
【小説】「里山伏、海に参る」|実在した石碑の伝承を描く|未曽有の災害に立ち向かった執念の物語|これより先に家を建てるな|
※本作は1記事で完結している読み切り小説です。
【あらすじ】
明治二十九年、三陸を襲った未曾有の大津波。修験者の男と巫女の女は、変わり果てた浜の地獄絵図を前に、宗教者としての無力感に打ちひしがれる。しかし、自然の猛威を「理」として受け入れた男は、未来の命を救うため、私欲に走る村人たちの反発を押し切り、高台に「これより下に家を建てるな」と刻んだ石碑を建て続ける。一方、女は禁忌を犯して山に入り、己の命を賭して神仏へ祈りを捧げた。
時は流れ昭和八年。再び津波が牙を剥く。人々に忘れ去られ、海へと追いやられていた石碑が、崩れた土砂の中から一瞬だけ姿を現した。一人の若者がその「叫び」を受け取ったとき、時を超えた二人の祈りが、新たな命の物語を紡ぎ出す。
壱
「お帰りなさい」
パッと女は桶を手に取ると、パタパタと土間に下りた。
「おう」
男もまた、たくわえた髭で優しい顔を作り女のそれに応えた。この男は見かけによらず屈託のない笑顔を見せる。戸口に錫杖を立てかけるのを見届けると、女はようやく安堵した表情を見せた。
荒れて硬くなった太い指で背中のものを解くと、男はいつものように板間に腰を掛け、自分の足元を女に任せた。女は嬉しそうに男の足元に膝を折った。
男が山に出かけるときは、その身支度に女の手を掛けてはいない。
山においては、例えたったひとつの草履であっても、命運を左右するような大きな意味を持っているからである。
骨に当たる紐のわずかな強弱や狂いがそのまま命運を分かつ。
それが山の掟だ。
川を渡る時には、タニシが棲む滑りやすい茶色の河床の石を踏む。川の流れがゆったりとして川底まで見えればよいが、場所によっては足を取られてしまうし、斜面に縦に根を張る木肌や、濡れた葉なども踏んで進んでゆかねばならない。
常に指先まで気を配っていないと、どこかしら体を痛めてしまうものだ。たったそれだけのことでも、取り返しのつかない事態を招いてしまう。替えのきかぬ命なのだ。
男は身体全体を感覚にし、一歩一歩を確かに歩む。
山においては、心と身体が隅々まで整然と揃い、緊張と慎重さを携えながら進むこと。また、たとえ複数の思考が同時に生まれたとしても、主張ではなく混ざり合うこと、かつ、それらすべてが確実であることが何より優先されるべきであろうと男は思っている。
このことは女も充分に心得ていた。
しかし、共に暮らす男に何かしら手をかけたいと思うのもまた、どうしようもない女の性でもある。山を歩き終えたあと自分の足の状態を知ることも己のためであるのだがな……と、男は本音の部分で思ってはいる。が、小さなすれ違いが、後になって大きな亀裂を生んでしまうのは良くあることだ。
ここは押し通さず、譲れるものは譲ろうと、この時ばかりは女の気の済むようにさせていた。
大きい体をしているが、男はこうした心の動きにも、真摯でありかつ繊細であった。
「ん〜~~~、あ、解けた!」
水に濡れた草鞋の紐はなかなかに硬いものだ。女は表情をあれこれと変えながらようやく紐を解くと、子供のように喜んだ。
(いや……。何を理由にしようと、俺は単にこの顔が見たいだけさ)
男は素直にそう思った。
男が湯に足を浸すと、女は踵の厚い両の足をゆっくりと揉みはじめた。男の親指と人差し指の股が、真っ赤にふくれあがっている。
ちゃぽん、ちゃぽん。
足の隅々の汚れを、湯が流してゆく。
土間には、優しい時が流れていた。
女には、この時間が何よりも好ましかった。
強靭な筋肉の張りを手に感じながら足のどこかに無理はないかと探っていると、男がどの道をどう歩いてきたのかを自然に指の先で感じることがある。そして大抵、それは当たっているようだった。
その時、男の足がわずかに反応した。女は手を止めた。
「……どうでしたか?」女が口を開いた。
「お山も揺れたようだ。あっちこっちが崩れてたな」
「そうでしたか……」
「まあ、お陰でもっと地盤の強いところが分かったよ。これからはもっと良い道が出来るだろう。そのためには人手が要るな」
土間の隅には竈がある。
その鉄の釜から上がる湯気の向こうで傾き始めた日の光は、やわらかい一枚の布のようだった。この絹のような光を背にして、ようやく並んだふたつの錫杖が佇んでいる。女は柄杓で新しい湯をくんで少し冷えてきた桶に足した。
「村長の家には?」
「ああ。もう寄ってきた。ただな」
「ただ?」
「……海が、壊れたそうだ」
「壊れた?」
女には、その意味がすぐには分からなかった。
時は、明治二十九年六月である。
おとといの夜に、地震が起きた。
この辺りの家々にも幾つかの被害が出ていた。しかし、海沿いはそんな地震の被害では済まなかったという。見たこともない大きな高い津波が村々に押し寄せ、多くの人たちが犠牲になったということだった。
男は続けて語った。
「着の身着のまま、長の所さ逃げてきた人が居てな。山みたいに大きな津波だったと言ってたよ。真っ青な顔してな、ガタガタ震えていた……。端午の節句だ。祝い膳を並べていた家も多かったろう。ノッツノッツ揺れはしたが、たいして大きくはない地震だったから、ほんとに津波が来るとは思わなかったとよ。……気の毒なくらい泣いていたよ」
