
誰かの隣に、少しだけ。忘れられない時間。 第5話 巡る言葉
一
桜の便りが聞こえる頃、沙耶香は救命センター配属四年目を迎えていた。四年目ともなると、仕事の流れにも、ようやく自分なりのやり方や動き方のようなものができてくる。それでも、振り返れば、この一年だけでも、いくつもの日が、夜が、記憶の中にしっかりと刻まれていた。
山下医師は、あの夜以来、小坂さんが定期的に外来へ通う日には、欠かさず顔を見せに行っている。先月、たまたますれ違ったとき、二人で笑いながら近所のラーメン屋の話をしていた姿を、沙耶香は見かけた。三十年分の溝が、少しずつ、何でもない日常の会話で埋まっていっているようだった。沙耶香は、あの夜、待合のソファーにもたれていた小坂さんの姿を、まだはっきりと覚えている。
本多医師の指導は、相変わらず厳しい。けれど、渡辺医師——もう「研修医」ではなく、独り立ちした医師になった彼が、新しく来た研修医の指導をする姿の中に、本多医師の言葉が、形を変えて混ざっているのを、沙耶香は時々感じることがあった。
「気になることを黙っていることが一番まずい」
という言葉が、今度は渡辺医師の口から、別の研修医に向けて発せられているのを聞いたとき、沙耶香は思わず、休憩室の隅で小さく笑ってしまった。
あの夜の宮内さんは、すでにすっかり元気になり、たまに散歩の途中で外来に顔を出して、看護師たちに声をかけてくれることもあった。
木下文子さんの息子さんたちは、文子さんのリハビリに、今も交代で付き合っているという。文子さんの回復は、決して早くはなかったが、先日、外来で再会したとき、文子さんは車椅子に乗って、二人の息子に囲まれて、穏やかな表情を見せていた。
亮と慎一は、今でも時々言い合いをするらしいが、それも、十数年の沈黙を思えば、ずっと健全なことのように、沙耶香には思えた。今では喧嘩するほど仲がいいという言葉の典型のような感じなのかもしれない。
そして、佐々木さんが、看護師だった沙耶香の母について教えてくれたあの夜のことは、今もときどき、沙耶香の中で静かに思い出される。母が遺したものの輪郭が、あの夜から、確かに少しはっきりした気がしていた。
それぞれ、別々の夜に起きた、別々の出来事だった。
けれど、振り返ってみると、その全ての時々に、自分が「ただそばにいた」ということで、相手の言葉が届いてきた。きっと相手にとっても、自分にとっても、必要な瞬間が、確かに重なっていたんだと沙耶香はそう思った。
二
その春、一年目の看護師、佐々木美咲(ささきみさき)が救命センターに新しく配属されてきた。美咲と顔を合わせたとき、沙耶香は、何気なくその名字を耳にしただけで、特に何も思わなかった。佐々木という名字は、珍しいものではない。
そしてある夜、美咲は、緊張した様子で、初めての夜勤に入った。
沙耶香は、教育担当としてではないものの、新人のサポートに回ることが多く、自然と美咲のそばで様子を見ることになった。
休憩中、美咲が、ぽつりと言った。
「沙耶香さん、変なこと聞いてもいいですか」
「いいよ、何?」
「沙耶香さんってどうして、看護師になろうと思ったんですか」
「え? 佐々木ちゃんは?」
「え? 私ですか? きっかけは、ちょっと変わってるかもしれないです。祖父の話なんですけど」
沙耶香は、何気なく相づちを打った。
「祖母が亡くなったとき、祖父、病室になかなか入れなかったらしいんです。でも、夜勤の看護師さんが、ずっと隣に座ってくれて、最後は一緒に病室に入ってくれたって。それで、祖母の最期の言葉を、ちゃんと聞くことができたって、何度も話してくれました」
お茶を飲んでいた沙耶香の動きが、止まった。
「その看護師さんの言葉を、祖父はずっと覚えていて。『怖くても、一緒に入りましょう』って言われたことを、人生で何度も思い出してきたって。私が看護師になろうかどうか迷っていたとき、祖父がその話をしてくれて。『誰かの隣にいられる仕事って、こんなに人の人生を変えるんだぞ』って言われたんです」
三
「おじいさんの、お名前って……」
「佐々木誠一です。」
沙耶香は、しばらく言葉が出なかった。
あの夜、点滴を受けながら静かに沙耶香の母のことを語っていた佐々木さんの顔が、目の前の美咲の顔と、どこか重なって見えた。
「実は……あなたのお祖父さん、前に、救急車でこの病院に運ばれたことがあるの。対応したのが、たまたま私だった」
「え、本当ですか」
「うん。その時、お祖父さんから、その話を直接聞いたの。『朝霞』っていう看護師さんに助けられた、って」
「朝霞……それ、私の祖父が言ってた・・・・看護師さん——」
「実はその看護師が、私の母なの。もう亡くなってるんだけど」
