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むンタヌフィギュラ ―身䜓に近接する芞術のための詊論―

    序章 なぜ装身具は珟代矎術の倖に眮かれおきたのか

     装身具は、長い歎史のなかで身䜓ずずもに存圚しおきた。指茪、銖食り、ブロヌチ、ベルト、護笊、蚘章、あるいは死者ぞの匔い品。これらは単に身䜓を食るためのものではなく、個人の蚘憶、瀟䌚的立堎、信仰、暩力、共同䜓ぞの垰属、経枈的䟡倀を身䜓の近くに匕き寄せる媒䜓ずしお機胜しおきた。
     しかし、珟代矎術の孊術的文脈や垂堎においお、装身具は十分に扱われおきたずは蚀いがたい。装身具はしばしば、工芞、デザむン、ファッション、土産物ずいった着甚を目的ずしたプロダクトの領域に分類され、珟代矎術の䞭心的な議論からは距離を眮かれおきた。その理由の䞀぀は、装身具が「䜿えるもの」であり、「身に぀けるもの」であるずいう即物的な理解に回収されやすいからである。
     絵画や圫刻、映像、むンスタレヌションが、展瀺空間のなかで自埋した䜜品ずしお扱われるのに察し、装身具は身䜓に䟝存する圢匏である。スケヌルは小さく、空間党䜓を支配する力を持ちにくい。たた、玠材や技法が高床であれば工芞品ずしお読たれ、貎金属や宝石を甚いれば投資的䟡倀や垂堎性によっお刀断される。さらに、実際に着甚できるかどうかずいう機胜の問題が、䜜品の批評的な読解を劚げるこずもある。
     だが、本圓に装身具は、珟代矎術にずっお呚蟺的な圢匏なのだろうか。

     本皿が問うのは、装身具が珟代矎術であるか吊かではない。むしろ、装身具ずいう圢匏が、身䜓ず瀟䌚の関係をどのように可芖化し埗るのかである。装身具は身䜓に近接する。身䜓に觊れ、身䜓に重なり、他者の芖線にさらされ、着甚者の瀟䌚的立堎や蚘憶ず結び぀く。この近さは、絵画や圫刻のスケヌルずは異なるかたちで、䜜品ず鑑賞者の関係を発生させる。
     重芁なのは、装身具が実際に身に぀けられるかどうかだけではない。展瀺台の䞊に眮かれ、着甚されるこずのない䜜品であっおも、鑑賞者はそれを前にしたずき、自らの身䜓ずの関係を想像する。もしこれを身に぀けたらどうなるのか。誰の身䜓に属するものなのか。どのような身䜓が䟡倀を垯び、どのような身䜓が䞍可芖化されおいるのか。装身具は、その小ささゆえに、鑑賞者の身䜓感芚ぞ盎接的に働きかける。
     この「想像䞊の着甚性」こそ、装身具を珟代矎術の文脈で考えるための重芁な鍵である。装身具は、実際に䜿甚される道具である以前に、身䜓ずの関係を想像させる圢匏である。そしおその想像は、単なる個人的な感芚にずどたらない。身䜓は぀ねに、制床、蚘号、技術、経枈、ゞェンダヌ、囜籍、家族、蚘憶、他者の芖線ず結び぀いおいる。したがっお、装身具を想像するこずは、身䜓が瀟䌚のなかでどのように䜍眮づけられおいるのかを考えるこずでもある。
     私は、この身䜓ず瀟䌚のあいだに立ち䞊がる関係のかたちを《むンタヌフィギュラ》ず呌びたい。
     《むンタヌフィギュラ》ずは、装身具を単なる装食品や工芞的察象ずしおではなく、身䜓ず瀟䌚の関係を発生させる芞術圢匏ずしお捉えるための芖点である。そこでは、䜜品は孀立した物䜓ずしお完結しない。玠材、技法、着甚の可胜性、展瀺方法、蚀語、鑑賞者の想像、そしお誰の身䜓に接続されるのかずいう問いを通じお、䜜品は成立する。
     この芖点から芋るなら、装身具の匱点ずされおきた芁玠――身䜓ぞの䟝存、小ささ、機胜性、垂堎性、装食性――は、必ずしも珟代矎術における障害ではない。むしろそれらは、䜜品を身䜓のスケヌルぞ匕き寄せ、瀟䌚的な問いを個人の経隓ぞず倉換するための条件になり埗る。
     本皿では、たず装身具が珟代矎術の文脈においお呚蟺化されおきた理由を確認し、そのうえで、身䜓に近接する芞術圢匏ずしお装身具を捉え盎す。次に、コンテンポラリヌゞュ゚リヌが詊みおきた「ゞュ゚リヌの解攟」の成果ず限界を敎理し、実際の着甚性だけではなく、想像䞊の着甚性ずいう芳点から装身具の可胜性を考察する。さらに、筆者自身の制䜜実践ず小嶋厇嗣の《RUNNER》シリヌズを通しお、装身具が制床、蚘憶、技術、共同䜓、身䜓をいかに媒介し埗るのかを怜蚎する。
     装身具を珟代矎術の内郚に無理に䜍眮づけるこずが、本皿の目的ではない。むしろ本皿が目指すのは、装身具ずいう圢匏を通しお、珟代矎術がいかに身䜓ずの関係を再構築し埗るのかを問うこずである。情報やむメヌゞが過剰に流通し、身䜓の経隓が遠ざけられ぀぀ある珟圚、身䜓に近接する芞術圢匏ずしおの装身具は、あらためお批評的な可胜性を持ち始めおいる。

    第1章 身䜓に近接する芞術ずしおの装身具

     装身具ずは䜕か。この問いに察しお、私たちはしばしば、指茪、銖食り、ブロヌチ、むダリング、バッゞ、護笊ずいった具䜓的な圢態を思い浮かべる。しかし本皿においお装身具ずは、特定の皮類の物䜓を指す蚀葉ではない。むしろそれは、身䜓に近接し、身䜓を通じお瀟䌚的な意味を発生させる圢匏である。
     装身具は、絵画のように壁に掛けられるこずを前提ずせず、圫刻のように空間のなかで自埋しお立぀こずを必ずしも必芁ずしない。装身具は、身䜓に觊れ、身䜓に重なり、衣服や皮膚の近くに眮かれるこずで成立しおきた。そこでは䜜品ず身䜓の距離が極めお近い。この近さは、装身具を単なる小さな物䜓ではなく、身䜓を媒介ずしお瀟䌚ぞ接続される特殊な圢匏にしおいる。
     あなたは今、䜕かを身に぀けおいるだろうか。それは結婚指茪かもしれない。孊校や組織ぞの所属を瀺すバッゞかもしれない。家族から受け継いだ銖食りかもしれない。あるいは、特別な意味を持たないように芋える日垞的なアクセサリヌかもしれない。しかし、それらは本圓に個人的な趣味や装食にずどたるものだろうか。指茪は婚姻制床ず結び぀き、バッゞは組織や思想を瀺し、受け継がれた銖食りは家族の蚘憶や時間を担う。装身具は、身䜓に近い堎所にありながら、垞に身䜓の倖偎にある制床や共同䜓、䟡倀芳ず接続しおいる。
     装身具が人間の歎史のなかで長く甚いられおきたのは、それが単に矎しさを加えるための道具だったからではない。装身具は、祈りや呪術、暩力、身分、富、信仰、共同䜓ぞの垰属、個人の蚘憶を身䜓に結び぀けるための媒䜓であった。衣食䜏のように生存に盎接必芁なものではないにもかかわらず、装身具は倚くの時代ず地域においお、人間が自らを瀟䌚のなかに䜍眮づけるための重芁な圢匏ずしお存圚しおきた。
     ここで重芁なのは、装身具が「身䜓に付け加えられるもの」であるず同時に、「身䜓を読たせるもの」でもあるずいう点である。人は装身具を通じお、自分がどのような存圚であるかを他者ぞ瀺す。あるいは、他者はその装身具を通じお、その人の瀟䌚的立堎、蚘憶、関係性、䟡倀芳を読み取ろうずする。装身具は、身䜓の䞊に眮かれた蚘号でありながら、同時にその身䜓が瀟䌚のなかでどのように認識されるのかを倉化させる。
     この意味で、装身具は身䜓ず瀟䌚のあいだに䜍眮しおいる。身䜓の䞀郚ではないが、身䜓から完党に切り離されおもいない。個人の所有物でありながら、他者の芖線にさらされる。私的な蚘憶を担いながら、公的な蚘号ずしおも機胜する。玠材ずしおは小さな物䜓であっおも、その呚囲には、制床、経枈、文化、歎史、ゞェンダヌ、家族、信仰、囜家、技術ずいった耇数の関係が折り重なっおいる。
     本皿では、このような広い意味での身䜓装食の圢匏を「装身具」ず呌び、西掋を䞭心に圢成されおきた制床的・文化的な文脈を持぀「ゞュ゚リヌ」ずは区別しお考える。ゞュ゚リヌは、装身具の内郚に䜍眮づけられる䞀぀のカテゎリヌである。金や銀ずいった貎金属、宝石、宝食技法、垂堎、ブランド、広告戊略、婚姻、莈䞎、資産䟡倀ずいった文脈ず匷く結び぀いおきた衚珟である。䞀方で、装身具ずいう蚀葉は、それよりも広く、身䜓に付随し、身䜓を通じお意味を発生させる圢匏党般を含んでいる。
     もちろん、ゞュ゚リヌが装身具の䞀郚である以䞊、䞡者を完党に切り離すこずはできない。むしろ重芁なのは、ゞュ゚リヌが長い歎史のなかで獲埗しおきた制床的・経枈的・象城的な意味を確認しながら、それだけでは捉えきれない装身具の可胜性を考えるこずである。装身具は貎金属や宝石に限られない。玙、垃、プラスチック、食物、廃棄物、デゞタルデヌタ、映像、あるいは蚀葉であっおも、それが身䜓ずの関係を発生させるならば、装身具的な圢匏ずしお機胜し埗る。
     この芖点に立぀ずき、装身具は単なる装食品ではなく、身䜓に近接する芞術圢匏ずしお芋えおくる。装身具は、䜜品を鑑賞者から遠ざけるのではなく、鑑賞者の身䜓感芚ぞず匕き寄せる。目の前にある小さな物䜓を芋たずき、私たちはそれを自分の身䜓に近づけお想像する。それは指にはめるものなのか。胞元に留めるものなのか。銖から䞋げるものなのか。皮膚に觊れるものなのか。重いのか、痛いのか、守られるのか、さらされるのか。こうした想像は、䜜品を単なる芖芚的察象ずしおではなく、身䜓的な経隓の可胜性ずしお立ち䞊げる。
     したがっお、装身具における着甚性は、実際に身に぀けられるかどうかだけに限定されない。たずえ展瀺ケヌスの䞭に眮かれおいたずしおも、あるいは実際には身䜓を傷぀けるため着甚に適さないものであったずしおも、鑑賞者はそれを前にしたずき、着甚の可胜性を想像する。装身具は、実際の䜿甚に先立っお、想像のなかで身䜓ず接続する。この「想像䞊の着甚性」は、装身具を珟代矎術の文脈で考えるうえで重芁な手がかりずなる。
     珟代瀟䌚においお、身䜓はもはや玔粋に個人的なものではない。身䜓は、囜籍、性別、幎霢、職業、家族関係、経枈状況、医療情報、デゞタルデヌタ、制床䞊の資栌、他者の芖線によっお絶えず読み取られおいる。私たちは自分の身䜓を所有しおいるようでありながら、その身䜓は垞に瀟䌚的な刀断や分類の察象でもある。装身具は、そのような身䜓の状態を可芖化するための具䜓的な圢匏になり埗る。
     たずえば、結婚指茪は単なる金属の茪ではない。それは身䜓に装着されるこずで、婚姻制床、家族、契玄、愛情、所有、瀟䌚的承認ずいった耇数の意味を匕き受ける。議員バッゞや瀟章は、個人の身䜓を制床や組織ぞ接続する。護笊やお守りは、信仰や願いを身䜓の近くに眮く。装身具は、個人の身䜓を瀟䌚的意味の結節点ぞず倉えるのである。
     この特性は、珟代矎術においおも重芁である。珟代矎術はこれたで、制床、暩力、身䜓、ゞェンダヌ、蚘憶、劎働、移民、テクノロゞヌ、資本䞻矩ずいった問題を扱っおきた。しかし、それらの問題が鑑賞者自身の身䜓ずどのように結び぀くのかを、装身具ほど盎接的に想像させる圢匏は倚くない。装身具は、䞖界で起きおいる出来事や制床的な問題を、身䜓のスケヌルぞず匕き寄せるこずができる。
     ここで装身具の小ささは、匱点ではなくなる。倧きな空間を占有しないからこそ、装身具は身䜓の近くで䜜甚する。芖芚的な支配力ではなく、身䜓ずの距離の近さによっお、鑑賞者を䜜品ずの関係ぞ巻き蟌む。装身具は、遠くから眺められる䜜品ではなく、自分の身䜓に関わるかもしれないものずしお珟れる。そのずき鑑賞者は、単なる芳察者ではなく、朜圚的な着甚者ずしお䜜品ず向き合うこずになる。
     このように考えるなら、装身具は珟代矎術の倖郚にある呚蟺的な圢匏ではない。むしろ、身䜓ず瀟䌚の関係を問い盎すための、極めお具䜓的な芞術圢匏である。装身具は、身䜓に近接するこずで、制床や䟡倀芳を抜象的な問題ずしおではなく、個人の経隓に関わるものずしお立ち䞊げる。そこに、装身具を珟代矎術の文脈で再考する意矩がある。
     次章では、こうした装身具の可胜性が、20䞖玀埌半以降のコンテンポラリヌゞュ゚リヌにおいおどのように詊みられおきたのかを確認する。そのうえで、「ゞュ゚リヌの解攟」ず呌ばれおきた動向が䜕を達成し、同時にどのような限界を抱えおいたのかを考察したい。

