
【その剣、とこしえに國を護る礎となれ~宮簀媛~】⑫全12話
神話に刻まれなかった、ある妃の『拒絶』と『覚醒』の物語。本作は全12話の連載小説です。【最終話】
第12話 あはれ、姉子よ
オオタカは、岬の野だたらの結界の前で一心に手を合わせていた。
「……頼むぞ」
オオタカが向かおうとしているのは、野だたらではない。
その奥にしつらえたばかりの「床釣り」である。
野だたらの炉は「一代(ひとよ)」といい、ただ一度きりしか使えない。炉の熱で粘土質の壁がドロドロに溶けてしまう。そのため、鉄ができれば壊して封印するのが常であった。
けれど。
オオタカは、タケル殿から剣の命を預かっている。
『傷も曇りも許さぬ』と。
一度きりの「炉」では、それは叶わない。
社の建立にあたった頃、オタカは野だたらの奥にある不自然な「穴」に気づいた。
ーーこれは。
オオタカはその日から、新たな「床釣り」を造っていたのだ。
あの雨の日も、あの風の日も。
ーー訳のわからん長い穴に、こんな「かくし」があったとはな。
この「床釣り」の壁には、オオタカが指の皮を擦り剥きながら突き固めた炭と粘土が、幾重にも層を成している。
この時、オオタカは微かに光を宿してたように見える「真砂土(まさごち)」を見つけていた。これは、地の湿気を吸い出すのに最も優れ、欠かせない土である。
オオタカはこれらを丹念に重ね、ようやく「床釣り」を完成させていたのだった。
たとえ大雨が降ろうとも、このからくりがある限り、地の底から這い上がる湿気を断ち、炉の熱を逃さず、その身にしっかりと閉じ込めることができる。
偶然という言葉などで片付けられるものではない。
「今、この時」があると肌身では分かっていたが、こうして目の前に突きつけられると、やはりぞくりとする。
『神はな、おわしまずぞ』
オオタカは、姫の言葉を振り返った。
そうだ。
神は、ある。
ーーだから。
ここであれば、出来る。
オオタカが炉に火を入れると間もなく、炉の奥底で熱い風が渦を巻いた。
ざらり。
その風が、オオタカの胸騒ぎをとひと舐めした。
オオタカは、静かに言葉を放った。
「タケル殿は……ご無事か」
間もなく、久方ぶりよの、と、あの声がオオタカの頭の中に響いた。
この声を懐かしく頼りと思えてしまう縁が、不思議だ。
「果てた」
「それは、まことか!」
「我を手放した時に決められたこと。あやつが選んだ通りになったまでよ」
オオタカは押し黙った。
「愚かとは思っておらん。
良いとも思っておらん。
望んだように生きたのだ」
オオタカはまだ、言葉がない。
「痛みは、必要なもの」
「……俺が、分かるように言え」
「良いか、オオタカ。
辛苦は、研磨。
研磨は、痛み。
痛みは思考を生み、行いとなる。
行いは方向を定め、方向は行く末を創る」
「研磨……」
「そなたは我を打つ。なかなかの痛みよ。それをそなたは『鍛える』と呼ぶであろう?」
ーーその通りだ。
「だが、我は強くなる」
「あの方はどうなる。残された姫は……」
「さあの」
ーー辛苦は研磨。
オオタカは心を定めた。
「俺は、そなたを打つ。覚悟は良いか」
「ああ。来るがいい」
岬に煙が上がった。
張り巡らされたしめ縄の外では、タエが一人、手を合わせていた。
◇
宮簀媛は、床に伏せていた。
眠りについたと見えればあの御方を呼び、目を開いたと見えれば涙が溢れる。食もほとんど摂ることができず、その姿は見る間にやせ細っていった。
束の間に開かれる二つの眼は空を漂うばかりで、定まるところがない。
白菊は社から人を遠ざけた。
宮簀媛の床には、白菊が常に寄り添っていた。
肩で揃えられた宮簀媛の髪には、白いものが目立つようになっていた。それがなお、白菊の胸を締め付ける。
白菊は、喉元まで押し寄せる嗚咽を堪え、宮簀媛に寄り添い続けた。
……なんと
……なんと、おいたわしきお姿よ……
社は、いつ明けるとも知れぬ闇に包まれていた。
遠い山々の頂きが、白くなり始めていた。
◇
オオタカは打っていた。
だが、どうしても拭えぬ迷いが行く手を阻む。
裂けてしまった剣。
これは自分の欲が招いたことではないか。
あの時、最後のほんの僅かな時に、俺は、かの人を思い浮かべてしまった。
あの時の俺の欲が!
