
自主創造な高校生活
私が通った高校は、地元の公立学校であった。田舎では、総じて私立学校よりも公立学校のほうが偏差値が高く、私の学校は、その地域では上から二番目に良いとされる学校であったのである。
しかし、この学校は私にとって本当に息苦しい学校であった。まず、勉強に対する姿勢である。一番良いとされる学校に追いつけ、追い越せとばかりに、過剰な宿題が出され、忘れてこようものなら厳しく指導されるのである。
すでに試験の段階で選別がなされているのであるから、個々の生徒の実力は別として、学校として追いつき、追い越すことは容易ではないのであるが、当時の教師たちは半ば本気で言っている節があった。
さらにひどかったのが、管理教育の象徴とも言える集団行動である。集団行動とは、いわゆる「前にならえ」、「右向け右」などの集団的な動作や展開を一糸乱れずに行うというものである。日体大のものが有名なので、興味のある方は検索していただきたい(ここまで昇華されると、もはや芸術である。)。
入学直後のオリエンテーション研修はもちろんのこと、その後の三か月ほどの体育の時間は、すべて集団行動を行う時間となり、動きを間違えようものなら容赦のない怒号と叱責が飛んだ。
後に大学の講義の中で、こうした集団行動は、海外では軍事訓練と見なされうるとの説明を受けたが、私の学校の集団行動はまさにそのようなものであった。
この学校が「自主創造」という言葉を校訓の一つとして掲げていたのであるから、皮肉なものである。
…と、卒業から二十年以上が経過しているにもかかわらず、ここまで一切のユーモアもなく愚痴だけを書き連ねていることを見るに、私は本当にこの学校が嫌いだったらしい。
二年生の中頃までは必死にこの方針に従っていたのであるが、ある時ぷつんと糸が切れてしまったのである。
それからの私は、校訓である「自主創造」の精神に則ったオリジナルのカリキュラムへと突き進むのであった。
まず、卒業と志望大学への進学のみを目標とし、それ以外の義務はすべて捨てることとした。出席日数は全日数の三分の二あればよいとのルールであるため、この瞬間、三分の一は休んでもよいこととなった。さらに、宿題については、自分のためになりそうなもののみ行うこととした。
また、夜型の人間であった私は朝が弱く、起きることができなかった。授業は朝課外という名の0時間目まであったのであるが、当然そんなものには参加しない。そもそも課外は課外なので、単位の取得に無関係なのである。時に朝マックなど嗜みながら、二、三時間目あたりから登校していた。
宿題については、当初こそ、
「なぜ宿題をしないのか?先生との約束だろ?」
と叱られていたが、
「そんな約束をした覚えはない。」
と言い返す私に、教師たちもいつしか呆れ果て、放置するようになった。約束というのは双方の合意の上で成立するのである。
後に友人から聞いたところによると、このような振る舞いを続ける私のことを、教師たちは「腐ったミカン」に例えていたようである。こちらだって、段ボール箱にぎゅうぎゅう詰めするような真似をされたから、腐ってしまったのである。
極めつけは、クラスメイトの一部女子である。私のことなど放っておいてくれればよいのであるが、私がこのような姿勢をとることを非難する者もいたのである。
だが、直接言う勇気はなかったらしく、わざわざ私の彼女(現・妻)のクラスへと赴き、何とかするよう訴えていたようなのだ。何とも陰湿であるが、彼女は「なんで?」と軽く流し、目論見はあっさり崩壊したのである。
そんなこんなで、私は、目的を果たすためだけと割り切った高校生活を送った。しかし、私だって、これでよいのかは不安であったのである。周りの雰囲気に反し、自分の信念に従うというのは、それなりに勇気がいるのだ。
ただ、学校をサボって近くの公園で桜を眺めていたときも、手には英語の単語帳があったし、学校を一日休んだとしても、放課後には登校して自習室での勉強を続けていた。私は塾に通っていなかったので、勉強する「スペース」として高校を活用していたのである。
そして、当初の目的どおり、無事卒業するとともに志望大学にも合格したのである。今度の学校は、学生の自律を尊ぶ校風で知られる私立では最高峰とされる大学であった。
しかし、これだけの思いと努力で入った大学で、私はすっかり堕落していくことになるのだった。
やはり、人間にはうるさく管理する存在も時に必要なのかもしれない。