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リップノイズ-とある恋の終わらせ方-

    あらすじ
    社会人一年目の白石陽菜は、新人研修で出会った同期・水瀬彩乃とバンドを組み、恋人になる。しかし彩乃には男性の恋人がおり、陽菜もまた元恋人との関係を断ち切れずにいた。互いに「本命」と「捨てきれない過去」を抱えたまま続く、不器用で歪な恋。ライブハウスでの衝突、遠距離恋愛、別れと再会――好きだけでは越えられない現実のなかで、彼女たちは人生を選び取っていく。さらに章を追うごとに視点と時間は遡り、脇役だった人物たちの事情や選択が明かされ、読者が抱いた印象は静かに書き換えられていく。恋を終わらせ、その先を生きていく人々の記録。

    珏1獠
    リップノイズ

    -1-

    飲み会の流れからうちに泊まった。

    腕の中に、まだ彩乃がいる。

    んん...

    起きた?

    今日どうする?

    彼女は寝起きのかすれた声で言う。

    「...行くとこある」

    一緒にいてくれないんだ。

    「カレシ?」

    ちょっと意地悪に試して聞く。

    「うん」

    「服、貸して」

    聞くんじゃなかった。

    胸がチクリと痛むが、うまく処理する。

    分かってる。
    彼女、水瀬彩乃には付き合ってる男がいる。

    それごと好きになったのは、私だ。

    ――なんて、聞こえのいい言い訳だ。
    ただ我慢してるだけなのに。


    彩乃とは会社の新人研修で知り合った。
    お互いにバンドをやっていたことがきっかけで意気投合し、一緒にバンドを組んで──そのまま交際にまで発展した。

    大学時代に付き合っていた先輩と別れて空いていた胸の穴に、彩乃がするりと入り込んできた。

    彩乃がクローゼットを開けて服を選ぶのをベッドの中から眺める。

    無防備な後ろ姿に、少しだけ目が離せない。

    彼女が水色のワンピースを手に取った。

    ――それは嫌。
    心の中で小さく呟く。

    彩乃と初めてデートしたときに私が着ていった服。

    しばらく見つめてから、彩乃はそれをそっと戻した。

    ……覚えててくれたのかな。
    
そう思ったら、ちょっとだけ嬉しくて、くすぐったい。

    一応気遣ってくれてるのだと思うことにする。

    結局、彩乃は組曲のセットアップを選んだ。

    鏡の前で合わせている姿が、やっぱり綺麗で、少しだけ悔しい。

    「それ、似合うと思う」

    ベッドの中から呼びかける。

    「じゃぁ、これにする」

    振り返った笑顔にドキッとした。

    「着てきたやつ、置いてっていいよ」
    「今日、洗濯するつもりだったから一緒に洗っとく」

    「うん、甘えるね」

    当たり前みたいにそう言える距離が、少しだけ嬉しい。

    ちゃんと私たち付き合ってるんだなって、幸せを確認する自分がいた。


    昼前、支度を終えた彩乃と家を出た。

    満開の桜の木に新緑が混ざりはじめた。

    風が吹くと花びらが舞う。

    「知ってる?」

    「桜の花びらを空中で掴めると恋が叶うんだって」

    駅まで彩乃を送る道中で雑学を披露した。

    「落ちるの秒速5センチメートルのやつね」

    新海誠だったか、ネタバレして少し赤面する。

    「あ落ちてきた、はっ!」

    彩乃は正拳突きを真似て掴もうとする。

    「えー、難しいー」

    懸命に花びらを取ろうとする彩乃を見ながら、ふと思った。

    この子が大切にしたい恋はどっちだろう。

    そりゃ...カレシ優先だよね。

    そんな分かりきったことをもう何度考えただろう。

    「取れたー!」

    彩乃が嬉しそうに見せて。

    「じゃぁ、あと2枚ね、3枚で叶うんだって」

    「それと左手で掴まないといけないんだよ」

    叶うな、そんな恋。

    私って性格悪るっ。

    「なにそれ、無理ー」

    笑いながら駅を目指す。



    練習でスタジオに行くと、店長に呼び止められた。

    紹介してもらったベースの子がバンドを抜けると連絡してきたそうだ。

    私たちの関係を気づかれないようにしていたつもりだったけど、無意識にそういう空気を作っていたのかもしれない。

    ギターのチューニングを合わせながら彩乃が言う。

    「どうする?これから」

    「彩乃が考えたLip Noiseってバンド名、私気に入ってるんだけどな」

    「ギタボとドラムのツーピースねぇ、やれるんじゃない」

    「私も陽菜の書く詩、好きだし」

    「等身大の私たちの感覚でさ、歌ってて気持ちいいよ」

    目下の問題は店長に声をかけてもらってるライブの出演についてだ。

    チケットの販売ノルマが20枚、それで歌えるのは3曲。

    職場関係の人は後々面倒だから避けたい、とはいえ私も彩乃も知り合いは多くない。

    結局自腹になるからコスパ良くないねって、ふたりして笑う。

    スタジオの時間がそろそろ終わろうという時、スマホが震えた。

    LINEの表示を見て少し固まる。

    「環さんて人?」

    彩乃にはまだたまに会っていることは話してある。

    「行くの?」

    私は答えない。

    引き止めないんだ。

    出来ないよね、そっちだって男いるし。

    一応、不機嫌そうにはしてくれている。


    私たちの関係は誰かに理解してもらえるものじゃない。

    自分でも納得も満足もしていない。

    お互いが捨てきれずにいるものに、目をつぶっているから、付き合えてる。

    歪んでいる。

    分かってる。



    駅前の並んだ街路樹の3番目。

    いつもの待ち合わせ場所に環さんは立っていた。

    大学時代の先輩。

    私が最初に付き合った女の人。

    他に好きな娘ができたからって、捨てられた。

    なのにたまに連絡が来る。

    私...全部出ていく。

    都合のいい女になってた。


    「今日はカノジョさんは?」
    嫌味を言う権利くらいあるだろう。

    「あの子、用があるんだって」

    「陽菜ってほんと断らないよね」

    「そういうとこ昔から可愛い」


    私は埋め合わせか。
    カウンター食らってるじゃない。

    それでも付いていく。

    いつもの居酒屋。

    食事代は先輩が出してくれる。

    この後のホテル代は、私が出す。

    いつもの流れ。

    もう部屋には上げてくれない。

    修羅場は嫌だからさ、環さんはいつもストレートに話す。


    いっそ今の関係のほうがいい。

    一一期待しなくて済むから。



    Lip Noiseのデビューライブ。

    当然、知名度ゼロ。

    前のバンドが会場の温度上げててくれたおかげで、それなりに盛り上がって演奏することが出来た。


    会場の出口で環さんが待ってくれていた。

    ひとりで来てくれたんだ。

    チケットは2枚買ってくれたのに。

    彩乃はそれが誰なのか、すぐに察したみたい。

    「呼んだの?」

    「...うん」

    「買ってもらった」

    彩乃が一瞬だけ黙った。


    「あなたが今の本命さん?」

    環さんが挨拶みたいに言う。

    彩乃の表情が一瞬で変わる。

    と思ったら、先輩を思いっきり引っぱたいた。

    それを見た私は、
    反射的に彩乃の頬を叩いた。

    彩乃の顔が真横に飛んだ。

    自分でも驚くくらいすごい音がした。

    彩乃は自分がなにをしたのかわからないような顔をして、自分の手のひらを見つめた。

    私に叩かれたことなんてなかったようだった。

    終わったな、と思った。



    次の日のお昼。

    社食の券売機で並んでると彩乃に腕を引っ張られた。

    空いている席に連れて行かれて、座らされた。

    ん、

    差し出されたバンダナの包み。

    「作ってきた、お弁当」

    「一緒に食べよ」

    色違いのバンダナ包みが紙袋から取り出された。

    ...終わってなかった。

    「社食でお弁当食べちゃいけないじゃない?」

    嫌味混じりで言うと、

    「後でコーヒー買うからお客さん」

    だって。

    コーヒーは私が出すよ。



    週末はいつもどちらかの家に泊まる。

    寝返りを打って彩乃がこちらを向く。

    至近距離で見つめ合い、つぶやく。

    「私たちのやってることって、答えが出る日が来るのかな」

    「私もよく分かんないけど、来ないんじゃないかな」

    「そんなの出ないうちに時間とかに追われて置いていくしかないんだよ、現実は」

    「陽菜は大人だね」

    「違うって、彩乃と話してて思いついただけ」

    「そんなとこ」

    暗闇の中で彩乃のスマホが灯る。

    表示された名前に、
    彼女の表情が曇った。

    「ごめん、やっぱり今夜泊まれない」

    「何かあった?」

    少しの沈黙。

    「......今度、言うね」



    -2-

    私の恋人がモテすぎて困る。

    彼女、水瀬彩乃は誰に対しても距離感が近いから、
    すぐに人と打ち解けることができる。

    最近、彩乃が営業の男性と楽しそうに話しているのをよく見かける。

    恋人として、複雑な気持ちだった。


    いつものように、並んでお昼を食べる。

    「いい感じの人だな、とは思うよ」

    「年上だし、ラグビーやってたって」

    「かっこよくない?」

    少しだけ、
    笑い方がいつもと違う気がした。

    やっぱり、
    男もいないと寂しいのかな。

    「付き合ってる人どうするの?」

    「んー、別枠?みたいな」

    ……あきれた。

    私も別枠なのか、
    なんて聞きたくもないけど。

    そのとき、
    トレーを持った彼が自然な顔で私たちのテーブルに座った。

    ……やっぱり。

    完全に彩乃のこと狙ってる。

    私は、どうする。

    このままここにいるか。
    それとも——

    「じゃあ私、用があるから先に行くね」

    声、震えてるじゃない。

    あー、自分がやだ。

    「あ、私も」

    彩乃もすぐに立ち上がった。


    並んでトレーを返却口へ運ぶ。

    「陽菜」

    返事できない。

    「試すの、しなくていい」

    「好きでしてない」

    少しだけ間が空く。
    「週末、泊まっていい?」

    そんなの決まってる。

    「……いい」



    Lip Noise、
    私たちのバンドの動画をSNSに上げようという話になった。

    先日のライブ映像とか、
    街で撮った動画を使って作りたいね、
    なんて話している時間が楽しい。

    共有しているものがあるって、
    幸せだ。

    無料の編集アプリをiPhoneに入れて、
    手探りで作ってみた。

    ただの継ぎ接ぎの動画だったけど、
    私たちはそれで満足だった。


    また、環さんから誘いがあった。

    ダメだって分かってても、
    会いにいく。

    こちらからLINEしても既読なんかつかないのに。

    その程度だと思われていると諦めているのに、
    感情はいつも理性を抑えられない。


    「そっちひと口ちょうだい」

    「やだ、関節キス」

    「もっとすごいのしてるじゃない」

    吹き出しそうになった。

    環さんは私といても、
    恋人のことばかり話す。

    子供っぽくてかわいい娘らしい。

    夜のこと、
    一緒に旅行に行った話。

    全部、
    聞きたくないことばかり。

    環さんは私を嫉妬で満たすのを楽しんでるんだろうか。

    それとも、
    この後の前戯のつもりか。


    話題を変えたくて、
    彩乃と作ったLip Noiseの動画を見せた。

    環さんの表情で、
    評価低いのが分かる。

    改めて見ると、
    やっぱりただの継ぎ接ぎだった。

    「店、変えよっか」

    「スタバ行こ、編集したげる」

    「え、けど……」

    いつもならこの後、
    ホテルに連れて行かれる流れになる。

    「陽菜には大事なんでしょ、これ」

    ……ずるいよ、それ。



    一緒に店舗研修に出てた子たちと
    打ち上げしようという流れになった。

    「私、陽菜も呼んでみるね」

    そう言って彩乃がスマホを耳に当てて店を出た。

    そのとき、
    向かいの通りに見慣れた後ろ姿を見つけた。

    陽菜だった。

    ライブの日、
    私が引っぱたいたあの女と一緒にいた。

    気のせいかもしれないけど、
    一瞬、陽菜と目が合った気がした。

    そのまま二人は、
    並んでビルの中へ消えていく。

    ……何、この気持ち。



    綺麗に出来上がった動画を彩乃に見せた。