「まさかそんな津波が……。地震の後には津波が来ると疑えと、昔、お師匠様から聞いたことはありますが、本当にそんなことが起こっていたなんて……。恥ずかしながら、私は津波は昔の話なんだとばかり。つい心こもらずに聞いてしまっていたように思います。で、お前様。お前様はいつ、行かれますか?」
女が尋ねた。
男は外に視線を向けると、ひとつだけ呼吸を置いて答えた。
「明日かな」
男は笑ってみせた。
女はその顔を黙って見上げた。
「行かれませ」
「ん?」
「もはや、行かれませ」
男は驚いた顔で、女を見直した。
「行かれませ。そうでなければ、お前様はなんの役にも立ちませぬ!」 男はあっけにとられた。
女は続けてまくしたてた。
「今ここ、と、そう思った時にその通りに身を起こす。それがご神仏の教えだと私に言ったのは誰じゃ!」
江戸の昔、やはり同じように海沿いの村々を津波が襲った。
お山からもすぐさま人が海に馳せ参じて、多くの人たちを救ったと伝え聞いていた。その行いは真に尊いものだと珍しく饒舌に語っていたのは、間違いなくこの男だった。
「ご先祖様方は、海の人たちに山の神の獅子頭を贈ったとも聞いています。海もお山も、これ、この道で! この空で! しっかりと繋がっているのですよ! 海と山の別もなく、どこも同じ! 同じ人の世にございましょう! なのに」
「……なのに?」
「もう、まだ分からぬか! お前様は、行かねばならないと知りつつここでモヤカヤと一晩を過ごすおつもりか! そんなこと、私は全く面白くありませぬ!」
言いたくないことを言ってしまった。だが、思ってしまったのだから仕方がない。
女は怒ったように男の足を桶から追い出すと、ガラッと大きな音を立てて戸を開けた。
「どこさ行く?」
「女達に触れ回ってきます。他にも浜から逃げて来る人がいるかもしれません。長の家ばかりでなく、この家にも遠慮なく寄越すようにと。長にもそう申し上げて来ます。もう、ほら! お前様はさっさと支度をなさいませ。新しい草鞋はそこにありますゆえ!!」
そう言うと、女の姿はたちまち遠ざかった。
「……やられたな」
我に返り、男は笑った。
笑いながら、泥だらけの白い装束を替えもせず、降ろしたばかりの笈を再び背に負った。
男は、山伏である。
女はというと、元は麓に住んでいた巫女であった。
江戸幕府が滅んだ後に興った明治政府は、修験道に対して取りつぶしの命を下していた。神と仏とを切り離すその前に、どちらでもない修験道に真っ先に、その矛先が向けられたのだ。
やがて寺や仏像、経典などは焼き払われ、代わりに西洋の文化や学問だけでなく、西洋の信仰までも政府は奨励していた。
新しい時代はより新しいものを連れて来る。そしてどうやら、古いものはそれを理由に次々に捨てられてゆくものらしい。
こうして、人々の心はかつての神仏から急速にかけ離れていってしまった。
最後の修業を終えたとき、二人は共に旅に出て、やがてこの里に流れ着いた。住みよい村に庵を結びこの里に溶け込みながら、密やかに修行を続けていたのだった。
「参るよ」
女に向かって「ありがとう」とは言えない男だった。
人は男を、里山伏と呼んでいた。
弐
「そぉれ、引けえい!」
「よーい、よおおーーいい」
浜では、男たちが地引き網を引いていた。
魚を獲るためではない。あの海に引かれてしまった人達を、浜に揚げるためである。
内臓が腫れて膨れあがり死んでいる白い人達が、そこかしこに浮かんだり沈んだりしている。大人もいれば、まだ幼い子供もいる。婚礼衣装に身を包んだ若い女もいたし、裂けた腹から赤子が見えている惨い姿もあった。
船が並んでいたという小さな浜には、壊れた家が盛り上がるように積み上げられている。ようやく片付けられた一角にはガンバゴ(棺桶のこと)が所狭しと並べられ、一人また一人と納められていった。悲鳴にも似た人々の泣き声が、いつまでもいつまでも続いている。
男はすでに、その地獄絵図の中にいた。
投網は、何度も何度も海に放り投げられた。一方で、女たちはカラスの姿を追っていた。カラスが降りたところには、必ず瓦礫に隠れているご遺体がある。それを見つけては、吐いたり泣いたりしながら、お一人お一人を運び出していた。
ひどい匂いであふれる浜に並べられたガンバゴの横を、数匹のハマムシがモソモソと這っていった。
夜になった。
男は近くのお堂に籠もった。どの家にも迷惑をかけるわけにはいかないからだ。
笈の中に手を伸ばしたが、干し飯は底をついてきていた。
仕方なく暗闇で体を休めていると、ふいに戸板がなった。
「坊様、いるか?」
ああ、と答え、男は戸口を開いた。そこには付近に住む婆様の姿があった。
「ほれ」
手には椀があった。
こういう時、男は断らない。会釈して静かに受け取ると、婆様はふんっとそっぽを向いて足早に去っていた。
「自分たちが食うだけでも大変だろうに……」
男は、その椀に手を合わせた。
箸はまだ取らない。いや、取れなかった。
わずかな月明かりの中、男はお堂の奥に向き直り、真言を唱えた。
