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「聖地巡礼」に際しての心持ち

     これは専ら私が個人的に心に留めている程度のものであり、「心構え」とも呼べない程度のものであるが、しばしお付き合い願いたい。

     6月は『ひぐらしのなく頃に』のファンにとっては特別な月である。この月の第三もしくは第四土曜日が、作中で「綿流し」という祭礼の日とされており、舞台である雛見沢のモデルとなった岐阜県大野郡白川村荻町地区では、毎年それにちなんだイベントが催されている。かくいう私も『ひぐらしのなく頃に』のファンであり、白川村でのイベントには毎年足を運んでいる。

     これはいわゆる「聖地巡礼」ということになろうが、まずこの「聖地巡礼」そのものについて考えてみたい。「聖地巡礼」をここでは、あるコンテンツのファンが、そのコンテンツの世界への没入を目的とし、そのコンテンツの舞台のモデルとなった地域を訪れること、と定義する。
     この「聖地巡礼」は、実は宗教の聖地巡礼と重なる部分が大きい。ユダヤ教徒にとっては嘆きの壁等、キリスト教徒にとっては聖墳墓教会等、イスラム教徒にとってはマスジド・ハラーム等、ほかアボリジニにとってはウルル等、ネイティブアメリカンナバホ族にとってはモニュメントバレー等が聖地として挙げられよう。これらの地域は、彼らの聖典や神話と現実世界とを繋ぐ重要な地であることは疑いえない。しかしながら同時に、我々日本人がこれらの地域を目にしたときに、特別さこそ感じ得たとしても、神聖さを彼らと同じように感じ得るかと訊かれたならば、答えは明確にNOだ。これは、日本人でない者が、戸隠山、英彦山、高野山等で、日本人と同じように神聖さを感じ得るかという質問に対しても、同じ答えとなる。聖地とは知識によってではなく、文化、信仰、生き方によって感じるものなのだ。
     コンテンツの「聖地」もまた、コンテンツの世界と現実世界を繋ぐ地として、ファンにとっては重要な地だ。しかしながら、ファンでない者にとっては、例えあるコンテンツの舞台がその地域をモデルにしたことが有名であったとしても、それ以上何かを感じるかと問われたら、やはり答えはNOなのである。読者の皆様にはまずこの前提を理解していただきたい。

     これを前提とした議論を行う上で、岐阜県大野郡白川村荻町地区というのは実に議論しやすい。『ひぐらしのなく頃に』のファンにとっては、白川村は確かに「聖地」ではあるのだが、他の観光客にとっては世界遺産白川郷であるし、それ以前に村民にとっては生活の場である。したがって、「聖地巡礼」を行う者は、「場」を貸していただいているという心持ちでいるくらいがちょうどよい。
     特に『ひぐらしのなく頃に』は、正直にいえばNSFWである。村民の中にそうした作品の舞台のモデルとなっていることに思うところがある方がいらっしゃるというのは十分に想定できる。また、「オタク」という存在について何かしらの偏見を持っている方は、日本の中ではまだまだ少なくないだろう。

     そうしたことから私は、「聖地巡礼」を行う際は、地域にとっての害を少なくして利益を多くするよう心掛けている。観光公害として、道路の混雑、生活エリアへの侵入、騒音、ごみ問題等が挙げられるが、公共交通の積極的な利用、公道からの観光、映り込みへの配慮、会話や足音等への配慮、ごみの持ち帰り等を行っている。また、食事を地元の店でとる、地域に宿泊する等の取り組みにより、地域にとって利益となるような行動を心掛けている。

     幸いにして、今年も白川村で「綿流し」にちなんだ『ひぐらしのなく頃に』のイベントが開催される。これからもこうしたイベントがファンと地域との間でWin-Winの形で催され続けるよう、地域にとって利益となるような「聖地巡礼」を続けていきたい。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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