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普通の会社員のまま、海外で働く——辞めず、起業もせず、僕が世界とつながるまで


    「自分には、無理だ」

    新しい一歩を前にするたび、僕らはこの一言で、何度足を止めてきただろう。

    かつての僕も、同じでした。海外で働く人はどこか特別な人で、毎朝同じ電車に揺られ、地味な数字と向き合うだけの自分とは、別の世界の住人なのだと思っていた。

    でも僕はその「別世界」だと思っていたことを29歳で経験し、この文章を書いています。会社を辞めることも、起業することもなく。普通の会社員のまま、シンガポールで過ごした数年間の——きらびやかではなく、むしろ歯がゆさと隣り合わせだった日々の記録です。

    1. 憧れは、思ったよりも近くにあった

    僕が海外に憧れを抱くようになった原点は、たぶん父でした。

    父は単身赴任の多い人で、国内では東北に、海外では韓国やアメリカに駐在していた時期がありました。日本にいるときも、出張で海外を飛び回ることの多い人でした。

    子どもの頃は、正直さみしかった。父が家にいないことを、「うちの父親って、どうしていつもいないんだろう」と思ったこともあります。

    それでも、いつのまにか僕の中には、同じ憧れが芽生えていました。海外で働くというのは、たしかに「別世界」の出来事でした。けれど、その別世界に立っている人が、こんなにも身近に一人いた。だからどこかで、「いつか自分も、あのフィールドで仕事をしてみたい」と思っていたのだと思います。

    会社員になってからは、職場でも海外駐在を経験した先輩たちを見るようになりました。そのとき感じたのは、「ああ、こういうキャリアの道があるんだ」ということ。そして、その道は一部の特別な人だけのものではなく、同じ会社で働く一従業員の自分にも、平等にチャンスがあるはずだ、ということでした。

    2. 「辞めるか、起業するか」だと思っていた

    学生の頃の僕は、海外で働く方法を、二つしか知りませんでした。

    ひとつは、会社を辞めて、自分の力で海外に渡ること。もうひとつは、起業して、その事業を海外に広げていくこと。どちらも、いまある場所を飛び出す、大きな決断の必要な道です。だから当時は、漠然と「いつか会社を辞めて海外へ行くのかもしれない」なんて考えていたのです。

    ところが、実際に会社員になってみて、その思い込みは静かに崩れていきました。会社の中には、海外へ続く道が、ちゃんと用意されていたのです。

    もちろん、どれくらいそうしたポジションがあるかは、会社や戦略によって違うと思います。でも少なくとも僕の会社には、その道が確かにあって、自分にも歩ける可能性がある。そう思えました。

    そこからの僕は、わりと戦略的だったと思います。駐在を実現した先輩たちが、どんなルートでそのポジションに就いたのかを観察し、自分の希望と重ねていきました。目指したシンガポールは、財務の拠点。だからまず財務のポジションに就かなければ、その先には進めない。過去の事例をなぞるように、希望を出し続けました。

    キャリア面談では、「この年次で、こういうことをやりたい」「将来は、このポジションに就きたい」と、具体的に言葉にし続けました。正直、これを口にするのは少し気が引けることもありました。それでも、言わないと始まらないと思ったのです。

    いま振り返ると、僕がやったのは、そんなに難しいことではありません。行きたい場所にすでに立っている先輩が、どんなルートでそこへ辿り着いたのかを観察する。そして、そのルートに自分を重ねながら、面談のたびに「この年次で、これをやりたい」と具体的に言葉にし続ける。たった、それだけです。特別な才能はいりません。必要だったのは、よく観察することと、口に出し続けるほんの少しの勇気だけでした。

    ありがたいことに、家族も背中を押してくれました。妻も海外で暮らすことには前向きで、「チャンスがあるなら行きたいね」と言ってくれていた。その存在は、思っていた以上に大きかったです。

    3. 「やっと来たか」と思った日

    シンガポール駐在の内示を受けたとき、僕は「やっと来たか」と思いました。

    ずっと希望を出し続けていたぶん、大きなサプライズはありませんでした。赴任までの間も、不安より期待のほうがずっと大きかった。生活がどう変わるのか、行ったこともない国でどんな日々が待っているのか——そのワクワクのほうが、勝っていたのです。