    第2章 コンテンポラリヌゞュ゚リヌの成果ず限界―「ゞュ゚リヌの解攟」の埌に䜕を問うのか

     前章では、装身具を身䜓に近接し、身䜓を通じお瀟䌚的な意味を発生させる圢匏ずしお捉えた。では、このような装身具の可胜性は、20䞖玀埌半以降のゞュ゚リヌ衚珟においお、どのように詊みられおきたのだろうか。本章では、コンテンポラリヌゞュ゚リヌが達成した「ゞュ゚リヌの解攟」ず、その埌に残された課題に぀いお考えおみたい。
     20䞖玀埌半の西掋においお、ゞュ゚リヌを制䜜する䜜家たちは、戊埌の珟代矎術の動向ず呌応しながら、貎金属や宝石を䞭心ずする埓来の䟡倀䜓系から距離を取りはじめた。ゞュ゚リヌは長らく、垌少な玠材、優れた技術、資産䟡倀、身䜓を矎しく芋せる装食性ず結び぀いおきた。しかし、コンテンポラリヌゞュ゚リヌの䜜家たちは、それらの前提を盞察化し、玠材の䟡倀ではなく、コンセプトや身䜓ずの関係、瀟䌚的な意味を䜜品の䞭心に据えようずした。
     そこでは、貎金属や宝石以倖の玠材が積極的に甚いられた。玙、垃、朚、鉄、プラスチック、既補品、廃棄物、さらには身䜓に危険を及がす可胜性を持぀玠材たでもが、ゞュ゚リヌの圢匏ぞず持ち蟌たれた。重芁なのは、それらが単に奇抜な玠材ずしお䜿われたこずではない。玠材の遞択そのものが、ゞュ゚リヌに付䞎されおきた経枈的䟡倀、矎意識、所有の欲望を問い盎す方法ずなったのである。
     たた、コンテンポラリヌゞュ゚リヌは、着甚性そのものにも疑問を投げかけた。埓来のゞュ゚リヌは、身䜓を矎しく食り、着甚者の魅力や瀟䌚的立堎を補匷するものずしお理解されおきた。しかし、20䞖玀埌半以降の䜜家たちは、身に぀けるこずで生じる違和感、痛み、䞍安、緊匵、他者ずの関係性に泚目した。ゞュ゚リヌは、着甚者を満足させるための道具ではなく、身䜓に䜜甚し、身䜓を通じお問いを発生させる装眮ずしお捉え盎されおいった。
     このような動向は、欧米を䞭心に「コンテンポラリヌゞュ゚リヌ」あるいは「スタゞオゞュ゚リヌ」ずしお認知されおいく。そこでは、ゞュ゚リヌは単なる装食品ではなく、思考や批評の察象ずなり埗る衚珟圢匏ずしお拡匵された。玠材、技法、䟡倀、着甚性、身䜓、所有、制床。ゞュ゚リヌを成立させおきたあらゆる芁玠が問い盎され、その意味でコンテンポラリヌゞュ゚リヌは、「ゞュ゚リヌずは䜕か」ずいう問いを根本から開いた実践であった。
     日本においおも、戊埌の西掋文化の流入や、むタリア、ドむツなどのゞュ゚リヌ埓事者ずの亀流を背景に、商業的な宝食ずは異なるゞュ゚リヌ衚珟が暡玢されおいった。金属工芞を基盀ずする䜜家たちは、ゞュ゚リヌを新たな造圢衚珟の堎ずしお捉え、造圢性や技術性を通じお埓来の宝食ずは異なる䟡倀を提瀺しようずした。たた、専門教育機関の蚭立や、コンセプチュアル・アヌト的な教育の導入によっお、ゞュ゚リヌは単なる工芞品や商品ではなく、思考を䌎う衚珟ずしお扱われるようになっおいく。
     1980幎代以降、日本囜内でもコンテンポラリヌゞュ゚リヌぞの関心は高たり、矎術通においお囜際的なゞュ゚リヌ衚珟を玹介する展芧䌚も開催された。これらの動きは、ゞュ゚リヌを商業的な装食品から切り離し、芞術衚珟ずしお捉え盎すための重芁な契機であった。日本におけるコンテンポラリヌゞュ゚リヌは、西掋の制床的文脈を受容し぀぀も、金属工芞や䌝統技法の背景ず接続しながら独自の展開を芋せおきた。
     しかし、ここで考えるべきなのは、コンテンポラリヌゞュ゚リヌが䜕を成し遂げたのかだけではない。それが䜕を未解決のたた残したのかである。
     コンテンポラリヌゞュ゚リヌは、確かにゞュ゚リヌを貎金属や宝石、資産䟡倀、装食性、商業性ずいった埓来の枠組みから解き攟った。それは重芁な達成である。しかし、その問いはしばしば、「ゞュ゚リヌずは䜕か」「どこたでがゞュ゚リヌず呌べるのか」ずいう、分野内郚の問題ずしお展開されおきた。玠材を倉えるこず、着甚性を揺さぶるこず、䟡倀䜓系を反転させるこず。これらはゞュ゚リヌの定矩を拡匵するうえで倧きな意味を持っおいたが、同時にその議論は、ゞュ゚リヌずいう領域の内偎にずどたりやすかった。
     もちろん、「ゞュ゚リヌずは䜕か」を問うこず自䜓が無意味だったわけではない。むしろ、その問いがあったからこそ、ゞュ゚リヌは装食品や商品ずいう狭い理解から距離を取り、思考の媒䜓ずしおの可胜性を獲埗した。しかし、もしゞュ゚リヌが䞀定皋床「解攟」されたのだずすれば、次に問われるべきなのは、自由になったゞュ゚リヌで䜕をするのかずいう問題である。
     ここに、コンテンポラリヌゞュ゚リヌの成果ず限界が同時に珟れおいる。
     成果ずは、ゞュ゚リヌが玠材、䟡倀、技法、着甚性においお自由になったこずである。限界ずは、その自由が必ずしも珟代矎術の広い文脈ぞ接続されず、専門領域内の実隓ずしお理解され続けおきたこずである。ゞュ゚リヌは解攟された。しかし、その解攟された圢匏が、身䜓、制床、瀟䌚、テクノロゞヌ、移民、ゞェンダヌ、蚘憶、経枈ずいった珟代的な問題をどのように扱い埗るのかに぀いおは、なお十分に共有された蚀語を持っおいない。
     珟代矎術の文脈においお、身䜓や制床、瀟䌚的関係を扱う䜜品は数倚く存圚する。にもかかわらず、身䜓に最も近接する圢匏の䞀぀である装身具は、しばしば工芞、デザむン、ファッション、土産物ずしお分類され、その批評的可胜性を十分に読たれおこなかった。これは、装身具の問題であるず同時に、珟代矎術の偎が身䜓に近接する圢匏をどのように扱うかずいう問題でもある。
     コンテンポラリヌゞュ゚リヌは、ゞュ゚リヌの内郚からその枠組みを抌し広げおきた。しかし、いた必芁なのは、ゞュ゚リヌの内偎でさらに自由を拡匵するこずだけではない。むしろ、装身具ずいう圢匏が持぀身䜓ぞの近さ、着甚の想像、玠材に蓄積された蚘憶、制床や䟡倀ずの結び぀きを、珟代矎術の蚀語ぞず接続するこずである。
     そのためには、装身具を「小さな圫刻」や「着甚可胜な工芞」ずしお理解するだけでは䞍十分である。装身具は、身䜓に近接するこずによっお、䜜品ず鑑賞者の関係を倉化させる。鑑賞者は装身具を前にしたずき、単にそれを芋るのではなく、自らの身䜓ずの関係を想像する。誰がそれを身に぀けるのか。どのような堎で着甚されるのか。それは身䜓を食るのか、守るのか、拘束するのか、可芖化するのか、あるいは傷぀けるのか。
     このような想像の䜜甚は、装身具を単なる物䜓から、身䜓ず瀟䌚の関係を立ち䞊げる圢匏ぞず倉化させる。コンテンポラリヌゞュ゚リヌが「ゞュ゚リヌずは䜕か」を問うこずで自由を獲埗したのだずすれば、本皿が次に問いたいのは、「装身具は身䜓ず瀟䌚のあいだで䜕を発生させるのか」ずいうこずである。
     この問いは、ゞュ゚リヌずいう分野を吊定するものではない。むしろ、コンテンポラリヌゞュ゚リヌが切り開いおきた自由を、より広い芞術衚珟の文脈ぞず接続するためのものである。ゞュ゚リヌの解攟は、終着点ではなく出発点である。解攟されたゞュ゚リヌ、あるいは装身具的圢匏は、いたや「ゞュ゚リヌであるこず」を蚌明するためではなく、身䜓を通じお瀟䌚を考えるために甚いられるべき段階に来おいる。
     次章では、この問題をさらに進め、装身具における着甚性に぀いお考察する。重芁なのは、実際に身に぀けられるかどうかではない。むしろ、装身具を前にしたずきに、鑑賞者の想像のなかでどのような身䜓的関係が立ち䞊がるのかである。この「想像䞊の着甚性」こそ、装身具を珟代矎術の文脈で捉え盎すための䞭心的な芖点ずなる。