……ノウマクサンマンダー バーサラダン センダー マーカロシャーダー ソワタヤ ウンタラター カンマン……
南無大聖不動明王
南無大聖不動明王
南無大聖不動明王……。
金剛菩提樹のイラタカ念珠をジャリっと鳴らすと、男は合わせた手をゆっくりと離した。
受け給う。
山にあって、自分はいつもそう声を出していた。
これは、良いことも悪いことも、総てを受け入れるという覚悟の言葉である。修行に明け暮れていた頃、目の前で兄弟子が崖から落ちたことがあった。だが、兄弟子を助けることは許されなかった。ご遺体はそのまま鳥や獣に任せるのが掟だったのだ。
やがてそこに肉がなくなると、雨や風に打たれ、生い茂る柴に隠されながらご遺体は骨になる。山に生きる者はこうしてお山に還るというのだ。そして、再びこの世に生まれ来るのだと男は絶えず教えられてきた。
総ての命は、止まることなく永遠に巡るのだと。
一度は、そうなのだろうと受け止めた。いやしかし、と心の奥底が反発した。そういったことを何度も何度も繰り返し、骨の髄まで「掟」を叩きこまれてきたつもりだった。
だが、と今また思う。
……助けたかったんだ。
俺は、あの人を助けたかったのだ。
男の前から、するっと滑るように消えた兄弟子の背中。
一瞬だった。
叫び声の後には、兄弟子の白装束の端切れが崖下の木に旗めいた。
まだ兄弟子のうめき声が残るなか、それをぐるっと取り囲んでゆく怪しげな獣たちの気配。
そこに向かって読経をし、やがて立ち去る己たち……。
悲しむこと惜しむことはあっても、振り返ることはしないつもりでいた。
少なくとも、山伏である己は、そうしなければならない、と男は律して来たつもりだ。
けれど。
いままた、あの時の兄弟子の最期の叫び声が蘇る。
沈着冷静な兄弟子だったが、崖を転がり落ちてゆくときまで聖人君子でいられるわけがない。唯一聞いた兄弟子の本当の声が、生きたかったという断末魔だったと、男は改めて思い知らされた。
男は、とうとう肩を震わせた。
船の板の一枚下には、深い海が広がっている。
そこで命を失う覚悟は、山伏である男たちのようにきっと持ち得ていただろう。危険なのは山であり海である。まさか、我が家であろうはずはない。
にも関わらず、家族とのあたたかい夕餉の時間に、人々は思いがけず海に襲われたのだ。
地震の後に起きた、あの津波によって。
「自然に還るとは……一体なんなのだ」
とうとう、言ってはいけなかった言葉が出てしまった。
男は目を閉じた。
頬を伝う涙が、ボタボタと音を立てて握りしめた手の甲に落ちてくる。
「ちくしょう……。ちくしょう」
声があふれた。
止まらなかった。
男は叫んでいた。
野生の獣のような声だった。
どうしてもどうしても、止めることが出来なかった。
どれくらい経ったのか。
吠えるだけ吠えたお蔭か、少しずつ己が戻ってきた。
お堂の壊れた穴から、絶えることのない波の音が入り込んできた。
波に引かれる玉砂利の音。
風の音。
枝を揺らす木々の音。
そして、たくさんのものが腐って混ざった強烈な臭い。
男はそのまま、じっと身を任せていた。
男は鼻をすすりながら目を開けた。
「どこに行こうとも、俺の相手はこれなのか……」
男は静かに外に出た。
空が白み始めていた。間もなく夜明けである。
海に洗われた岩肌を木々が包み込んでいる。土は、男の足が離れたところから優しい弾力を持って跳ね返ってきた。慣れた感触に、男は思わず微笑んだ。
岬の端に出た。
空はいよいよ朱色に染まり、やがて金色の雲を連れた一筋の光を解き放った。男は念珠をジャリっと鳴らして手に収めると、脇に下げていた法螺貝を掲げ、膝を三度折った。そうして真言を唱えて吸い口を手で三度鳴らし、腹から絞った息を、勢いよく吹きかけた。
ボオ~~~ボオ~~~~
オオオオ~~~~
ボ~オ~~~オオ……
ボオ~~~ボオ~~~~
オオオオオ~~~~
ボ~~オ~~~オオオ……
浜に、法螺貝の音が響き渡った。
すると、この音に応えるように沖からはヤマセが迫ってきた。
それはたちまち浜に近づき、やがて浜全体を覆っていった。
壊れた家々にも、荒れた浜にも、白く濃い霧が総てを優しく包み込んでいた。
「海にもこれがあるのか……」
まるで、お山から見た雲海のようだった。
ヤマセの至る所には、雷のような光の筋を帯びているように見えた。この光をますます強めながら、雲海がどんどん近づいてきた。
なんだ?
思う間もなく、男はこの雲海に飲み込まれた。
途端に足の力を失った。
なんだ。
なんだ。
何が起こった。
自分を取り巻いているこれには、底知れない深さがあった。
白い。
黒い。
明るい。
暗い。
ここにあって、ここにない。
いや、ここにはある。
なんだ。
なんだ。
目の前がさらに暗くなった。
闇の奥に、細く灯る火が見える。
男は目を凝らす。
ひゅん。
ひゅーーーーーん……。
辺りを見回した。
星が光っている。
流れている。
一つや二つではない。
空間いっぱいに、星が一斉に飛んでいる。
なんだ、これは。
いや、違う。
俺が……飛んでいるんだ。
目の前に光が迫った。
強い光だった。
男はそれに手を伸ばした。
カッ!!!
