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奉仕が義務に変わる瞬間

     私が最も嫌いなことの一つとして、「奉仕が義務に変わる瞬間」というものがある。

     我々の社会は、様々な人の奉仕により成り立っている。経済学では、人間を経済的利益を最大化するように行動する「合理的経済人(ホモ・エコノミクス)」として分析する考え方があるが、これはあくまで社会分析のためのモデルである。

     実際の人間は、良くも悪くも合理的な存在ではない。だからこそ、損得だけでは説明できない奉仕という行動が成立しているのである。

     さて、こうした奉仕というのは、当該奉仕者の善意のもと自発的に始まるのである。英語の「ボランティア(volunteer)」がラテン語の「voluntas(自由意志)」に語源をもつように、誰かに命じられてやるのは奉仕ではない。

     ところがである。

     このように、奉仕者の善意により自主的に始まった行為が、いつしか義務へと変わる瞬間があるのである。

     一例を出してみよう。

     行政文書を発出する上で、公印を押すという作業がある。当該文書が真正であることを証する大事な作業である。

     この押印作業は、その性質上、行政文書の責任者が承認する前には行うことができない。したがって、決裁(稟議)がおりた後に、初めて行うことになるのである。

     ところで、役所の中では様々な職員が個別に行政文書を作成し、決裁を受けている。こうした中で、決裁後、個々の職員がそれぞれ押印するのは非効率である。

     というのも、公印は厳重に管理されており、使用のためにはその都度公印の管理者に許可をもらう必要があるからだ。

     そこで、同じタイミングで公印を押す者の中の一人が、善意で他の人の分もまとめて許可をもらい、押印してあげることがあるのである。

     ここまでは立派な奉仕と言えるであろう。

     ところが、こうした奉仕を特定の個人が繰り返していくうちに、その個人があたかも公印を押す担当であるかのように見なされることがあるのである。

     はじめのうちは感謝していた人達も、いつしか、当然かのようにその個人に押印を頼むようになる。

     元々は、その個人も自身の分の押印があるので、「ついで」にやってあげていただけなのである。それが、その人自身の押印がないときでも、他人の分の押印を任される事態となるのである。

     極めつけは人事異動などが起きたときである。当初の事情を知らない人は、前任者からそう聞かされたことで、完全にその人を押印の担当者と思い込む。

     このため、急ぎ発出する文書について、

     「これは、早めに押印してもらわないと困ります。」

     などと、寝ぼけたことを宣のたまう始末になるのである。急ぐなら、自分で押しにいけばよいのだ。

     もちろん、上記は全く架空の例示、フィクション、絵空事であり、現実とは何ら関係ないものである。

     それにしては妙に話が具体的過ぎやしないか、と思われるかもしれないが、私が言いたいのは、このような奉仕が義務に変わる瞬間は嫌だよね、ということなのである。

     決して「自分で押せ」と言いたいわけではないのである。ましてや、人の机に無言で押印対象の書類を置いていく無礼を咎めたいわけでもないのだ。

     私は、この事例のように、奉仕が義務に変えられてしまうと誰も奉仕をしなくなるのではないか、という社会的な損失を嘆いているのである。

     つまり、損得を度外視した人の美しき奉仕が、これからの世の中でも花開き続けるように、極めてマクロ的な観点から、大所高所の問題提起をしたいわけだ。

     よりよき社会のためにも、この流れは断ち切らなければならない。奉仕が義務になど変わってはならないのである。

     ⋯ということで、私は、もう二度と他人の分の押印をしないと決めたのである。

     
     
     
    40歳前後の国家公務員。小役人の日常や子どもの頃の出来事など、実話をもとにしたエッセイを書いています。

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