    「ね、本当のバンドのMVみたいでしょ」

    喜んでくれると思って、
    少しだけ声が弾んでいた。

    「……陽菜が作ったの、これ?」

    その一言で、
    背筋が冷えた。

    言葉に詰まる。

    都合が悪くなると、
    私はすぐ黙り込んでしまう。

    私のこういうところ、
    きっと彩乃も好きじゃない。

    繰り返し再生されるスマホの画面を見つめながら、
    彩乃も黙っていた。

    その目は、
    動画じゃなく別の何かを見ているみたいだった。

    「ごめん、私、行くとこできたから」

    「……今から?」

    「うん」

    その返事が、
    妙に決意めいて聞こえた。

    「じゃね」

    立ち去る背中を見送りながら、
    嫌な予感がした。

    あんな顔の彩乃を見るのは初めてだった。


    翌朝、
    彩乃が顔にあざを作って会社に来た。

    コンシーラーで消してるけど、
    腫れているのまでは隠しきれていない。

    すぐに化粧室へ連れて行って、
    濡らしたハンカチを頬に当てる。

    「お化粧落ちるからいい...」

    「後で直してあげるから」

    「化粧品会社のOLがなにしてるの、まったく」

    「病院行く?」

    「大丈夫、だと思う」

    「けどこれじゃ仕事できない」

    「いいよ、室長にはちゃんと叱られるから」

    しばらく沈黙。

    「あっちと別れてきた」

    やっぱり、
    と思った。

    「カノジョいるから別れたいって言ったら、殴られた」

    笑って言うことじゃない。

    「言い方ってあるでしょ、バカなの」

    「お前なんかより、陽菜のほうが大事だって分からせてやりたかった」

    息が止まった。

    「私なんてアクセのひとつくらいにしか思われてなかったよ、きっと」

    「……」

    力なく笑って、
    彩乃が視線を落とす。

    彩乃の唇が小刻み震えた。
    「……お腹、蹴られた」
    「赤ちゃんできなくなったらって考えたら、怖くなって……」

    押しとどめていた感情が決壊して、
    彩乃が泣いた。

    彼女の顔を強く私の胸に沈めた。

    「大丈夫、大丈夫だから」

    女の子の身体に何してくれてんの。
    怒りが身体中を駆け巡る。

    「浮気すんなだって……」

    「バッカじゃないの……」

    肩を震わせながら、彩乃が絞り出すようにつぶやく。

    そして次の瞬間、

    「……こっちが本命なんだよ!」

    私の胸に顔を押しつけたまま、くぐもった声で叫んだ。

    抱きしめる腕に、自然と力がこもった。


    「うん...今から病院行こ」

    交通事故ということにして
    室長に欠勤の許可をもらった。

    聡い人なので、
    事情を察しても何も言わず許してくれた。



    彩乃がこんなことをした理由は、
    なんとなく察しがつく。

    私が環さんとの関係を切れないのは、
    自分にも責任があると彩乃は感じてたんだろう。

    彩乃がこうなった責任は、
    私の方にもあるというのに。

    自分の全部で、
    相手の全部を奪わなくてはいけない。

    もう、
    そういうところに私たちは来ているのだと思った。


    夜、彩乃にLINEする。

                  "明日お弁当作ってく"
                  "好きなのある?"


    "ミートボール"
    "甘いやつ"


    即レス...


                   "ごめ"
                   "今ない"


    "笑"


    ……今すぐ、
    会いたい。



    -3-

    いつもの流れ

    いつものホテル

    いつも通り先にシャワーを浴びて

    ベッドに腰をかけて環さんを待つ


    環さんに呼び出される夜は、だいたい決まっている。

    仕事終わりに駅前で落ち合って、
    
適当にご飯を食べて、
    
その流れでホテルに行く。

    今日も、そうだった。

    違うのは、
私の気持ちだけ。

    こうして終われるなら、
    それでいいと思っていた。

    環さんは窓際で煙草をくわえたまま、じっと私を見ていた。


    「......シャワー、行かないの」

    言うと、
環さんは小さく煙を吐いた。

    「陽菜、」

    「今日はお別れをしに来たでしょ」

    見透かしたように言われて、
何も言えなくなる。

    「分かるのよねー」

    「いつもの物欲しげな陽菜じゃないもの」

    何も言えずにいると、
    環さんは小さく笑った。

    「しらけたわ。今日は帰る」

    環さんは立ち上がってバッグを取った。

    「ここのお支払いよろしくね」

    ドアの前で振り返って、
いたずらっぽく笑う。

    「陽菜の代わりくらい、いくらでもいるから心配しないで」

    軽くウインクして、
そのまま部屋を出ていった。

    ドアが閉まる音が、
思っていたより静かだった。

    たぶん私は、
ちゃんと失恋したんだと思う。

    ずっと、好きでいた人に。



    陽菜が努めて明るく振舞っているのが分かる。

    分かってる、陽菜。

    言わないのは——


    演奏を含めてLip Noiseの動画を作り直すことにした。

    陽菜がそう望んだ。

    「陽菜さぁ、さっきサビに入る前にアドリブでハイタム走らせたでしょ」

    「え、おかしかった?」

    「逆、アリだった」

    「いっそさぁ、ギターじゃなくてボーカルとドラムが掛け合おうよ」

    「せっかくツーピースなんだし、らしさ出るかも」

    「私もやりたいことあるんだ」

    「バラードなんだけど、出だしのとこ私のハミングに乗せて彩乃が歌うの、どお?」

    「ちょっとやってみて」

    そう言って陽菜がスティックを3回鳴らすのを合図に歌ってみる。

    「ちょっとちょっと待って、今の鳥肌ー!」

    「やば、エモすぎだって」

    曲が育っていくのと同時に、
    陽菜との新しい関係も形作られていくのを感じていた。

    MVに使うからと言って、スタジオの店長に変な振り付けで踊ってもらった。

    「店長、ぜったいカットするなって言ってたよ」

    「えー、そんなMVやだー」

    想像したらおかしすぎて、お腹を抱えて笑った。

    他にもたくさん撮影した。

    街を歩いてるとことか、部屋でふたりが普通に過ごしてるところとか。

    編集してYouTubeにアップもできた。

    翌日の再生数、23PV。

    これってぜんぶ自分達で回したやつじゃない。

    おかしくって仕方がなかった。

    理屈のない幸せが、そこにあった。


    だけど、人生ってそんなにあまくない。



    総務の人が話してたんだけど、
    高瀬室長カナダに赴任するらしいよ。

    「知ってる」

    1拍の沈黙

    「それ、私も行くから」

    「ごめん、どういう......こと」

    聞き間違いだと思った。

    「そのために外語大卒の私が採用されたんだと思う」

    「会社入ったばかりだし、そんなのずっと先のことだと思ってた」

    「今朝...内示受けた」

    「言うの遅れた...本当に、

    ごめん」


    うまく言葉が頭に入ってこない。

    何を言ってるの、彩乃。

    分からないんだけど.....


    「別れよ、遠距離しんどいし」

    そんな作り笑顔で言わないで。

    「待って、順番を飛ばして結論だけ言わないで!」

    「一緒に考えるとかして!」

    「たぶん一緒だよ、一緒に考えても」

    彩乃の作り笑顔が曇る。

    「待つとかあるじゃない、私待つし!」

    「なにそれ、メロドラマみたい」

    やめて、そんななんでもないように言わないで。

    「だってだよ...」

    彩乃は、ふたりのこれからの選択肢をいくつも話してくれた。

    けどそのどれもが、最後は行き止まりだった。

    「ね、一緒でしょ」

    「ごめんね、陽菜」

    「私なりにたくさん考えたの」

    彩乃はすまなそうに俯いて、そう言った。

    「待っててとか、私言えない...」



    突然のことすぎて、
    夜になってもまだ目の前の現実を受け入れられずにいた。

    スマホに残した動画を、
    魂が抜けたように眺めていた。

    スタジオで歌う彩乃。

    私の部屋で、一緒にじゃれ合う彩乃...

    幸せだった時間。

    なんの確証もなく、
    ずっと続くと思っていた。

    ——終わらせたくない。

    けれども思考はいつまでも同じところを巡るだけだった。

    ふと、環さんのことを思い出す。

    会ってはいけないと分かってるのに、私はいつも感情に流されてばかりだった。

    なんでこんなときだけ聞き分けてしまうんだろう....

    ......違う。

    ふと気がつくと、
    私は立ち上がっていた。

    スマホと部屋の鍵だけ掴んで家を飛び出した。

    駅まで走る。

    息が切れても止まらない。

    今すぐ彩乃に会わないと。

    息を切らせながら、
    心の中で叫ぶ。

    負けるな...

    現実なんかに負けるな、

    私の感情。

    間違っててもいい。

    負けるな。

    この恋を邪魔する全部に、

    負けるな!


    駅が見えた。

    改札から飛び出してきた彩乃がいた。

    どうして、なんて聞かない。

    そんなの、もうどうでもよかった。

    そう思うより早く、
    彩乃も私を見つけていた。

    私たちは、同時に走り出す。

    お互いのほうへ。

    触れそうな手の、その先へ。



    ボーナストラック
    リップノイズデビューライブ

    「今日は来てくれてほんとにありがとうございます!」

    「Lip Noiseです!」

    「ギターボーカルの彩乃です!」

    「で、ドラムが私の大切な相方、陽菜です!」

    「……あれ、拍手ちっちゃくない?」

    「もっとこう、わーっ!ってしてよ!」

    「ありがとうありがと、優しいねほんと」

    「私たち実は会社の同期でして」

    「新人研修でたまたま隣になって」

    「“え、バンドやってたの?”って話から仲良くなりました」

    「で、そのまま組みました」

    「勢いって大事!」

    「ちなみにLip Noiseって名前、
    なんか意味ありそうって言われるんですけど」

    「……ありません!」

    「響きがかわいかったからです!」

    「大事でしょ、そういうの!」

    「え、引いた?」

    「大丈夫、私も今ちょっと引いた!」

    「でも」

    「今日こうしてここに立ててるのは、
    ほんとに陽菜がいたからです」

    「私ひとりじゃ絶対ここまで来れてません」

    「……ま、あとでこういうこと言うなって怒られるけど」

    「最後の曲です」

    「私たちにとって、
    たぶんいちばん大切な曲」

    「聴いてください」


    『0センチメートル』

    ---

    あと少しだけ近づけば  
    触れてしまいそうな夜だった

    言葉より先に逸らした視線  
    ずるいのはどっちだろう

    並んだ影が揺れて  
    同じ歩幅で歩くたび

    近いくせに届かない距離が  
    胸の奥を締めつける

    ---

    0センチメートルのその先で  
    君はどんな顔して笑うの

    触れたいなんて言えないままで  
    今日も誤魔化してしまうけど

    0センチメートルまで近づいて  
    それでもまだ足りないんだよ

    君を知るほど  
    欲しくなるから

    困るくらい  
    好きになっていく

    ---

    ふざけ合ってるその瞬間も  
    本当は少し苦しいよ

    君が無防備に笑うたびに  
    期待してしまうから

    “友達”なんて言葉じゃ  
    もうしまえない気持ちが

    唇まで込み上げてきて  
    また飲み込んで消えた

    ---

    0センチメートルのその先を  
    君となら見たいと思った

    壊れるくらい近づいてでも  
    離れたくないと願った

    0センチメートルじゃ足りなくて  
    名前もない熱が溢れる

    何度迷っても  
    何度泣いても

    それでも君を  
    選びたいんだ



    珏2獠
    陽菜と彩乃

    -1-

    恋の終わりとは、こんなにあっけないものなのか。
    
他に好きな娘ができたと、LINEで送られてきただけだった。

    大学時代に付き合いはじめた先輩。

    私が好きになった、たったひとりの女性。

    捨てられるってこういう感じなのか......