途端に光は巨大な塊となり、意思をもっているかのように男に襲い掛かってきた。
やばい!
途端に強い力で引き落とされた。
落ちる!
落ちる!
男はとうとう、悲鳴を上げた。
気が付くと、男は元の岬にいた。
だらしなく仰向けになっている。
情けないことに冷や汗をかき、胸がバクバクと音を立てている。
もしや……。
もしや、これが。
いや、まさか。
しかし。
しかし。
「弘法大師様がおっしゃっていた、あの……」
男の脳裏に、強烈な残像が刻まれた。それは荒れ狂う波ではなく、その波を静かに見下ろす「不動の石」の姿だった。
――刻め。
誰の声ともつかぬ響きが、男の芯を貫いた。言葉は風に消える。家は波に砕ける。ならば、大地に根を張る石に、決して消えぬ叫びを刻みつけるしかない。
男は、光の中に「未来の命を守るための楔(くさび)」を見た。
修験道は、古代日本の山岳信仰と仏教が融合したこの国独自のものだ。
その開祖は、役小角。役行者とも呼ばれているが、男がつぶやいた弘法大師と呼ばれる空海もまた、若き日の修行で聖地を巡り、とうとう真言密教と修験道を結び付けた尊い存在だった。
その空海が若き日に修業していた際「日輪」が口の中に飛び込み、そこで悟りを開いたと史実では伝えられている。
まさか。
いや、まさか。
そんな大それた……。
涙が零れた。
昨夜のものとは全く違う。
感謝?
いや、違う。
感動?
いや、それをはるかに超えたものだ。
「は……。ははっ。…ははは」
解る。
解るぞ。
これだ。
これこそが。
「悟った……。
これが、俺の悟りだ」
人がこの世に住む前の時代は、きっと世の中は等しくあのような姿であったのだろう。
いつしか人はこの地に生まれ、住み、生きるために生業を始めた。
そして「自分たちが住みやすいよう」に、少しずつ少しずつ生まれ持った土の形を変えていったのだ。
豊かな水、豊かな木々。
動物たちはそこで生き、そして死ぬ。
家屋が飛ばされるような大風や大雨があっても、木々も動物もそれに応じ、自らの棲み家や通り道だけを変えてゆく……!
自然に逆らわずに己を変えてゆく。
共に在るとは、こういうことだ。
これこそが知恵なのだ。
男は今、ようやく震えた。
男は、地引き網をしていたときに聞かされた話を思い出した。
「なんもかんも……。そったにね、すぐど津波来るような、大きな地震でなかったのんす。ほんでも、家の爺さんが、逃げねばわがんねって言うもんだがら、村の高いどごさ逃げだったアの」
「そうでしたか……」
お気の毒でした、とは言えなかった。
「ほんで、海のほう見でだっけば、潮引いだって声が下から聞こえでス。そのうち恐ろしい音っこ響いて来て……。提灯の明りがナンボも、あっちからこっちまでズラっと並んで、みんなしてコッチさ向かってだったんだけんとも……海のほうがら……たちまち消えでって……。オラ、それ、見でるしか出来ねくて……。叫んだんだよぉ……。オラね、叫んだんだけんともねえ……」
慰めの言葉がなにもない。
「お前様が、どこから来たのか分からねぇけんともここさ来てけで、ああして流された人達を揚げでもらって……。どうお礼したらいいんだがな……」
その人は泣きながら、男に両手を合わせていた。
熱い。
熱さがこみ上げてくる。
男の胸の内に、やらねばならない使命のようなものが熱くこみ上げてきた。すると、目の前の雲海が男の足元にぐんと迫り、せり上がり始めた。
それはまるで、高波のようだった。
ふと何かの気配を感じると、男はあたりを見回した。
何もなかった。
ーー気のせいか。
ついと視線を下げると、そこには苔むした恵比須や大黒の石像が静かに海を眺めていた。
優しいまなざしだった。
「そなた様方はずうっと、こうしたことを、こちらで見ていらしたのか……」
人が生きる様も。
人が、このように終わる様も。
何度も何度も、ここで繰り返す様々なことを、この方々はじっと見ていらしたのだ。
男は手を合わせた。
祈りはいつも、悲しみや苦しみから生まれる。だとしたら。
そうか。
ここが、己の場所か。
太陽が雲を押しのけ、さらに力強く昇って行く。
「参ろう」
男は再び法螺貝を立てると口をきゅっと結び直し、踵を返した。
男の背中を、黄金色の朝日が照らし出していた。
参
「したら……。この土地を手放せと、村の衆に、儂が言えと?」
浜の長は顔をしかめた。
「何も、すべてを手放せと言っている訳ではありません。津波が来たところだけは、このまま海にお返しするのが一番良いと言っているのです」
「お前様が言いたいことは、分からない訳ではない……。儂にも思うところはある。んだどもな、家々に伝わって来たものを守りたいと、皆が口を揃えて言うのっさ。それが今の皆の衆の、生きる力なのっさ。
そこさ、この儂が皆の心の逆を説くなど、どだい無理な話だと思わんか。先祖代々守ってきた屋敷や田畑だ。それを、お前たち自分の代で手放すのだぞ、とは儂にはとても言えねえ……。
大事なものを失くしたばかりだ。ここを元の姿に戻したい、何とか力を貸してけろと、泣きついてくる者たちが後を絶たねえんだ」
元の姿にもどしたい。
グラッとした。
この言葉に、男の心は揺らぎそうになった。