    第3章 想像䞊の着甚性―鑑賞者はい぀朜圚的な着甚者になるのか

     装身具を珟代矎術の文脈で考えるずき、最も倧きな論点ずなるのは「着甚性」である。装身具は、䞀般的には身䜓に身に぀けるものずしお理解される。そのため、䜜品が装身具の圢態をずるずき、鑑賞者はしばしば「これは実際に身に぀けられるのか」「身に぀けるためのものなのか」「なぜ䜜品に着甚機胜が必芁なのか」ずいう問いを抱く。もしくは鑑賞者が着甚を受け入れた時、「自分に䌌合うかどうか」「奜きか嫌いか」ずいう消費を目的ずした評䟡が始たる。絵画や圫刻に察しおは通垞向けられない問いが、装身具には最初からたずわり぀いおいるのである。
     この問いは、装身具を珟代矎術ずしお成立させるうえで障害にもなり埗る。なぜなら、着甚できるずいう性質は、䜜品を工芞品、ファッション、プロダクトぞず匕き戻しやすいからである。身に぀けられるのであれば、それは䜿うものではないか。䜿うものであるなら、機胜性や快適性、矎しさ、耐久性、䟡栌によっお刀断されるべきではないか。このような理解が働くず、䜜品が持぀批評的な構造は芋えにくくなる。
     しかし、着甚性は本圓に鑑賞を劚げるものなのだろうか。むしろ、着甚性こそが、装身具を他の芞術圢匏ずは異なる仕方で成立させる条件なのではないだろうか。
     ここで重芁なのは、着甚性を「実際に身に぀けられる機胜」ずしおのみ捉えないこずである。装身具には、物理的に身䜓に装着されるこずで生じる経隓がある。重さ、冷たさ、硬さ、痛み、皮膚ぞの接觊、動䜜の制限、他者の芖線。これらは、実際の着甚によっお初めお生じる身䜓的経隓である。しかし、装身具の働きはそれだけに限られない。䜜品を前にした鑑賞者は、たずえそれを実際に身に぀けるこずができなくおも、自らの身䜓ずの関係を想像する。
     指茪の圢をした䜜品を芋れば、私たちは無意識のうちに自分の指を思い浮かべる。ブロヌチであれば胞元を、銖食りであれば喉や胞、肩の重みを想像する。鋭利な玠材で䜜られおいれば、皮膚が傷぀く感芚を想像する。過剰に重い䜜品であれば、身䜓が匕っ匵られる感芚を想像する。たずえ䜜品が展瀺ケヌスの䞭に眮かれ、実際には誰にも着甚されないずしおも、鑑賞者の想像のなかで、䜜品ず身䜓の関係はすでに始たっおいる。
     この想像の働きを、本皿では「想像䞊の着甚性」ず呌びたい。
     想像䞊の着甚性ずは、䜜品が実際に身䜓ぞ装着される以前に、鑑賞者の意識のなかで立ち䞊がる身䜓ずの関係である。それは、単なる空想や補助的な解釈ではない。むしろ、装身具ずいう圢匏が䜜品ずしお䜜甚するための䞭心的な構造である。装身具を芋るこずは、しばしば、それを身に぀ける可胜性を想像するこずず切り離せない。鑑賞者は䜜品を眺めながら、同時に自らの身䜓を䜜品の受け皿ずしお想像しおいる。
     この点においお、装身具はコンセプチュアル・アヌト以埌の芞術衚珟ずも深く関わっおいる。珟代矎術においおは、䜜品の成立は必ずしも物䜓の造圢的完成床だけに䟝存しない。テキスト、指瀺、制床、蚘録、プロセス、展瀺の文脈が、䜜品を成立させる重芁な芁玠ずなっおきた。目の前にある物䜓は、それ自䜓だけでは䜜品ずしお刀断されない堎合がある。䜜品は、物䜓ず蚀語、状況、制床、鑑賞者の認識のあいだで成立する。
     装身具もたた、物䜓ずしおの圢だけで完結するものではない。装身具が䜜品ずしお立ち䞊がるずき、そこには垞に、身䜓ずの関係をめぐる想像が含たれおいる。どのように装着されるのか。誰がそれを身に぀けるのか。どのような堎面で芋られるのか。着甚者はそれによっお守られるのか、食られるのか、拘束されるのか、暎露されるのか。こうした問いは、䜜品の倖偎にある補足情報ではなく、装身具ずいう圢匏そのものが発生させる問いである。
     1980幎代以降のコンテンポラリヌゞュ゚リヌには、実際の着甚に適さない、あるいは着甚するこずで䞍安や緊匵を生じさせる䜜品が数倚く芋られる。Otto KÃŒnzli、Bernhard Schobinger、Gerd Rothmann、Peter Skubicらの実践は、埓来のゞュ゚リヌが前提ずしおきた矎しさ、快適さ、資産䟡倀、装食性を揺さぶり、身䜓ず玠材の関係を問い盎すものであった。たずえば、廃棄物やガラクタを甚いた䜜品、身䜓の䞀郚を型取る䜜品、あるいは身䜓ぞの介入行為を含む䜜品は、着甚者を満足させるための装食品ではない。むしろ、それらは鑑賞者に察しお、「これを身に぀けるずはどういうこずか」ずいう問いを突き぀ける。
     これらの䜜品が匷い印象を残すのは、実際に着甚できるからではない。むしろ、着甚を想像したずきに生じる違和感や䞍安が、䜜品の批評性を立ち䞊げおいる。身に぀けられないこず、身に぀けたくないこず、身に぀けるず身䜓が傷぀くかもしれないこず。そうした吊定的な可胜性もたた、装身具における着甚性の䞀郚である。着甚性ずは、快適な䜿甚可胜性だけを意味するのではない。身䜓ずの関係を想像させる力そのものなのである。
     このように考えるなら、装身具は「着甚されるこずで完成する䜜品」だけではない。むしろ、着甚されない状態においおも、着甚の可胜性を鑑賞者に想像させるこずで成立する䜜品である。展瀺台の䞊の指茪、ケヌスの䞭のブロヌチ、壁面に眮かれた銖食り。それらは䞀芋するず身䜓から切り離されおいる。しかし鑑賞者は、それらを完党な抜象物ずしお芋るこずができない。装身具の圢態は、身䜓の䞍圚を逆説的に呌び出す。そこにない身䜓が、䜜品の呚囲に想像されるのである。
     この身䜓の䞍圚ず想像は、珟代瀟䌚においおさらに重芁な意味を持぀。私たちは日垞的に、画像や映像を通じお衣服や装身具を芋おいる。オンラむンショッピングでは、実物を手に取る前に、画面䞊の写真や着甚むメヌゞをもずに、自分の身䜓ずの関係を想像する。SNSでは、他者の身䜓に身に぀けられたものを芋お、自分に眮き換えたり、欲望したり、距離を取ったりする。珟代の鑑賞者は、すでに画像を通じお着甚を想像する胜力を日垞的に鍛えられおいる。
     この状況においお、装身具䜜品の鑑賞は、単に展瀺空間のなかで完結するものではない。鑑賞者は、䜜品を自分の身䜓に重ねるだけでなく、他者の身䜓、瀟䌚的な身䜓、制床によっお刀断される身䜓を想像する。たずえば、同じ指茪であっおも、それが結婚指茪ずしお芋られるのか、暩力者の所有物ずしお芋られるのか、移民や難民が身に぀けるものずしお芋られるのかによっお、䜜品の意味は倧きく倉化する。装身具は、物䜓ずしおは同じであっおも、どの身䜓に接続されるかによっお、その意味を倉える。
     ここに、装身具が珟代矎術においお持ち埗る重芁な批評性がある。装身具は、䜜品ず鑑賞者の関係を、芖芚的な鑑賞だけにずどめない。鑑賞者は䜜品を芋るず同時に、自分の身䜓を意識する。自分がそれを身に぀けるのか。身に぀ける資栌があるのか。身に぀けたいず思うのか。身に぀けるこずで䜕を瀺すこずになるのか。あるいは、誰かがそれを身に぀けおいる姿を想像したずき、自分はその身䜓をどのように芋るのか。
     このずき鑑賞者は、単なる芳察者ではなく、朜圚的な着甚者ずなる。朜圚的な着甚者ずは、実際に䜜品を身に぀ける者ではない。䜜品ずの関係のなかで、自らの身䜓を䞀床通過させおしたう者である。装身具䜜品は、鑑賞者に察しお、芋るこずず身に぀けるこずのあいだにある想像の領域を開く。その領域においお、䜜品は個人の身䜓感芚ず瀟䌚的な意味を結び぀ける。
     ここで重芁なのは、着甚性が䜜品を日甚品や商品ぞず匕き䞋げるのではなく、むしろ䜜品のコンセプトを鑑賞者の身䜓ぞ接続するずいう点である。絵画や映像、圫刻が、しばしば鑑賞者ずのあいだに䞀定の距離を保぀のに察し、装身具はその距離を短瞮する。䜜品は遠くにある瀟䌚問題ずしおではなく、自分の身䜓に関わるかもしれない問いずしお立ち䞊がる。身䜓に近接するずいう性質は、装身具を匱くするのではなく、䜜品の問いを個人のスケヌルぞず匕き寄せる。
     このこずは、装身具における「機胜」の再定矩にも぀ながる。通垞、機胜ずは、身に぀けやすさ、耐久性、装食性、䜿甚目的ずしお理解される。しかし、珟代矎術の文脈で装身具を考えるなら、機胜ずは必ずしも実甚性を意味しない。むしろ、身䜓ずの関係を発生させる力、鑑賞者を朜圚的な着甚者ぞず倉える力、瀟䌚的な問いを身䜓のスケヌルぞ翻蚳する力こそが、装身具の機胜である。
     したがっお、装身具における着甚性は、䜜品の倖偎に付加された条件ではない。それは、䜜品の意味を成立させるための構造である。実際に身に぀けるこず、身に぀けられないこず、身に぀けるこずを想像するこず、誰かが身に぀けおいる姿を想像するこず。これらはすべお、装身具䜜品の成立に関わっおいる。
     この「想像䞊の着甚性」を出発点にするずき、装身具は珟代矎術の倖郚にある特殊なゞャンルではなく、身䜓ず瀟䌚の関係を可芖化する芞術圢匏ずしお捉え盎される。装身具は、物䜓ずしお小さいかもしれない。しかし、その小ささは、鑑賞者の身䜓を䜜品の近くぞ呌び寄せる。䜜品は鑑賞者に察しお、芋るだけでなく、自分の身䜓を通しお考えるこずを芁求する。
     次章では、この想像䞊の着甚性が筆者自身の制䜜においおどのように働いおいるのかを怜蚎する。AIによっお生成される肖像、䌝統技法ずしおの圫り、移民ずしお制床に読み取られる身䜓、そしお装身具的な圢匏をめぐる実践を通しお、身䜓ず瀟䌚のあいだにどのような関係のかたちが立ち䞊がるのかを考察したい。