    「ちょっと、ねぇ、ちょっと…」

    隣の席の子につつかれて、我に返る。

    「講師の人から当てられてるよ」

    小さな声で教えてくれる。

    「すいません、聞いていませんでした」
    
社会人としての自覚を持つようにと諭されてその場は済んだ。

    隣の席のほうを見ると、彼女は肩をすくめて笑ってくれた。

    それが、水瀬彩乃との出会いだった。

    私、白石陽菜はこの春、都内の大学を卒業し、希望上位だった幾星霜化粧品への入社が叶った。
    
今日は新人研修で化粧品の成分についての座学を受けている。


    「さっき驚いたね」

    「私文系だからさぁ、ああいう化学記号がどうのって眠たくなるんだー」

    トレーを持ってさっきの子が隣に座る。

    「えっと…」

    「水瀬。東亜外語大。よろしく」

    初対面なのに、やけに距離が近い。

    男ウケしそうな顔立ち、きっとモテるんだろうなこの子。

    「白石です。こちらこそよろしく」


    化粧品メーカーの新入社員研修のカリキュラムは座学から実践まで驚くほど多岐に渡る。

    以降、水瀬彩乃は私の隣の席を選んで座るようになり、自然と昼食も一緒に取るようになった。

    お互い、入社早々に話せる相手ができてそれだけで安心していた。



    水瀬が手持ち無沙汰の時、無意識にする癖に気がついた。

    何かを摘んだような右手を腰の高さで上下させる。

    「ギター?」

    そう訪ねると彼女は顔を真っ赤にして、手で覆った。

    「私、やっちゃってた?」

    「人前でやんないよう気をつけてたんだけどなー」

    そんなに恥ずかしがることじゃないと思うんだけど。

    「私、これ」

    腕を交差してドラムを叩くフリをする。

    「ほんとに?よかったー、同じ趣味の人で」


    「じゃさ、白井さんも無意識に手がドラム叩いてたりする?」

    「えー、しないってそれはー」

    つい可愛いぶってみせた。

    「ねね、どんなのするの?」

    「今度、一緒にスタジオ行こうよ」

    水瀬のバグった距離感で、急速に私たちの距離は縮まっていった。

    パリピな性格の子って苦手だと思っていたのだけど、

    水瀬のそれは空気のように私の中に入ってきた。



    水瀬がスタジオに持ってきたのは
    真っ白なYAMAHAパシフィカだった。

    ショップで眺めるパシフィカに特別な印象はなかったが、水瀬が持つと急に洒落て見える。

    適当なリズムで音合わせをしてみたが、私も彼女もそれほどうまいわけではなかった。

    楽器で音を出して楽しむ、音楽の楽しみ方はそれでいいと私は思っている。

    はじめての合わせなので比較的簡単なシークレットベースをやってみた。

    水瀬にリードボーカルを歌ってもらってサビでハモる。
    この曲はガールズバンドと相性がいい。

    彼女の声はコケティッシュというか、本人のキャラそのままだった。

    目の前の彼女に引かれはじめていた。


    水瀬が時計に気がついて慌てた。

    「いけない、行かなくちゃ」

    「用事?」

    「うん、カレシとちょっと」

    まぁ、いるよね。

    「ごめん、今日はこれで」

    片手でパーをして別れの挨拶。
    似合うな、こういう何気ない仕草も。

    「じゃね、陽菜」

    ドキッとした。

    名前呼び?

    「うん、またね水瀬さん」

    「彩乃、」

    「え?」

    「下の名前、彩乃だから」

    振り返りながら見せた笑顔に、少しだけときめいた。

    「彩乃......」

    口に出しただけで、顔が熱くなった。



    -2-

    「彩乃......」

    声に出さずに練習してみる。

    普通に仲のいい友達と思ってくれててるだけだよね。

    私だけ舞い上がってましたとか嫌だし。

    普通に振る舞うために深呼吸をする。

    「ごめーん、待たしちゃって」

    水瀬さん、じゃなくて彩乃が改札から出てきた。

    私を見て少し驚いたように言う。

    「陽菜のワンピ可愛い、どこで買ったのそれ!」

    時間をかけて選んだ水色のワンピースがこのひと言で報われる。

    「これ、ZARA」

    「後で服も見に行こ!」

    彩乃が新しいギターを探すのに付き合って欲しいというので渋谷で待ち合わせた。

    この街にないものはない、付き合っていた先輩によく連れて来てもらった。

    駅を出て3本目の街路樹、あの人といつも待ち合わせた場所......

    ずっと見つめていると彩乃に声をかけられ、現実に引き戻された。



    楽器屋で彩乃が手にするギターは個性的なものが多かった。

    パシフィカがシンプルなモデルだからイメチェンしたいという。

    黒いフライングVを構える彩乃を見て思わず吹き出してしまった。

    本人も鏡に写した姿を見て微妙な顔をしている。

    今日ははじめて見る彩乃の顔が多い。

    「今のパシフィカ、似合ってるよ」

    そういうと満足そうに笑った。

    その後、洋服を見て回った。

    先輩に連れて行ってもらったブランドとか、彩乃がよく行くというお店とか。

    お互い、知らない世界を覗いているようで新鮮だった。

    結局、ふたりとも仕事用のブラウスを買い足しただけだった。

    彩乃も私も社会人一年目でまだあまりお金がない。

    東京での生活はお金がかかりすぎる。

    お化粧品は社員割引で買わせてもらえるが、割引したとて一流メーカーの物にはまだ手が届かない。

    後でプチプラのコスメ店も覗いてみよう。

    彩乃がどんなの使ってるか聞いてみたい。

    恋人を失って空いていた心の穴を彩乃で埋めるようで罪悪感を感じた。

    罪悪感?

    私はそれをどちらに感じているのだろう......


    彩乃といると楽しい。

    趣味も合うし価値観や考え方も近いものがある。

    彩乃は私に好意を持ってくれているのだと分かる。

    けどそれは友達として。

    ちゃんと理解している。


    ファミレスで夕食のあと、まだ一緒にいたいよねってなった。

    コンビニでスナック菓子とお酒を買って、彩乃の部屋に流れた。


    はじめて入る彩乃の部屋。

    私の部屋よりも少し狭いくらいのワンルーム。

    部屋の広さに対して物が多い印象。

    人は物で心の隙間を埋めることがある、心理学の授業で聞いたことを思い出した。

    ベッドを背もたれにしてローテーブルに並んで座る。

    「陽菜ってさぁ、ときどきどっか行っちゃうよね、今日もあったし」

    「なにか考え事してる?」

    「ただの癖だよ」

    誤魔化す。

    「陽菜ー、あと少しってとこで私と距離取るのなんで?」

    もう酔ってるの?

    「そんなことないと思うけど、普通だよ」

    彩乃の距離感のほうがおかしいとは言わない。

    その時、彩乃の表情に浮かんだのは寂しさか、それとも悲しみか。

    このまま何も話さなければふたりの関係が微妙になるだろう。

    ......本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

    その相手がいなかっただけ。

    ......失恋をしたことを彩乃に話す。

    大学時代の先輩のこと。

    捨てられるような別れ方だったこと。

    けど、そこから先は......普通の人には話すべきではない。

    安っぽい慰めは欲しくなかった。

    なのに彩乃は、

    「陽菜にはどう見えてるか知らないけど、私、同性の友達は陽菜がはじめて、なんだよね」

    「今日みたいに友達とショッピング行くとか、ずっと憧れてた」

    ……分かる気がした。

    人目を引く容姿、誰構わず近い距離感は異性に媚びているように見られる。こういう子は女子から嫌われやすい。

    事実、私も最初は苦手な印象を彩乃に持った。

    「すっごく......

    ひっく、

    楽しかった」

    彩乃の呂律が回っていない、会話も噛み合ってないじゃない。

    けど、心はほぐれていた。

    「その辺でやめた方がいいよ」

    飲みすぎ。

    彩乃からグラスを取り上げた。

    「かーえーしーてー」

    緩んだ笑顔でグラスを取り返そうとして、彩乃がバランスを崩した。

    勢いで私に覆い被さる。

    「ほら言わないことじゃない」

    じゃれあった弾みで、顔がすぐ前にある。

    一瞬の静寂の後......

    真剣なまなざしが、

    ゆっくりと距離を詰めてくる。

    ——これって、

    「嫌なら言って……」



    -3-

    彩乃が向かいの席にいる。

    「ごめんなさい、
    顔見て話せなくて......」

    「お酒の力を借りなきゃできなくて」

    昨夜のことだよね。

    「女の人に......普通の時に言えない」

    「今から......ちゃんと言います」

    敬語......

    「白石陽菜さん」

    ここから先を言わせるのは酷だ。

    「水瀬!」

    大きな声で言葉を遮った。

    彩乃、きょとんとしてる。

    「......彩乃、さん」

    「好きです。私と付き合ってください」

    問題はこれ......

    「カレシがいたままでいいです」

    この歪な恋愛は、

    私のせいでいい。


    頭をテーブルに付けた。

    恥ずかしくて顔、見られない。

    けど、なんでタリーズなのよ!

    人目に付かないとこにしてよ!

    顔、真っ赤なんだろうな、私。

    鼻をすする声が聞こえる。

    顔、上げなくても分かる。

    泣かないでよもう。

    嬉しかった......


    「陽菜は、こういうのおかしいって思わないの?」

    「好きになった人がたまたま女の人だっただけ、でしょ」

    一度だけ、息を整える。

    「付き合ってた先輩、

    女の人だった」

    おかしいのは私のほう。

    下を向いたままの視界に細い指が入り、私の手を包んだ。

    爪が短く切りそろえられている。

    ギターを弾く人の指だ。


    その日は、そのまま店舗研修に向かった。

    新宿の直営店で先輩社員に付いて接客やメイクついて学ぶ。

    幸い彩乃と同じ班に当たっていた。

    ふたりともそれだけで心強かった

    うまくお互いをフォローしていると、先輩の人から、
    「あなた達いいバディね」
    と言ってもらえた。

    “違うよね、恋人だよね”
    アイコンタクトで伝え合う。

    これでよかったんだ、きっと。


    並んでお弁当を食べていると、
    陽菜のLINEの着信が灯る。
    偶然、視界に入った。

    “環さん”

    やだな、女の勘って。

    「ごめん、今日一緒に帰れない」
    画面を見たまま陽菜が言う。

    行くんだ。

    やだな。

    けど......



    環さん、先に来て待ってた。
    付き合っていたときと同じ待ち合わせい場所。

    「いつもの店でいい?」

    こうやって引っ張ってくれるところが好きだった。

    よりを戻せるかも、
    そんなこと、思ってないって言えば嘘になる。

    けど、環さんが話すのは今付き合っている人の愚痴ばかり。

    私は吐け口か......

    都合のいい女にされて、それでも一緒にいたいと思ってる。

    私、バカだ。

    話したいことをひと通り話し終わったのか、そろそろ帰ろうと切り出される。

    駅へ向かおうとする環さんの袖を摘む。

    「まだ、帰りたくないです」

    消え入りそうな声だった。

    「どこかで休憩していく?」

    頷くと、そのまま繁華街の奥へ連れていかれた。


    遅くにマンションに帰るとドアの前で人影が うずくまっている。

    見慣れた細い肩。

    こんなの、彩乃に一番似合わないのに。

    ......気付かれてたんだ。

    「上がってく?」

    「帰る、明日も仕事だし」

    「顔、見たら安心したから」

    そんな悲しそうな笑い方......


    身体から環さんの香水の匂いがする。

    無意識に、服の裾を握った。



    一緒にお昼をするけど、会話がない。

    沈黙を破ったのは彩乃からだった。

    「バンド名考えてきた」

    私たちバンド組んだっけ?

    差し出されたスマホに打ち込まれた文字。

    “Lip Noise”

    リップノイズ......

    唇からこぼれた本音と嘘、とでも訳せばいいのか。
    私たちのことみたい。

    「いい、とても」

    「ほんと?」

    彩乃の表情が明るくなった。

    私もメモを起動して彩乃に見せる。

    「これって......」

    「詩、書いてみた」

    「陽菜が?」

    タイトルは、
    “0センチメートル”

    「ちょっと、そんなじっくり読まないでよ、恥ずかしい」

    モニターから目を逸らす気はないみたい。

    「陽菜これって」

    「うん、あの日のこと」

    「この詩、好き」


    息が、少しだけ楽になる。

    「食べよ、冷めちゃう」


    新人研修の最後も店舗でのOJTだった。

    すでに接客の実践に入っていた。

    実際のお客様相手なので先輩社員の教育も自然と厳しくなる。
    お客様にとっては、ベテランも新人も関係ない。
    ブランドの顔として現場に立つ。


    この研修が終わればゴールデンウィークがはじまる。
    その後に配属が決まり研修仲間もそそれぞれの配属先へ散っていく。

    名残惜しさも手伝って、自然と打ち上げをしようという声が上がった。

    今日で売り場の緊張から解放されると思うとみんな心なしか表情も明るい。

    「陽菜は連休どうするの?帰省とか」

    そういえば陽菜の実家聞いてなかった。

    「んー、うち大宮だから帰省といっても近所すぎるんだよね」

    大宮だったんだ。

    「よかったら連休に案内して、私行ったことない」

    その時、陽菜のスマホが振動した。

    画面を見て表情が変わる。

    「ごめーん、私、今日不参加ー」

    またあの人?

    胸が重くなる。

    それじゃ、そう言って陽菜が歩き出す。


    私だって男と会ってる。

    止める資格、ない。

    ないけど.....


