
16歳と17歳の姉妹、同時妊娠。母が買ってきたのは、二本入りの妊娠検査薬だった。
母が買ってきたのは、二本入りの妊娠検査薬だった。
あの日の私は、その「余った一本」が、自分の人生を丸ごと変えてしまうなんて、夢にも思っていなかった。
私には、一歳年下の妹がいる。
同じ親から生まれたとは思えないほど、私たちは似ていなかった。顔も性格も、好きな服も、何もかも正反対。親ですら「どうしてこんなに違うんだろう」と笑うほどだった。
そんな私たちが、人生でたった一度だけ、完璧に足並みを揃えた日がある。
妹は高校の寮で生活していた。
久しぶりに帰省した日、
母は、その姿に違和感を覚えた。
「ねぇ、生理、ちゃんと来てる?」
「来てるよ」
妹は何気なく答えた。
けれど母は納得していなかった。
だぼっとした大きなTシャツの裾が動くたび、不自然に波を打つ。母は私に「なんかお腹が出ているように見えるんだけど、どう思う?」と聞いてくる。言われてみれば、少し太ったようにも見える。けれど、私には確信が持てなかった。
翌日、母は近所のドラッグストアへ向かった。
「妊娠検査薬、買ってくる」
そう言い残して家を出た母を、私はどこか他人事のように見送った。
しばらくして帰宅した母は、レジ袋から箱を取り出した。
「一本入りが売ってなくてね。二本入りしかなかったの」
そう言って一本を妹に渡した。妹はそれをおもむろに受け取り、トイレへ向かった。
テーブルの上には、一本だけ残された検査薬。
その一本を見つめながら、私は軽い気持ちで言った。
「余ってるなら、私もやってみようかな」
深い意味なんて、何もなかった。
妹と入れ替わるようにトイレへ入った。説明書を見ながら検査を終えて判定窓をのぞいた。
一本。
……いや。
二本。
くっきりと浮かび上がった二本の線を見た瞬間、思わず声が漏れた。
「……うそ、これ不良品だよ」
妊娠しているはずがない。
だから、検査薬が間違っている。
私の言葉を聞いた母は驚くほど冷静だった。
「じゃあ、もう一箱買ってくる。お母さんが試して陰性が出たら壊れていないってことだから」そう言って再びドラッグストアへ向かった。
二度目の検査。
母は陰性。
私は、もう一度…陽性だった。
一気に血の気が引いた。もう、不良品だとは思えなかった。
「……妹は?」
震える声で尋ねると、母は静かに答えた。
「…陽性」
その瞬間、私たちの人生は大きく動き始めた。
重苦しい沈黙の中、母が静かに口を開いた。
「明日、産婦人科に行くよ」
その夜は、人生で一番長い夜だった。
布団へ入っても眠れなかった。隣の部屋から物音がするたびに、母も眠れていないことが分かった。
明日にならなければいいのに……。
生まれて初めて、朝が来ることを怖いと思った。
*
翌朝、母の運転する車で総合病院へ向かった。
後部座席には私と妹。ラジオも音楽も消えた車内には、エンジン音だけが小さく響いていた。
産婦人科の待合室には、お腹の大きな妊婦さんたちが静かに順番を待っていた。その光景を見た瞬間、自分たちは場違いな場所へ来てしまったのだと思った。
十六歳の妹と、十七歳の私。
制服こそ着ていなかったけれど、高校生らしさが抜けきらない私たちは、誰とも目を合わせることができなかった。
先に呼ばれたのは妹だった。診察室のドアが閉まる。時間の感覚がなくなるほど長く感じた。
次は私。
モニターに映った小さな命を見つめながら、医師の説明はほとんど耳に入らなかった。
診察が終わると、母だけが呼ばれた。
私と妹は、互いの顔を見ることもなく、ただ診察室の扉を見つめ続けた。
しばらくして戻ってきた母の顔は、真っ白だった。
院長はこう言ったという。
「長年この仕事をしていますが、姉妹同時の妊娠は初めてです」
さらに妹は、中絶できる期間が残りわずか三日しか残されていなかった。
……三日。
たった三日で、十六歳の妹の人生を決めなければならなかった。
その現実を突きつけられた母は、その場で立っていられなくなった。母は看護師さんに肩を支えられながら椅子へ腰を下ろした。
さっきまで私たちの前で気丈に振る舞っていた母が、初めて弱さを見せた。
私は駆け寄ることもできなかった。
母に「ごめん」と言うことさえ、できなかった。
逃げ続けてきた現実が、もう逃げられない現実へと変わった瞬間だった。
帰り道、窓の外の景色だけが静かに流れていった。
病院の駐車場で、私は仕事中の父へ電話をかけた。「お父さん……ごめんなさい。妊娠した」
父は少し黙ったあと、
「……分かった。帰ってから話そう」
それだけ言って電話を切った。通話が切れても、私は携帯電話を握ったまま、しばらく動けなかった。
*
それから、話し合いの日々が始まった。
最初に向き合ったのは、彼の両親だった。
重たい空気の中、彼のお母さんは私をまっすぐ見て言った。
「今すぐ病院へ行って、下ろしてきてください」「このまま産んでも幸せにはなれない」
十七歳の彼に収入はない。高校生の私にもない。反対されるのは当然だった。だから私は、何も言い返せなかった。
一方で、母は静かに口を開いた。
