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頑張っても年収200万円だった12年間。6年後に事業会社の役員へ。


    ──胸騒ぎだけが、道しるべだった

    一、同じ夢を三回見た

    昨年の一月、私は同じ夢を三回見た。

    地元の小さな家で、母と妹と三人で、仲良く、慎ましく暮らしている夢だった。夢の中の私は、この生活のままでいてくれと願っていた。

    現実の私は、その頃、東京のテック系企業で、役員に就いていた。見えていたはずの黒字が一気に赤字に転落し、入ってくるはずのお金は先延ばしになり、急いでお金を集められなければ会社は数ヶ月で潰れるという状況にいた。出資者や、お金を貸してくれている人たちからは黒字化絶対と迫られ、眠れない夜が続いていた。頭の中が壊れそうになる瞬間を、何度も味わった。

    そんな最中に見た夢が、豪邸でも成功でもなく、母と妹との慎ましい暮らしだったことに、私は自分で驚いた。

    なぜ自分は、あの暮らしのままでいなかったのだろう。なぜ、社会的弱者のままで終わりたくなかったのだろう。

    眠れない夜に、その問いを何度も転がした。答えに辿り着くまでのことを、これから書く。長い話になる。約20年分の話だからだ。

    二、見失った目標

    私は、両親が十八歳のときに生まれた。父は高校中退。家族四人、安アパートの八畳一間に住んでいた。自分の部屋どころか、勉強机すらなかった。

    当時の私にとって、それは何ら不思議なことではなかった。よく遊んでいた父の友人の子どもたちも、みな同じような環境で育っていたからだ。

    そして、父母が親となったのと同じ18歳の時。高校卒業の一週間後、私は上京した。新聞販売店の住み込みだった。

    深夜二時に起きて、朝七時まで朝刊を配る。十六時から二十一時まで、夕刊の配達と集金と広告の折り込み。休みは週に一度、日曜だけ。大人たちとの集団生活の中で、途中からは家賃二万円のボロビルに移った。

    私はほとんど遊ばなかった。理由がある。朝刊を配り終えた朝八時から十五時までの時間で、こっそり予備校に通い、大学受験を目指していたからだ。

    結果から言えば、その挑戦は実らなかった。二年間の配達生活を終えて、私は地元に戻った。祖父母の家に厄介になりながら、パチンコ屋のホール、食品工場、建設現場の派遣、店舗清掃、郵便配達——アルバイトを掛け持ちする日々。そこから大学受験教材を訪問販売する会社に入った。月に一日の休み。朝十時から深夜二時までの勤務。事務所では怒号が飛び、物が飛んだ。毎月二十人の新入社員が入ってきて、毎月、一人も残らなかった。その場所で、私は一年半、続けた。売れなければ帰れない。一日の終わりに残るのは、数字と、すり減った自尊心だけだった。その後、地方のホテルに拾われた。基本給十三万円。それでも、天国に思えた。

    ここから、およそ十五年のホテルマン生活が始まる。

    数字の話をしよう。頑張って働いても、年収は二百万円ちょっと。その期間が、十二年続いた。その後、三百万円を少し超える年が数年。正社員で、フルタイムで、真面目に働いて、である。

    世間は、この数字にひとつの烙印を押す。どこかズレているのだろう、無能なのだろう、やる気がないのだろう、と。だが、当の本人は不真面目に生きてなどいないのだ。手を抜いた記憶もない。ただ——そう言われても、どうすればいいのかが、分からない。頑張り方を変えれば抜け出せるらしいことは薄々分かるのに、その「変え方」を教えてくれる人が、私のいた世界には一人もいなかった。努力が足りないのではない。努力の向け先を知る機会が、最初から配られていなかったのだ。

    いま振り返ると、この時期の私は、誰の目にも「何者でもない人間」だった。学歴もなく、技能もなく、給料も低い。だが、あの新聞配達の日々に一つだけ、後の私を作った原型がある。

    誰にも見えないところで、根を張ろうとしていたことだ。配達の合間の予備校。結果は出なかった。しかし、誰も見ていない時間に自分の可能性へ手を伸ばす、という行為そのものは、このとき身体に刻まれた。

    三、挫折と、手帳の一行

    ホテル時代、私は一度、運命を変えようとしたことがある。公認会計士試験だ。

    仕事と並行しての挑戦は、過酷だった。三年以上の歳月を費やして、合格できずに挫折した。何が一番辛かったかといえば、落ちたことではない。「もう、これ以上頑張れない」という自分の限界が、見えてしまったことだった。