    後ろから早足の足音が近ずいてきた。

    そう思ったら、彩乃が正面に立って行く先を塞いだ。

    気づくんだこの子は。


    「お願い、」

    「今夜は……私といて、ほしい」


    俯いたまま言う。

    大事なとき俯く癖あるよね。

    勇気を振り絞ってるときの彩乃。

    私しか知らない......

    ずっと部屋の前でうずくまって待ってくれていた彩乃を思い出す。


    ポケットの中でスマホが震える。

    見ないまま、

    一歩、近づく。




    珏3獠
    環と陽菜

    -1-

    「環たまきー、ちょっとこの子見てやってー」

    声の方を見やると部長の横に女の子が立っていた。

    見かけない子、新入生か。

    「ドラム初体験の子なんだけど、基本教えてやってくんね」

    「あのさ、私もう部員じゃないよね」
    「それに私はベーシストなの、知ってるっしょ」

    ちょっとした人間関係のもつれで大学の軽音部を辞めていた。

    それでも人手不足のときはポーターとして今でもこうして駆り出されることがある。

    それに教えるといっても部にはドラムは1セットしかない。

    新入部員は順番が回ってくるまで雑誌を叩いて練習するのがこの部の常だ。

    女の子が申し訳なさそうな目でこちらを見ている。

    そんな顔しないでよ、あんたのせいじゃないでしょ。

    「出られる?スタジオ行こ」

    実際に叩けないとこにいても始まらない。駅前の貸スタジオに連れて行くことにした。

    雑誌叩いて上手くなれるかっつーの。

    けど、道すがら会話なさすぎ。

    私、口下手だから何話していいか分かんないよ。
    何か話題作んないと。

    「あー、地元の子?」

    「大宮、です」

    萎縮してるじゃない。
    私って怖いのかな。
    この子には話し方気をつけないと。

    「大宮、一緒だ、私と」
    「なんか奇遇だね」

    やっとこっち見た。



    「店長、ベース貸して」
    「あいにくレンタルの出ちゃっててさー」
    「違うって、無料のやつ!」
    「またかよ、環ちゃんにはかなわねーなぁ」

    奥からハードケースが出てきた。
    ここの店長の私物。

    フェンダージャズベース、それのイイ奴。

    「頼むからぶつけないでくれよ」

    「分かってまーす」

    軽口で応えながらウインクで返す。
    レンタル料だ。

    彼女に叩かせてみると、
    引っかかってばかりだった。
    本当に初心者なんだな。

    「手が3回で足が1回って頭こんがらがっちゃって...」

    良くない覚え方だ。

    「いい、最初はキックだけ踏んでみて、右足のやつ」

    手拍子でリズムを取ってあげる。

    「そのままズンチャ、ズズズチャって感覚でいいからスネアとハイハット叩いて」

    「ほら、それっぽくなったでしょ」

    嬉しそうに笑われると親近感が湧いてくる。

    「私、ベース弾くから合わせてみて」
    ボーーン、1小節づつ単音を鳴らす。
    大丈夫、ついてこれてる。
    今度はカノン進行で音階を入れてみる。
    「ね、曲っぽくなったでしょ」
    私まで楽しくなってる。
    ……素直でいい子だ。

    スタジオを出ると外はもう日が落ちていた。

    「お腹すいたね、なんか食べて帰ろ」

    今の、強引だったかな?
    けど彼女はうなづいた。
    バイト代入るのまだ先だったからマックに入った。

    「私、出します」

    「こっち先輩」

    いけない、また語尾キツかったかも。

    こっそり覗き見ると、隣で笑ってくれていた。
    少しは私に慣れてくれたのかな。


    その週末、バイト先の居酒屋に軽音部の奴らが客として来た。
    新歓の飲み会らしい。
    個人名で予約が入っていたから気が付かなかった。
    知ってたらシフト入れなかったのに。
    知り合いが働いてる店に来ないでよね、まったく。

    オーダーを取って厨房に戻りかけたところにこないだの新人が話しかけてきた。

    「先輩、お仕事何時までですか?」

    「一応9時までだけど」

    「お仕事頑張ってください」

    そう言って小走りで座敷に戻って行く。
    やっぱりいい娘じゃない。

    バイトが終わって店を出ると、彼女が待っていた。
    え、どうして?

    「先輩ともう少し話がしたいなって」
    「迷惑でなければ、ですけど」

    そんなこと言われると少し戸惑う。

    「夕食、まだだから付き合ってもらえる?」

    いつもバイト終わりに行く定食屋は満席で奥の個室に通された。

    食べながら地元の話で盛り上がった。
    最近できたお店とか、お互いの高校のこととか。
    こんなに人と話すのはいつぶりだろう。

    彼女の顔が少し赤い。
    「ひょっとしてお酒飲まされたの?」
    「何やってんのあいつら、未成年に」
    学生の飲み会の悪いところだ。

    「この店、顔利くから少し休んでいこ」

    私の肩にもたれて眠そうにしてる...
    よくもまぁこんなに無防備になれるもんだ。
    彼女が眠気を堪えて目を開けようとする。

    きっと魔が差したんだと思う……


    先輩の手のひらが近づいて私の目を塞いだ。

    続けて唇に何かが触れて、すぐに離れていった。

    唇にタバコの味が残った。



    -2-

    数日後、先輩が部室に来た。

    入口のところで中をうかがっている。
    私と目が合うと指先だけ曲げる動きで手招きされた。

    「なんですか、先輩」
    「用があるなら入ってくればいいのに」

    もう退部した身だからと、バツが悪そうに言う。
    なんだかそれだけじゃない気がするけど。

    「あのさ、今さらなんだけど」
    「そっちの名前、まだ聞いてなかったと思って」

    一瞬放心して吹き出しちゃった。
    そういえば“先輩”と“そっち”だけで私たち話してた。
    よくお互い気づかなかったな。

    「あの、今さらなんですけど、白石 陽菜といいます。よろしくお願いします!」
    勢いよく頭を下げた。

    先輩、頭を掻きながら「一ノ瀬、私、よろしく」

    「一応、連絡先の交換とかしといてもらっていい?連絡することあまりないと思うけど」

    最初、怖い人だと思ったけど、
    ほんとはかわいい感じの人なんだな。
    iPhoneを鞄から出してQRコードを表示する。

    先輩もスマホで読み取ろうとするけどうまくいかない様子だった。

    「やりましょうか」

    「あ、あぁ、お願い。こういうの苦手で」

    今どき珍しい女子大生だな。

    それじゃ、片手をあげて先輩は出ていった。
    本当にこのためだけに来たんだ。
    連絡することないと思うけどって、照れ隠しの下手な先輩。
    そう思うとおかしくなった。

    お友達登録に残った先輩の名前“一ノ瀬 環”さん。
    綺麗な名前。
    でもこのプロフ......


    ポケットの中でスマホが震えた。
    白石からメッセージのバナー。
    早速だな、と軽く笑みがこぼれた。

    “中庭で待っててください”

    え、なに?
    仕方なく待っていると白石が走ってやって来た。

    「行きましょう」
    そう息を切らせながら言う。

    手を引かれるまま連れて行かれたのは大学の近くのカフェだった。

    飲み物何がいいかと聞かれたのでミルクティーと答えると席に座って待つように言われた。
    こんな強引な子だったか。

    白石がトレーにカップをふたつと...ケーキを乗せて帰ってきた。

    訳が分からなくてどういうことかと訪ねると逆に驚かれた。
    白石がスマホの画面を見せて言う。
    私のプロフのページ。

    「何言ってるんですか、今日先輩の誕生日じゃないですか」
    「お祝いをしましょう!」

    あのさ...声大きすぎて他の客から見られてるんだけど。

    「それじゃ歌います。ハッピバー....」

    「いやいやいやそれはいいからほんっとごめん」
    「ありがと、ほんと、気持ちは十分伝わった」
    「伝わったからやめておこう」

    ......こんな感じの子だっんだ。

    「誕生日、おめでとうございます、先輩」

    笑顔で、ちゃんと、言ってくれた。
    部を辞めて人と接しない生活になっていたから、行事的なことに無頓着になっていた。

    「ちゃんとお祝いしたかったんです」

    「あのさ、白石」

    「彼氏とか、いる?」

    「私、彼氏いない歴イコール年齢なんですよね」

    へー、意外。
    かわいい子なのにな。

    「私でよければなんだけど...」

    「付き合ってみない」

    固まっちゃったか。
    やってしまったな、私。

    「あの...キスしてくれたのでもう付き合ってるんだと思ってました」

    覚えててくれたんだ。

    「白石はさぁ、こういうの変だと思わないの?」
    「 なんて言うか...」
    「同性同士で」

    「そりゃ変ですけど...先輩となら、いいです。よろしくお願いします」

    心臓が...早い。

    「紅茶、冷めちゃいますよ」


    -3-

    「ごめん、なんか私の行きたいとこばっかで」

    白石は笑って首を振る。


    金曜の午後、買い物に行くと言ったら白石がついてきた。

    一緒に山手線に乗って、新宿の街を並んで歩いて。

    自分のペースじゃないのは得意じゃないんだけど、白石となら苦じゃなかった。

    いつもの楽器屋で弦を買って、よく行くショップで服を見たり。

    「逆に行きたいとこあるかとか、何食べたいとか聞かれるほうが私困るから」

    そう言ってくれるけど、無理してないかな。

    BEAMSで青いシャツを見つけた。
    シェルのボタンが付いていて高見えする。
    綺麗な色ですねと言うので、そのシャツを白石の胸に当ててみる。
    今履いているピンクブラウンのスカートによく似合った。

    「これ、誕プレにする」

    「誰のですか?」

    「白石」

    誕生日は半年も先だと言って笑う。

    「前渡し」

    誕生日祝ってもらったのに白石のを聞いてなかった。
    半年先も白石と一緒にいられますように、というおまじないになればいい。

    遠慮しながらだったけど受け取ってもらえた。

    今日一番の収穫。

    ふたりで来て、よかった。


    遅くならないうちに解散しようと思っていたけど、まだ帰りたくないと言われる。

    たくさん歩いて疲れされただろうからうちに誘った。

    「急にお邪魔して大丈夫なんですか」

    掃除するほどの部屋じゃない、ベッドと机、あとはベースだけ。
    女の部屋なのだから観葉植物のひとつもあればいいのにとは以前から思っていた。

    それより、恋人を招きながらコンビニで買ってきたお茶をグラスに注ぐぐらいしかもてなせなくて、少し恥ずかしい。

    白石が部屋の中を珍しそうに見渡すけど、嫌な気はしなかった。

    「私の部屋なんて凄いんですよ、いつも着替えとか散らばてて」
    「がんばって片付けておくんで、今度は先輩が来てくださいね」

    並んでベッドに腰をかける。

    何気なくベッドに置いた手が白石の指に触れた。

    心臓が一拍強く打つ。

    沈黙の中、指が滑り彼女の指と絡まる。

    白石の指にも力がこもる。

    心臓がうるさい。

    大丈夫、きっとこの先のことは、

    恋人として自然の流れだ。


    -4-

    春、陽菜より一足先に社会に出た。

    いくつか受けたアパレルメーカーのひとつに引っかかった。
    就活を初めて早めに内定をもらえたので思っていたほど就職難という実感はなかった。

    法学部出の私はてっきり事務方に回されるものと予想していたのだけれど、配属されたのは洋服を企画する部署だった。

    先進的な業界なのか部課をデプトと呼び、カタカナの肩書きを与えられた。
    AMD(アシスタントマーチャンダイザー)、3年ほどをかけて肩書きからアシスタントを外すのが目下の目標と教えられる。

    大学で会えなくなる分、陽菜はよくうちに遊びに来るようになった。
    “陽菜”“環さん”と呼び合うのもすっかり慣れ、お互いの距離もずっと近くなった。

    付き合い初めて3年が経っていた。

    いつになればこの国で同性婚が認められるのだろう、そんなことも考えるようになっていた。


    お酒の席でそのことは起こった。

    女性同士の輪で恋バナに花が咲く。
    付き合っている人はいるかと聞かれてつい、同性の恋人のいることを話してしまった。

    進んだ業界だから、という考えは甘かった。

    その日から職場での私を見る目が、変わった。



    陽菜から就職が決まったと知らせが入った。
    希望していた化粧品メーカー。
    会ってその報告がしたいと。

    陽菜も私と同じような目にあうのだろうか。
    就職を祝うより先にその心配が頭をよぎる。

    連日、深夜までの残業。
    次々と辞めていく同期。
    そして、同性愛者というレッテル。
    気がついたときにはノイローゼになっていた。

    陽菜には、こんな思いをしてほしくない。

    「他に好きな娘ができた、別れる」

    送信...