「下ろすことはできます。でも、その手術で、この子が二度と子どもを授かれない身体になる可能性だってあります。だから、どうか簡単に結論を出さないでください」
あの日、母は私の代わりに戦ってくれた。
祖父も反対した。
「お前の人生はどうするんだ!」
「子どもが子どもを育てられるのか!」
祖父の怒鳴り声だけが、夜になっても耳から離れなかった。
産むのか。
下ろすのか。
答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。
そんなある日、彼が私の家へやって来た。久しぶりに顔を合わせた。何を話すのだろう…
そう思った、そのときだった。
彼は何も言わず、私の前まで歩いてきた。
ゆっくりと膝をつき、床に額がつくほど深く頭を下げた。そして、小さな声で言った。
「……産んでほしい」
誰よりも反対され、誰よりも苦しかったはずの十七歳の彼が、自分の意思で私の前にひざまずいた。
この子を産もう。
そう決めた。
*
「産む」と決めたからといって、すべてがうまく進むわけではなかった。
最初に父が口にしたのは、ただ一つの条件だった。
「高校だけは卒業しなさい」
私は迷わずうなずいた。
「卒業する」
それが父との約束になった。
彼も毎日働きながら、休みの日には必ず顔を見に来てくれた。けれど、私の身体は日に日に妊娠に支配されていった。
食べられない。電車に乗れば吐き気が襲い、授業中も必死にこらえ続けた。体重は三キロ落ち、毎日のように点滴へ通った。それでも、高校だけは卒業したかった。
母と一緒に学校へ行き、担任へ妊娠を伝えた。
返ってきたのは、厳しい現実だった。
「体育の単位が取れません。制服も、いずれ着られなくなります。卒業は難しいでしょう」
高校三年の春。
私は退学届を書いた。
教室から聞こえてくる笑い声。廊下に貼られた文化祭のポスター。当たり前だった景色が、その日だけは遠かった。
帰り道、母は前だけを見て歩いていた。私はその半歩後ろを、ただついて歩いた。
春だったはずなのに、景色だけがひどく寒かった。それでも、お腹の子だけは毎日少しずつ大きくなっていた。
止まったのは、私の高校生活だけだった。
*
季節は巡り、あの長くて苦しかった夏が嘘のように、ついに出産の日がやってきた。
母に付き添われて病院へ向かった。
一定の間隔で押し寄せる陣痛は、想像していたよりもずっと痛かった。
それでも、不思議と怖くはなかった。
もう、ここまで来たのだから。
仕事中だった彼へ連絡を入れると、
「今行く!」それだけ言って電話は切れた。
病院へ駆け込んできた彼は、息を切らしながら私の背中をさすってくれた。その手はぎこちなくて、頼りなくて。
でも、その必死さがうれしかった。
分娩室へ入ると、医師や助産師さんの声だけが響いていた。
「もう少し」
「そのまま、いきんで」
その声だけを頼りに、力を振り絞った。
小さな産声が部屋いっぱいに響いた。
私はようやく息を吐いた。助産師さんが私の胸に、小さな命をそっと乗せた。
温かかった。
お産は思っていた以上に早く進み、彼が分娩室へ入ったときには、もう出産は終わっていた。
「えっ、もう生まれたの?」
本気で驚くその姿が少しおかしくて、
思わず笑った。
初めてわが子を抱いた彼は、
小さな顔を、ただじっと見つめていた。
「……俺に似てるな」
そうつぶやき、目には涙が浮かんでいた。
十八歳の父親が生まれた瞬間だった。
あれほど反対していた彼のご両親も、恐る恐る赤ちゃんを抱いた。
「かわいいね」
その一言で、二つの家族を包んでいた長い緊張が、ようやくほどけた。
*
私には、もう一つだけ果たさなければならない約束があった。父との約束だ。
「高校だけは卒業しなさい」
あの日、父が私に出した、たった一つの条件だった。
出産を終え、初めての育児が始まった。夜中の授乳。眠れない日々。泣き止まない我が子を抱きながら、何度も朝を迎えた。
十八歳の私には、すべてが初めてだった。
それでも、私は諦めたくなかった。父との約束だけは、どうしても守りたかった。
子育てをしながら、私はもう一度学校へ通い始めた。育児と勉強の両立は、想像していた以上に大変だった。周りの友人たちは、とっくに卒業し、それぞれの道を歩き始めている。私は少し遠回りをしていた。それでも、一歩ずつ前へ進んだ。
そして卒業の日。
卒業証書を手にした瞬間、
真っ先に浮かんだのは父の顔だった。
あの日の約束は、ようやく守ることができた。
妹もまた、私と同じように「産む」という道を選び、元気な子どもを出産した。
同じ親から生まれたとは思えないほど違う私たち姉妹。それでも、あの頃だけは、同じ覚悟を背負って生きていた。
*
あれから二十三年。
あの日、お腹の中にいた子どもは二十二歳になった。今年の春、社会人となり、一人暮らしを始めた。息子の引っ越しを手伝い、段ボールを車に積み込みながら、ふと、あの日を思い出した。
あの一本がなければ、この子はいなかった。
妹のために買われた、二本入りの妊娠検査薬。
一本は、妹の未来を映し、
一本は、私の未来を映した。
あの日、余っていた一本は、私の人生で、
いちばん大切な一本になった。