心が乱れる。
オオタカの手が止まった。
「俺のせいだ! 俺の……せいだ!」
「オオタカよ、打たぬのか」
「……」
「まあ、好きにするがよい。すべて選んだ通りになるだけじゃ」
「なぜだ! なぜ、俺なんだ!」
オオタカは炉を覆う筵(むしろ)をたくし上げ、熱気の籠もる「床釣り」の外に飛び出した。吹き付ける海風が容赦なく肌を刺した。
己の不甲斐なさを叫ぼうとしたその時、天からでも地からでもない一陣の風が吹き降りてきた。
ーーやるか、やらぬのか。
「タケル殿……?」
姿は見えずとも、そこには確かに気配があった。
地を這うオオタカを、あの男の声が呆れたように見下ろしている。
ーーオオタカ、そなたの仕事は、剣を鍛えること。
「……どう、打てば良い……」
震える声で問いかけるオオタカに、風が優しく耳元で囁いた。
ーー諸刃は、寂しいものよな。切った後には双方に怨みと悲しみが残る。私は、護るために戦いたい。……頼んだぞ、オオタカ。北の山々が私と同じ色に染まる頃、私は必ず妻のもとへ帰る。
「タケル殿? タケル殿!」
ーー友よ。
ざざんっ、と、岬の下から大きな波の音が響いた。
辺りはすっかり白んでいた。
紫がかった空のひとところが、やがて茜色に輝き出した。
一筋の光明が、天に向かった。
オオタカは「床釣り」に戻り、炉の中の剣に目を向けていた。
日本武尊の言った「諸刃の剣」は、炎の中でぬめった水のような光を放っている。
……泣いておるのか。
その身が、二つであるからか。
ならば。
その片方の涙、俺がこの手で止めてやる!
オオタカは炉から剣を引き出し、砥石を握りしめた。
「良いか、痛いぞ! 耐えよ!
これよりそなたは、新しき命を生きるが良い!」
オオタカは渾身の力を込め、剣の片方の刃をざっくりと削ぎ落とした。
次の瞬間、
――シュイィン!
火に溶けた刃の一部がオオタカの目に飛び込んだ。
衝撃が脳を突き抜けた。
遅れて、じゅう、と肉の焼ける悍(おぞ)ましい音がした。
視界の半分がみるみる漆黒に染まってゆく。
その闇の向こうに、あの日の姫の横顔が見えた。
御子を抱き、溢れそうになる涙を食いしばりタケル殿を見送った、あの気高い姿が。
ーー逃げるものか。
逃げてなどやるものか!
