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ネタバレとは何か?【世界一真剣なネタバレ探求】


    悲しみの底は深い。
    40歳過ぎの大人が、親の事でこんなにも悲しみの中へ落ちていくとは思ってもいませんでした。

    「余命3ヶ月」
    そう、母が余命宣告を受けたのは3ヶ月前。
    お腹が痛い以外は普通に元気でした。
    「膵癌が全身に転移している可能性が高い」
    そう医者からの説明を受ける母の隣に私は居ました。人生最大のネタバレを目撃したのです。


    ネタバレとは何か?
    ネタバレは単なるマナー違反ではありません。
    映画や本のネタバレなんて些細な問題かもしれないけれど、そこにも取り返しのつかないことになってしまったと言う喪失感があるはずです…。


    「ネタバレとは何か」を最新の脳科学である"自由エネルギー原理"と"中動態の哲学"を接続して前回より更に深く解明していきます。

    ミラーニューロン:なぜ他者の物語を体験するのか


    ネタバレとは物語の結末を知ってしまうことです。
    本来、映画や小説という物語とは「他者が生きる軌跡」であり、私自身とは無関係な外部の存在です。
    しかし、優れた物語に没入しているとき、私たちは主人公の胸の痛みを感じ、共に心拍数を上げていきます。

    このような没入時、脳内では「私」と「他者」の境界が一時的に消滅したと言えるでしょう。この境界線を越えるための物理的な仕掛けの一つ目が、私たちの脳に備わっている「ミラーニューロン・システム」となります。

    ミラーニューロンは、自分が行動するときだけでなく、他者が行動するのを見たときにも同様に活動する神経細胞のことです。

    例えば映画などで痛いシーンを見れば、痛みを感じる脳の部位が反応します。しかし、痛みを実際には感じないのは"私に起きていることではない"というブレーキがかかるため、痛くはならなりません。(前頭葉にて大きな予測誤差を検知し想起に至らない)

    このように自分が痛くはなくても、他者が"痛そう"であるとわかります。更には身体的な感覚だけではなく、好き嫌いや怒りといった他者が抱いているであろう感情もミラーニューロンシステムで、まるで自分のことであるかの様に模倣することができるのです。


    しかし、単に模倣するだけでは、まだ私たちは物語の「観測者」にすぎません。
    自分の人生の様に物語へ没入するには、もう一つの強力な仕掛けが必要となります。それが「自由エネルギー原理(FEP)」という脳の基本原則です。


    自由エネルギー原理:脳を読み解く理論導入



    ミラーニューロンが他者の姿を脳内に映し出す「鏡」だとした時、それを自分の人生として引き受け、突き動かすためには、もう一つの仕組みが必要となります。

    それが、脳の根本的な動作原理である「自由エネルギー原理(FEP)」です。

    私たちの脳は、単に外界の情報を受動的に記録する装置ではありません。常に先回りして「世界はこうなるはずだ」という予測を外界へ投げかけ、実際に入ってきた情報との間に生じる「ズレ(予測誤差)」を、何としてでも埋めようとする性質を持っています。

    脳にとって「この後どうなるかわからない」という不確実性は、単なる情報不足ではなく、自分自身の安定を揺るがすことになる解決すべき問題です。
    脳はこのズレを解消し、自分なりの「納得(予測誤差の最小化)」へと辿り着こうとして、演算を繰り返すのです。

    そのズレを解消する手段は大きく2つあります。
    ・予測自体を修正するのか(複雑さ)
    ・入力そのもの(環境)を変えるのか(正確さ)

    この2つの手段を絶えず繰り返すことが、脳そのものの働きであり、人間の行動原理とも言えます。

    TIPS:FEPの式の解釈
    もう少し深く知りたい人への導入です。
    自由エネルギー = 複雑さ + (-正確さ)
    で表され、それを最小化するように脳は働きます。その式の実例を示してみましょう。

