
ザリガニ事件
この日、小学校六年生だった私は、黒板掃除に励んでいた。背の低い私にとって、この仕事はなかなか難儀なもので、上の方を消すためには、カンガルーのごとくピョンピョン飛び跳ねなければならなかったのである。
何度かの跳躍を繰り返したとき、足元から、「ザクッ」という軽い音が聞こえた。私は特に気にすることもなく、黒板掃除を終え、次の授業の準備へと取りかかったのである。
さて、おそらく同じ日の帰りの会。普段は温和な生き物好きの屋島くんが、顔を紅潮させて怒っていた。そして、頬には大粒の涙まで流れている。
どうやら、屋島くんが面倒を見ていたクラスのザリガニが、何者かによって踏みつけられて死んでしまったらしい。普段から大変可愛がっていた屋島くんである。その心中は察するに余りある。
「誰だ!? ザリガニを踏んだのは!!?」
普段の様子からは想像もできない、阿修羅と化した屋島くんの姿がそこにはあった。担任の土井先生も、屋島くんをなだめつつ、
「終わったことはどうしようもないけど、正直に謝ることが大事ですよ。」
と、犯人の自首を呼びかけている。
私は、心からやるせない気持ちになった。この仲良し六年一組の中に、確実にザリガニを踏み殺した者がいるのである。もちろん、水槽から引きずり出した上で意図的に踏みつけたのか、それとも、何らかの理由で水槽から脱走していたザリガニを偶然踏んでしまったのか、それはわからない。
だが、しかしである。仮に後者だったとしても、ザリガニを踏んだことに変わりはないのだ。死んだザリガニに手を合わせ、可愛がっていた屋島くんにも、一言謝るべきではないのか。
クラス中がお葬式のような暗い雰囲気になるなか、結局、名乗り出る者はいなかった。屋島くんは、しばらく怒りに震えていたが、やがて、このザリガニ事件も少しずつみんなの記憶から風化していき、私たちも卒業の日を迎えたのだ。
それから数年がたち、私が中学二年生となったある日のことである。突如、私の脳内のシナプスが、分断されていた二つの記憶をつなぎ合わせた。私は、不幸にも数年越しであの事件の犯人を突き止めてしまったのである。
私は非常に動揺した。
いやしかし、実際に踏んだものの実物を見たわけではないし、とも思った。
とはいえ、状況的に、私が「ザクッ」とやった可能性は極めて高い。
仮にそうでも、そもそも、あんな場所にザリガニがいる方がおかしいのではないか。水槽の管理をしていなかった屋島くん側にも問題がある。
いやいや、そうであったとしても、謝るのが筋ではないか。自分でも、そう思っていたではないか。
私の脳内は、慌ただしく動き回る。幸か不幸か、屋島くんは同じ中学に在籍していた。あまり関わる機会はなくなっていたものの、二つ隣のクラスにいるはずなのである。
私は意を決して、二つ隣のクラスへと赴いた。しかし、そこには、いつかの生き物好きな屋島くんはもういなかった。屋島くんの髪の毛はワックスで塗り固められ、同じクラスの派手な女子と楽しげに話しているのである。
私は、
「邪魔をしては悪いしな。」
と、誰かに言い聞かせるようにつぶやき、自分の教室へと引き返した。足元に十分気をつけながら。