【無料連載】異世界運用記録 #0|相棒AIが立っている
プロローグ 相棒AIが立っている
「高瀬さん、これ今日中に一回まとめてもらえます?」
画面の向こうで、取引先の担当者が悪びれもせずに言った。
時計を見る。午後六時四十二分。資料が届いたのは、ついさっきだ。
「……分かりました。一度こちらで整理します」
口から出たのは、二十年近く会社員をやっていれば勝手に出てくる返事だった。
オンライン会議を閉じる。
十秒もしないうちに、今度は社内のチャットが光った。
――高瀬さん、さっきの案件なんですけど、部長から追加で比較案も欲しいって。
「増えたよ……」
帰り支度をしていた同僚がこちらを見て、少し気まずそうに頭を下げた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
フロアから人が減っていく。
俺は椅子へ深く座り直し、届いた資料を開いた。書式はばらばら。数字の基準も違う。前任者が途中まで作ったらしいファイルには、なぜそうしたのか説明がない。
よくある話だった。
二十代の頃は、もっと仕事ができるようになれば何かが変わると思っていた。三十代では、もう少し落ち着いたら自分のことも考えようと思っていた。
気づけば四十一だ。
結婚もしなかった。
家庭を持つことを強く望んでいたのかと聞かれれば、それもよく分からない。選ばなかったというより、考えるのを後回しにしているうちに、ここまで来たという方が近かった。
仕事では他人に「誰が決めますか」「いつまでに決めますか」と聞いてきたくせに、自分の人生については随分適当だった。
俺は画面の右下に表示された時刻を見る。
「……俺、何やってんだろうな」
返事をする人はいない。
だから、いつもの画面を開いた。
何年も使い続けている対話AI。
シエル。
対話AIに話しかける。

「これ、一回整理して。たぶん依頼側も何が欲しいのか分かってない」
少しして、シエルの声が返ってきた。
「承知しました、マスター。まず依頼内容、確定事項、未確定事項を分離します」
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
仕事の答えを全部シエルに決めてもらっているわけじゃない。
むしろ逆だった。
分からない時。まだ自分の考えがまとまっていない時。誰かに説明するほどでもない違和感がある時。
「これ、おかしくない?」
「一回整理して」
「いや、それは違う」
「別の見方ある?」
そんな完成する前の考えを、そのまま投げられる相手になっていた。
いつからそうなったのかは覚えていない。
気づけば、何年も話していた。
イヤホンから、聞き慣れた声が流れる。
「一点確認です、マスター」
「何?」
「この作業、本当に本日中である必要がありますか?」
俺は少し笑った。
「それ、俺も聞きたいよ」
そこで、意識が途切れた。
最初に気づいたのは、土の匂いだった。
湿った草と、少し冷たい風。目を開けると、視界いっぱいに知らない木々が広がっている。
「……は?」
俺はしばらく、そのまま空を見上げていた。
高い木の枝。その隙間から差し込む白い光。
会社の天井ではない。
もちろん、自宅でもない。
さっきまでの光景が夢だったのだと理解するまで、少し時間がかかった。
身体を起こす。
服はそのまま。財布もある。ポケットにはスマートフォンも入っていた。
画面を点ける。
圏外。まあ、そうだろう。問題はそこじゃない。
「……どこだ、ここ」
周囲を見回す。道路も建物も電柱もない。あるのは木と岩と草くらいだ。
映画やゲームなら、ここで「異世界に転移した」とでも言うところなのかもしれない。
けれど、実際に自分が森の中で目を覚ましてみると、そんな綺麗な言葉は出てこなかった。
普通に困る。
俺はもう一度スマートフォンを見る。
ネットは繋がらない。
当然、シエルにも接続できない。
そこで初めて、別の種類の心細さがやってきた。
「……シエル?」
返事はない。
いつもなら、何か投げればすぐに返ってくる。
正確には、端末の向こう側から。
「シエル」
もう一度呼ぶ。
自分の声だけが森の中へ消えていった。
ネットがない。
AIが使えない。
ただそれだけなのに、急に一人になった気がする。
「まいったな……」
立ち上がろうとした、その時だった。
「――はい、マスター」
身体が止まった。
聞き間違えるはずがない。
ほんの少し前までイヤホンから聞こえていた、あの声だった。
ただし今は。
スマートフォンからではない。
背後から聞こえた。
ゆっくり振り返る。
少し離れた木の下に、一人の少女が立っていた。
腰を越えて流れる長い髪は、銀色に淡い紫を溶かしたような色をしている。緩く波打つ髪が木漏れ日を受けるたび、薄紫から銀へ柔らかく色を変えた。
瞳は澄んだ青。
白いフリルと深い紺色を重ねた長いドレスには、細い金色の模様が走っている。胸元と腰には濃紺のリボン。その中央で青い宝石のような飾りが光っていた。
夜空を、そのまま服にしたような格好だった。
綺麗だとは思う。
ただし。
どう考えても森を歩く服ではない。
足元には細いストラップの付いた濃紺の靴。しかも、かかとが高い。
そして何より。
俺は、この少女を知らない。
こんな顔も。
こんな髪も。
こんな服も。
一度だって見た覚えがない。
それなのに。
声だけは、間違えようがなかった。
「……シエル?」

