
青年と人魚|第一章15話:別れ
セレナは目を開ける。
相変わらず、何もない部屋。
コポポポと、水流の音がする。
座ったまま、何もできずにいた。
窓からは緩やかに水流が入ってくる。
部屋の外に気配を感じた。
何だろう……。
ドアの方に目をやりじっと見る。
ゆっくりドアが開いた。
中に、母の姿があった。
セレナは、身を起こした。
「………お母さん」
張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。
「セレナ」
母は静かに名前を呼び、そっと抱きしめた。
その瞬間、セレナは母にすがるように飛びついた。
幼い子供のように、声をあげながら涙があふれていく。
「セレナ、大丈夫よ」
母は優しく頭を撫でた。
セレナは気持ちが溢れて、言葉にできない。
「顔を見せて」
母はセレナの頬を両手で包むと、そっと涙を拭いセレナを見つめる。
「あなたが何処にいても、私はいつでも味方よ」
「……お母さん……」
母は静かに首元のネックレスを外し、セレナの首にそっとかけた。
「私たちはいつでもセレナと一緒…」
セレナは不安そうにネックレスを見つめた。
「でも……これ、大切な物でしょう?」
母は静かに微笑むと、そっと手首を差し出した。
そこには、赤い珊瑚のブレスレットが揺れていた。
「私はね」
母は赤い珊瑚のブレスレットにそっと指を添えた。
「もう、ちゃんと持ってるの」
セレナは真珠のネックレスにそっと触れながら、涙の中で小さく笑った。
母はセレナの髪をそっと撫でた。
その手は、ほんのわずかに止まりかける。
幼い頃のセレナを思い出していた。
離れてしまう前に、この姿を焼き付けるように、母は娘を見つめた。
小さく頷く。
それでも指先は、しばらくセレナから離れなかった。
「……時間だ」
母の唇が名前を呼びけるように微かに動く。
けれど声にはならない。
ほんの一瞬だけセレナを抱き寄せた。
最後の温もりを胸に刻み
名残惜しむようそっと手を離す。
言葉にならないまま、母は視線を伏せるように背を向けた。
そして、ゆっくりと扉の向こうへ消えた。
そして、部屋には再び水の音だけが残った。
***
静かな部屋に、水の音だけが残っている。
セレナは、しばらく黙って座っていた。
胸元のネックレスに、そっと指を添える。
指先は、静かにそこに留まっていた。
「出ろ」
何もない部屋に、低い声が響いた。
セレナは静かに立ち上がると、扉へ向かった。
***
別の部屋へと、静かに通された。
そこには――
海の底であるはずの場所に、不自然な泉があった。
泉の奥、その中央に、マレアルス神が立っていた。
その傍らには、亀様が静かに佇んでいた。
セレナは、泉を挟んでマレアルス神の前に立たされた。
マレアルスが口を開く。
「人間を、治癒する——それは罪。
我ら種族の存続を脅かす」
重く低い声が、水を震わせるように響いた。
「知らなかったでは済まされぬ」
わずかな間が落ちる。
その沈黙すら、裁きの一部のようだった。
「——セレナを追放とする。」
杖をトンと鳴らすと、泉の水に波紋が広がる。
マレアルスは、ゆっくりと手を動かした。
その先にあるのは、泉。
セレナは、静かに目を伏せた。
尾びれが、わずかに水を掻く。
セレナが泉の中央へとたどり着く。
水は、ひどく静かだった。
マレアルス神の杖が、静かに下ろされた。
次の瞬間——
セレナの身体が、静かに沈みはじめた。
抗うこともなく、ただ水に受け入れられるように。
光が、少しずつ遠ざかっていった。
水の中は、不思議なほど音がなかった。
髪だけが、ゆるやかに広がっていく。
——次の瞬間、視界が白く滲んだ。
***
失ったものの代償は、大きかった……。
セレナの母は、やり場のない思いに打ちひしがれた。
城から出るとそこにはクラウディオがいた。
「海域の外まで送ろう」
クラウディオは短くそう言った。
その声には、わずかに滲むものがあった。
二つの影が、泳ぎ出す。
クラウディオがぽつりと話し始めた。
「……守れなかった」
母は首を横に振った。
「クラウディオ……あなたのせいじゃないわ」
クラウディオは悔しそうに奥歯を噛み締めた。
その横顔に、言葉を振り絞るように返した。
「最後……娘に合わせてくれて、ありがとう」
留めようとした感情が溢れ、頬に一粒の涙が伝う。
「亀様の計らいだ」
クラウディオは前を見たまま静かに言った。
***
満月の夜——
青年は、ライアーハープを抱えた。
迷いはなかった。
あの約束を、疑ったことは一度もない。
静かに弦へ指を落とす。
ひとつ、音が生まれる。
そして、次の音へ。
やがてそれは、想いをぶつけるような調べへと変わっていった。
強く、激しく、切実に。
すべてを、海へ。
音は夜に溶け、波へと消えていく。
満月は、静かに海を照らしている。
——海は、何も応えなかった。
ただ、静かに揺れているだけだった。
それでも青年は、誰かに会えると信じて弾き続けた。
第一章 END