    それから先は、夢や目標を持つこと自体が辛くなった。書店に行っても、資格試験のコーナーは目に入れないようにした。目を逸らす日々が、五年以上続いた。

    その間、私は一冊の手帳をつけていた。文房具マニアの友人が誕生日にくれたものだ。最初は計画や活動の記録だったが、いつしか、何に葛藤したのか、どう感じたのか——感情の記録に変わっていった。私はこれを「辛いこと日記」と呼んでいる。

    ある日、書店で、素通りできない思いに駆られて、中小企業診断士という資格の過去問を立ち読みした。あれ、解けるじゃん。頑張ればいけるんじゃないか。——だが直後に、別の声がする。また何年も、仕事と勉強を並行する生活をやるのか。また失敗するかもしれないのに。

    迷った私は、あの手帳を開いた。会計士に挫折した頃のページには、どれだけ辛かったか、どれだけ悔しかったかが書き殴ってあった。ところがその中に、一行だけ、毛色の違う言葉があった。

    「結果が出なくても、自分は一生懸命頑張れると気がついた。」

    過去の自分が、未来の自分に残していた一行だった。私は結果が出なかったことではなく、力一杯努力できたという事実の方に、目を向け直すことにした。あの時に努力できた自分を信じて、もう一回だけやってみよう、と。

    四、逃げ場のない挑戦

    診断士試験との並行生活は、結局五年近くに及んだ。その間に私はホテルの支配人になっていて、仕事の責任は年々重くなった。合わせてWEBデザインも学び、通信制の大学も卒業した。

    訪問販売の頃も、しんどかった。だがあれは「いつ辞めてもいい」と思えるしんどさだった。診断士挑戦のしんどさは、質が違った。三十代中盤で、低学歴・無技能の人間が人生を転換しようとするなら、この挑戦から逃げた瞬間に、すべてが元の檻に戻る。失うものを、自分で作ってしまったからこそのしんどさだった。

    知識は残酷であり、希望でもある。学ぶほどに、自分の置かれた状況の不条理さが耐え難くなっていった。同時に、自分には別の可能性があることも、学びだけが教えてくれた。忍従の日々を受け入れ続けるか、目の前の現実を変えるか。

    いま思えば、あの頃の私には、説明のつかない胸騒ぎがあった。外側では、何も変わっていない。相変わらず地方のホテルにいて、給料も、肩書きも、住む場所も同じだ。それなのに、内側だけが妙にざわめいていた。あれは何だったのか。長い時間をかけて内側に積もったものが、あふれる直前のコップの水のように、静かに震えていたのだと思う。胸騒ぎは、外から来る知らせではない。内側が満ちきったことを告げる、身体からの信号だ。だから、走っていない人間には、起きない。

    二〇一九年三月、私は十五年続けたホテル業界を辞め、地元を離れて東京に出た。すべてを捨てる決断は重かった。だが、これが正解だった。

    五、ものの見方が、現実を書き換える

    上京した私に、東京で生きていける保証は何もなかった。中小企業診断士として個人事業の届けを出し、独立した。看板を掲げたところで、仕事が降ってくるわけではない。インターネットで仕事を請け負えるサイトに登録し、できる仕事には何でも手を出した。大手の会社に安く買い叩かれ、名前の出ない書き手として事業計画を作る仕事もやった。三百六十五日、休みなく働いた。

    それでも貯金は減り続け、ある日、口座の残高は九百六十円になった。撤退して、どこかに再就職するべき局面だった。冷静に考えれば、誰もがそう判断する数字だ。だが、私は諦めなかった。狭い世界で我慢していた頃より、自由意志で選んだ試練の日々の方が、はるかに充実していたからだ。

    それでも不思議なことに、狭い世界で我慢していた頃より、自由意志で選んだ試練の日々の方が、はるかに充実していた。

    必死に目の前の壁を越え続けるうちに、経済的にも社会的にも、二〇一九年の自分からは想像できない場所に立っていた。縁あって、ある会社から声をかけていただき、お金のすべてを預かる役員になった。だが、最も大きく変わったのは、肩書きでも収入でもない。自分自身の見え方だ。

    上京する前の私と、いまの私は、身体としては同じ人間である。しかし、世界の見え方がまるで違う。かつての私にとって現実とは、与えられ、耐えるものだった。いまの私にとって現実とは、ものの見方と、身を置く環境と、自分の行動によって、書き換えられるものだ。

