
私の幽体離脱を前提とする魂とは何だ問題について
以前、私は自らの幽体離脱体験についてカミングアウトした。おそらく、読まれた方の大半は、「夢か何かと勘違いしているのではないか」、「いい大人がそのような嘘をつくものではない」といった感想を抱いていることと思う。
逆に、「わかる!それは〇〇神の導きによるもので、あなたにはメッセンジャーとしての…」みたいな、変な共感をされても困るところではあるが…。断っておくと、私はスピリチュアルにはまったく興味がない。
ただ、絶対的な事実として言えることは、私があの体験を現実と認識していることである。島くんにより封印されていたとはいえ、私は、あの体験自体を気のせいだと思ったことは一度もない。また、前回も書いたとおり、私は、その数日後に同様の経験をしているのだ。
ちなみに、その時は公園で友達と鬼ごっこをしている最中であったが、前回のような極限状態ではなく、前触れもなく、ふわっと「出たり」、「入ったり」を数回繰り返した程度であった。それ以降は、今日に至るまで一切同様の経験はしていない。
今回、お話したいのは、仮に私の体験が事実であったとして、そこからどのようなことが考えられるかである。
この世の中において、「魂とは何ぞや問題」は、中二頃に誰もが一度は通るテーマでありながら、いまだ解決をみない難題である。もちろん、宗教は様々な答えを提示しているが、いずれも古くからそうとされているというもので、その真実性について、科学的な立証がなされているわけではない。
では、科学としてはどのような見解が主流なのかというと、少なくとも現代では、意識や心といったものを脳の神経活動から説明しようとする立場が有力のようである。つまり、魂、意識、心といったものは、脳の働きによって生じる現象であり、脳とは独立した実体を仮定する必要はない、という考え方だ。
私は、自らの体験もあって、長年この考え方に納得がいかなかった。「我思う、ゆえに我あり」ではないが、間違いなく思考している「私」は存在しており、(少なくとも自分の)主観があることは否定できない。その主観が、突き詰めれば素粒子の組み合わせに過ぎないホモ・サピエンスに、なぜ発生するのかが不思議でならないのである。
進化の過程で発達した脳の神経活動によるものだと言われても、どうにも実感が追いつかない。そもそも、生物が効率的に生存・増殖するだけなら、「私」という感覚(主観)など必要ないのではないか。そして何より、死んだら無になるという考え方は、とってもこわい。
そこで、まったく科学的ではないことは承知の上で、私の幽体離脱体験をいったん事実と仮定し、この魂問題についてできるだけ論理的に考えてみることとしたい。
科学とは、本来、検証可能であること、再現性があること、そして何より反論が許されることが重要だという。これから述べることは、その科学的要素に一ミリも合致していないのであるが、私は、自らの体験からこう考えた、という程度の話として聞いていただきたい。
別に同意して欲しいわけでも、議論したいわけでもない。面白半分で読んでいただければ、それが本望である。なお、ここでいう「魂」については基本的に「主観(私が私であるという感覚)」のことを指す。
魂について判明したこと
1 魂は肉体とは別個に存在する
幽体離脱というものが本当に起きていたのだとするならば、少なくとも私の主観は、肉体から切り離されていたことになる。そうである以上、魂(主観)と肉体(脳含む)とは、完全に同一ではなく、別個として存在していることになる。
2 魂にも一部の感覚が備わっている
幽体離脱体験においては、「自分自身を見た」という話がほとんどである。今回の前提は、あくまで私の体験のみを真実とするものだが(改めて書くと凄まじい傲慢っぷりである)、私の体験においても、景色には色があり、肉体の目で見るのと大きな違いはなかった。つまり、魂には、少なくとも「見る」に近い感覚は存在していたように思える。
一方で、匂いや感触は感知できず、音もはっきりとはわからなかった。興味深いのは、時間の感覚である。これは明らかに違った。非常にゆっくりと時間が流れていたのである。言葉の表現として、「楽しい時間は短く感じる」などと言ったりもするが、もしかすると、時間の感じ方そのものにも、何か感覚のようなものがあるのかもしれない。
3 魂には記憶領域がある
私は何故、幽体離脱時のことを覚えているのであろうか。もちろん、「離脱中」も肉体側にある脳(記憶領域をもつ)が夢のように体験を生成していただけだ、という説明はありうるだろう。そもそも、幽体離脱体験自体が極限状態下の脳が見せた夢なのではないかという、今回の前提を壊しかねない指摘も飛んできそうである。