    暗闇で細長い影を見たとき、脳は「木の枝だ」と判断します。
    • 「ヘビだ」と判断すれば、形は一致する(正確)かもしれませんが、めったにいないので「複雑(不自然な解釈)」になります。
    • 脳は「正確」かつ「シンプル(複雑じゃない)」な「枝だ」という解釈を選び、今の状況を納得(=自由エネルギーを最小化)します。

    これは現在を理解する例でしたが、これを変分自由エネルギーFと言います。もう1つは未来の行動を決めるための期待自由エネルギーGが定義されています。こちらも複雑さ(理想との整合)と正確さ(未知の発見)の和となっています。

    • F(現在):今起きていることを「シンプルかつ正確」に理解して納得するためのもの。
    • G(未来):これから先のことを「目的達成と新しい発見」を両立させて選ぶためのもの。
    脳はこの2つのスコアを常に低く保つように動くことで、変化し続ける環境の中で生き延びようとしています。
    詳しくは記事の最後に本の紹介をしております。


    他者の物語が「自分のもの」になる瞬間


    ミラーニューロンによってコピーされた他者の「生きる軌跡」が脳内に取り込まれたとき、FEPに従って、それをあたかも「自分自身の未解決問題」として捉えるようになります。

    例えば「この主人公は、この窮地を一体どう切り抜けるのか?」
    という他者である主人公の問いが、脳にとっては「自分自身が生きるために、今ここで解かなければならない切実な問題」へと置き換えられるのです。

    物語は、思いもよらぬ方向へ転じたり、伏線回収を通して必然的な方向へ向かったりします。

    ・思った通りになったと思ったら、また違うことが起きる。
    ・理解できたと思っていたのに、また新しい気付きを得る。

    この様にズレが持続的に変化し続ける限り、物語は私の一部としてあり続けるのです。


    中動態としての自己:予測演算プロセスの場所


    他者の物語も私自身の人生も、FEPから見ると、同じ様な不確実性を最小化するための問題です。
    極端な言い方をすると、脳からすると他者も自分も解くべき問題でしかない。
    ここで、もっとも重要な問いに突き当たります。「自己」とは、一体どこに存在するのでしょうか。
    私たちは自己のあり方を普通「意志を持って考える私=能動態」や「感情を揺さぶられる私=受動態」を想像しますが、これまで見てきたFEPという脳の演算の実態を捉えるなら、そのどちらでもなく「中動態」という言葉がもっとも適しています。

    中動態とは、"する(能動)、される(受動)"と言う対立ではなく、"外か(能動)、内か(中動)"で捉えることです。
    "私は歩く、私は考える…"と言った様な事象は、私の身体の内側で起き、私自身に影響を与え、私はそのプロセスの一部になっています。

    例えば「惚れる」という言葉を考えてみましょう。
    • 能動(する): 自分の意志で、戦略的に好きになる。→不自然です。
    • 受動(される): 誰かに命令されて、好きにさせられる。→これも不自然。

    「惚れる」は中動態的な事象です。
    私という場所において「惚れる」というプロセスが立ち上がり、私はその中に飲み込まれ、影響を受け、変容していく。私が「惚れる」という現象そのものになっている状態です。

    つまり、中動態とはプロセスが主語の内側で起き、主語がそのプロセスの「場所」となっている状態を指します。
    そこで、私は「自己」と言うものを、FEPと中動態的視点を組み合わせることで、以下の通りに定義したいと考えました。

    自己とは、あらゆる物語に存在する不確実性を、自らの未来として解こうとする「推論プロセス」が起きている「場所」そのものである。

    私たちは、意志を持って脳の演算をコントロールしている支配者(能動)ではありません。かといって、勝手に演算させられている被害者(受動)でもありません。


    「私が生きている軌跡」もしくはミラーニューロンシステムによって取り込んだ「他者の生きる軌跡」を、FEPにしたがって未来を解こうとしている。その演算が起きているという場所の別名こそが「自己」だと考えます。

    だいぶ長くなりましたが、これで我々がどうやって物語に没入しているのかを説明できるところまで辿り着きました。
    それは「私が物語を読んでいる(能動態)」のではなく、「自己という場所で、誰かの人生が演算されている(中動態)」という状態。このとき、私と物語は交差して一体化(没入)していると言えるでしょう。