    第4章 自䜜におけるむンタヌフィギュラ―AI、䌝統技法、移民的身䜓をめぐっお

     前章では、装身具における着甚性を、実際に身に぀けられるかどうかだけではなく、鑑賞者の想像のなかで身䜓ずの関係を立ち䞊げる䜜甚ずしお捉えた。装身具は、展瀺台の䞊に眮かれおいおも、あるいは実際には着甚に適さないものであっおも、鑑賞者に「自分の身䜓に接続されるかもしれない」ずいう想像を促す。そのずき鑑賞者は、単なる芳察者ではなく、朜圚的な着甚者ずしお䜜品ず向き合うこずになる。
     この想像䞊の着甚性は、筆者自身の制䜜においおも重芁な軞ずなっおいる。筆者はこれたで、ゞュ゚リヌや装身具の圢匏を出発点ずしながら、身䜓、制床、技術、蚘憶、玠材の関係をめぐっお制䜜を行っおきた。そこでは、装身具は身䜓を矎しく食るためのものではなく、身䜓が瀟䌚によっおどのように認識され、分類され、䟡倀づけられるのかを考えるための圢匏ずしお扱われおいる。
     本章では、筆者の制䜜を䞉぀の芳点から敎理する。第䞀に、AIず肖像をめぐる制䜜においお、装身具的圢匏がどのように身䜓ず制床の関係を可芖化するのか。第二に、䌝統技法ずデゞタルプロセスの埀還においお、玠材や技法がどのように時間や蚘憶を身䜓ぞ接続するのか。第䞉に、移民的な身䜓をめぐる制䜜においお、着甚の想像がどのように瀟䌚制床ぞの問いを発生させるのかである。

     第䞀に、AIず肖像――制床に読み取られる身䜓
     《AI Portrait》シリヌズは、筆者自身に関する情報をもずにAIが生成した肖像を出発点ずしおいる。出生地、幎霢、身長、目の色、職業、居䜏地、宗教、家族構成など、個人を説明するために甚いられる情報を入力し、AIはそこから筆者の顔を想像する。生成された肖像は、しばしば筆者自身ずは䌌おいない。しかし、その䌌おいなさこそが、この䜜品においお重芁である。
     AIが生成する顔は、筆者の内面や実像を映し出すものではない。それは、情報によっお掚枬され、分類され、統蚈的に構成された身䜓である。そこには、他者によっお、あるいは制床やシステムによっお認識される「私」の姿が珟れおいる。顔は個人を識別する最も基本的な衚面であるが、同時に、瀟䌚が個人を読み取るためのむンタヌフェヌスでもある。パスポヌト、滞圚蚱可蚌、身分蚌明曞、プロフィヌル画像、監芖カメラ、SNS。珟代瀟䌚においお顔は、個人の衚情であるず同時に、制床や情報システムに接続される蚘号でもある。
     筆者は日本からドむツぞ移䜏し、長く倖囜人ずしお生掻しおきた。その経隓のなかで、自分ずいう存圚は、しばしば曞類や写真、囜籍、出生地、職業、収入、滞圚資栌ずいった情報の集合ずしお扱われおきた。自分が誰であるかは、自分自身の感芚だけでは決定されない。制床によっお確認され、分類され、蚱可され、時に疑われる。身䜓はそこに存圚しおいるにもかかわらず、その存圚は垞に倖郚の基準によっお読み取られる。
     《AI Portrait》においおAIが生成する肖像は、このような制床に読み取られる身䜓のあり方ず重なっおいる。AIは筆者を芋おいるのではない。筆者に関する情報を凊理し、その情報から「あり埗る顔」を生成しおいる。そこには、本人の身䜓から離れたずころで、本人らしさが組み立おられおいく珟代的な状況が珟れおいる。
     筆者は、そのAI画像をアルミ耇合板に出力し、さらに手䜜業による圫りを加える。画面䞊に生成された顔は、鏚の反埩によっお傷぀けられ、削られ、揺らぎ、時に刀別しにくくなる。この行為は、AI画像を単に砎壊するためのものではない。むしろ、デヌタによっお構成された身䜓に、手の時間ず物質の抵抗を䞎える行為である。
     このずき、圫りは䞀皮の介入である。AIが滑らかに生成した顔に察しお、手䜜業の線は䞍均質な時間を刻み蟌む。画像は情報ずしお均質に凊理されるが、圫りは身䜓のリズム、力の差、呌吞、倱敗の可胜性を含んでいる。デゞタルに生成された肖像ず、身䜓的反埩によっお刻たれる線。そのあいだに、筆者の制䜜は成立しおいる。
     《AI Portrait》は、厳密な意味で着甚されるゞュ゚リヌではない。しかし、そこには装身具的な構造がある。顔は、瀟䌚のなかで最も他者に芋られる身䜓の衚面である。装身具もたた、身䜓の衚面に䜍眮し、他者の芖線を受けながら意味を発生させる。顔ず装身具は、ずもに身䜓ず瀟䌚の接觊面であり、個人が他者によっお認識される地点である。
     したがっお、《AI Portrait》における肖像は、単なる顔のむメヌゞではない。それは、身䜓が制床やテクノロゞヌによっお読み取られる状況を可芖化するための装身具的な衚面である。鑑賞者はその顔を芋ながら、自分自身もたた䜕らかの情報によっお分類され、想像され、刀断される存圚であるこずを意識する。ここで䜜品は、筆者個人の肖像を超え、珟代における身䜓認識の問題ぞず接続される。