しかし、現実と完全にリンクするような夢などあるのであろうか。特に2回目の幽体離脱については、極限状態ですらなく、私の主観は肉体の内外を交互に入れ替わっていたのだ。
そう考えると、冒頭の問いは、魂なるものに記憶領域のようなものが存在するためと考えるのが自然である。
4 魂は肉体に関与できる
3を前提とすると、今度は、魂側に保存されていた記憶が肉体(脳)へ持ち込まれていることに気づかされるのである。私は、幽体離脱中の出来事を今も覚えているからだ。
そうすると、魂は肉体に何らかの影響を与えられるのではないか、ということになる。例えば、こうしてこの文章を書いているのも、その魂側の記憶が端緒となっているからである。もっとも、どこまでの関与が可能かは必ずしも明らかではないのであるが。
5 肉体は、魂がなくとも動ける
これは長年見落としていた観点であるが、幽体離脱時に、私は転んでいないし、倒れてもいないのである。つまり、私の主観が肉体から切り離されているように感じられていた間も、肉体は問題なく走り続けていたということである。
実は、このような戯言の駄文とは異なり、脳研究においては、人が「意識して決定した」と感じるより前に、脳活動そのものは始まっている、という報告も存在する。もっとも、これは、「自由意志など存在しない」という議論の根拠として扱われることが多いのであるが。
私は、その話を知った時、妙に納得してしまった。私の魂出張中でも肉体が普通に走っていたのは、これに近いような仕組みかもしれないと。つまり、主観(意識)がなくとも、肉体(脳)は自律的に動けるのではないかと。
さて、ここまで整理したところで、魂と肉体との関係について、いったんまとめたい。特に5については、「何を言っているんだこいつは」と思われた方も多いことだろう。
実は、この魂と肉体の関係性については、既に優れた洞察を残している人物がいるのである。
「ちびまる子ちゃん」の作者である、さくら ももこである。その著書「そういうふうにできている」のなかで、以下のように述べているのである。
脳と心と魂とは、全部別々のものであるというのが私なりの結論である。
(中略)
″意識″が、肉体の一部品である″脳″を使い言語で思考したり感情や情報を伝達したりしてこの世で生活してゆくという、その″意識が脳を使用している状態″が″心″なのである。
文脈を補足すると、これは、さくら ももこが出産時に局部麻酔を受けた際の体験をもとに書かれたものである。もちろん、さくらももこは科学者ではない。しかし、その感覚的な整理は妙に本質を突いている。僭越ながら解説すると、
意識=魂(主観)が本体
肉体=意識の乗り物、特に脳は重要な役割を果たす
心 =意識が脳を使用している状態
という構造になる。
したがって、極端に言えば、「私」という主観が希薄になった状態でも、肉体そのものは動き続ける、という考え方もできるのである。
導き出される推論
さて、ここからは完全に推論である。ここまでも十分推論ではないか、というツッコミを受けそうであるが、ここから先は、さらに論理性が低下するという意味でご容赦いただきたい。
1 死後も「私」は存在する可能性がある
もし、主観が肉体から分離可能なのであれば、肉体の崩壊は、そのまま主観の消滅を意味しない可能性がある。したがって、ホモ・サピエンスとしての死後も、「私」は何らかの形で存在し続けるのかもしれない。
2 生まれ変わりはありえる
では、死後の「私」はどうなるのか。これは、まったくわからない。
ただ、一度ホモ・サピエンスの肉体と結びついたことがある以上、再び、そのようなことが起こる可能性もゼロではないように思える。つまり、魂が行き着く先の一つとして、再び人間の肉体が選ばれることもあるのではないか、ということである。
終わりに
冒頭、「スピリチュアルにはまったく興味がない」と言っておきながら、なんだこのスピリチュアルな文書は、と怒られそうな文書を書いてしまって大変申し訳ない。
そもそも、死んだら何もかも終わりというのが怖いというのが考え始めた動機であったのだが、いろいろと考えてるうちに、また眠れなくなりそうである。
特に、肉体は魂が無くとも動けるというのは、非常に不気味である。例えば、もし私が幽体離脱をしたとき、肉体へ戻らなかったらどうなったのであろうか。
そのまま肉体も死ぬのであれば救いはあるのであるが、何事もなく島くんと談笑し、その後も、普通に学校へ行き、普通に就職し、普通に暮らしていたのであれば、これほど怖ろしい話もない。
しかも何となく、「私(魂)」がいたときより、充実した人生を送っていそうな気がして、少し嫌なのである。