    TIPS:自己の定義の深掘り
    長年研究されてきた自己をまとめると、自己とは永続的自己と一時的自己があるとされています。
    永続的自己は主に記憶が基礎となっており、一時的自己は自己主体感、自己所有感、自己存在感から構成されます。
    自己主体感がないのは統合失調症などで見られる症状であり、感覚フィードバックの予測機構に欠陥があるとされております。つまり、自己がやったという予測誤差が大きくなると自己主体感がなくなるのです。
    自己所有感は自分の体で行われていると言う感覚であり、自己存在感は物理的にな体の中に自分があると感じることです。
    そして、この様な永続的自己と一時的自己を動的に繋ぐものとして今回新たに定義した「自己」があります。
    あえて名前をつけて区別するなら「物語的自己」と言った方がいいかもしれません。記憶と今の感覚が繋がる中動態的プロセスが「物語的自己」であり、そこに私の探求したい自己があったので今回定義したのです。

    感情とはそもそも何なのか p.50から引用


    ネタバレ論:確定した未来がもたらすものは?


    以上の論理を辿れば、なぜ「ネタバレ」が残酷なのか、そしてなぜ「未来が確定すること」が喪失感をもたらすのかを説明できます。

    結末を知る、あるいは未来が確定するということは、脳にとっての「不確実性(予測誤差)」が完全に消失することを意味します。未来が確定した瞬間、脳はそれ以上演算を続ける必要がなくなります。

    自己を「予測演算プロセスが起きている場所」と定義した以上、演算プロセスが消えた場所はもはや「自己」ではなく、ただの空虚な容器に成り下がります。

    予測演算プロセスが働いている中動態的な状態の時だけ、その場所は「自己」という動的平衡な存在が立ち上がるのです。しかし演算が止まれば、そこは単なる情報の通り道(受動態の場)にすぎなくなります。それが喪失感の正体です。


    もちろん、ネタバレされたとしても"なぜその結末になるのか?"と新たな問いをたちあげれば再び物語へ没入し直すことも可能です。むしろ、物語を見るのをやめない限り、再び中動態的に予測が始まるでしょう。
    名作とは、自分では"よく理解できた"と思っても、次の瞬間にはまた新たな気付きが生まれてくる作品の事だと思います。何度でも予測誤差(希望)が生まれ続ける作品こそが、自分にとっての名作となっていくのではないでしょうか。


    余命宣告という人生最大のネタバレ


    ついに、この記事を書くきっかけとなった余命宣告を探求したいと思います。考えるための材料は出揃いました。
    今回しっかりと材料を揃えたことで、前回のネタバレ論とは結論が異なっていきます。

    "自分の人生ではネタバレは起きない"

    これが前回の結論でした。
    例えば"食べたことのない料理"が目の前にあった時、その味をどれほど説明されようが、目の前の人が美味しいと言って食べていようが、その料理を食べる経験のネタバレは起きません。
    それは私自身の未来は物理的に予測不可能なものだからです。
    実際に食べるまで"どう感じるかはわからない"という不確実性は消えないのです。むしろ事前の知識が増えるほどに、不確実性はより複雑さを増して、不安もしくは期待値が高まっていくともいえます。

    この様に時間という物理的な流れがある限り、自分の人生にはネタバレが起こることはないと結論づけのでした。

    しかし、余命宣告を深く考えた時、その結論を崩さざるを得ませんでした。
    余命宣告は単に「死の時期を知らせる」という情報の受け取りではありません。
    自己という演算の場所そのものを奪い去る、究極のネタバレなのです。

    本来、人生は「この先どうなるか分からない」という巨大な不確実性に満ちています。脳はその空白を埋めるために、絶えず先回りして未来をシミュレーションし、新しい予測を立て、行動を選択します。この「まだ決まっていない未来」こそが、脳を駆動させる唯一の糧なのです。

