
障害者アートという違和感
こんにちは。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
私は最近、水彩色鉛筆やクレヨンというものにハマり、その奥深い表現を楽しんでいます。中でもカランダッシュ製品がお気に入りです(お高いですけど、色がやっぱり好き)
さて、アートといえば、ずっと心の中でモヤモヤとくすぶっているテーマがあります。以前にも少し触れたことがあるのですが、いわゆる**「障害者アート」**という枠組みに対する違和感です。
今回は、日頃感じているそのモヤモヤを整理するために、少し言葉を尽くして書いてみようと思います。
「普通」と「障害者」というレッテル
突然ですが、「普通」とは何でしょうか?
画面の手前で、自分自身に問いかけてみてください。1分くらいでいいです。
……どうですか? 答えは出ましたでしょうか。
では、次に「一般的には?」とは何でしょうか。
こちらも同じように、自分に問いかけてみてください。
……答えは出ましたか?
たぶん、多くの方が即答できないんじゃないかと思います。私自身も、明確な答えはわかりません。
しかし、**「障害者とは何ですか?」**と問われたらどうでしょう。「助けが必要な人」「身体が不自由な人」など、それぞれ即答できる人が一気に増えるのではないでしょうか。
私はここに、強い違和感を覚えるのです。
それって、本当にそうなのでしょうか。
周りの人が、勝手に「助けが必要な存在だ」とレッテルを貼ってはいないでしょうか。
たしかに私自身、障害当事者であり、誰かに助けてもらわなければならない場面はあります。けれど、それって生きていれば、障害の有無に関係なく誰にでも起こることではないでしょうか。重い荷物を持って困っている人がいれば、優しい人が「少し持ちますよ」と手を貸す。本来は、その程度のフラットな助け合いの話であるはずです。
それなのに、気づけば頭の中で、
「障害者 = 助けが必要 = 自分よりも下の存在」
という非対称な方程式が成り立ってはいないでしょうか。
これは、日頃関わる支援員さんたちからもしばしば感じてしまう、悪意のない「無意識の差別と偏見」です。たしかに、ある一定のラインにおいて、能力的に下回る部分はあります。でも、人として劣っているわけではありません。人間として、下に見られなければいけない理由なんてどこにもないはずです。
アートが「コンテンツ」として消費される悔しさ
この歪みがもっとも顕著に表れるのが、私が「障害者アート」に対して抱く違和感の正体です。
いわゆる「障害者アート」の現場で求められがちなのは、「障害者らしい独特の色使い」だったり、「大変なのに頑張って描きました」という健気なストーリーだったりします。
通常のアートの公募展では、そんな空気は全く感じません。ですが、「障害者アート」という名前を冠した途端に、
「頑張って描いてエライね」
「障害を持っていながら、こんな表現ができるなんてすごいね」
という評価にすり替わってしまう。
それはおかしいのではないでしょうか。
まるで、定型発達の人たちが「障害者」という記号をコンテンツとして消費し、楽しんでいるように見えてしまうのです。
私自身、この「障害者アート」という枠組みの中で、非常に悔しく、傷ついた経験があります。その具体的なお話もしようかと思ったのですが、思い出すとまだ心がツラくなってしまい、今はまだお伝えすることができません。
枕詞のない、一人の表現者として
私は普段、歴史の重みや地域の伝承を大切に受け止め、リサーチを重ねながら作品を作っています。作品の背景にある文脈や美学を何より大事にしているからこそ、「障害者にはできない」「障害者だから云々」という枕詞を無意識につけられることが、よけいにツラく、悔しいのです。
脈絡のない、怒りのような文章になってしまい申し訳ありません。少しお気持ち表明のような記事になってしまったかもしれません。
ですが、どうぞこの記事を読んでくださったみなさんも、障害という枠に限らず、「自分のなかに無意識の偏見や差別(アンコンシャス・バイアス)がないか」を、一度だけ自分に問いかけてみてほしいのです。
もちろん、私自身の中にもそういう偏見はきっとあります。
大切なのは、完璧であることではなく、その無意識の偏見に「ハッと気づくこと」ではないでしょうか。一人ひとりがそこに気づくことで、優劣のない、もっとフラットで優しい世界に変わっていくといいな、と心から願っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。