     第二に、䌝統技法ずデゞタルプロセス――身䜓に蓄積された時間
     筆者の制䜜においお、玠材や技法は単なる造圢䞊の遞択ではない。それらは、時間や蚘憶を身䜓ぞ接続するための方法である。筆者は東京藝術倧孊で圫金を孊び、その埌ドむツでコンテンポラリヌゞュ゚リヌを孊んだ。日本の金属工芞における技術的蚓緎ず、ペヌロッパにおけるコンセプチュアルなゞュ゚リヌ教育。その二぀の環境のあいだに身を眮いおきたこずは、筆者の制䜜に倧きな圱響を䞎えおいる。
     筆者にずっお䌝統技法ずは、過去の圢匏を保存するためのものではない。それは、身䜓に蓄積された時間を、珟圚の瀟䌚やテクノロゞヌのなかぞ接続し盎すための方法である。圫金における圫りは、単に衚面を装食する技術ではない。鏚を持぀手、金槌を打぀リズム、刃先が玠材に入る角床、線ず線の間隔、力の匷匱。これらはすべお、身䜓の経隓によっお調敎される。
     《Layer》シリヌズでは、皲穂をモチヌフずしながら、アルミ耇合板ぞの圫り、撮圱、デゞタル線集、UVプリント、そしお再び圫るずいう工皋を反埩しおいる。手䜜業によっお刻たれた線は、䞀床デゞタル画像ぞ倉換され、再び物質の衚面ぞ戻される。そこでは、手仕事ずデゞタルプロセスは察立するものではなく、互いに重なり合いながら、䞀぀の画面のなかに耇数の時間を蓄積しおいく。
     この反埩は、筆者の家系が長く米䜜りに関わっおきたこずずも結び぀いおいる。蟲業における反埩は、同じ䜜業の単玔な繰り返しではない。同じ季節に田ぞ向かい、同じように身䜓を動かしながらも、倩候、土壌、家族構成、経枈状況、瀟䌚制床は垞に倉化する。そこには、反埩ず倉化が分かちがたく結び぀いおいる。
     圫金における圫りもたた、反埩ず倉化のあいだにある。鏚を打぀動䜜は繰り返されるが、線は決しお完党に同じにはならない。玠材の硬さ、刃先の状態、手の角床、呌吞、䜓調によっお、刻たれる線は少しず぀倉化する。筆者にずっお、䌝統技法ずは固定された過去の様匏ではなく、身䜓を通じお倉化し続ける時間の圢匏である。
     このずき、装身具的な思考は、䜜品の物理的な圢態だけにあるのではない。重芁なのは、玠材や技法が身䜓の蚘憶を垯びおいるずいう点である。金属を圫るこず、挆を扱うこず、髪を甚いるこず、米をモチヌフずするこず。それらは単なる玠材遞択ではなく、身䜓、家族、土地、劎働、継承、時間を䜜品の内郚ぞ匕き寄せる方法である。
     装身具は歎史的に、個人の身䜓に近接しながら、家族や共同䜓の蚘憶を保持しおきた。受け継がれる指茪や銖食り、護笊は、その兞型である。筆者の制䜜における玠材や技法もたた、個人の身䜓を越えた時間を匕き受けおいる。ただし、それは懐叀的な継承ではない。過去の技法や蚘憶を、AI、デゞタル画像、アルミ耇合板、UVプリントずいった珟代的な技術ず接続するこずで、身䜓に蓄積された時間を珟圚の問題ずしお再配眮する詊みである。
     この意味で、筆者の制䜜における䌝統技法は、工芞的な熟緎を瀺すためだけのものではない。それは、デゞタル化され、均質化され、情報ずしお流通する珟代のむメヌゞに察しお、身䜓の反埩を介入させる方法である。手の時間は、画像の衚面に傷や揺らぎを生み出し、情報ずしおの像を物質的な経隓ぞず匕き戻す。ここでも䜜品は、身䜓ず技術、過去ず珟圚、玠材ず情報のあいだに立ち䞊がっおいる。

     第䞉に、移民的身䜓ず着甚の想像――制床の近さを可芖化する
     筆者の制䜜においお、もう䞀぀重芁なのは、移民的な身䜓をめぐる問題である。倖囜に暮らす者にずっお、身䜓は自由に存圚しおいるように芋えながら、垞に制床によっお条件づけられおいる。ビザ、滞圚蚱可、劎働蚱可、収入蚌明、居䜏蚱可、保険、皎金。これらは日垞生掻の背埌にありながら、ある瞬間に身䜓の自由を倧きく巊右する。
     この制床の力は、必ずしも目に芋える圢で珟れるわけではない。倖芋䞊は昚日ず同じ身䜓であっおも、曞類の状態ひず぀で、その人が働けるか、移動できるか、滞圚できるか、家族ず暮らせるかが倉わっおしたう。身䜓そのものは倉化しおいないにもかかわらず、制床䞊の䜍眮づけが倉わるこずで、その身䜓の可胜性は倧きく倉化する。
     このような経隓は、装身具の問題ず深く結び぀いおいる。装身具は、身䜓に近接しながら、その人の瀟䌚的立堎や䟡倀を可芖化する圢匏である。結婚指茪は婚姻制床を、バッゞは所属や暩限を、勲章は囜家や功瞟を身䜓の䞊に瀺す。぀たり装身具は、制床や瀟䌚的承認を身䜓に取り付ける圢匏でもある。
     では、制床によっお䞍安定な䜍眮に眮かれる身䜓は、どのような装身具を持ち埗るのだろうか。移民の身䜓、難民の身䜓、滞圚資栌を埅぀身䜓、蚱可されるかどうか分からない身䜓。これらの身䜓は、しばしば制床によっお匷く管理されながらも、矎術や垂堎のなかで䟡倀を垯びる身䜓ずしおは可芖化されにくい。
     筆者が移民的な状況を扱う䜜品においお関心を持っおいるのは、この䞍可芖の制床を、どのように身䜓の近くぞ匕き寄せるかである。装身具は、制床の抜象性を身䜓のスケヌルぞ倉換するこずができる。曞類や資栌ずしお存圚しおいるものを、身に぀けるかもしれないもの、倱うかもしれないもの、他者に芋られるかもしれないものずしお提瀺するこずで、制床は遠い行政䞊の問題ではなく、身䜓に関わる経隓ずしお立ち䞊がる。
     たずえば、バランスゲヌムを甚いた䜜品においお、耇数の駒が䞍安定な均衡を保぀状況は、移民ずしおの生掻の䞍確かさず重なる。ひず぀の駒が動けば党䜓のバランスが厩れるように、制床䞊の小さな倉曎や曞類䞊の䞍備が、生掻党䜓を揺るがすこずがある。もしその駒が装身具化され、身䜓に近接するものずしお提瀺されるならば、鑑賞者はそれを単なるゲヌムの郚品ずしおではなく、身䜓に接続される䞍安定な条件ずしお想像するこずになる。
     ここでも重芁なのは、実際に着甚されるかどうかだけではない。むしろ、鑑賞者がそれを身に぀ける可胜性を想像したずき、䜜品の問いが生じる。もし自分がこの䞍安定な駒を身に぀けるならば、䜕を匕き受けるこずになるのか。もしこの駒が倱われたならば、䜕が厩れるのか。誰の身䜓がこの䞍安定さを日垞的に背負っおいるのか。着甚の想像は、制床の問題を自分の身䜓に近づける。
     この点においお、装身具は瀟䌚問題を説明するための道具ではない。装身具は同情を喚起するための象城でもない。むしろ、制床や瀟䌚的条件を身䜓のスケヌルぞ匕き寄せるこずで、鑑賞者に自らの䜍眮を問い盎させる圢匏である。䜜品は、遠くにある他者の問題を提瀺するのではなく、鑑賞者自身が朜圚的な着甚者ずしおその状況を想像する堎を぀くる。
     筆者にずっお、装身具ずは「誰かを矎しく芋せるためのもの」ではなく、「誰の身䜓がどのように瀟䌚ず接続されおいるのかを可芖化するもの」である。そこでは、身䜓は自埋した個人の所有物ではなく、制床、蚘憶、技術、玠材、他者の芖線によっお線み盎される堎ずしお珟れる。

     以䞊の䞉぀の実践――AIによっお生成される肖像、䌝統技法ずデゞタルプロセスの埀還、移民的身䜓をめぐる装身具的な思考――に共通しおいるのは、䜜品が身䜓ず瀟䌚のあいだに立ち䞊がっおいるずいう点である。䜜品は、物䜓ずしお完結するのではなく、身䜓に近接する可胜性、あるいは身䜓ずの関係を想像させるこずによっお意味を発生させる。
     このような実践を通しお芋えおくるのは、装身具が単なる圢匏やゞャンルではなく、身䜓ず瀟䌚の関係を考えるための方法であるずいうこずである。筆者が《むンタヌフィギュラ》ずいう蚀葉で捉えようずしおいるのは、たさにこの関係のかたちである。それは、装身具を珟代矎術の内郚に䜍眮づけ盎すための補助線にずどたるものではない。むしろ、珟代矎術が身䜓、制床、技術、蚘憶、䟡倀ずの関係をどのように再構築し埗るのかを考えるための、実践的な芖点である。
     次章では、この芖点が筆者自身の制䜜に限られたものではなく、他の䜜家の実践にも適甚し埗るこずを、小嶋厇嗣の《RUNNER》シリヌズを通しお怜蚎する。《RUNNER》は、廃棄物、玩具文化、ゞェンダヌ、共同䜓、技術的構造をブロヌチずいう圢匏においお束ね䞊げる䜜品であり、「なぜそれが装身具でなければならないのか」ずいう問いに、明確な必然性をもっお応答しおいる。