    しかし、余命宣告という「結末の確定」は、この糧を根こそぎ奪います。
    「3ヶ月後、あなたは死ぬ」という確定した情報は、脳にとっての最大の不確実性をゼロにしてしまいます。解くべき問題が消滅した瞬間、脳という推論マシンは未来へ向けて駆動させる理由を失ってしまうのです。

    中動態的な視点からも余命宣告を見ていきます。
    「中動態としての自己」と呼んできたものは、過去(記憶)と現在(身体感覚)を使いながら、未来という未知を演算し続けている「場所」でした。余命宣告は、この「場所」を内側から破壊します。

    余命を知る前「自己」というのは、自分の人生という演算プロセスが発生する「場所」でした。
    しかし、人生の結末を知らされた瞬間「死という確定した事象」が向かってくるのを待つだけの「受動的な容器」へと成り下がります。
    その容器に残されるのは、ただ死を待つだけの肉体(一時的自己)と、もはや更新されることのない過去の記憶(永続的自己)の断片です。
    今ここにある身体感覚すら"死への予兆"へと再解釈され、未来へつなげるための過去の思い出たちは、単なる"終わった物語のアーカイブ"へと変質します。

    他者の物語なら無数に存在するのでネタバレは一時的な喪失感で済みますが、私の物語は一つしかありません。その物語を余命宣告で停止させたら…。
    物理的な心臓が止まるずっと前に「中動態としての自己」を殺してしまうのです。


    以上、私自身が余命宣告を受けたわけではないので、もし余命宣告を受けた方からしたら、とんでも無くズレているかもしれません。
    ただ、私自身も数ヶ月前に肝臓に影があると言われ、最悪ガンの疑いもあるということで検査をしました。祖父が40歳手前で肝臓癌で亡くなっている家系でもあり、死がよぎったのです。
    検査結果は血管腫とい良性腫瘍でしたが、その検査結果が出るまで生きた心地がしませんでした。
    "疑い"という確率が低い話でもこれだけ生きる希望が薄くなるならば、余命宣告をされた方の絶望は想像もできません。しかし、そこを何とか知ろうとしないと、今の私は冷静でいられないのです。


    余命宣告の後に立ち上がる無償の愛


    徹底的に殺された自己。それでも肉体はすぐには死にません。母からは
    「もう楽になりたい、死にたい」
    という事を何度も聞きましたが、次の日も生きています。あらゆることが死に向かっているのに、まだ終わらせてくれない絶望。
    自己が殺されてしまった絶望の後に起きた2つのエピソードを紹介します。


    1つ目は全ての手を尽くした後、余命宣告から1ヶ月半。ホスピスに転院した頃のエピソードです。

    癌の痛みを抑えるモルヒネで母の頭は急激に麻痺していきます。幻覚や不眠で削られる体力気力。
    夢と現を彷徨う母から、仕事中に突然電話がかかってきました。

    「もうだめかもしれない。謝らなければいけないことがある、ごめん。本当にごめんね」

    「急にどうしたの?」

    「あなたが結婚した時、私、あなたにいろんな口出しをして、怒られたでしょ」

    「ああ、覚えているよ。選んだ家具とか、そういうのに対して意見を言われるのが嫌だったからね」

    「本当にごめんなさい。あなたたち2人で決めた事なのに、私が言ってしまった事、ほんとうに反省しているの。許してね」

    この話題を持ち出された時、私は大変驚き動揺しました。それは10年以上も前の出来事でした。
    振り返れば、大人になった私と母との唯一の喧嘩だったと思います。

    私自身も母が気を使ってアドバイスとして言ってくれているがわかっていても、強く反論してしまった事を後悔していました。
    ただ母からの電話がなければ、この小さな出来事はもう消化済みとして記憶の底に沈めたままでした。
    私の子供の頃、昭和の家庭ですから義母(私の祖母)と同じ家に住んでいて、不満の溜まる日常を送っていたのです。だから母自身が、息子の家庭に対して口出ししてしまった事を強く後悔したのだと思います。
    それからは私の家庭に対して何一つ否定的な事を言われたことはありませんでした。