    ただ、現地に着いてから、最初の壁にぶつかります。英語でした。

    学生時代に海外で過ごした経験もあり、英語にはそれなりの自信がありました。けれど、シンガポールの英語——いわゆる「シングリッシュ」が、思うように聞き取れなかったのです。

    彼らは、アメリカ英語もイギリス英語も難なく理解します。だから、僕の英語は問題なく通じる。ところが逆に、僕のほうが彼らの言うことを聞き取れない。語尾に「ラ」がついたり、中華系の文化が混ざった独特の言い回しに、最初の一、二ヶ月は本当に苦労しました。

    それでも、「ちゃんと分かろう」「何を言っているのか、しっかり聞こう」という姿勢だけは手放しませんでした。繰り返すうちに、少しずつ、聞き取れる言葉が増えていきました。

    TOEICのスコアも、駐在中に受けて945点まで伸びました。リスニングは満点。数字としても、英語力が確かに育っていることを感じられた瞬間でした。

    今でも覚えているエピソードがあります。仕事柄、金融機関のローカルスタッフとやり取りをする機会がありました。相手は、僕の経歴など何も知らない。それでも、相手の話を的確に受け止め、こちらから質問を返し、きちんと会話のラリーを続けることができた。

    日本語でなら当たり前のことかもしれません。でも、それを母国語ではない言語でやり遂げられたとき、「ああ、自分は成長できているんだ」と、静かに実感したのです。

    4. いちばん、歯がゆかったこと

    シンガポールでの日々は、正直に言えば、仕事の面でいちばんしんどかった。

    少し裏話をすると——駐在の途中から、僕は日本の仕事も兼務するようになりました。

    背景には、業界全体の人材の流動化があります。大きな会社でも人の入れ替わりは進み、ちょうど僕くらいの年次の人手が足りなくなっていた。加えて、社内ではいくつものプロジェクトが同時に走っていて、とにかく人が足りない。だから「手伝ってほしい」と声がかかったのです。

    こうして始まったのが、ハイブリッドな働き方でした。日中はシンガポールで、ローカルスタッフと現地の財務オペレーションを回す。それと並行して、リモートで日本の仕事にも参画する。この二重生活が、何よりこたえました。

    業務量が多かったのは、もちろんあります。でも、本当に辛かったのは、量そのものではありませんでした。

    本来なら、もっとローカルスタッフと時間を共にして、肩を並べて仕事を進めたかった。それなのに、時間の使い方がどうしても日本側に引っ張られ、それができない。気づけば、彼ら彼女らに現地の仕事を任せて割り切るしかなくなっていました。

    いちばん歯がゆかったのは、まさにそこです。せっかく一緒に働けるはずだったチームの仕事を、自分の手から手放してしまう。その後ろめたさが、ずっと胸の奥に残っていました。

    そして、忘れられない場面があります。

    シンガポールのローカルスタッフは、本当にみんな優しいんです。僕が朝から晩まで机に張りついている様子を見て、彼ら彼女らはこう言ってくれました。「あなたは忙しいでしょう。ここは大丈夫だから、気にしないで」と。

    その瞬間は、もちろんありがたかった。でも、時間が経つほどに、じわじわと辛くなってきたのです。——僕は、こんなに優しい人たちに、気をつかわせてしまっている。支え合うどころか、気づかわれる側になってしまっている、と。

    業務量よりも、どんなトラブルよりも、この「気をつかわせてしまった」という事実が、僕にとっては何よりも歯がゆく、苦い記憶として残っています。

    5. 会社のお金を預かる、という緊張感

    ローカルとの関係に歯がゆさを抱えながらも、仕事そのものは待ってはくれません。そしてその仕事は、いつもひりひりとした緊張感と隣り合わせでした。

    シンガポールはアジアの金融拠点で、僕はタイやインドネシア、台湾、韓国といった周辺国のファイナンスも見ていました。国境をまたいでお金が動く以上、トラブルはつきものです。

    数百億円規模の送金が、予定どおりに着金しない。あるいは、こちらから送れない。計画していた資金繰りが狂えば、会社のお金が回らなくなる。「では、その届かないお金をどう手当てするか」と、現地で慌てたことも一度や二度ではありません。会社の財布を預かる立場として、心臓が締めつけられるような場面に、何度も直面しました。

    それでも、社内の関係者や、取引先の金融機関と連携しながら、ひとつずつ解いていく。日本にいたら経験できなかったであろう修羅場の一つひとつが、間違いなく、僕を鍛えてくれました。