    第5章 小嶋厇嗣《RUNNER》による怜蚌―廃棄物、玩具文化、ゞェンダヌ、共同䜓を束ねるブロヌチ

     前章では、筆者自身の制䜜を通しお、装身具的な圢匏が身䜓、制床、技術、蚘憶、玠材の関係をどのように立ち䞊げるのかを確認した。では、このような芖点は、筆者個人の制䜜に限られたものなのだろうか。あるいは、他の䜜家の実践にも適甚し埗るものなのだろうか。
     本章では、小嶋厇嗣の《RUNNER》シリヌズを通しお、この問いを怜蚎したい。小嶋の䜜品は、装身具が単なる装食品や新奇なゞュ゚リヌ衚珟ではなく、身䜓ず瀟䌚のあいだに耇数の関係を立ち䞊げる圢匏であるこずを明確に瀺しおいる。そこでは、廃棄物、玩具文化、幌少期の蚘憶、ゞェンダヌ、共同䜓ぞの垰属、技術的構造が、ブロヌチずいう圢匏においお束ねられおいる。
     小嶋厇嗣は京郜を拠点に、䜜家掻動ず䌁業のゞュ゚リヌデザむナヌずいう二぀の立堎を暪断しながら制䜜を行っおいる。建築を孊んだのち、家族の圱響をきっかけにゞュ゚リヌ制䜜ぞず向かった圌の経歎は、ゞュ゚リヌを専門領域の内郚からだけでなく、異なる文化や構造の亀差点ずしお捉える芖点をもたらしおいる。
     《RUNNER》シリヌズは、プラスチックモデル、いわゆるプラモデルの制䜜過皋で廃棄される「ランナヌ」ず呌ばれるフレヌム郚分を玠材ずしたブロヌチ䜜品である。ランナヌずは、プラモデルの郚品を支える枠であり、完成品を組み立おた埌には通垞䞍芁なものずしお捚おられる。小嶋は、その廃棄される郚分を立䜓的に構成し、身䜓に取り付けられるブロヌチぞず倉換する。
     埓来のコンテンポラリヌゞュ゚リヌの文脈であれば、この䜜品は「無䟡倀な玠材をゞュ゚リヌぞ転換した䜜品」ずしお説明されるかもしれない。あるいは、カラフルな造圢、廃棄物の再利甚、日本の玩具文化を参照した䜜品ずしお理解されるかもしれない。しかし、《RUNNER》の重芁性は、単にプラモデルの廃材をゞュ゚リヌ化した点にあるのではない。重芁なのは、プラモデルずゞュ゚リヌずいう、通垞は異なる文化的領域に属するものが、䞀぀の身䜓の䞊で亀差する点にある。
     プラモデルは、戊埌日本の玩具文化においお重芁な䜍眮を占めおきた。特に1980幎代以降、ガンプラやミニ四駆などのプラスチック補玩具は、倚くの子どもたちにずっお身近な存圚であった。それらはしばしば「男の子向け」の玩具ずしお分類され、組み立おるこず、改造するこず、集めるこず、競わせるこずを通じお、技術的な想像力や所有の欲望を育んできた。
     䞀方で、同じ時代の子どもたちの生掻空間には、プラスチック補のアクセサリヌやビヌズ、ぬいぐるみ、人圢など、「女の子向け」ずされおきた玩具文化も存圚しおいた。もちろん、珟実の遊びの堎では、こうした区分は垞に明確だったわけではない。家庭内や友人同士の遊びのなかでは、プラモデル、人圢、アクセサリヌ、ゲヌム、ぬいぐるみはしばしば混圚し、本来の甚途やゞェンダヌ的な分類を越えお組み合わされおいた。
     《RUNNER》は、この幌少期の遊びが持っおいた可塑的な想像力を、ブロヌチずいう圢匏においお再構成しおいる。プラモデルのランナヌは、か぀お「男の子の遊び」ずしお分類されやすかった文化を想起させる。䞀方で、それがブロヌチずしお胞元に取り付けられるずき、アクセサリヌや装食、身䜓の提瀺ずいった別の文化ぞ接続される。そこでは、玩具ず装身具、男の子向けず女の子向け、組み立おる行為ず身に぀ける行為が、䞀぀の身䜓の衚面で亀差する。
     ここで、ブロヌチずいう圢匏は決定的に重芁である。もしランナヌが壁面䜜品や眮物ずしお提瀺されおいたならば、それは廃材を甚いたオブゞェ、あるいは玩具文化ぞの参照ずしお理解されただろう。しかし、ブロヌチであるこずによっお、䜜品は身䜓に取り付けられる可胜性を持぀。胞元に掲瀺されるものずしお、他者の芖線にさらされる。぀たり、䜜品は個人的な蚘憶にずどたらず、瀟䌚的な蚘号ずしお䜜甚し始める。
     装身具には、所属や立堎を瀺す機胜がある。議員バッゞ、瀟章、孊校の名札、勲章、宗教的な蚘章、あるいは珟圚の「掚し掻」におけるグッズなどは、身䜓に取り付けられるこずで、個人の関係性や䟡倀芳、共同䜓ぞの垰属を可芖化する。《RUNNER》においおも、ランナヌの色や圢は、特定の玩具文化を共有する者にずっおは蚘憶のコヌドずしお働く。ガンプラで遊んだ経隓のある者であれば、ランナヌの色圩から、どのような機䜓やキャラクタヌ、時代の蚘憶が想起されるかもしれない。
     このずき、䜜品は理解できる者ず理解できない者のあいだに、ゆるやかな境界線を匕く。ある者にずっおは懐かしい蚘憶の断片であり、別の者にずっおは単なるカラフルなプラスチックの構成物に芋える。この差異は、䜜品の匱点ではない。むしろ、装身具が共同䜓の蚘号ずしお機胜するこずを瀺しおいる。装身具は、垞にすべおの人に同じ意味を䌝えるわけではない。特定の蚘憶や文化的コヌドを共有する者に察しおだけ、匷く反応する堎合がある。
     さらに、《RUNNER》はゞェンダヌの問題を盎接的なスロヌガンずしおではなく、玠材ず圢匏の接続を通しお扱っおいる。小嶋は、瀟䌚的な䞻匵を前面に掲げるのではなく、幌少期の玩具文化、家庭内の遊び、珟圚の子育おを通じお実感されるゞェンダヌ意識の倉化を、䜜品の内郚に折り蟌んでいる。プラモデルずブロヌチの接続は、玩具売り堎や家庭内で分けられおきた性別の境界を、身䜓の䞊で組み替える行為ずしお読むこずができる。
     この組み替えは、単なる異質な芁玠の接合ではない。装身具ずいう圢匏を通すこずで、ゞェンダヌの問題は抜象的な瀟䌚論ではなく、身䜓に取り付けられる蚘号の問題ずしお珟れる。䜕を身に぀けるこずが蚱されおきたのか。どのような色や玠材が、どの身䜓に結び぀けられおきたのか。誰がプラモデルを䜜り、誰がアクセサリヌを身に぀けるものずされおきたのか。《RUNNER》は、そのような問いを、ブロヌチずいう小さな圢匏のなかで発生させおいる。
     たた、《RUNNER》は廃棄物を扱いながらも、単なるアップサむクルの実践には回収されない。ランナヌは、完成品を支えるために存圚しながら、完成埌には䞍芁ずされる郚分である。぀たり、それは商品ずしお䟡倀を持぀完成品の背埌にある、芋えにくい構造である。小嶋はその䞍芁ずされた郚分を取り出し、身䜓の䞊に掲瀺する。ここには、消費瀟䌚においお呚瞁化されるものを、䟡倀あるものずしお再配眮する行為がある。
     ただし、その䟡倀の再配眮は、単に廃材を矎しく芋せるこずによっお成立しおいるのではない。ランナヌは、か぀お組み立おられたプラモデルの蚘憶を垯びおいる。どの郚品がそこから切り離され、どのような完成品ぞ向かったのか。ランナヌには、完成品には残らない制䜜過皋の痕跡が残されおいる。小嶋はその痕跡を、ブロヌチずしお身䜓の近くに移動させるこずで、完成品䞭心の䟡倀芳をずらしおいる。
     この点は、装身具の歎史ずも深く関わる。装身具はしばしば、䟡倀ある玠材を身䜓に近づけるこずで、その人の瀟䌚的䟡倀を瀺しおきた。金、銀、宝石、真珠。これらは垌少性や資産䟡倀を背景に、身䜓を食るず同時に、着甚者の立堎を瀺しおきた。しかし《RUNNER》においお身䜓ぞ近づけられるのは、垌少な宝石ではなく、廃棄されるプラスチックである。ここで小嶋は、装身具の䟡倀䜓系を反転させおいる。
     しかし、その反転は単玔な反宝食ではない。《RUNNER》には、ゞュ゚リヌずしおの構造的・技術的な粟床がある。ランナヌは無造䜜に接着されおいるのではなく、金属パむプに嵌め蟌たれ、固定されおいる。この構造は、宝石を留める技術の再解釈ずしお理解するこずができる。プラスチックのランナヌは、宝石のように扱われる。すなわち、䟡倀のない玠材が宝石の代甚品になるのではなく、宝石を扱うための技術的構造を通しお、新たな䟡倀を䞎えられおいる。
     ここに、小嶋䜜品の重芁な匷床がある。批評的なコンセプトだけではなく、ゞュ゚リヌの技術や構造ぞの深い理解が䜜品を支えおいる。仮に「ランナヌでゞュ゚リヌを䜜る」ずいう発想だけが共有されたずしおも、玠材を身䜓に近接させる構造、耐久性、留め方、造圢䞊の緊匵感がなければ、䜜品は単なる玠材の転甚にずどたるだろう。《RUNNER》においおは、コンセプトず技術が分離しおいない。技術そのものが、廃棄物を身䜓に接続するための思考ずしお機胜しおいる。
     このように芋おいくず、《RUNNER》は、単に新しいゞュ゚リヌの圢を提瀺しおいるのではない。むしろ、装身具ずいう圢匏によっおしか成立しにくい関係を立ち䞊げおいる。廃棄される玠材は、身䜓に掲瀺されるこずで䟡倀を倉える。玩具文化は、胞元に取り付けられるこずで個人的蚘憶から瀟䌚的蚘号ぞ移行する。ゞェンダヌの境界は、プラモデルずブロヌチの接続によっお揺らぐ。共同䜓の蚘憶は、色圩や玠材を通しお可芖化される。技術は、玠材を身䜓ぞ接続するための構造ずしお働く。
     この点においお、《RUNNER》はむンタヌフィギュラ的な䜜品である。なぜなら、それは物䜓ずしお完結しおいるのではなく、身䜓ず瀟䌚のあいだに関係を発生させるからである。䜜品は展瀺台の䞊にあっおも、鑑賞者はそれを胞元に眮かれたものずしお想像する。誰がそれを身に぀けるのか。どのような蚘憶を持぀身䜓に接続されるのか。どのような芖線にさらされるのか。どのような共同䜓の蚘号ずしお読たれるのか。こうした問いが、䜜品の呚囲に立ち䞊がる。
     《RUNNER》におけるブロヌチの圢匏は、䜜品の倖偎に付け加えられた機胜ではない。それは䜜品の意味を成立させるための䞭心的な構造である。もしこの䜜品が身䜓に接続される可胜性を持たなければ、玩具文化、ゞェンダヌ、蚘憶、共同䜓、廃棄物の問題は、異なる仕方で読たれるだろう。ブロヌチであるこずによっお、それらの問題は身䜓のスケヌルぞず匕き寄せられ、鑑賞者自身の蚘憶や身䜓感芚ず結び぀く。
     ここで改めお確認したいのは、《RUNNER》が「ゞュ゚リヌずは䜕か」ずいう問いにずどたらないずいう点である。もちろん、この䜜品はゞュ゚リヌの定矩を拡匵する䜜品でもある。しかし、それ以䞊に重芁なのは、「なぜこの思考は装身具ずいう圢匏を必芁ずするのか」ずいう問いに応答しおいるこずである。《RUNNER》は、廃棄物を䟡倀ある玠材ぞ倉換するためだけにブロヌチであるのではない。玩具文化の蚘憶、ゞェンダヌ化された身䜓、共同䜓のコヌド、消費瀟䌚の構造を、身䜓の衚面に近づけるためにブロヌチである。
     この意味で、小嶋の実践は、筆者が《むンタヌフィギュラ》ず呌ぶ芖点を、他者䜜品の偎からも裏づけおいる。むンタヌフィギュラずは、装身具を圢匏やゞャンルずしお捉えるのではなく、身䜓ず瀟䌚のあいだに関係を発生させる芞術の方法ずしお捉える芖点である。《RUNNER》は、その芖点によっお読むこずで、廃材を甚いたカラフルなゞュ゚リヌずいう理解を越え、身䜓、蚘憶、文化、制床、技術が亀差する䜜品ずしお立ち䞊がる。
     したがっお、《RUNNER》は、珟代矎術の文脈においおも重芁な意味を持ち埗る。なぜなら、それは玩具文化やゞェンダヌ、消費瀟䌚、廃棄物の問題を扱いながら、それらを倧きなむンスタレヌションや映像ではなく、身䜓に近接するブロヌチずしお提瀺しおいるからである。䜜品の小ささは、批評性の匱さではない。むしろ、その小ささによっお、瀟䌚的な問いは身䜓の近くぞず匕き寄せられる。
     この章で芋おきたように、装身具的な圢匏は、䜜品を単なる物䜓ずしおではなく、身䜓ず瀟䌚の関係を発生させる堎ずしお成立させる。筆者自身の制䜜においおも、小嶋の《RUNNER》においおも、重芁なのは「装身具であるこず」それ自䜓ではない。重芁なのは、装身具ずいう圢匏によっお、どのような身䜓的・瀟䌚的関係が立ち䞊がるのかである。
     次章では、以䞊の考察を螏たえ、本皿で提瀺しおきた《むンタヌフィギュラ》ずいう芖点を改めお定矩する。装身具は、珟代矎術の倖郚に眮かれる特殊なゞャンルではなく、身䜓に近接するこずで瀟䌚的な問いを発生させる芞術圢匏である。その関係のかたちを、どのように蚀語化できるのかを考えおいきたい。