    2つめのエピソードは、余命宣告から2ヶ月半。ホスピスから在宅介護に移った後の事です。

    1日のほとんどを眠りについている中、私が母を訪れると久々に覚醒した状態で面会することが出来ました。
    泣き始めた母は、もう呂律の回らない小さな声で私に必死で伝えようとし始めました。

    「あのね、おとうさんを仲間外れにしないでね」
    「おとうさん、1人じゃなーんにもできないから」
    「みんな、お父さんを大事にしてね」


    父の事をここまで切実に気にかける母は産まれて初めて見た気がします。
    母は元気な頃、よく国内海外どこへでも旅行に行くことが好きでしたが、父と2人で旅行すること一度もなく、いつも友達とでした。(猫を飼っていると言う理由もありますが)
    仲が全く悪いわけではないけど、そこそこ冷めた関係とでも言いましょうか。

    そんな母が自らの苦しい状態を差し置いて、涙を流しながら父の今後の行先の心配をしていることに大変驚き、心を打たれました。


    この2つのエピソードを自由エネルギー原理(FEP)と中動態的自己で解説すると、余命宣告後に起きた自己の変容が浮かび上がってきます。

    余命宣告という未来の確定情報によって、自分自身の物語を演算するプロセスを停止させてしまいました。そこで起きる絶望は前の章で解説した通りです。
    しかし、人は生きている限りFEPに基づいて不確実性を解こうとする能力は失いません。自分自身の未来を予測演算することができなくなった脳は、その余力を「残された家族がどう生きていくか」という不確実性の解消へと注ぎ込みます。

    これは能動的に「愛そう」としているのでも、受動的に「義務感」を感じているのでもありません。自分という場所が、愛する者の未来を推論するための「場所」へと変革していく中動態的な奇跡だと思います。

    母の容体は日に日に悪くなり、自分で出来ることが一つ一つ減っていく。"もう死なせてほしい"というのは本心でしょう。それを聞くだけでも辛い。
    そんな自分の死という圧倒的な絶望を前にしても、人は大切な人の未来(物語)を探し求められるのです。それほどに自己という場所は広い。
    もはや、私という狭い檻を必要とせず、他者の未来として生き直そうとする自己の最後の輝きが、そこにはある。これこそが無償の愛そのものであると思います。


    心も記憶も病に削られて、母の自我が何処にあるのかも、もうわかりません。
    母が伝えたかった事を、全て伝え切れたかどうか、もうわかりません。
    ですが、母が私に見せてくれた無償の愛は、息子である私の信念(予測モデル)にしっかりと刻み込まれました。
    ありきたりな表現になりますが、こうやって思いを繋いでいく事が私の出来る親孝行なのだと思います。

    SNSでは「人生のネタバレ」は起きない


    SNSの影響でいろんな他者の生き方を知れることになったので「人生のネタバレ」が起きて、それが若者の無気力に繋がっているという説があります。こちらの説を今回のネタバレ論と照らし合わせていきたいと思います。

    おさらいですが、ネタバレとは予測プロセスが停止することで、物語から追い出されてしまう事象であると定義してきました。

    余命宣告は自分の未来の確定によって、自分自身の物語すら追い出されてしまう究極のネタバレとして見てきました。

    一方SNSは予測プロセスの停止というよりも、他者の物語が自己という場所で溢れかえることで予測モデルが複雑化してしまうことではないかと思います。
    ネタバレというよりもネタへの過剰適合です。

    もう少し詳しく解説します。

    何百人もの「他者の成功・失敗・正解」というノイズに近いデータが自己という場所に流れ込みます。
    他者の物語が自己という場所で溢れかえると、脳は「Aさんのような生き方も正解、Bさんのような絶望も現実、Cさんのような成功も可能」という、巨大すぎる複雑な予測モデルを抱え込むことになります。

    モデルが複雑化しすぎると、そこから「自分はどう動くべきか」という具体的な推論(行動の生成)ができなくなります。これが、若者の気力の減退の正体ではないでしょうか?