    年収200万円未満時代の自分を閉じこめていたのは、貧しさそのものではなく、「これが現実のすべてだ」という思い込みの檻だったのだと、いまなら分かる。

    六、そして倒産は、四度目に私の前に現れた

    お金のすべてを預かる立場になった私が向き合うことになったのは、皮肉なことに、「倒産」だった。

    実は、倒産という言葉は、私の人生に四度現れている。一度目は実家だ。うちは自営業だったが経営は厳しく、それが両親の絶えない口論の火種であり、二人はそれを乗り越えられずに離婚した。二度目はさっき触れた通りに、上京して半年後に預金残高九百六十円まで削れた時である。これは、奇跡的なタイミングで、諸先輩型にチャンスを頂いて息を吹き返すことができた。三度目は診断士として食えるようになってからだ。再生案件の現場で、落ちていく経営者、落ちていきそうな経営者を何人も見た。この人たちはどうすれば救われたのだろうと、考え続ける日々だった。

    そして四度目、私はついに当事者になった。お金集めに奔走する毎日。公的機関からの差し押さえ。民事再生——裁判所の力を借りて会社を立て直す、最後の手段——という選択との直面。その過程で、多くの仲間が去っていった。

    冒頭の、眠れない一月は、この戦いの只中にあった。

    それでも、諦めなければ、何が起きるかは最後まで分からない。私は一円単位でお金の出入りを管理し、お金を貸してくれている人たちや公的機関に向けて、丁寧な報告を出し続けた。派手な逆転劇ではない。地味な数字と報告の積み重ねだ。だが彼らは徐々に我々を見る目を変え、やがて味方になってくれた。オセロの黒が、白にひっくり返るような瞬間だった。そこから、状況は好転した。

    大学院ではこの経験を研究にぶつけた。全国の倒産件数を統計で分析してみると、会社を最も追い詰めているのは、モノが売れないことではなかった。世の中のお金の巡りだった。会社は、モノが売れないから死ぬのではない。お金が回らなくなった時に死ぬ。身体で覚えたことと、数字で調べたことが、同じ結論を指していた。

    七、夢の答え

    さて、冒頭の問いに戻る。会社が潰れるかどうかの瀬戸際で私が三回見た夢は、なぜ、母と妹との慎ましい暮らしだったのか。

    あの夢を見て、私は思い出したのだ。自分がなぜ、社会的弱者のままで終わりたくなかったのかを。

    私が育った世界の人たちは、現実が辛いのは自分たちが間違っているからだと思っている。かつての私がそうだった。現実に対して、何も言い返せなかった。

    だが、いまの私は真逆の考えでいる。間違っているのは、社会のあり方の方ではないか。ちゃぶ台で宿題をする子どもの可能性が、生まれた場所で決められてしまう構造の方ではないか。そして私は、その間違いに言い返せるだけの自分になるために、長い時間をかけて、ここまで来たのではないか。

    自分を救うことで、自分を支えてきてくれた人々の正当性を証明したかったのだ。

    あの八畳一間で私を育てた両親も、祖父母も、手帳をくれた友人も、間違ってなどいなかった。それを証明する方法は、あの世界から出た人間が、あの世界の記憶ごと、花を咲かせてみせることしかなかった。

    証明は、少しずつ形になっている。夢の中の私は、地元で母と慎ましく暮らすことを願っていた。現実の私は、母を海外旅行に連れて行ける人間になった。慎ましさを守ることではなく、私を育てた人の見る世界を広げること。それが、私にとっての「取り返す」の意味だった。

    改めて数えてみると、我ながらおかしな軌跡だと思う。深夜二時起きの新聞配達員は、基本給十三万円のホテルマンになり、支配人になり、経営の相談に乗る仕事を経て、会社のお金のすべてを預かる役員になった。高卒の男は、働きながら通信制大学を出て、経営学の大学院を首席で修めた。お金と経営の人間だったはずが、いつの間にか自分の手でソフトウェアを作り、音楽を作り、アート作品まで作っている。ついでに白状すれば、筋トレと美容にも投資して、鏡の中の顔つきと体つきまで変わった。四十代に入って、人生でいちばん取り返しの効く年代だと、身をもって知った。

    どれも、才能の話ではない。時間差の話だ。持たされなかったものを、後から、一つずつ取りに行っただけである。

    八、根の太さ

    最後に

    新聞配達を始めて、まだ7日目くらいのことだ。広告を折り込んだ新聞を、自転車に三百部積む。とんでもない重さで、素人に制御できるものではない。私は何度も転んだ。そのたびに新聞はコンクリートの地面に散らばる。拾って、整えて、また自転車にくくりつける。

    あるとき、転んで、起き上がる気力がなくなった。自分はこれを、いつまで続けるのだろうか。朝の4時、辺りはまだ暗い中。泣くでもなく、ただ惨めに、地面に打ちひしがれていた。