ーーそれも分かるのよ。
「ごもっともと思います」と、ここは静かに言葉を置いた。
「分かるじゃろ。のう。そなたも、お山はお山、海は海と、割り切ってくれはしまいか」
「お山も海も、同じ自然にございます。そこに違いがあるとは思いませぬな」
男はそれでも、ハッキリと応えた。
長は、言葉を返せなかった。
(……怖いのだよ)
長は思った。
この男がやろうとしていることは、民がしてもらいたいこととは真逆である。
悲しみに打ちひしがれながらも必死に立ち上がろうとしている炎を真っ向から否定して、頭を冷やせ!とサバっと水を掛けるようなものだ。
(いやあ……出来ねえ。それは、それは、まだ、出来ねえ)
長は、言葉が続かなくなった。
「……私のせいにしなさいませ」
男が口を開いた。
「私がそう説いたと、皆にお伝えなさいませ」
「は! 儂の代わりにお前様が矢面に立つと言うのか?」
言ってすぐ、長ははっとした。
(これでは……自分が、矢面に立ちたくないと言っているようなものだ)
長は身を固くした。思わぬ自分の言葉に、ぎゅうと握った手がワナワナと震えた。
男はそれを目で横に流し、次の言葉を続けた。
「お気遣いなく。それでは、私はこれよりこの辺りの山を歩き手頃な石を探し、それに文字を刻みたいと思います」
「おお、もしや、何かをお祀りくださるのか! いや、これは失礼した。なるほどそうであったか。構わぬ構わぬ。それならば民も大いに喜ぶであろう」
「いえ、そうではございませぬ。これより先に家を建てるな、と刻みましょう」
「……なんと!」
長は驚いた。
「分かっておるのか。みなを、敵に回すことになるのだぞ!」
「天の理を人に伝えるが我らが道。私は、それを示すだけにございます」
「天の理、であるか……」
「はい。私も信仰人(しんこうびと)の端くれでございますれば。大師様と己(おの)が信じた道に、背くわけには参りませぬ」
ごめん、と、男は立ち上がった。
その姿はたちまち、漆のような闇夜にすぐに消えていった。
吹き抜ける夜風の中を、ヨダカが大きな声を立てて飛んでいる。
「儂は、間違ってなどおらぬ。皆のためなのだ。そうだ、儂は、誤ってはおらぬ……決して」
決してと呟く海の長。
だが、その手から取り返しのつかない何かがすり抜けてゆくようだった。
海のそばに住む民を守るといった、この手から……。
四
高野の山に身をとどめ
救いのみ手を垂れ給う
おしえのみおやに帰依したてまつる
願わくは無明長夜(むみょうじょうや)の闇路(やみじ)をてらし
二仏中間(にぶつちゅうげん)の我等を導きたまえ
南無大師遍照金剛。
南無大師遍照金剛。
南無大師遍照金剛……。
男は、御宝号を唱えていた。
御宝号とは、真言宗の祖である弘法大師に帰依し、その教えを信じておすがりすることを意味しているという、この道において最も尊い言葉である。
男はまず、海に己を浸した。
ザブザブと胸まで海に浸かり、両の手のひらを胸の前で近づけ、左右の指を互い違いに差し入れた。
密教の手印の一つ、金剛合掌だ。
右手は仏。左手は衆生を表すといい、両手をしっかりと組み合わせることで両者一体となり、仏の慈悲や智慧、加護や救済、恩恵などを得ることが出来るといわれている。
そうして身を清め整えたあと、男は昼夜を問わず山から石を運び出した。
やがてその石を並べると、男は力を込めて文字を彫っていった。
「助かれ! 助かれ! 助かれ!」
男は夜を徹して彫り続けた。
「助かれ! 誰もかれも、すべて! 頼む、助かってくれ!!!」
幾日も幾日も、男は一心不乱に彫り続けた。
こけた頬に、伸びた髪と髭がべったりと張り付いた。着のままの衣に染み付いた男の汗などが混ざり合い、お堂には異臭がこもり始めた。
同じ時、女はお山に向かっていた。
女は白装束に身を包み、まだ暗いうちに庵を抜けてお山へ向かった。
シャン。
錫杖が鳴る。
……いい音。
思わず笑みが溢れそうになった。
山道は、濃い朝霧に覆われていた。うっかりすると足を踏み外しそうな急な斜面の難所が続く。しかし、女の身体はまだその道を覚えている。身体の記憶に任せて歩みを進めると、やがて立ち止まった。
鬱蒼とした茂みに、二本の石の柱が聳えている。
女人結界の石門である。
少しの躊躇を経て、女はそこに踏み入った。
ブワアッ!!
頭のてっぺんから爪先まで、体中の毛が一気に逆立った。
えげつないほどの恐怖が襲ってきた。
こうしたことは、初めてではない。
これまで何度も経験はある。
けれど、これはかつてないほどの力だった。
ドシン……!
今度は、岩がのしかかったような重さに襲われた。女はつぶされそうになった。錫杖がビリビリと雷に打たれたようにしびれている。
「かはっ」
吐いた。腹の中のものが遠慮なく絞り出された。
空になった腹だけでなく、全身を太い縄で縛り上げられているかのようだ。
止まれと言われているのが分かる。
来るなと言われているのが分かる。
「行かねばならぬのじゃ! 山神様にお会いするのじゃ!」
女は叫んだ。
「ご眷属様! 通せ! 通しなさい! さもなくば、山神様の怒りに触れるのは間違いなくお前たちの方じゃ!!!」
ふっと、空気が少し軽くなった。
ーー今だ!