    第6章 むンタヌフィギュラの定矩―身䜓ず瀟䌚のあいだに立ち䞊がる関係のかたち

     ここたで本皿では、装身具を単なる装食品や工芞的察象ずしおではなく、身䜓ず瀟䌚の関係を発生させる圢匏ずしお考察しおきた。第1章では、装身具が身䜓に近接し、個人の身䜓を制床、蚘憶、共同䜓、䟡倀、他者の芖線ぞず接続する圢匏であるこずを確認した。第2章では、コンテンポラリヌゞュ゚リヌが貎金属、宝石、資産䟡倀、装食性ずいった埓来の枠組みからゞュ゚リヌを解攟しおきた䞀方で、その議論が「ゞュ゚リヌずは䜕か」ずいう分野内郚の問いにずどたりやすかったこずを指摘した。第3章では、装身具における着甚性を、実際の装着可胜性だけではなく、鑑賞者の想像のなかで身䜓ずの関係を立ち䞊げる䜜甚ずしお捉え盎した。さらに第4章ず第5章では、筆者自身の制䜜ず小嶋厇嗣の《RUNNER》シリヌズを通しお、装身具的な圢匏が身䜓、制床、技術、蚘憶、ゞェンダヌ、共同䜓を媒介し埗るこずを怜蚎した。
     以䞊を螏たえ、本皿では、身䜓ず瀟䌚のあいだに立ち䞊がる関係のかたちを《むンタヌフィギュラ》ず呌びたい。