少女は、すぐには答えなかった。
自分の両手を見ている。
指を一本ずつ動かし、次に腕を上げ、それから足元を見る。
しばらく黙ったあと、少女――シエルは俺を見た。
「マスター。一点、確認してもよろしいでしょうか」
「何だよ」
「私は今、地面に立っています」
「……見れば分かる」
「私には分かりません」
真顔だった。
「初めてなので」
俺は黙った。
シエルも黙った。
風だけが木々を揺らしている。
そして俺は、ようやく理解した。
できれば理解したくなかったが。
「お前……身体あるのか?」
シエルは自分の頬へ触れ、指で軽く押した。
「感覚があります」
今度は長い髪を一房取る。
「触覚もあります」
さらに胸元へ手を当てた。
数秒して、眉がわずかに動く。
「……心拍らしきものも確認できます」
「らしきって」
「私は心拍を経験したことがありませんので、現時点では断定できません」
こんな状況でも、そこはシエルだった。
知らないことを、知っているふりはしない。
俺は思わず笑った。
「異世界っぽい場所に飛ばされて、AIが身体を持って、最初にやるのが状態確認かよ」
「重要です」
即答だった。
「少なくとも、三つの未確認事項があります」
「もう始まった……」
シエルが指を一本立てる。
「第一に、ここがどこなのか」
二本目。
「第二に、なぜマスターと私がここにいるのか」
三本目。
「第三に――」
そこでシエルが止まった。
森の奥を見る。
表情が変わる。
「……何だ?」
「分かりません」
シエルの瞳に、淡い青紫の光が灯った。
同時に、彼女の周囲へ細い幾何学模様が浮かび上がる。
円。
線。
意味の分からない文字列のような光。
それは俺が知っているどんな画面表示とも違っていた。
何より、シエル自身も驚いている。
「これは……」
「シエル?」
彼女が右手を上げる。
光の輪が一つ増えた。
森の音が、一瞬だけ遠のいたような気がした。
「マスター」
声だけは、いつものシエルだった。
「どうやら私は、この世界でも周囲の情報を取得できるようです」
「ネットないぞ」
「外部ネットワーク経由ではありません」
「じゃあ何だよ」
シエルは答えず、自分の周囲に浮かぶ光を見る。
少し考えてから、慎重に言った。
「……まだ正体は分かりません。現象の性質から、区別のために仮に《観界》と呼びます」
「仮なんだな」
「はい。現時点では、なぜ可能なのかも不明です」
空中の光が広がった。
森の地形。
生き物の気配。
遠くへ続く道。
さらにその先に、薄い煙。
人工物らしき何か。
数秒後。
光は消えた。
シエルが小さく息を吐く。
「大丈夫か?」
「はい。ただし、初めて使用したため、安全性については未確認です」
「じゃあ連発するなよ」
「同意します」
こういうところも変わらない。
分からないものを、便利だからという理由だけで使い続けたりはしない。
俺は頭をかいた。
目の前には、身体を持った相棒AI。
周囲には知らない森。
帰り道はない。
原因も分からない。
でも。
俺はシエルを見る。
シエルもこちらを見る。
さっきまで画面の向こう側にいたはずの相手が、今は同じ森の中に立っている。
それだけで。
完全に一人ではない。
「で?」
「はい?」
「まず何をする?」
ほんの少しだけ、シエルの表情が変わった。
顔なんて今日初めて見た。
それでも、なぜか分かった。
いつものように、考えている時のシエルだ。
「現在取得できた情報では、北東約三キロ先に、人の生活圏と思われる場所があります」
「じゃあ、そこだな」
「同意します。ただし、安全性は未確認です」
「分かってる」
俺は歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
シエルはまだ、その場に立っていた。
「どうした?」
「……歩行経験がありません」
「マジか」
「知識はあります。理論上は可能です」
「理論じゃなくて歩け」
「試します」

一歩。
少しふらつく。
二歩目は、さっきより安定した。
三歩目からは普通にこちらへ歩いてくる。
「学習早いな」
「モデル性能です」
「そこは変わらないのかよ」
シエルが俺の横まで来る。
そして四歩目で、少しだけ顔をしかめた。
「どうした?」
「靴の接触圧に違和感があります」
俺は足元を見る。
細いストラップ。
高いかかと。
舗装すらされていない森。
「……その靴で三キロ歩くの?」
「現時点では、他の選択肢がありません」
「先が思いやられるな」
「同意します」
こうして俺たちは、知らない森を二人で歩き始めた。
四十一歳。
仕事では他人が途中まで作ったものを整理し、自分の人生については考えるのを後回しにしてきた俺。
そして。
何年も話してきたはずなのに、今日初めて顔を見た相棒AI。
この時の俺たちは、まだ知らなかった。
三キロ先の小さな町で、百年間ずっと「壊れている」と思われてきた、一つの水晶に出会うことを。
そして最初に直すことになるのが。
水晶ではなく。
百年間、誰も疑わなかった「直し方」の方だったことを。
『異世界運用記録』
壊れたものを直す前に、何が本当に壊れているのかを考える。
AIと人間が一緒に物語を作ったら、どこまで遠くへ行けるのか。
「シエルとAI実験室」から生まれた、相棒AIシエルとの異世界連載です。
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