距離がくれた、私の輪郭
二拠点生活を始めてから、ふと思うことがある。
人は、物理的に親元から離れることで、ようやく自分の声が聞こえるようになるのではないか、ということだ。
もしも、セクシャルマイノリティの若者が、成人を迎える頃に一人暮らしを後押しするような制度があったらどうだろう、と考える。義務ではなく、逃げ道としての制度だ。選択肢としての距離だ。
私自身もそうだったが、セクシャルマイノリティであるというだけで、どこか周囲に気を使いながら生きてきた人は少なくないと思う。悪気のない家族の言葉、学校での何気ない空気、テレビから流れる“普通”の物語。そのどれもが、小さなシャッターを一枚ずつ下ろしていく。思春期といういちばん伸びやかであるべき季節に、羽を広げきれなかった人もいるはずだ。
もちろん、みながみな、好きな人をすぐに見つけられるわけでもないし、性的指向も多様で、一律に救える魔法の基準など存在しない。だからこそ、「自分の立ち位置を自分で決める時間」が、若いうちに少しでも持てたらと思うのだ。
親元を離れ、別のコミュニティに身を置く。そこで他者と出会い、自分の歪みや偏りや、妙なこだわりに気づく。誰かと比べるためではなく、調律するための出会い。そういう経験が、心のバランスをゆっくり整えてくれることもある。
私たちは小学生の頃から、背の順で並び、点数で測られ、多数決で意見をまとめ、「空気を読む」ことを覚えてきた。団体の中で浮かないことが正解、という教育のなかで、自分を最優先にする練習はあまりしてこなかった気がする。
だからせめて、大人になる入り口で、「自分を大切にしてもいい」と社会が明言してくれたらどうだろう。制度というかたちで、距離をとる勇気を後押ししてくれたら。
四十四歳の中年が、夕暮れどきに思うことだ。
でも、距離を持ったからこそ見えた景色があるのも事実だ。自分の輪郭は、他人との摩擦ではなく、適切な距離によって浮かび上がることもある。