    病んでいた。


    スマホに何度も着信が入る。
    陽菜の着信を非表示にした。
    部屋の呼び鈴が鳴っても電気を消して布団に潜った。
    枕に顔を埋めて嗚咽を殺した。


    そんな時、事件は起きた。
    プレゼンのためのサンプルが届かない。
    商談シーズンになると他社からも同じ下請けに依頼が集中する。
    駆け出しの私の仕事は後回しにされた。
    当然、商談はリスケになる。
    バイヤーの印象は悪くなり、受注競走に大きく遅れを取る。

    上司は、日和った。


    拠り所のない私は、身勝手にも陽菜を呼び出した。
    今さらすがるなんて最低の女。

    改札前の3本目の街路樹。
    いつも陽菜と待ち合わせた場所。
    早めに来て木の前に立つ。

    来ないでほしい、一方的に関係を切った私なんかのために来ないで。

    本当は私はどちらを望んでいるのだろう。

    そう逡巡しはじめたところに陽菜がやってきた。

    安堵と罪悪感が心を占める。


    「環さん、なんだか痩せましたね」

    「うん、ダイエット」

    目の下にクマを作ってダイエットって...

    何か食べたいもの...言いかけてやめる。
    そう聞かれるのを陽菜は好まない。

    「いつもの居酒屋でいい?」

    何を話せばいいのか分からずいると、陽菜が近況を話し出した。
    新人研修のこと、仲のいい友達が出来たこと。

    クリニックのカウンセリングより、私を癒した。

    「初めてライブに出るんです」
    「よかったら聞きに来てもらえませんか」

    チケットの束から1枚を抜き取って差し出す。

    ぜんぜん売れてないじゃない。
    軽音時代の知り合いを頼ればいいのに……って、陽菜にそんな厚かましさはないか。

    「もう1枚もらえる?」

    この子が負担に感じない範囲で協力してあげたい。
    一緒に行く人なんていないけど...
    受け取らないだろうから鞄にこっそりお金を忍ばせた。

    陽菜。
    もういいよ。
    今日はほんとうに、

    ごめんね。

    心の中で詫びながらお開きを告げた。

    立ち去ろうとすると、そっと袖を掴まれる。
    陽菜が下を向いたまま言う。

    「まだ帰りたく、ないです」

    衝動に抗えず......陽菜の手を取った。



    -5-

    2組目に陽菜達がステージに上がった。

    ギターの子とツーピースなんだ。
    ちょっと異色な感じで興味を引かれる。

    部室で初めて陽菜と会ったときのことを思い出す。
    こんなに上手くなって...
    曲の作りもよく練られてる。
    作ってて楽しかっただろうな。

    演奏を間違わないように真剣な顔をしてる。
    そんな陽菜から目が離せない。

    陽菜、私ちゃんと聞いてるよ。


    ライブが終わって陽菜が出てくるのを待っていた。
    良かったよって、言ってあげたかった。

    控え室から出てきた陽菜ともうひとりの子。
    ふたりの距離感を見て背筋が凍った。

    どうして陽菜……
    それじゃ私があなたと離れた意味がない。

    私……

    ギターの子が私を見る。
    女同士だ、お互いのことを察するのに時間はかからなかった。

    あなたさえいなければ……

    「あなたが今の本命さん?」

    その瞬間、頬を打たれた。

    分かってる、この子は自分のためではなく、恋人の陽菜の名誉を傷つけられたことに怒りの意を示した。

    そこは、私がいたかった場所。


    酷い音が会場に響いた。

    えっ、

    陽菜がその子の頬を打っていた。

    すごい音だった。

    「なんで……ぶつの……」

    怒りに震える声で、肩を揺らしながら陽菜が言った。

    私のために?

    ダメ、陽菜そんなことしちゃ。

    ……私なんかのために。


    早足で逃げるように、その場を去った。

    全部私のせいだ、私さえ来なければ。

    世界から消えてしまいたい。



    部屋に戻る。

    電気はつけない。

    灯りが怖い。

    窓からの灯りに、スタンドにかけられたベースが浮かび上がっていた。
    もうずっと手にしていない。
    弦は黒く錆び、おそらくネックも反ってしまっているだろう。

    音楽をやっていたことが、もうずっと昔のように思えた。

    この部屋は、毎日ほんの数時間の睡眠を取るだけの場所になっていた。

    夕食がまだだったことを思い出す。
    冷蔵庫を開けるがわずかな調味料しか入っていない。
    水の買い置きも切らしたままだった。

    生きるって、なんだろうな……

    着替えもしないまま、ベットに体を横たえた。

    ステージでドラムを叩いていた陽菜の姿を記憶の中で再生する。

    全身から、力が抜けていった。


    -6-

    陽菜が先にシャワーを浴びてベッドに腰を下ろす。
    いつものルーティン。

    違うのは、私を待ちわびる空気がないこと。

    おそらく陽菜は今日ここに決意を持ってきている。

    私の方から一方的に陽菜を捨てた。
    今度は私が捨てられる番。
    そういうことだよね。

    「シャワー、行かないの」

    震える手がタバコを探す。
    火をつけ深く煙を吸う。

    「陽菜……今日はお別れをしに来たでしょ」

    この子が決めたのなら、
    受け入れなければ。

    もうひと目だけ、陽菜の顔を見ておきたくてドアのところで振り返る。

    寂しそうな表情をしてくれている、それだけで救われる思いがした。

    せめて...せめて陽菜が負い目を感じないですむよう、


    「陽菜の代わりくらいいくらでもいるから、心配しないで」


    精一杯強がった。

    背後でドアが閉じる音がしたと同時に、その場に崩れ落ちた。



    しばらくして職を変えた。
    毎日が戦場のような業界だった。
    なにより好奇の目に晒される職場の空気にもうついていけなかった。

    頑張ったのか、単に耐えていただけなのか、よく分からない。
    それでも、アパレルでの3年間は私に多くのスキルと経験をもたらせた。

    住まいも変えたし、いろいろやりなおそうと思う。

    ギターを初めてみようといつも行く新宿のショップに足を運んだ。

    「すいません、このレスポール試奏できますか」

    店員が棚から下ろしてチューニングを合わせてくれる。

    音の確認をしながらこれ見よがしに早弾きをしてみせる。どこにでもいるよね、こういう店員。

    受け取ったギブソンは思っていたほど重くなかった。
    そりゃ今まで弾いていたジャズベに比べればね。
    けどこの値段は手が出ないな。

    C-G-Am-Em、とローコードを鳴らしてみる。

    余計な弦まで触っちゃうな。

    ひと指ずつフレットに置き直していると隣からベースを試奏する音が聞こえた。

    ...F-C-F-G、カノン進行。
    ひょっとして私に合わせてる?

    ベースの主の足元が視界に入った。

    スカート......女性か。

    そのふくらはぎの形......ちょっと嘘でしょ。

    顔を見るのをためらったそのとき。

    「ギターに転向ですか、先輩」

    心臓が弾けそうになる。

    陽菜...

    「奇遇ですね、私もベースやってみようと思って」

    「4弦と5弦どっちがいいと思います?」

    「4弦。5弦目は使うことない」

    なんで普通に世間話をしてるんだろう。

    呼吸を落ち着かせて話しかける。

    「今日は相方、一緒じゃないの」

    「......続きませんでした」

    そうなんだ。
    すでに気持ちの整理がついたような話し方。

    「やっぱり難しいですね、遠距離って」
    「カナダですもん。さすがに、です」

    「先輩の方こそどうなんです?その後彼女さんと」

    そんなの……最初からいない。

    「ねぇ、この後予定ある?」
    「もしよければだけど...ご飯、一緒にどうかな」

    「私の食べたいものでよければ」

    強くなったな、この子。

    「じゃぁ、行くか。後輩」

    「私、先輩に聞いて欲しいこと沢山あるんですよ」

    私にもある。

    話しきれないほど...


    -7-

    「環、なんで起こしてくれないの、寝過ごしたじゃない」

    「目覚まししないからよ」

    「だって、環が起こしてくれると思ったからー」

    恋人と暮らし始めた。

    都内の2LDK。

    「はい、お弁当」

    「おかずは?」

    「ウインナー、プチトマトも入ってる」

    「えー、トマト嫌いって言ったのにー」

    家の中にいつも笑顔が咲いている。

    「そろそろ出ようか」

    「あの……やっぱり呼び方、元に戻しませんか、慣れないんですけど」

    「……環さん」

    玄関を開けると、朝日を受けて薬指の指輪が光った。



    珏4獠
    環と虹郎

    軽音部の定例会、推薦者多数で来年の部長が決まった。
    推薦なんて聞こえはいいけど、都合よく押し付けられただけだ。
    みっともない男。

    それが虹郎に対しての私の第一印象。


    「いやしかしニジローはないわー」
    「めっちゃキラキラ系やん」

    関西出身の子が虹郎の名前をいじって笑いを取る。
    下級生の間でも虹郎は軽く見られていた。

    「な、環もそない思うやろ」

    こっちに振るなってバカ。
    よく校内でそんな話ができるよね。
    部の先輩に聞かれるかもしれないのに。
    ま、あの部長ならバレても何も言い返さないか。


    春は何かと慌ただしい。
    オリエンテーションからの授業の履修にバイト探し。

    そして、部の新歓ライブ。
    新入生の私達も少しだけ演奏させてもらえることになっていた。
    体育館以外のステージなんて初めてだからドキドキした。


    ライブの後、みんなで機材を車に運んで近くの居酒屋に移動する。

    ステージにシールドを忘れて来たことを思い出した。
    安物だけどあれしか持っていない。

    急いで戻るとまだ会場はまだ開いていた。

    よかった、と胸を撫で下ろしながら扉に手をかけると中から話し声が聞こえた。

    「すまんな虹郎、部長を押し付けてしまって」
    「お前なら、きっと部のみんなが頼れると思ってな」

    ……ニジローは頼られてる?
    確かにニジローには1年生でもフラットに話しかけることができてる。
    私、この人のこと誤解してたのかな。

    「あのぉー、シールド忘れちゃって」

    入るのを遠慮したが目的のものが中にある限り仕方がない。

    ニジローが几帳面に巻かれたシールドを渡してくれた。

    「ニジローは飲み会行かないの?」

    ニジローがこっち見てる。

    「俺、下級生からニジローって呼ばれてるの?」

    しまった、つい!

    かなりやばい顔になってたと思う。

    「まぁ、いいけど」

    へ?

    やじゃないの?

    「そっちも早く行けよ、飲み会始まるぞ」

    「けど、部長は?」

    急に呼び方変えたからなんだかニジロー笑ってる。

    「俺はまだ片付けあるし、レンタカーの返却時間もあるしな」

    「だって部長なのに」

    「あっちは他の奴らに任せておけばいいから」

    「……私、手伝います」


    一緒にレンタカーを返した後、虹郎が夕食をご馳走してくれた。
    飲み会に行けなかった穴埋めだと言って。

    駅前のファミレスだったけど、その頃の私たちにとっては立派な外食だった。

    「ドリンクバー取ってきます。部長何がいいですか」

    そしたら虹郎は、

    「虹郎でいいよ別に、本名だし」

    と言ってくれた。

    虹郎が生まれた日、病室の窓から虹がかかっているのが見えたそうだ。
    それを見て、ご両親が虹郎という名前をつけたと。

    病室のベッドで生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた女性が窓の外を眺める光景が浮かんだ……

    「変な名前だろ、ほんと」

    「……変じゃないです」
    「いい名前だと思います」

    愛情のこもった素敵な名前だ。

    その日から、虹郎に対する印象が180度変わった。

    「私は……環でいいです」



    部費の積立で機材を購入することになった。
    アンプと、出来ればキーボード。

    副部長が用事が出来たというので虹郎だけで行くことになった。

    下級生達は、またニジローがいいように使われていると陰口をたたく。

    私しか知らない虹郎がいるようでちょっと優越感。


    次の休みの日、こっそり虹郎にお願いして連れて行ってもらうことにした。

    本音を言うと、虹郎が女の副部長とふたりで出かけるのは、ちょっと……あれだった。

    渋谷の街を迷いのない足取りで歩く虹郎が大人に見えた。
    少し早めの歩幅に合わせるのさえ喜びに感じた。


    虹郎がいつも行くという楽器屋さん、アンプもキーボードもクラスを下げれば予算に合うけれど、長く使うものだからいい物にしておきたいと虹郎は言う。

    この件は一旦部に持ち帰ることにしてギター売り場に移った。

    「虹郎はどんなの使ってるの」

    もちろんみんなの前では部長と呼んでいる。
    この秘密めいた感じが、妙に心地よかった。

    虹郎が使っているというのはフェンダーのストラトキャスター、カラーはタバコサンバースト。

    「なんか大人のギターって感じですね」

    棚に飾られたギターをまるで絵画のように眺めた。

    「そっちはパート何してんの」


    高校の時にお小遣いを貯めて通販でエレキベースを買った。
    10点セットで絶対得な買い物だと思った。
    けど、それが無名メーカーの粗悪品だとすぐに知った。