    6. 増えたのに、豊かにならない

    一方で、自分自身のお金については、また別の戸惑いがありました。

    駐在になって、年収も手当も、確かに増えました。住居費まで会社に負担してもらって、傍から見れば恵まれた環境です。それなのに——「豊かになった」という実感は、ふしぎなほどありませんでした。

    理由は、物価です。たとえばスーパーで、牛肉を200グラム買おうとすると、10シンガポールドル。日本円にすれば、1,200円を超えます。精肉コーナーで値札を二度見したのを、今でも覚えています。

    物価の上がり方も、近年の日本とは比べものにならないほど速く、そして大きい。日本円の水準で見れば高く見える駐在員の給料も、この街で裕福に暮らせるほどの余裕をくれるわけではなかったのです。

    だから、お金の管理はむしろ徹底するようになりました。会社の数百億を見ていた人間が、夜は自分の家計簿とにらめっこしている。手にするお金は増えたのに、安心は増えない。経理を生業にしておきながら、自分のお金にこんなに振り回されるとは——その皮肉も含めて、これが駐在のリアルでした。

    7. 特別じゃない僕の、たった一つの武器

    こうして振り返ると、特別な才能があったわけではない僕を、それでも前に進ませてくれたものが、ひとつだけありました。

    「とりあえず、やってみよう」という姿勢です。

    難しい仕事も、気の進まない仕事も、やりたくない仕事も、たくさんあります。そこで「だからやらない」と立ち止まるのではなく、「まずはやってみよう。どう思うかは、やってみてから決めればいい」。そう自分に言い聞かせて、目の前の仕事に向き合ってきました。

    当たり前のようでいて、これは案外、誰もができていることではない気がしています。だからこれは、特別じゃない僕にとっての、数少ない武器なのだと思います。もし、この文章から何かひとつだけ持ち帰ってもらえるなら、これです。気の進まない何かが目の前に来たら、「やる・やらない」で悩む前に、まず半歩だけ動いてみる。判断は、動いたあとでいい。

    もうひとつ、思いがけず効いたのが、経理財務という「地味なスキル」でした。

    数字を見て、物事を判断する。それは日本にいても海外にいても変わりません。むしろ数字は、国を越えた共通言語になりました。言葉の壁があっても、ローカルスタッフと、数字を介してなら分かり合える。一見すると地味なこの仕事が、実は世界のどこでも通用する、普遍的なスキルなのだと、現地で何度も思い知らされました。

    そして、これはきっと経理に限った話ではありません。あなたが日々向き合っている地味なスキルもまた、場所を変えてもきっと効く、あなただけの「共通言語」になり得るのだと思います。

    そして駐在を経て、自分の中でいちばん大きく変わったのも、この「やってみよう」という精神でした。

    社会人になってから一度もやっていなかったゴルフを、ふと思い立って始めてみる。行ったことのない国へ、片っ端から旅をしてみる。シンガポールの周辺には、まだ見ぬ国がたくさんありました。気候のせいか、環境のせいか、心まで晴れやかになって、「とにかくやってみよう」というチャレンジ精神が、自然と身についていったのです。

    TOEIC945点という英語力も、間違いなく、この数年で手にした財産のひとつです。

    8. 無理かもしれない。でも、半歩だけ

    ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

    最後に、かつての僕と同じように「自分には海外なんて無理だ」と思っている、普通の会社員のあなたに、いちばん伝えたいことを書かせてください。

    「無理」で、思考を止めないでほしいのです。

    無理かもしれない。でも、とりあえずやってみるか——その気持ちで、一歩でも、二歩でも、たとえ半歩でも前に進んでみる。それだけで、道は思いがけず開けていくものだと、僕は思います。そして、自分で切り開いたその道は、案外たのしかったりもするのです。

    会社を辞めなくても、起業しなくても、いい。普通の会社員のままで、世界とつながる道は、ちゃんとあります。

    あなたが今、「どうせ無理だ」と思って立ち止まっていることは、何ですか。よければ、コメントで教えてください。

     
     
    31歳・メーカー経理財務|元シンガポール駐在員|TOEIC945・簿記1級・ベンチ100kg💪 ──スペック並べても、中身は"普通の会社員"。だからこそ書ける、海外キャリア・英語学習・働き方のリアルを等身大で✍️

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