女は走った。
追ってくる何かの気配を振り切るように走った。
里に戻る気など、毛頭ない。
里の皆は、心の底から見事に海の人たちを助けている。
まるで、この時が来るのを知っていて日ごろから備えていたかのように。
「姉さま、ほんにありがとがんす」
女の耳元に、浜から逃げてきた女たちの声がよみがえった。
「ほんにねえ。まさかここが、獅子様のふるさとだったなんて」
里では、秋の豊穣に感謝するための縁日が行われていた。
山の神様は春に里に下がり、田の神様として祀られる。秋の実りを迎えると、村人はこの実りに感謝をささげ、神様は冬に山へとお帰りになるといわれている。
「おらの家の方さもね、おんなじお顔の神様がいらっしゃるの。ほんでね、権現様って呼ばれていてね、春に豊漁のお願いをするお祭りするんだよ」
「んだあ。まさか権現様が山の神様だったなんて思ってもみなかった」
「ありがたいねえ。ほんに、ありがたい……」
女たちは、なんともいえない感激をまっすぐに伝えてきた。
奉納の獅子舞を眺めるその眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。舞の間中、女たちは両手をずっと合わせたままだった。
「のう。そなたたちは、これからどうする?」
女は問うた。
「……。ここに居たい」
「居るか」
「うん。逃げてきちゃったもの。もう帰れないよ」
「申し訳がたたないしね。あのさ、ここでさ、祈ってていいかな」
「な。神様にもだけど、浜にもさ、手を合わせていたいんだよ」
女たちはそう答えた。
「居ればいいよ!」
里の女が寄り添った。
「んだ! それでさ、向こうの話しもたくさん教えてよ。ホラ、おらたちは海なんて見たことないからさ」
「そうそう! 聞きたい聞きたい!」
女たちの向こうのお囃子の音が、限りなく優しく、平穏な里に響いていた。
なんでもないあの景色が、とんでもないほどに女の胸を締め付けていた。
ーー里は、もう大丈夫。
そう。何の心配もない。
きっと、もっと良い里になってくれるだろう。
それに、あの男のいない里などーー。
そこまで思うと、女はフルフルと頭を振った。
分かっている。
男が、二度と里には戻っては来ないことを。
ふと何かの気配を感じた。
頭に結んだ傘をついと上げると、霧の中にぼんやりと人の影が見えた。
「ああ……」
果たして、男の背中である。
影が、ゆっくりと、こちらを向いた。
「よお。お参りかい?」
「……はい」
女は驚かなかった。
顔は見えなかったが、柔らかく穏やかなその声に、つい笑顔で答えてしまった。
いつもこうなんだから……。
女はいま、正直に自分の心を振り返った。
果たして自分は愛されているのだろうかと、この男の胸の中で何度も何度も考えた。海には翌朝に出るよと言った意味がなんなのか、女ももちろん分かっていた。悔しいほどに自分の中にある、女の心に向けたこの男の思いやりだ。
だったら男の優しさに甘えて、委ねて、心のままに肌を重ねて気のすむまで寝屋で過ごせば良かったのにと、何度も何度も思っていたのだ。
女はあの時の自分の心を恥じると、再びあの影を追った。
(なんとも幼い考えであったこと……)
いくつかの急な岩場を登り藪の中を歩む男の影は、離れもしなければ近寄りもしない。不自然なほどずっと同じ距離を保って、女の前にある。
それは他のどんな言葉よりも確かだった。
「我らの師匠は、神仏のみよ」
男の示す総ては、女にとってどれも本当だった。
(分かる。……今なら、分かる)
本当に山伏なのだ、あの男は。
そして、それは決して終わることのない、私のたった一人の兄弟子なのだ。自分はこんな男の心と、ずっと共にあったのか……。
新しい感動が、今、女の心に生まれていた。
やがて、うなるような水音が近づいてきた。女の歩みは早まった。
「はあ……。いらした……」
目の前には、目も眩むような崖があった。その向こう側には鉛色の空が広がっている。滝は、空を横に真一文字に切り裂いたところから、全くそのままの幅で流れ落ちている。
ドドドドドドドド……
ドドオ、ドドドドオオ、
ドオオオオオ……
吐き過ぎて空っぽになった腹の底に不気味に響く、まるで地鳴りのような音があたりを支配していた。
桁違いの強い水圧が永い年月を掛けて厚い岩盤を軽々と打ち抜いている。
滝壺は青く白く渦巻いていて、その深さは全く見当がつかない。
重い霧のような飛沫(しぶき)は広い範囲に及んでいて、もはや女の顔にびしゃびしゃと届いている。
この滝のことを知る人は、もう誰一人として居ない。
禁を破った重みと疲れで、女の息がだいぶ上がっていた。
「なまりましたな。情けないこと……」
思いがけない自分の体の変化に、女は言い訳をした。長くなってしまった里暮らしの日々を、ほんのひととき懐かしんだ。
荷を降ろすと、女は身につけていた装束をすべて脱ぎ捨てた。
柔らかい朝日が、女の身体を足元から照らし出してゆく。
もう、何も怖くはなかった。
「山神様。参りますぞ」