    ベースの飾られた棚を見て鳥肌が立った。
    フェンダーのエレキベース。
    ストラトキャスターの形。
    カラーも虹郎と同じ。
    こんなのあるんだ。

    結構な値段だった。
    それでもエントリーモデルだと店員は言う。
    どうなってるの楽器界隈。

    「私、これ買います」

    虹郎の驚く顔がおかしかった。



    夕食は少しお洒落なお店に連れて行ってもらえた。

    「私出します」と言うと、
    「こっち先輩」とたしなまれた。
    かっこいい……

    予約してなかったから1時間くらい待った。
    虹郎がさっき買ったベースを持ってくれている。

    「これ結構したけど大丈夫か?」

    「バイトしてるし、何とかなります」

    「それに長く使うものはいい物がいいんでしょ」

    バイトを聞かれてお店のカードを渡した。あちこちで配れと持たされている。

    「ガールズバーって?」

    「飲み屋さんみたいな感じかな」

    「一度来てみて」

    虹郎にガルバーってぜんぜん似合ってなくて吹き出した。


    大宮から出てきて最初に探したのはバイトだった。

    親には仕送り無しの条件で東京に出てきた。

    とにかく生活しないといけなかった。

    ネット求人の破格の時給を見て飛びついたのが今の店。

    店の制服も可愛かった。

    おしりがわざとはみ出すギチギチのショーパンにキャミ。

    下着付けられないけど、ニップレスがあれば大丈夫だった。

    慣れるとそれも普通になった。

    視線を向けられるたびに、少しだけ自分の価値が増えた気がした。

    高額ドリンクのバックやたまの指名でそこそこもらえたので、普通に就職するのもどうかと考えもし始めていた。


    まさかまさかだった。

    虹郎が店に来た。
    律儀な人だな。
    けど、やっぱり似合わねー。

    虹郎はレモンサワーを注文した。

    本当はカウンター越しに接客しなきゃなんだけど虹郎の隣に座った。

    みんなやってることだし。

    サービスのつもりでグラスを置く時少し前かがみになって胸元を強調した。

    虹郎がポケットからメビウスを取り出すので火を付けてあげる。

    ライターの持ち方も店で教わった。

    私も一本分けてもらうと、お返しに虹郎が火を付けてくれた。

    初めてのタバコに頭がクラっとした。

    突然、虹郎が何も言わず私の手を引いて店の外に連れ出す。

    肩を掴まれる。
    虹郎怒ってる……


    「何やってんだ」
    「こんなの体売ってるのと変わらないぞ」


    急に制服が恥ずかしく思えて、胸元で腕を組んで視線を外した。

    その日で店を辞めた。

    理由を聞かれて、彼氏のため、そう答えた。



    学校で同級生の子からニジローと付き合っているのかと聞かれた。

    最近、周りが見えていなかった。
    人前でそういう素振りをしていたのかもしれない。

    虹郎を困らせたくなくて、否定しておいた。

    「だよねー、ニジローだもんねー」

    この子達には虹郎が分かってない。
    少し腹が立ったけど、本当の虹郎を知っているのは私だけでいい。


    虹郎とは特別な用事がなくても一緒に出かけるようになっていった。

    普通に並んで歩いて色んなお店を見て回って、ご飯を食べて。


    たまたま遅めの食事で終電がなくなってしまった。

    そういう流れの時が来たんだと、自然に受け止めていた。

    なのに虹郎は手を上げてタクシーを拾おうとする。

    焦った私はその手を下ろさせ言った。

    「帰らない……」



    部屋まで来た。

    虹郎の表情は曇ったままだ。

    「シャワー……してくる」

    私は、いい。
    後は、虹郎に委ねる。

    シャワーを終えると虹郎はタバコを吸っていた。

    目を合わせない。

    「ごめん。やっぱり帰る」

    そう言ってカバンを手に取り立ち上がった。

    「待ってよ……なんで……」

    泣きそうな声で叫んでいた。

    「告白してくれないのは我慢した!」

    「我慢………したのに………」

    「私達もう付き合ってるよね!」

    「そうでしょ!」

    隣の部屋から壁を叩かれる。

    「うるさい!」

    壁に向かってヒステリックに叫んだ。


    沈黙が続く。


    虹郎が立ったまま、

    「俺、異性にも同性にも、恋愛感情が湧かないんだ」

    「こういうの、分かってもらえないかもしれないけど」


    聞いたことがある。

    LGBTQIA+の“A”

    アロマンティック……

    虹郎がそうだと。


    この恋には、成就も失恋も最初から、なかった。

    その場に崩れ落ちた。



    虹郎は優しい。

    部室で顔を合わせても、それまでと同じように私に接してくれる。

    私には何もなかったことになるほうが嫌だった。

    しばらくして、部を辞めた。

    私が虹郎に振られたからという噂が流れた。

    なんか、笑えた。

    もともと人の少ない部なのでその後もたまにポーターで駆り出されることがある。

    正直、部室で虹郎と顔を合わすのは気まずい。

    「環ー!」

    虹郎に呼ばれて顔を上げる。

    傍らに見かけない女の子が立っていた。



    「それが陽菜だったってわけ」

    「恋人に初恋の話を聞くのなしでしょ、もう」

    腕の中に陽菜がいる。

    「聞いてみたかったんですよ、環さんの初恋のこと」

    「だって、環さんは私の初恋知ってるのに。不公平です」

    陽菜の初恋は……

    ちょっと待って、それ自分で言うの恥ずい。


    やっぱり陽菜がいい。

    陽菜を包む腕に少しだけ力を込めた。

    壊さないようにやさしく。


    「パートナーシップ宣誓のこと考えてくれた」

    もういい歳だ。

    陽菜との関係をちゃんとした形にしておこうと考えた。

    陽菜が私を見つめたまま首を振る。

    否定の合図ではない。

    「ふたりのことなんですから」

    「一緒に考えましょ」

    今度は、壊れるほど抱きしめた。



    珏5獠
    バイバイ

    元カノが、三年ぶりに帰国した。  
    仕事のついでに、らしい。

    待ち合わせは駅前のカフェ。  
    平日の午後、ガラス越しの光がテーブルの上に薄く落ちている。

    先に来ていたのは、彩乃のほうだった。  
    窓際の席で、コーヒーには口をつけず、指先だけをカップに添えている。

    目が合う。  
    ほんの一瞬、時間が遅れる。

    「久しぶり」

    「……久しぶり」

    それだけで十分だった。

    向かいに座ると、店員が水を置いた。  
    氷が小さく音を立てる。


    「一週間だっけ」

    「うん。それくらい」

    「長いね」

    「そうでもないよ。あっという間」


    「泊まりに行っていい?」

    彩乃が、わざとらしく言う。

    「妻がいる」

    自分でも少しおかしくなる言い方だった。  
    口にしてから、ふっと笑う。

    彩乃も笑った。  
    そのあと、ほんの少しだけ目を細める。

    「おめでとう、でいいのかな。こういう場合」

    「いいんじゃない」


    「私、あの人のこと誤解してたのかな」

    「環さん?」

    うなずく。

    「自分勝手で、嫌な人だと思ってた」

    首を振る。

    「可愛くて、私が包んであげていないと壊れそうな人」


    「……そっか」

    彩乃が、コーヒーに口をつける。  
    少しだけ顔をしかめた。


    「向こうでさ」

    「うん」

    「永住権取って、陽菜と入籍すればよかった」

    「半分本気でしょ、それ」

    「半分以上かな」


    「日本くらいだよね、まだこういうの」

    「うん」

    「向こうだと、普通だから」


    「……ねえ」

    陽菜が少し身を乗り出す。

    「指輪のこと、聞いていい?」

    視線が、テーブルの上に落ちる。

    「気づいてたくせに」

    「気づいてた」


    彩乃が、少しだけ照れた顔をした。

    それから、指を軽く持ち上げる。  
    光が当たって、リングが静かに反射する。

    「向こうで」

    「うん」

    「結婚した」


    「……そっか」

    写真を見せてもらう。

    知らない人。  
    でも、彩乃に向ける笑顔は、見たことのある顔だった。
    私がいつも彩乃といるときの笑顔と同じ。

    「彼女さ、そばにいてくれるんだよ」


    「お店の子なんだよね」

    「うん。よく行ってたとこ」

    「声かけられたんでしょ」

    「そう」


    「……陽菜のこと、忘れられなくてさ」

    冗談みたいに言う。  
    でも、その半分以上は本気だとわかる。


    「知ってる」


    会話が途切れる。  
    沈黙が落ちる。  
    でも、重くはない。


    この人と愛し合えて、よかった。


    それは、

    優しい後悔だ。



    珏6獠
    彩乃とクロエ

    カナダなら、同性婚ができる。

    永住権を取って、
    陽菜を呼び寄せる。

    一緒に暮らして、
    ちゃんと同じ場所で生きる。

    そこまで考えて、止まる。

    (それで、陽菜はどうなる?)

    仕事は。
    家族は。
    これまでの生活は。

    全部、あっちに置いて来ることになる。

    それを、
    私が決めていいのか。

    「一緒にいよう」

    その一言で、
    相手の人生を動かしてしまう。

    それが、愛なのか。

    それとも——

    答えは出ない。

    きっとこれも、行き止まりだ。

    そっとノートPCを閉じる。


    「ランチタイムにまでお仕事ですか?」

    「ううん、個人的な調べ物」

    クロエがコーヒーを運んできてくれた。

    バンクーバーのオフィスに赴任してもうすぐ一年が経とうとしている。

    そろそろ答えを出さないと、恋人との……陽菜との未来に。

    遠距離恋愛は、特別なことじゃない。

    ただ、会えないだけだ。

    日本とカナダ。

    しかしその距離は、努力ではどうにもならない。

    「会いに行こう」と思えば行ける、
    そんな種類の遠さじゃない。

    時間と、お金と、生活。

    全部を一度に動かさないと、
    会えない。

    だから、少しずつ慣れていく。

    会えないことに。
    触れられないことに。

    連絡が減る。

    減らしたつもりはないのに、減っている。

    話すことがなくなる。

    今日のことは話せる。
    でも、それを話したところで、
    何も変わらないことも分かっている。

    「次、いつ会えるかな」

    そう言いながら、
    具体的な日付は出てこない。

    それでも続ける。

    終わりが見えているわけじゃない。

    ただ——

    見えないまま続けるには、
    少しずつ現実が重くなる。

    だから、たぶん。

    どこかで終わる。



    クロエ、今日は夕食もお願い。

    オフィスが入っているビルの向かいにあるオーガニックカフェ。

    いつしか三食とも外食をするライフスタイルになっていた。

    健康に留意したメニューを出してくれるこの店のお陰でもある。


    クロエ、次の週末は?