残された左目が鋭く剣を射抜いた。
「逃げまいぞおおおおお!」
しゃ。
しゃ。
しゃ。
しゃ。
……しゃ。
『よい』
この声に、オオタカはようやく剣を研ぐ手を止めた。
しっとりとした重みのある光を放った剣が、そこにいた。
炉の中でぱちりと最後の音がたち、小さな火の粉がふわりと飛んだ。
終わった、か。
オオタカは、前かがみだった自分の背中をようやく起こした。
やがて清らかな白い布を数枚取り出すと、それを幾重にもして丁寧に包んだ。
ふと、日本武尊を見送る時の宮簀媛を思い出した。
あの時も、こうして剣は布に包まれていた。
オオタカが今手にしているのは、片方の刃を削ぎ落とし新しく生まれ変わった剣である。
神の子である日本武尊のすべての想い。
宮簀媛のすべての想い。
そして……見ているしかなかったオオタカ自身の想い。
このすべてが込められた、正しく神と人とが交わった剣なのだ。
……産まれたぞ。
オオタカの胸に、熱い思いが込み上げてきた。
好ましかったのだ、姫。
宮簀媛の婚礼の晩にちくんと傷んだ心の正体を、オオタカは今ようやく自覚した。
誰にも言うまい。
いや、タケル殿はすでに気が付いていたのであろう。
酒を酌み交わしたこともない。
共に年を重ねることなど、この先永遠にかなわない。
だが。
この剣に、タケル殿がいる。
この自分の想いと共に、ここにあるのだ。
「……友よ」
口にすると、オオタカの目が潤んだ。
そしてそれは、優しく頬を伝った。
剣は、まだ静かだった。
ーー痛かったであろう。
しばらくは、ごゆるりとなさるがよい。
ーー我らの、御子よ。
オオタカは剣を胸に抱いた。
オオタカは社へ向かった。
その途中に、こちらを祈るようにしているタエの姿があった。
タエはオオタカの姿を見るなり、息を呑んで立ち尽くした。
白い布で無造作に覆われた、その右目。
布には、じわりと赤黒い血が滲んでいる。
タエには分かった。
オオタカは、自らを賭したのだ。
ーー成されたのですね。
タエは、改めて両手を合わせた。
「……すまぬ。まだだ。いま少し、」
片方の目で、オオタカはタエに詫びた。
タエは頭を下げて見送った。
剣をこれ以上傷めぬよう、精一杯気を遣いながら歩みを早めた。
息が白い。
この一夜は、オオタカの肉体をすっかり食い尽くしていた。
坂道を白くしてゆく雪と、その下にある石に足を取られた。
それでも顔を上げ、社へと向かった。
「奥方様、いかがなさいました」
宮簀媛の手を取っていた白菊が、慌てたように言った。
「なにやら……」
「なにやら? あ、奥方様?」
宮簀媛は床を出て、縁に向かった。
「いけませぬ。外は、お体に障ります」
「白菊、見てみよ。雪だ」
「え、あ……」
ふさ。
ふさ。
ふわりふわりと、それは庭に落ちてきた。
あちらからこちらまで見渡す限り、それは空からゆっくりと落ちてきた。
「鳥の羽のようよな」
「……はい」
白菊は、白い着物を宮簀媛の背に打ち掛けた。
二人はしばらくそのままでいた。
ぴく、と宮簀媛は耳を立てた。
「……若子(わかこ)じゃ」
「え」
「若子じゃ。オオタカじゃ!」
白菊はそちらを見やった。
するとそこに、白い布を胸に抱いたオオタカが姿を現した。
宮簀媛は、ごくりと喉を鳴らした。
オオタカはゆっくりと近寄った。
じゃり。
じゃり。
オオタカは静かに歩みを進めた。
宮簀媛は引き寄せられるように、縁の端に近寄った。
二人は、合った視線を離さなかった。
離せなかった。
「オオタカ……」
乾いた声で、宮簀媛がようやく口を開いた。
「……そなた、目を」
オオタカは顔を伏せなかった。
左に残る目は、強く、美しかった。
「穢れのまま参った。すまぬ」
ーー穢れ。
はは。
そうか、そなたもか。
宮簀媛は微笑んだ。
「なんの、オオタカが穢れであろうはずがない。
禊じゃ。そなたは禊じゃよ、オオタカ」
そうか、と笑うと、オオタカは胸に抱いた白い包みを宮簀媛に手渡した。
「ぐっすりと休んでおられる」
「……そうか」
「良いお子じゃ」
「そうか」
宮簀媛は震える手で剣を受け取った。
ドクン。
ドクン。
僅かだが、手に御子の鼓動が響いてきた。
ーーああ。温い。
宮簀媛の手から、胸、全身へと、その温さが広がってゆく。
「お健やかだ。安堵せい」
「オオタカ……怖かった……」
オオタカは驚いた。
「若子までかと。怖かった……」
初めて見る、宮簀媛の弱さだった。
ああでも、この弱さを俺はずっと理解していたのだ。
オオタカの鼓動が早まった。
その時だ。
オク。。。
オク。。
空に、聞きなれない声がする。
三人は辺りを見回した。
灰色の雪雲と、ふわりふわりと静かに降り始めた雪。
その奥側の太陽が雲を更にまぶしくしている。
オク。。
オク。
宮簀媛の肩が、僅かに震えた。
……今、なんと?!