お山の神は醜女(しこめ)であると伝えられていて、女の入山を特に嫌うとされている。たとえ巫女であったとしても、深く山に立ち入るなど決して許されることではない。それでも禁を犯して女は山に入り、ここで自分の体の総てを示した。
これは巫女として身命を賭した秘中の術であり、一人の女としての最期の覚悟であった。
「我が身を、我が命を、山神様にお預けいたします。願わくは……この土地とすべての人々に。また川の流れ行く先の、海のそばで生きる人々に。皆様方の尊きお導きとご加護とを、どうぞ変わらず賜りますよう!」
すぐ近くに、男の影があった。
その影が、こちらに手を伸ばした。
女はすっと背を正した。
「そなた! そなたはこの先もずっと、ご神仏と共にあられるか!」
「受け給う!」
「その覚悟は真であるか!」
「受け給う!」
「私は禁を犯してここまで参った。罪人(つみびと)に成り下がったのじゃぞ!」
「受け給う!」
「それであっても、この手を取るか! そなたの生き恥になるやもしれぬ罪深いこの手を、そなたは真に取れるというのか!」
「至極当然!」
男の声には、滝の轟音をものともしない本当の強さがあった。
「神仏を焼き、天の理を忘れてゆく世の中の方が、よほど罪深いわ! そんな人の世に、なぜそなたが裁かれねばならぬ! それが道理というならば、そんなこの世など捨て置いて、そなたと共に地獄の底でも歩き通してやるわ!!」
「……ふ」
思いがけない言葉に女は笑った。
「お前様という人は……。まこと救いようのない、馬鹿な山伏にございますね」
「俺よりも、世の中の方がよほど馬鹿だ。それでも、それでもどうして」男は続けた。
「こうも、捨て置けぬものか」
「もう……。めちゃくちゃよ」
頬を伝うのが滝の飛沫か涙かも分からないまま、女は笑った。
男も笑った。
「問答はもう良かろう。
それ、そこに神々が大団円で待ちかねておるよ!」
次の瞬間。
一陣の風が鋭く吹きぬけた。
滝を囲むように張り巡らされた豊かな木々らが、一斉に同じ方向に大きく揺れ、回り出した。それは支流を集め本流となる大河のように、ひとつの大きな流れとなった。まるで、別の巨大な生き物がここにいるかのようだ。
それら全てが大きな風となり、渦を描くように一気に上に跳ねあがり、鉛色の空を目指して昇っていった。
男と女の両の目だけが、その行方を追っていた。
さほど時を置かず、次の異変が起こった。
お山にある全ての枝葉に留まっている雫が、ひとつ残らず一斉に土に向かって落ち始めたのだ。
ザアアアアアアーーーー!
ザアアアアアアーーーー!
ザザザザザアアアアーーーー!
山の水は容赦なく叩きつけた。
足元が大きく揺れた。
砕けてゆく岩に足を取られ、女は短い叫び声を上げた。
落ちる!!
女は覚悟した。
男はそれを認めるより早く、反射的に飛び出した。
ぴちゃーん……。
たつ。
たつ。
どれくらい時が経ったのだろう。
ようやく、お山の全ての音が消えた。
男は、そっと目を開けた。
目の前の女は気を失っている。
その頬を、陽の光が照らしている。
バッと、男は上に目をやった。
それは男の目に強烈に映りこんだ。
滝の真上に、大きな日輪が姿を表していた。
見ている。
いや、天に見られている。
風がそよいだ。
花が揺らいだ。
蝶が舞っていた。
男はしばらく言葉を失った。
見事なまでの、壮大な美しさだった。
「お赦し、なされたのか……。
おいっ! 神々が、そなたをお赦し下さったぞ!」
「は……」
女は、男の懐でうっすらと目を開けた。
「全く。とんでもない女だ」
伍
「長のじい様! どうじゃ、動いたぞ!」
いつの頃からか、三陸の浜の至る所には石碑が連なっていた。
そのどれもに「これより下、家を建てるべからず」と太く力強い字体で記されている。
けれど時は、男の願いからずいぶん離れたところで自在に流れていた。
本当にあの惨事があった浜なのかと、生き残った者たちも目を疑う風景が豊かに広がっている。
ウミネコが飛び交う浜では、大きな投網が広げられていた。
女たちは赤子を背にしてかやかやと語り合いながら、庭や軒下に捌いた魚を並べている。
家々の竈からは、青色を帯びた煙がたなびいている。
この頃は豊漁が続いていた。
船はひと回りも大きく頑丈になり港に整然と並んでいるし、石垣の上に聳える入母屋造りの荘厳な瓦屋根の家が、そこかしこに増えていった。これはのちに「浜の御殿」と呼ばれるもので、地盤の強いとされるこの地域の独特な風景でもあった。
男たちは海の仕事を終えると、毎日のようにひとところに集まっていた。
「これで、ようやくだなあ」
「おうよ。なんでも山から来た坊様がこさえていったとか言ってたな」
「分かるけどもさ、っと。いつまでも、こんなのがあるのも、っと、どうかと! 思って! よーーー!」
よいしょ、とコテを担いだ男が額の汗をぬぐいながら笑った。
「浜も新しく生まれ変わったんだ。世話になったな。ありがとさんよ!」
喉元を過ぎれば熱さを忘れるのが人の常だ。
「邪魔だ」「縁起が悪い」というのが本音だったのかは定かではない。だが石碑は、年々海に近いところへ追いやられていた。こうすることで、常に家が石碑の上になるように整えることが出来る。