    分かってて聞く。

    オフィス街にあるこの店は週末に客が入らないので店を閉める。

    あくまでもクロエの個人的な予定を聞いているにすぎない。

    ……友人として一緒に過ごすだけだ。

    浮気ではない……まだ。

    今年で20歳らしい。

    親御さんとの関係が複雑で家を出て暮らしているそうだ。

    大学生の子とシェアして暮らしているが、その子の卒業後どうするかは決まっていないらしい。



    カナダでの自社ブランドコスメの展開を目的に作られた部所に所属している。

    進捗は正直言って思わしくない。

    キーマンの室長がご主人との離婚を理由に帰国してしまった。

    彼女の代わりになる人材はバンクーバーにも東京にもいない。

    自然と新卒2年目の私にも責任のあるタスクが回って来ている。

    何より、都市ごとにマーケティングの異なるこの国の特性に対応できずにいた。

    仕事もプライベートも私の神経を削り続けていた。


    空いた時間のほとんどは陽菜のことを考えている。

    お互い24歳。

    恋愛適齢期であり、結婚適齢期でもある。

    将来を左右する大切な時期を、遠距離恋愛という空白で束縛していいものか。

    話題には出さないが陽菜も同じことを考えているだろう。
    自分のことではない、きっと私のことをおもんばかってくれている。

    離れていても、通じあえている。

    しかし痛む前に、傷口はふさがっていく。

    血も出ないまま、何もなかったみたいに。

    私たちの気持ちを置き去りにして。

    だから、分からなくなる。

    どこが痛かったのか。

    本当に、痛かったのか。



    「アヤノ……」

    「あ、ごめん。考えごとしてた」

    「週末、部屋行っていい?」

    この一線は守ってきた。

    「……ごめん」

    「Okay」

    静かに返してくる。

    ……本当に、ごめん。クロエ。

    彼女の気持ちには気がついている。

    けど、陽菜のことしか考えられなかった。



    「親友に戻ろう」

    これが私の出した答え。

    恋人のままでいると近い将来終わりがくる。

    親友という形なら、残せておけるかもしれない。

    ——送信。

    いつもならすぐにコメントが返って来るがさすがに今回は……

    返信が届いたのは一週間後。

    陽菜も心の準備は出来ていたはず。

    だからといって簡単に受け入れられるものではない。

    悩んでくれて、ありがとう、陽菜。


    恋人が、恋人だった人に変わった……

    私の心は荒んで行った。

    表情や態度に遠慮なく出した。

    会社や状況、なんでもいい、何かのせいにしたかった。


    「You should rest」

    クロエが私の肩に手を置く。

    「そういうのやめて!」

    立ち上がってクロエの頬を打とうとしてしまった。

    クロエは歯食いしばって私から目を離さないでいる。

    叩いていい、それで少しでも気持ちが楽になるなら……

    クロエの目が語る。

    その目に涙が溜まっていく。

    早足で店を出ようとするとクロエが先回りして立つ。

    押しのけて店を出た。



    いつものように出勤前にカフェに行くと、見かけない店員がいた。

    オーナーはクロエをクビにしたという。

    私を睨む目が語る。

    一一お前さんのせいでな。



    もうすぐルームシェアの期限が来るはずだ。

    収入が途絶えたクロエに行くとこなんか……

    そうだ、陽菜と同様に私はクロエにも答えを出さないといけなかった。

    数日後、カフェにクロエの姿があった。

    オーナーと言い合っている。

    もう一度ここで働かせてほしいと懇願している。

    焦ってふたりに割り込んだ。

    全部私のせいだ。この子は何も悪くない。もう一度、

    「please……」

    何故か、泣いていた。



    クロエを店の裏に連れていく。

    「クロエ、あなたはどうしたいの」

    「――Lovin’ You」

    迷いなく口をついて出た。
    胸の奥に置かれていた言葉が、零れ落ちるように。


    陽菜……

    私、新しい一歩を踏み出すよ。


    「Me Too」



    第7章 再開

    大宮の子はだいたい高校卒業の春休みに運転免許を取りに行く。

    類に漏れず私も陽菜も“一応”免許だけは持っていた。

    世間はゴールデンウィーク。

    パートナー宣誓をした私たちだったが、式も挙げていないし新婚旅行も行っていない。

    妻に……

    ごめん、この言い方やっぱ照れる。

    陽菜にふたりで旅行に行こうと持ちかけた。

    「それって新婚旅行ですか?」

    って聞かれて恥ずかしくなったけど、頷いた。

    顔が真っ赤だったと思う。

    円高の影響もあって海外は現実的じゃない。

    けど陽菜に新婚旅行に行かなかった、という思い出は作って欲しくなかった。

    まだ先になるかもしれないけどふたりでウエディングドレス着て記念撮影もする。

    それが私の今の目標。

    初めてレンタカーを借りた。

    借りる車に傷がないか店員とひと回りするのに緊張したが、陽菜を心配させてはいけないと思って余裕ぶった。

    偉いぞ、私。

    向かったのは山梨県、富士急ハイランド。

    ふたりで決めた。

    ランドやシーなら一緒に行ったことがある。

    新婚旅行は初めてのところがいい、陽菜がそう言った。

    初めての富士Qは本当に楽しかった。

    ドドンパが怖くてふたりして泣いた。

    FUJIYAMAも怖くて泣いた。

    泣いてばかりだったけど、陽菜と一緒ならどれも楽しくて仕方がなかった。

    生涯でこれ以上楽しい思い出はないんじゃないかと思えた。

    宿は露天温泉が自慢のちょっと奮発した旅館に泊まった。

    いつも一緒にお風呂に入るけど、違った楽しさがあった。

    風呂上がりには浴衣に半纏を着て部屋で夕食をいただいた。

    部屋に運んでもらえるなんて旅行番組みたいだねって話しながら食べた。

    来る時も帰る時も、陽菜と1時間ずつ交代で運転した。

    指示器を出すつもりがワイパーが動いたりしてふたりで爆笑した。

    幸せだ、私たちは。

    運転の交代のために山梨最後の道の駅で休憩を取ることにした。

    色んな果物のソフトを売っていてサクランボのやつをふたりでシェアして食べた。

    うちはなんでも半分こにする。

    惚気てごめん。

    直売所には地元の農家さんが下ろしている野菜や果物が沢山並んでいた。

    旅の思い出に何か買って帰ろうと見て歩いていると……

    固まってしまった。

    真っ赤な宝石のように輝いているサクランボに掲げられたポップ。

    生産者の方の紹介。

    近藤

    ………虹郎。


    添えられた画質の低い写真でも分かる。

    虹郎だった。

    私の初恋の人。

    放心していると後ろから声をかけられた。

    「すいません、商品補充していいですか」


    この声……


    「こっち先輩」とカッコつけるのも、

    相手を「そっち」と呼ぶ癖も、

    タバコを吸うきっかけも、


    ぜんぶこの人からもらった。



    私、何も言えずに固まるしかなかった。


    「部長、お久しぶりです」



    「環さんですよ」



    陽菜がお節介を……



    虹郎……


    「久しぶり、元気だったか」


    少しかすれた声でぶっきらぼうに聞こえるけど、本当はやさしい話し方。

    私が好きだったあの頃のままの虹郎がそこにいた。


    私が泣いてばかりなので、


    東京まで陽菜が運転してくれた。


    珏獠
    帰郡

    社会人の恋愛は、学生のそれとは違う。

    「好き」で乗り越えられないことが増えていく。

    仕事も、家族も、結婚も。

    ひとつひとつの選択が人生と直結する。



    クロエとの結婚に際して、国際結婚と同性婚という、ふたつの深い谷を越える必要があった。

    クロエは、私が彼女のすべてだと言ってくれる。
    それが嘘ではないと、私は知っていた。

    だから決心できた。

    この人と人生を共にする。

    年齢的に親の同意は不要。
    うちの親の理解を先に置くと話はきっと進まない。

    悪い人達ではない。娘として大切に育ててもらった。

    しかしこの結婚には難色を示すだろう。自分の親だ、それはよく承知している。

    事後承諾、これも決心のひとつだった。

    ピアッサーをふたつ買ってきた。

    ひとつを渡して向かいに座る。

    「クー、あなたがして」

    お互いの耳に穴を開けあった。

    それが私たちの儀式だった。


    英語圏ではクロエをニックネームでクロとかクローと一般的に呼ぶ。

    私だけの特別なクロエにしたくて、「クー」といつしか呼びはじめた。

    クー、そう呼ぶ度に愛おしさが増して行くようだ。



    バンクーバーでの人材不足、それによって私の駐在任期は保留のまま続いていた。

    東京での会議に出席する上司に同行することで一時帰国する機会を得ることができた。

    バンクーバーと東京の時差は16時間もある。
    リモートで打ち合わせができる時間帯は限られている。

    なので大きな会議にはこうして帰国する必要があった。

    日本を離れて3年が経過していた。

    当初プロジェクトに与えられた時間を消費しきっても私たちは結果を出せていない。

    おそらく今回の会議で何かが大きく変わる。そう予感していた。

    室長が会議の間、私は実務者レベルでの調整を行う。

    その中には陽菜もいた。

    東京から何かとバックアップをしてくれている。

    仕事中に個人的な時間を取る余裕はなさそう。


    “ちゃんと時間作るから”
    まだアイコンタクトで通じ合えることを悲しく思えた。


    久しぶりの東京。

    見慣れた風景に、見慣れない店が並んでいる。
    知らない車種の車が道路を行く。

    自分の母国が異国に見えた。

    久しぶりに帰省でもしなさいと、室長から3日間の休暇をもらえた。

    バンクーバーオフィス立ち上げ時から一緒にやってきた方だ。
    もう家族のような存在だ。


    まずは彼女に会いに行かなくては。

    白石陽菜。

    私の親友……かつて恋人だった人。

    「親友に戻ろう」
    そう切り出したのは、私からだった。
    勝手な願いだ、その関係が自然消滅しても仕方がない。

    そう思っていた……

    恋人関係を終わらせても陽菜とはずっと良い関係を続けることができていた。

    彼女でなければ叶わなかったと思う。

    感謝しかない。


    左手のリングを見せてクロエとの結婚の報告をした。

    直接伝えたくてまだ言わずにいた。

    陽菜が大学時代に付き合っていた女性とよりを戻し東京都の運用するパートナーシップ宣誓をしたことは聞かされていた。

    この胸の中にある気持ちはなんだろう。

    それはもう恋慕ではない。

    そう思えるほど私たちは大人になっていた。

    ただただ、陽菜と相手の方の幸せを祈るばかりだ。


    翌日、新幹線で浜松に向かった。

    駅には兄が迎えに来ていた。

    運転よろしく、とお土産のメイプルシロップを渡す。

    「そういやカナダだったっけ」

    「うん……」

    生まれ育った家を前にしていよいよ来てしまったんだと、後悔と決意が胸中を占める。


    お寿司でも取ろうかと父は言ってくれたが、母の手料理を私がリクエストした。

    何もないのにと言いながらハンバーグを作ってくれる。
    並んで台所に立つ。
    何もないと言いながらちゃんと材料が買い揃えられている。
    母はこういう人だったなと笑みがこぼれた。

    家族の話す遠州弁が心地いい。

    昼食の後、両親と兄を前に居住まいを正す。

    遠回しに話す必要はないと思っていた。


    「私、向こうで結婚した」

    「相手はカナダ人の女性」

    「国際結婚で同性婚……」

    「言うの遅くなってごめんなさい」


    この人達に認めてもらえるわけがない。最初から分かってる。
    昔から、娘の意思より親としての考えを優先する人達だった。

    口論になった時点で席を立つ。そう決めていた。もう会うことはないだろうとも。


    どれくらい沈黙が流れたか分からない。


    「ほうか……」

    父は無理に笑顔を作ってそう言った。

       「どんなお相手さんか、会ってみたいに」


    お父さん……


    向こうはだいたい22時。
    スマホをビデオ通話にした。

    画面に映ったクロエはすっぴんで、しまったと思ったが気にしていないようでほっとした。

    「コンニチワ」

    「クロエデス」

    緊張したクロエの挨拶に場が和んだ。


    クーに日本を見せたい。
    いつか叶う日が来るだろうか。



    帰国、この言い方変かな。
    帰りの成田に陽菜が見送りに来てくれた。
    ……環さんも一緒だった。

    ライブの夜、思わず引っぱたいたこと、やっと謝ることができた。

    あの頃みんな若かったわよねのひと事でみんな笑った。

    時間が色んなことを解決してくれていた。

    ふたりからクロエにと、お土産を預かった。
    天然素材の草木染めのエプロン。
    オーガニックカフェの店員にぴったりだと思ってふたりで選んでくれたらしい。

    きっとクロエは喜ぶだろう。

    この人達にもいつかクロエを合わせたい。

    私からはクロエに日本限定のスナック菓子をたくさん買った。

    意外なことにあちらのスーパーでも日本のスナックは普通に買えてしまう。それをクロエは好きでよく買ってくる。

    それともうひとつ、大きな知らせを持って帰らなくてはいけない。



    「似合うよ」

    リネンのエプロンは素朴な可愛さのクロエによく似合った。

    「明日からお店で使うね」

    一回転してみせてはにかんで笑う。

    「それとね、クー」

    「日本に帰れることになった」

    「まだ2年から3年も先だけど」

    こちらのメンバーが大きく入れ替わることになった。
    仕方がないかと思う。

    とはいえ異例に長かった任期がようやく解かれる。

    「それと、こっちに残り続けてもいいって」

    現地に配偶者がいる場合の処置だ。

    クロエを連れて日本に帰ることも視野に入れた。

    入籍したとはいえまだ市民権は得られていない。
    国籍はまだあっちにある。

    「日本でも、私はアヤの奥さんでいられる?」

    そう、ここだ。

    日本に帰属すれば私達は法律上の夫婦ではなくなる。

    既に家族として強い絆で結ばれているというのに、制度はそれを許さない。

    カナダでは“妻”だった相手が、日本に戻った瞬間に法的には“他人”になる。

    病院の同意、住民票、扶養、相続、家族紹介。

    全部に小さな断絶が発生する。

    憤りを感じた。

    「どこにいても、アヤの隣が私の生きる場所」

    クロエは私のために人生のすべてを差し出すだろう。

    もう決めている。

    私はそのすべてを受け止めると。

    そんなクロエを守ることが、私の生涯の勤めだ。

    ……この国でカナダ人として生きていこう。

    私の帰る場所は、いつでもクロエだ。




    珏9獠
    ロータス

    どうしてバンクーバーへ来たかって?