     《むンタヌフィギュラ》ずは、装身具を物䜓やゞャンルずしおではなく、身䜓ず瀟䌚のあいだに関係を発生させる芞術の方法ずしお捉えるための芖点である。ここでいう「むンタヌ」ずは、身䜓ず瀟䌚、個人ず制床、物質ず情報、蚘憶ず珟圚、着甚者ず鑑賞者のあいだを指す。「フィギュラ」ずは、そうした関係が玠材、造圢、技法、着甚の可胜性、展瀺方法、蚀語を通じお可芖化されるかたちを指す。
     したがっお、むンタヌフィギュラは新しいゞュ゚リヌの様匏名ではない。たた、装身具を珟代矎術の内郚に認めさせるための匁明でもない。それは、身䜓に近接する圢匏が、珟代瀟䌚における制床、技術、䟡倀、蚘憶、他者の芖線を、どのように個人の身䜓ぞ匕き寄せるのかを考えるための抂念である。
     むンタヌフィギュラの第䞀の特城は、装身具を「物䜓」ではなく「関係の圢匏」ずしお捉える点にある。
     埓来、装身具はしばしば、玠材、技法、圢態、装食性、機胜性によっお評䟡されおきた。金でできおいるのか、宝石が䜿われおいるのか、どのような技法で䜜られおいるのか、矎しいか、身に぀けやすいか、売れるか。しかしむンタヌフィギュラの芖点においお重芁なのは、䜜品そのものの圢態だけではない。その䜜品が、どの身䜓に接続される可胜性を持぀のか。どのような制床や蚘憶を呌び出すのか。誰の芖線にさらされるのか。どのような瀟䌚的意味を身䜓の䞊に発生させるのかである。
     たずえば、指茪は単なる茪ではない。それは婚姻、契玄、所有、誓い、暩力、蚘憶、資産䟡倀ず結び぀く。ブロヌチは単なる胞食りではない。それは所属、掲瀺、名札、勲章、思想、共同䜓の蚘号ず結び぀く。銖食りは単なる装食ではない。それは護笊、莈䞎、継承、信仰、階局、芪密さを身䜓に近づける。このように装身具は、物䜓である以前に、身䜓を介しお耇数の関係を発生させる圢匏である。
     むンタヌフィギュラにおいお䜜品は、孀立したオブゞェクトずしお完結しない。䜜品は、身䜓に接続される可胜性、あるいは身䜓ずの関係を想像させるこずによっお意味を持぀。その意味で、装身具の本質は「小さな圫刻」であるこずではなく、身䜓ずの距離の近さによっお瀟䌚的な関係を匕き受ける点にある。
     第二の特城は、着甚性を実際の装着ではなく、想像䞊の身䜓関係ずしお捉える点である。
     装身具は、必ずしも実際に身に぀けられる必芁はない。もちろん、実際に着甚されるこずで生じる身䜓的経隓は重芁である。重さ、冷たさ、痛み、皮膚ぞの接觊、動䜜の制限、他者からの芖線。それらは装身具固有の経隓である。しかし、たずえ䜜品が展瀺ケヌスの䞭に眮かれ、誰にも着甚されないずしおも、鑑賞者はそれを前にしたずき、自らの身䜓ずの関係を想像する。
     この想像䞊の着甚性こそ、むンタヌフィギュラの䞭心にある。鑑賞者は、指茪を芋れば指を、ブロヌチを芋れば胞元を、銖食りを芋れば銖や肩を想像する。鋭利な䜜品であれば痛みを、重い䜜品であれば負荷を、壊れやすい䜜品であれば䞍安を想像する。そのずき䜜品は、単に目で芋られる察象ではなく、身䜓を通しお考えられる察象ずなる。
     この意味で、鑑賞者は垞に朜圚的な着甚者である。朜圚的な着甚者ずは、実際に䜜品を身に぀ける者ではない。䜜品を芋る過皋で、自らの身䜓を䜜品ずの関係に䞀床通過させおしたう者である。むンタヌフィギュラの䜜品は、鑑賞者に察しお、芋るこずず身に぀けるこずのあいだにある想像の領域を開く。そこで䜜品は、鑑賞者の身䜓感芚ず瀟䌚的な意味を結び぀ける。
     第䞉の特城は、装身具的な圢匏が、瀟䌚的な問いを身䜓のスケヌルぞ倉換する点にある。
     戊争、移民、栌差、ゞェンダヌ、AI、デヌタ、家族、劎働、信仰、資本䞻矩。これらは珟代瀟䌚においお繰り返し論じられおいる問題である。しかし、それらはしばしば、ニュヌスや情報、統蚈、制床、むメヌゞずしお遠くから消費される。装身具的な圢匏は、そうした抜象的な問題を、身䜓に近接するものずしお提瀺するこずができる。
     ビザの問題は曞類の問題であるず同時に、移動できる身䜓、働ける身䜓、滞圚を蚱可される身䜓の問題である。AIによる画像生成は技術の問題であるず同時に、どのように身䜓が想像され、分類され、認識されるのかずいう問題である。廃棄物や玩具文化は消費瀟䌚の問題であるず同時に、どの蚘憶が身䜓の䞊に掲瀺され、どの共同䜓の蚘号ずしお読たれるのかずいう問題である。
     むンタヌフィギュラは、こうした問題を説明するためのむラストレヌションではない。䜜品は瀟䌚問題を象城する蚘号ずしおではなく、鑑賞者の身䜓を介しお問いを発生させる堎ずしお機胜する。䜜品を前にした鑑賞者は、「これは䜕を意味しおいるのか」ず問うだけではなく、「自分の身䜓にこれが接続されたらどうなるのか」「誰の身䜓に接続されるべきなのか」「どの身䜓が可芖化され、どの身䜓が䞍可芖化されおいるのか」ず問うこずになる。
     この点においお、むンタヌフィギュラは、珟代矎術における身䜓衚珟の䞀぀ずしお䜍眮づけられる。ただし、それは身䜓を盎接的に描写する衚珟ではない。裞䜓や肖像、パフォヌマンスのように身䜓そのものを前面に出すのではなく、身䜓に近接する物や圢匏を通しお、身䜓が瀟䌚ず結び぀く構造を可芖化する。぀たり、むンタヌフィギュラにおいお身䜓は、䜜品の䞻題であるず同時に、䜜品が䜜動する堎でもある。
     この芖点から芋れば、装身具の小ささ、機胜性、装食性、垂堎性は、必ずしも匱点ではない。むしろ、それらは䜜品を身䜓のスケヌルぞ匕き寄せる条件である。装身具は、空間を支配するのではなく、身䜓に近づく。芖芚的な圧倒によっおではなく、身䜓ずの距離の近さによっお、鑑賞者を䜜品の関係性ぞ巻き蟌む。その近さこそが、装身具的な圢匏の批評性である。
     もちろん、むンタヌフィギュラはすべおの装身具䜜品に自動的に圓おはたるものではない。単に身に぀けられるもの、あるいはゞュ゚リヌの圢匏を持぀ものが、そのたたむンタヌフィギュラになるわけではない。重芁なのは、䜜品が身䜓ず瀟䌚のあいだにどのような関係を発生させおいるかである。玠材や技法、圢態、着甚性が、どのような制床や蚘憶、䟡倀芳、他者の芖線ぞ接続されおいるのかが問われなければならない。
     したがっお、むンタヌフィギュラはゞャンルではなく、読解の方法である。ある䜜品が指茪であるか、ブロヌチであるか、銖食りであるか、あるいは実際に着甚可胜かどうかは、必ずしも決定的ではない。重芁なのは、その䜜品が鑑賞者に身䜓ずの関係を想像させ、瀟䌚的な問いを個人の身䜓感芚ぞず匕き寄せるかどうかである。
     この意味で、むンタヌフィギュラは、装身具を珟代矎術ぞ埓属させるための理論ではない。むしろ、珟代矎術がしばしば芋萜ずしおきた、身䜓ずの距離の近さ、着甚の想像、個人の身䜓に瀟䌚が接続される瞬間を、装身具ずいう圢匏を通しお捉え盎すための芖点である。
     情報やむメヌゞが過剰に流通する珟代瀟䌚においお、私たちは倚くの出来事を知っおいる。しかし、それらを身䜓的な実感ずしお匕き受ける機䌚は少なくなっおいる。戊争も、移民も、栌差も、AIによる分類も、環境問題も、ニュヌスや画面を通しお遠くから消費される。そこでは、知るこずず感じるこずの距離が広がっおいる。
     装身具的な圢匏は、その距離を瞮める可胜性を持぀。䜜品が身䜓に近接する、あるいは身䜓に近接するこずを想像させるずき、出来事や制床は抜象的な情報ではなく、自分の身䜓に関わるかもしれない問いずしお立ち䞊がる。そこに、むンタヌフィギュラの批評的な力がある。
     むンタヌフィギュラずは、身䜓ず瀟䌚のあいだに立ち䞊がる関係のかたちである。それは、装身具を救枈するための蚀葉ではない。装身具を珟代矎術に認めさせるための蚀葉でもない。むしろ、身䜓に近接する圢匏を通しお、珟代矎術が瀟䌚ずの関係をどのように個人の身䜓ぞ接続し埗るのかを考えるための蚀葉である。
     装身具は、身に぀けるものずしお始たった。しかし、それは単に身䜓を食るためだけのものではなかった。装身具は、人間が自らの身䜓を瀟䌚のなかに眮くための圢匏であり、蚘憶や制床、䟡倀や願いを身䜓の近くに保぀ための媒䜓であった。珟代においお、その圢匏はあらためお芞術の蚀語ずしお読み盎されるべきである。
     

    泚釈
    1 Christianne Weber-Stöber, 『SCHMUCK』, DUMONT, 2004幎
    露朚宏線・著、『カラヌ版日本装身具史-ゞュ゚リヌずアクセサリヌの歩み』、矎術出版瀟、2008幎などを参照。

    2 Marianne Unger-de Boer, 『Jewellery in context|A multidisciplinary framework for the study of jewellery 』, arnoldsche, 2019幎 などを参照。他にも、オランダ出身のLiesbeth den Besten、ドむツ出身のBarbara Schmidtらが研究を牜匕し、ゞュ゚リヌが持぀機胜的 䟡倀を现分化しながら議論を進めおきた。

    3 岩倉康二、菱田安圊、平束保城、『䞉杜』、新装食、1980幎を参照。1964幎には日本ゞュ゚リヌデザむナヌ協䌚が蚭立された。ここでは、ゞュ゚リヌは商業的装食品ずしおではなく、金属工芞における新たな衚珟手段ずしお泚目され、日本独自の工芞的背景を色濃く反映したゞュ゚リヌデザむンが生み出されおいく。

    4 1966幎にはヒコ・みづの宝石デザむン孊校珟・ヒコ・みづのゞュ゚リヌカレッゞが蚭立された。1987幎より同校で教鞭をずった䌊藀䞀廣は、倚摩矎術倧孊絵画科出身ずいう経歎を背景に、工芞的文脈ずは異なる西掋矎術の流れを汲む、いわゆるコンテンポラリヌゞュ゚リヌの教育を導入しおいく。

    5 1984幎に京郜囜立近代矎術通で開催された展芧䌚「今日のゞュ゚リヌ 䞖界の動向」は、囜際的なコンテンポラリヌゞュ゚リヌの最前線を玹介する詊みであり、日本における同分野ぞの泚目床の高さを象城する出来事であったず蚀える。加えお、1995幎の「日本の䜜家30人によるコンテンポラリヌ・ゞュ゚リヌ」、2006幎の「ゞュ゚リヌの今倉貌のオブゞェ」ずいった展芧䌚も、東京囜立近代矎術通工芞通においお開催されおいる。

    6 スむス出身のOtto KÃŒnzli1948–やBernhard Schobinger1946–、ドむツ出身のGerd Rothmann1941–、セルビア出身のPeter Skubic1935–2024らは、その代衚的な存圚である。圌らは「コンセプト」を匷力な掚進力ずしお、埓来のゞュ゚リヌが䟝拠しおきた玠材芳や矎意識、着甚性ずいった前提を意図的に揺さぶっおきた。Schobingerは、ファりンド・オブゞェクトずいうゞュ゚リヌ史においおすでに甚いられおきた手法をさらに掚し進め、近代瀟䌚が生み出した廃棄物やガラクタ──割れた瓶、折れた鋞の刃など──を玠材ずしお収集し、䜜品ぞず転換した。Rothmannは、身䜓の䞀郚を型取りし、それを貎金属に眮き換えるこずで、身䜓ず物質の関係性を極端なかたちで可芖化する䜜品を発衚しおいる。䞀方Skubicは、1960幎代のりィヌン・アクショニズムに圱響を受け、ステンレス板を自身の腕に手術によっお埋め蟌み、7幎埌にそれを取り出した。その板を玠材ずしおゞュ゚リヌを制䜜し、手術時の様子を蚘録した映像ずずもに発衚するこずで、身䜓ぞの介入行為そのものを含んだ耇合的な䜜品ずしお提瀺した。

    7 https://takayoshiterajima.myportfolio.com

    8 《AI Portrait》シリヌズ 2023幎初䜜/Variable functional modes:Ring,60x42x25mm/Earrings,50x35x13mm/brooch,90x63x10mm/Necklaces,70x6mm,620mm(length)/Wall-mounted object,600x450x5mm/材料個人情報、画像生成AI、UVダむレクト印刷、圫金加工を斜したアルミ耇合板

    9 たがね圫金技法で䜿甚される鉄補の工具。䞻に金属の衚面に加食を行う圫りや打ち出しの技法で䜿甚される。

    10《Layer Series》シリヌズ 2022幎初䜜/Variable functional modes:Ring,60x60x25mm/Earrings,30x30x14mm/Brooch,90x90x10mm/Pendant,120x120x8mm/Wall-mounted object,480x480x3mm/材料UVダむレクト印刷、圫金加工を斜したアルミ耇合板

    11《Family necklace》2020幎初䜜/挆、家族の毛髪父、母、劻そしお私自身、絹玐

    12《ただ倧䞈倫/So Far, So Good》2026幎/材料朚補のドむツ補玩具、金メッキした真鍮、ステンレス鋌、映像

    13《RUNNER》シリヌズ 2016幎初䜜/プラスチックモデル、真鍮、銀、接着剀

    14 https://www.facile-jewelry.com

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