人々は再び波打ち際に暮らし始めていた。
浜は、賑やかさを取り戻しつつあった。
「よしっ、と。どうだ! これが、俺たちの力だ!」
自分たちの不屈の力がこうして浜をよみがえらせたのだと人々は心から信じ、湧き立っていた。
「のう。おじじ様の具合はどうじゃ」
屋敷の女主人が、下女に問うた。
「へえ、いつもと変りなくおいでです」
「そうか。この村をここまで支えてくれた大事なお方じゃ。心して仕えておくれな」
「へえ。あ、そう言えば奥様」
「何かあったか!」
「あの、頬に涙の跡があったようでやんしたが……」
「涙とな。ああ、それはきっと、皆のあの声がおじじ様にも聞こえているのかもしれぬぞ。さぞ嬉しく思っていなさるのだろう。我等にはとても及ばぬことを、おじじ様はなされたのだものな」
下女は大きく頷いた。
年老いてしまった浜の長は、長らく床についてた。
皆の声は、確かに浜の長の耳に届いていた。
「のう……一体何が、真実に、正しいのであろうなあ……」
長は外に目を向けたまた、命の際にそう呟くと、ふー……と細く長い息を吐き、ひとりこの世を去った。
(世の中の方が、よほど罪深い)
かつて男が吐き捨てた言葉は、この時をもって力尽きた。
だが、それはわずか四十年ほどしか続かなかったなどど、当時の誰が思ったろう。
昭和八年三月。
またしても、大きな津波が浜の村々を襲った。
多くの家が波に呑まれ人々は逃げ惑った。
その人の中に、一人の若者がいた。
若者の目の前で、畑のある石垣が、がんらがんらと崩れ落ちた。
そのほんの一瞬、視界の端に石碑を認めた。
その瞬間、若者はかつて祖母から聞いた「山から来た坊様」の古い言い伝えを思い出した。そんなことが本当にあったのかと興味にかられ探したこともあったが、その時はなぜか見つけられなかった。結局はただの言い伝えだったのかもなあと、祖母は遠くを見つめていた。
それが今、この世に唐突に現れた。この地震によって土砂が崩れ石碑が顔を出したわずかな瞬間に、若者は偶然にも立ち会ったのだ。
ーーあれだ!
「これより下に家を建てるな」と刻まれている、あの石碑だ!
泥土を噛み、絶望に膝をつきかけた若者の目に、その「文字」が飛び込んできた。 崩落した土砂の隙間から、まるで誰かがそこを指し示したかのように、剥き出しになった石の肌。
ーー此処より下に家を建てるな。
苔むし欠けながらも、その文字だけが異様な熱量を持って若者の視界を焼いた。それは単なる警告ではない。何十年も前から、この瞬間のために放たれた「怒号」であり、同時に震えるほどの「慈愛」だった。
「……あ、あああッ!」
自分のものではない叫びがせり上がった。若者は、石碑に宿る執念に背中を突き飛ばされるようにして、叫んだ。
「上だ! 山へ走れ! 坊様の石だ! 石の教えに従えッ!」
喉が裂けんばかりの咆哮も、まもなく波の轟音にもみ消される。
「助かれ! 助かってくれ!!」
若者を見送るように、がらがらと石碑は崩れていった。
もはや誰にも、どうすることも出来なかった。
彼に導かれた数人の村人だけが、石碑のさらに上、かつて男が籠っていたという高台のお堂へと駆け上がり、眼下を見やった。
黒い壁のような海。
猛り狂う轟音とともに、浜の御殿も、新しい船も何もかもを諸共に飲み込んでいったのは、この直後であったそうだ。
すべてが海に消え、恐ろしいほどの静寂が訪れた高台で、肩を寄せ合う影があった。
お堂に辿り着けたのは、たったの四人。
村の数からすれば、あまりに無力で、小さな数かもしれない。
けれど、その四人の胸には、確かに熱い鼓動が脈打っていた。
明治のあの日、男が血を吐く思いで石を刻み、女が命を削って滝に祈った、その「執念」が、数十年後のこの夜、四つの命を死の淵から引きずり上げたのだ。
暗闇の中、若者は震える手でお堂の柱を掴んだ。そこには、かつて誰かが修行の果てに遺したような、微かな香の匂いが漂っていた。
奥羽の山深い滝のそばには、今も二本の錫杖が寄り添うように残されているという。
男と女の行方は、誰も知らない。
けれど、あの石碑に込められた「助かれ」という祈りは、確かに一人の若者の足を止め、命を繋いだのだ。
のちに新しい長となった若者は、村の姿を根底から作り替えていった。
「屋敷は山へ。番屋は浜へ」
この御触れを、生涯、揺るぎない「シルシ」として掲げたという。
空には、あの日と同じ、眩いばかりの日輪が輝いていた。
つう。
小さな朝露が集まったひとしずくが、滝のそばの錫杖を優しく伝っていった。
古からの強い強い願いたちよ。
今に届け。
どうか。
どうか、助かれ。
完
最後までお読みいただきありがとうございました。
本作は「#創作大賞2026」応募作品です。
お気に召しましたら、ぜひ「スキ」で応援していただけると励みになります!
以下もご紹介させてください。
📖【もう一つの創作大賞応募作品・全12話完結】📖
本作で描いた「先人たちの覚悟と祈り」を、日本の神話の舞台に全力で書ききった長編連載小説です。あわせて受け取っていただけたら嬉しいです。
【連載小説マガジン】『その剣、とこしえに國を護る礎となれ~宮簀媛~』