美咲は、しばらく、何が起きているのか整理できないような顔をしていた。
それから、ゆっくりと言った。
「じゃあ、私が看護師になろうと思ったきっかけの言葉は、もとを辿ると、沙耶香さんのお母さんから始まってたってことですか」
「そうみたい。すごいね。びっくりした」
四
二人は、顔を見合せ、びっくりしながら笑った。その会話の後、沙耶香はしばらく休憩室の窓から外を見ていた。
桜が、満開に近づいていた。沙耶香はまた、今年も春が来たんだな、季節は巡るんだな……と思った。
沙耶香は、看護師をしていた仕事場での母のことを、多くは知らない。
けれど、この一年だけで、母が遺した看護師としての姿勢が、考え方が思いがけない形で、自分の前に現れた。
小坂さんと山下医師の夜、本多医師のかつての苦い経験と研修医に渡した言葉の意味、木下家の兄弟が取り戻した時間。
そのどれもの瞬間に自分は立ち会っていて、傍にいた。
どの場面でも、根っこに、自分が看護師として守っていきたい姿勢、看護師としての軸——誰かの隣に、何も言わずに座る、傍にいるという姿勢があった気がした。
五
「私に看護師が続けられるのかどうか、まだ全然分からないんですけど」
美咲が、少し不安げに言った。
「おじいちゃんが言ってたみたいに、患者さんや家族の隣にいられる看護師に、なれるかどうか」
「大丈夫だよ。最初から、完璧に何もかもできる人なんていないと思う」
沙耶香は、今まで、自分が迷いながら看護師を続けてきたこと、ここで自分が傍で見てきたいろいろな人々がその都度変わっていった姿を、それぞれ思い出しながら、そう答えた。
「私も、看護師としてまだいろんなことが全然うまくできてないと思ってる。診察の優先順位とか、医師への報告のタイミングとかも、まだ毎回迷うことばかり。でも、気づいたら、自分の中に、ちゃんと何かが残っていくものだと思うから」
「そうなんですね……私、正直、自信がなくて、この先続けられるかどうかも、まだ分からなくて」
「分からなくて当然だと思う。私だって、一年目のときは、毎日泣きながら帰ってたよ」
美咲は、少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
六
その後、娘さんに付き添われて、かなり深刻な状態で搬送されてきた患者さんがいた。娘さんはその患者さんの検査結果と医師からの説明を待つ間、ずっと不安げな表情を浮かべて涙目で待ち合いの椅子に座っていた。
美咲は、最初、何を話せばいいのか分からないという様子で、その娘さんの横で立ち止まっていた。
検査結果がでて、医師からの説明があるまでもう少しお待ちいただかなければいけないことを伝えた後も、すぐには離れず、椅子をひとつ持ってきて、その娘さんの隣に座った。
何かを言おうとして、結局、何も言わずに、背中をさすって、ただ隣に座り続けた。
数分後、娘さんの方から、ぽつりぽつりと話しかけていた。
美咲は、それに静かに相づちを打ちながら、耳を傾けていた。
沙耶香は、その光景を見ながら、思わず小さく息をついた。
教えたわけでも、見せたわけでもない。
それでも、美咲は、もう自分なりに、何かを学びとっていたようだった。
七
沙耶香は、ナースステーションで、母の口癖を思い出していた。
「今日も患者さんと無駄話してくるよ」
無駄話と称して、患者やその家族の隣にいることを看護師の軸としていた母。
その言葉は、今は、なによりも看護師としての自分に大きな意味を持つ言葉として、自分の中にある。
病院という場所では、命をつなぐための処置が行われるだけでなく、こうして、言葉にならない何かが、夜ごと、静かに受け渡されていく。
母から沙耶香へ、看護師としての母から佐々木さんへ、佐々木さんから沙耶香へ、佐々木さんから美咲へ。
誰も意図して繋いだわけではない。
母が大切にしてきた看護師としての軸が、二十年以上の時間をかけて、ここまで届いていた。
夜勤中、忙しさが落ち着き、気がつくと東の空が、ほんのり明るくなり始めていた。
沙耶香は、しばらく立ち止まって、その光を眺めた。
看護師になった頃と今は、少し違う。
同じ夜勤の明け方の空でも、その向こうに、いくつもの日や夜の記憶と、これから始まっていく誰かの物語が、重なって見えるような気がした。
沙耶香は、大きく深呼吸と伸びをして、あと数時間頑張ろうと、気合を入れ直す。
今日の日勤も夜勤も、また誰かが、どこかで、誰かの隣にそっと座っているのだろうと思いながら。
誰かが傍にいてくれる、それだけで人は救われることがあるのかもしれない。
看護師として、母のように一人前になるまでの道のりは、まだまだ長い。
だが、一人で歩いているわけではないのだと、沙耶香は、今は、はっきりとそう思えた。
完