろうか。

    冒頭で触れた『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』はブランフォード・マルサリスによるソプラノ・サックスのソロで幕を閉じる。
    曲の終わりが近づくにつれ、サックス以外の音はいつしかなくなり、群れからはぐれたイルカのような、優雅で寂しげなソロだけが残される。
    そのソロも、やがては、ゆるやかにフェイドアウトして、どこかに消えてしまう。

    それでも、既にない音を求めて、自然と耳を澄ませるとき、ああ、これが「サウダージ」というものかも知れない、と思う。


    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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