    中動態的な視点で言えば、本来自分の物語を紡ぐために自己という場所があるのに、他者のボヤけた膨大な物語で埋め尽くされ、自分自身の声を拾い上げる静寂が失われている状態です。

    では無気力を脱するにはどうすればいいか。
    自由エネルギー原理に従って、未知の探索を行ってしまうのが人の脳です。だから多くの物語が簡単に手に入るSNSにハマり込むのは仕方がない。

    ともすればSNSを意識的に避けて、現実の自分の身の回りへと探求対象を変化させてみるところから自己の場所の奪還を始めてみてはどうでしょうか。
    誰か師と呼べる人を探す事、家族、友人でもいい。リアルな他者の物語であれば、自他混合の様な事態も起きづらいかもしれません。生身の人間には自他という強烈な境界線が生まれます。

    そして、なにより"新しい発見"が脳の期待自由エネルギーの最小化に必要なのです。
    SNSから一歩下がれば、実はSNSの中で同じ様な刺激ばかりになっていて、新しい発見はもうそこにはないと脳が気付くでしょう。
    リアルとSNSを行き来することで、自分の新しい一面を見つける一歩目に繋がると思います。


    推論する脳とAIは何が違うのか?


    脳を推論するシステムと捉えましたが、推論するシステムと言えば生成AIが思い当たります。

    脳とAIの何が違うのか?

    結論から言うとその大きな違いは「論理の飛躍」にあると考えます。

    人間の推論は完全に論理的ではなく飛躍が度々起きているのは、みなさん実感できると思います。例えば"好きだから好き"、"嫌いだから嫌い"、この間に論理を見出すのは難しい。
    「それが難しいのは人間自身の能力が低いからであって、超AIがあれば深層心理まで分析して論理的な接点を見つけられる」というかもしれません。

    つまり、"人間の論理の飛躍自体を論理的に内包する高度なAIが作成可能ではないか"と言う事です。

    しかし、今回のネタバレ論にこれを当てはめると面白いパラドックスが発生するのでそれを解説しいきます。

    皮肉なことに、AIの能力が上がり、あらゆる飛躍が論理的に埋められる様になればなるほどそこから「物語」は消えてしまいます。

    物語とは、論理の欠落や飛躍があるからこそ、それを埋めようとする演算の場所(自己)を発生させます。
    AIがすべてを論理的に内包して「最短距離の正解」を出してしまうとき、それはここまで議論してきた「ネタバレ」と同じ状態になります。


    そもそも、私が今回書いた記事も論理の飛躍だらけで構成されている事に気がついたでしょう。
    ネタバレから発生した私の心の痛みが、FEPや中動態の哲学を繋ぎ、新しい「自己」の定義をしました。
    デタラメに繋いだわけではなく、私なりの飛躍がそこにはありますし、ここまで読んでくれた方は、その個人的な飛躍を受け止めてくれているはずです。この様に論理の飛躍はランダムに起きるわけでもないのです。

    また死の淵に立たされている母が、私に10年以上も前の出来事を思い出して電話してきた行動も飛躍です。
    母のとったその行動を論理的に分析しましたが、それは事後的な説明をしたまでであり、母の行動を生成することはAIには出来ないでしょう。
    この様に、人生とは超主観的な物語であり、AIは発展すれば発展するほど客観的な方向に向かうのです。

    以上の通り事後的な説明はAIにも可能です。しかし、AIが論理の飛躍を含んだ物語を作る事は構造的にできないでしょう。
    物語とは論理の飛躍の積み重ねなのです。

    AIには不可能な論理の飛躍が、なぜ人の脳では起きるのかは、身体性や、命の有限性や一回性、そんなものが関係するのだろうと思います。
    論理の飛躍をAIにも可能にさせたい場合は、脆くも儚いAIという進化の方向性も見えてくるかもしれませんが、そんな不便で厄介な人間もどきをわざわざ作る必要なくないですか?…となりそうです。



     
     

    J

     
     
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