「奥」と呼ばれた日々が、目まぐるしく思い出された。
耳に馴染んだあの、
あの、愛おしい、我の呼び名じゃ……!
その声はだんだんとこちらに近づいてくる。
羽音までも分かる。
三人は顔を見合わせた。
オオタカは二人を、いや、三人を支えるかのように自分を後ろにした。
やがて、真っ白い翼が見えてきた。
それは太陽を背にして、まっすぐにこちらを目指している。
オク。
オク!
オク!!
目の前に、それまで見たこともない大きく美しい、白い鳥が舞い降りてきた。
その鳥は首を二三度ほど左右に振ると、トットットッ、と足音を鳴らして近づき、宮簀媛の目の前で声を上げた。
天の曇りを払うような、どこまでも高く澄み渡った声だ。
辺りは、豊かな光で満ち満ちた。
間違いない。
間違えるわけがない。
熱に浮かされたように、オオタカが口を開いた。
「北に連なる山々が、同じ色になる頃に……。まことに、タケル殿か!」
宮簀媛は声を上げた。
「殿……殿!!」
白菊はとうとう目頭を押さえた。
オオタカが、その肩を支えた。
「……待ったか」
懐かしい声が響いた。
「はい、それはもう」
宮簀媛は震える声で答えた。
「ほう。そなたも白くなったか。すまぬな。……私はひとところに長くはとどまれぬ。だが、山々がそなたの髪と同じ色に染まるころ、私は必ずこの地を訪れよう。約束だ」
白い鳥は、オオタカを見やった。
それだけでオオタカは答えた。
「ああ。比類なき御子に仕立てた。この命に代えても護り抜こう」
いつの間にか、辺りは銀世界になっていた。
白い鳥は大きな羽を広げると、宮簀媛を柔らかく包み込んだ。
純白の羽の一枚一枚が光を放ち、剣を抱く宮簀媛と溶け合ってゆく。
時が止まったかのようだ。
ただ、ただ、美しかった。
「よいか。右の翼は私。
左の翼は、そなただ、オオタカ。
我らは揃ってこの姫を護る。
私は天より、そなたは地より」
「タケル殿……」
「奥、私はまた必ず戻る。それまで我が子を、この国を、頼んだ」
ーーあの時と同じだ。
けれど。
宮簀媛は、凛とした顔を上げた。
「行ってらっしゃいませ。殿の往く道が、光に満ちたものでありますよう」
これを聞くと、大きな白い鳥は雪を蹴って舞い上がった。
三人は、その姿が空の白に溶けるまで、いつまでもいつまでも、見送っていた。
「あゆち潟 火上(ひかみ)姉子は我来むと 床去るらむは あはれ姉子よ」
日本武尊の声が響いた。
独り残した妻を想い死の間際まで口ずさんでいたという、日本武尊の真の心。
もう、床を空けて待つ夜は終わった。
たとえ姿は見えずとも、殿は、共にここにいる。
雪は、まだ静かに降り積もっている。
剣は母の胸で静かな鼓動を響かせ、いつか訪れる目覚めの時を待つように、まだ眠り続けていた。
岬で、紙垂が揺れる。
たたら場の辺りにだけは、なぜか雪が積もらないでいた。
この岬の高台は、やがて「火山(ひやま)」と呼ばれるようになったという。
ーーあはれ、姉子よ。
完
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は「#創作大賞2026」応募作品です。
お気に召しましたら、ぜひ「スキ」で応援していただけると励みになります!
あとがき↓