    そのとき、目の前で小さな花が揺れているのが見えた。

    タンポポだった。
    コンクリートを突き破って、天に向かって咲いていた。

    私は、命が絞り上げられるような感動に震えた。なんと美しい姿だろうか。コンクリートの隙間から、小さく、可憐に、それでいて儚げに夜空を目指すその姿に、さっきまでの負の感情を忘れて、座り込んだまま見惚れてしまった。

    美しさだけではない。その姿に、自分を見たからだ。物言わぬ彼女と私は見つめ合い、言葉のない対話をしていた。へたり込む私を、勇気づけるかのように。私は思った。もっと、この現実に抗ってやると。そして、また来ると約束した。

    もしもあの夜、這いつくばっていなかったら、この出会いはなかった。

    後年、タンポポが花を咲かせるのは一年でたった一週間ほどで、残りの季節は根だけの姿になり、地中深くへ根を広げ続けるのだと知った。13歳からのアート思考、という書籍からである。
    人が目にするのは咲いている一週間だけだが、タンポポを生かしているのは、誰も見ていない365日の、根である。

    あの夜コンクリートの上で会った彼女も、私の見えないところで、何年も根を張り続けていたのだ。

    人間も同じだと思う。新聞配達の寮からこっそり通った予備校も、挫折の後に目を逸らして生きた五年間も、深夜のちゃぶ台ならぬ手帳に書き殴った感情も、眠れずに見た夢も——花ではない。全部、根だ。だが私という人間の「らしさ」の源泉は、咲いた花ではなく、人知れず張り巡らせてきたその根の方にある。

    一つ、証拠がある。潰れる寸前の淵にいたあの一月、私の頭は壊れそうだった。それから一年半が経ったいま、私は当時よりも多くの挑戦を同時に抱えて生きている。会社のお金を預かる仕事に加えて、自分の手でサービスを作り、アートを作り、文章を書いている。頭にかかる負荷は、あの頃より明らかに重い。それなのに、壊れそうにならない。

    挑戦を繰り返すたびに、根が太くなっていたのだ。

    そして気づけば私は、あの頃と同じ深夜二時に起きている。ただし今度は、新聞ではなく、作品を抱えて。

    私が生きてきた環境は、進路の選択肢も、手本になる大人はいなかった。私の周りの大人たちは、皆が自分が生きることに精一杯だったのだ。
    けれど、何も持たされなかった人間には、一つだけ特権がある。後から、全部、自分で取り返せるということだ。学びも、仕事も、表現も、誇りも。時間はかかる。血と汗と涙も伴う。それでも、取り返せる。

    もしいま、あなたが誰にも見えない場所で、根を張るだけの日々にいるのなら。花が咲かないとしても、それはあなたの間違いではないということだ。

    そしていつか、外では何も変わっていないのに、理由もなく胸が騒ぐ夜が来る。怖がらなくていい。それは、あなたの根が満ちた合図だ。

    タンポポの花は、一週間しか咲かない。それでも咲く。根が、生きている限り。

    九、交差する二つの軌跡

    私は昔から、二つの軌道を同時に生きてきた気がする。新聞を配る自分と、こっそり予備校に通う自分。ホテルで働く自分と、深夜に資格試験の問題を解く自分。会社のお金を守る自分と、アートを作る自分。二つの円は、重ならないまま、それぞれ回り続けた。世間からは、どちらか一つに絞れと言われ続けた。片方は生きるため、もう片方は、何のためかも分からないまま、ただ手放せなかった。

    この二つが巡り合うまでに、二十年以上かかった。長いあいだ、二つの軌道は交わる気配すらなかった。昼の自分と深夜の自分は、互いに口もきかない他人同士のようだった。
    それが、いつからだろう。数字を扱う自分が作品に構造を与え、作品を作る自分が数字に物語を見つけるようになった。会社を救った資金繰りの経験が、表現の主題になった。別々に回っていた二つの円は、捨てずに回し続けた者にだけ、ある日、静かに重なる。

    重なるまでの時間、二つの軌道はそれぞれに根を張っていた。そして重なったとき、根は二倍の広さになっていた。私の根はまだ伸び続けている。

    そして・・・いつか、あの夜の彼女に、報告に行こう。
    約束通り、また来た、と。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    ベンチャーCFO / 週末アーティスト。 技術 × ビジネス × 感性を一つの体で操って IoTアート / 音楽・MV / 大人のためのデジタル絵本の制作。 Hack Sonic 2026 準優勝(Romancing Train -Re:Sound-)

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