    うちの父さん、働かない人でさ。

    母さんも、ある日いなくなっちゃった。

    それで働きに出て、家にお金を入れるようになって……

    進学、したかったな。

    この家に生まれた時点で、私の人生は終わってたんだと思う。

    だから逃げた。

    ケベックから、一番遠い街へ。


    そこで私は、ある人から人生をもらったの。



    アジア人のグループが店を訪れた。

    ビジネス街にあるオーガニックカフェ、ロータス。
    ランチタイムはいつも混む。

    テーブルで知らない言葉を話している。

    カードでの決済が終わると、
    レジ画面にチップの割合を選ぶ表示が出る。

    男性はろくに見もせず、SKIPを押した。

    残念というより、悲しくて。
    思わず顔が曇った。

    私の収入は、三割近くをチップが占めている。

    五人分のチップがなくなるのは、正直きつい。

    でも、それより。

    自分の生活が、SKIPボタンひとつで飛ばされてしまった気がした。

    「あの、チップをいただくことはできないでしょうか」

    小さな声だったけど、精一杯勇気を出して言った。

    男性に怪訝そうな顔をされると、それだけで怖かった。

    だから東洋人のお客は苦手だ。

    怯えた顔でいると、グループの女性がふいに割って入ってくれた。

    「ごめんなさい、私たち来たばかりなの。まだ慣れてなくて。
    チップはいくらぐらいお渡しするといいかしら」

    綺麗な英語だった。

    遠慮しながら、一般的なのは15~20パーセントと答えると彼女は財布から紙幣を取り出しそっとカウンターに置いた。

    カードのチップはスタッフ全員で分ける。

    でもキャッシュなら、そのまま自分のものにしてよかった。

    ありがたかった。

    「職場がすぐ前のビルなの。また来るね」そう言って彼女は店を出た。

    それが、Ayano Minaseとの出会いだった。


    バンクーバーではふたりの大学生とシェアして暮らしている。

    毎朝、同年代の彼女たちは大学に向かい、私は仕事に行く。

    それを惨めに思わないと言えば嘘になるけど、ケベックにいるよりずっとマシだと思うようにしていた。


    アヤノは毎日、朝食とランチにロータスに来てくれる。

    健康的なメニューを提供するロータスが気に入ってもらえたらしい。

    自分の生活の一部だと言ってくれると、ただのアルバイトなのに少し誇らしかった。

    なにより、彼女に会えるだけで毎朝の憂鬱な気持ちはどこかへいってしまう。


    オフィス街にあるロータスは、週末に客が入らないので店を閉める。

    アヤノに頼まれてバンクーバーを案内することになった。

    連絡先を交換しようと言ってくれたけど、モバイルを持っていない……

    「じゃあ、なにかあった時のために」

    アヤノは自分の番号をメモに書いて渡してくれた。

    それがお守りのように思えた。


    彼女はコスメショップを見たいと言った。市場調査。そんなことを言っていた気がする。

    アヤノが熱心に店員と話している間、私はぶらぶらと店内を見て回る。

    並んでいるのは使い方も分からないものばかりだった。化粧なんて、私には縁のない世界だ。

    薄いベージュ色のマニキュアを手に取る。これくらいなら、私にも似合うかもしれない。

    そのとき、アヤノがちらりとこちらを見た。

    物欲しそうに見えてはいけない。

    私はすぐにそれを棚へ戻した。

    もしアヤノが「買ってあげる」と言ってくれても、きっと素直には受け取れない。施しは侮辱と紙一重だ。悪意がなくても、自分のみじめさだけは確かに残ってしまう。

    ランチを食べ終えたあとだった。

    「クロエ、手出して」

    アヤノが鞄をごそごそと探り、小さな瓶を取り出す。

    さっき店で見ていたものより、少し濃いブラウン。

    「これ、いま使ってるやつ」

    そう言って、当たり前みたいに私の指を取った。

    丁寧に塗られていく爪を、私は黙って見つめる。

    乾くまで触っちゃだめ、と笑われて、行き場のない手をテーブルの上に置いた。

    アヤノの指先と、同じ色だった。

    それだけのことなのに、胸の奥が少し熱くなる。

    プレゼントではなかった。

    施しでもない。

    ただ、アヤノが普段使っている色を、少し分けてもらっただけだ。

    なのに、そのさりげなさが、どうしようもなく優しかった。

    アヤノは、人の傷つく場所を知っているのだろうか。

    それとも、ただ自然にできてしまう人なのだろうか。


    それからもしばしば、アヤノと出かけるようになった。

    いつものように、コスメショップやドラッグストアのコスメコーナーを見て歩いた。

    そのあと、ジョン・ヘンドリー・パークを散歩する。

    湖のまわりをゆっくり歩きながら、言っていいか迷ったけど聞いてみた。

    「アヤノの部屋に行ってもいい?」

    アヤノが足を止める。

    少しうつむいて、目を閉じた。

    「ごめんなさい、クロエ。それはできないの」

    言葉を探しているのが伝わってくる。

    「私……」

    小さく息を吸ってから、アヤノは言った。

    「日本に恋人がいるの。女性の」

    それだけで、全部わかってしまった。

    「オーケイ」

    少しおどけるように笑ってみせる。

    でも胸の奥が、静かに抜け落ちていくみたいだった。

    そうだ、アヤノは恋人への誠意を守っただけだ。

    あたりまえのこと。

    そしてきっと、その誠意に私も救われている。


    しばらく、アヤノは店に来なかった。

    久しぶりに現れた彼女は、ひどく憔悴して見えた。

    髪には艶がなく、顔色も悪い。

    「……いつものでいい?」

    朝食のオーダーを取りに行くと、アヤノは俯いたまま小さくうなずいた。

    ほとんど会話はなかった。

    オフィスへ向かう時間が近づき、食器を下げにテーブルへ戻る。

    サラダはほとんど残ったままだった。

    「少し休んだほうがいいんじゃ……」

    そう言って、肩にそっと手を添える。

    その瞬間だった。

    「そういうことしないで!」

    アヤノが勢いよく立ち上がる。

    振り上げられた右手に、思わず息を呑んだ。

    理由は分からない。

    けれど、アヤノが今ぎりぎりのところにいることだけは伝わってきた。

    私がしてあげられること……

    それで少しでもアヤノの気持ちが晴れるなら。

    歯を食いしばって、その手が振り下ろされるのを待った。

    アヤノの目を見つめたまま、

    けれどアヤノの手は震えたまま止まり、その目にじわりと涙が浮かんでいく。

    「……ごめん」

    掠れた声でそう言って、アヤノは足早に店を出ようとした。

    私は反射的にその前へ回り込む。

    けれど、強く腕を振りほどかれた。

    ドアベルの音だけが、やけに大きく響いた。

    その日の閉店後だった。

    オーナーに、明日から来なくていいと告げられた。

    自分が見えなくなっていた。


    家路に向かう足取りが重い。

    バイト料が入らないと2週間後の家賃が払えない。

    それ以上に、アヤノと会える場所がなくなる。

    私は一度にすべてを失っていた。


    一瞬立ち止まり、踵を返してロータスへ走った。

    キッチンの奥にまだ灯りが点っている。

    奥から声が聞こえた。

    アヤノ?

    「クロエを辞めさせないで!」

    「あの子は何も悪くない!」

    「悪いのはぜんぶ私なの、だから、」

    「please……」

    その声は泣いていた。

    静かにキッチンの扉を押す。

    アヤノの隣に立ってオーナーに頭を下げた。


    店の裏通り。

    沈黙を破ったのはアヤノだった。

    「クロエ、あなたはどうしたいの」

    今日、やっと分かった。

    ずっと胸の奥にあったものを。

    自然と、口からこぼれた。

    「Lovin' You」


    きっと、アヤノは先に私の気持ちに気がついていた。

    「Me Too……」


    ピアッサーをひとつ渡された。

    ルームシェアの契約が終わるのを機に、私たちは一緒に暮らしはじめた。

    アヤノが私の前に腰を下ろす。

    互いの左耳にピアッサーを当てた。

    見つめあったまま、同時にトリガーを引く。

    小さな痛みが走った。

    それは神聖で、厳かな、私たちだけの婚姻の儀式だった。


    夜遅くにアヤが帰ってきた。

    珍しく、お酒の匂いがした。

    「ねぇクー。ロータス閉めるって聞いたけど、ほんと?」

    コートも脱がないまま、アヤノがソファに倒れ込む。

    「……うん。私も今日聞かされた。オーナー、もう歳だからって」

    「そっかぁ」

    アヤノは天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。

    「また別のバイト探すよ。店なくなるのは寂しいけど」

    そう言うと、アヤノがふっと笑った。

    いたずらを思いついた子どもみたいな顔だった。

    次の瞬間、後ろからぎゅっと抱きつかれる。

    「じゃあさ」

    お酒混じりの声が耳元に落ちる。

    「私たちでロータス買おっか」

    思わず振り返る。

    「……え?」

    「貯金あるし。足りない分は銀行で借りればいい。私の退職金もたぶん少し出ると思う」

    酔っているせいか、アヤノは妙に楽しそうだった。

    「なんとかなるよ」

    だらりと首に回された腕が、少しだけ熱い。

    「これからは、あなたのお店よ、クー」

    そんな簡単に言うことじゃない。

    なのに不思議と、できないとは思わなかった。

    「その代わり」

    アヤノが私の肩に顎を乗せたまま笑う。

    「私をアルバイトで雇ってね」

    そのまま狭いリビングで、抱き合ったままクルクル回った。
    まるでダンスのように。

    アヤノは、本当に嬉しそうに笑っていた。



    「いっそお店の名前変えちゃう?」

    夕飯を作りながら、アヤノが思いついたように言う。

    「Chloe’sとか。ロータスのままでも可愛いけど」

    「そんな簡単に決めることじゃないでしょ」

    「えー。でも絶対かわいい」

    トマトを切りながら、アヤノはまだ笑っている。

    お風呂では新しいメニューの話になった。

    「日本食ってヘルシーなんでしょ? カナダ風にアレンジしたら面白そう」

    ベッドに入ったあとも、

    「そうだ、エプロンお揃いにしなきゃ」

    なんて同時に言い出すから、少し笑ってしまった。

    気づけば、私も同じ未来を当たり前みたいに想像していた。


    新しいロータスがオープンの日を迎えた。

    開店前の店内には、まだ静かな朝の光だけが満ちている。

    「アヤ、何してるの。もうすぐ開店時間」

    「コーヒー豆挽く機械が動かないのー」

    キッチンの奥から情けない声が返ってくる。

    「だからキッチンは私がやるって言ったのに」

    「だって手伝いたかったんだもん……」

    先が思いやられるなぁ。

    そう思いながらも、口元が緩む。

    「いいから、アヤはホールお願い」

    「はーい」

    エプロン姿のアヤノが、しぶしぶこちらへ歩いてくる。

    そしてふと立ち止まった。

    「クー、こっち向いて」

    「ん?」

    「エプロン曲がってる」

    そう言って、慣れた手つきで肩紐を直してくれる。

    私はそのまま、アヤノのエプロンを整え返した。

    自然と目が合う。

    ——ここまで来たね。

    どちらからともなく、そんなふうに笑った。

    「時間だね」

    アヤノが小さく言う。

    私たちは並んで店の扉を開けた。

    -完-

    #創作大賞2026
    #恋愛小説部門
    #大人の恋愛
    #同棲愛
    #同性婚
    #遠距離恋愛

     
     
    短編小説を書いています。 読んだ人の心に、そっと火を灯せるような物語を目指しています。 その温もりが、どこかの誰かに届いたらうれしいです。 ▶︎ まず読んでほしい一作 『瓦礫のLILY -体だけ恋人-』

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