
なにかにあたってもどってくる感触
気づくと、一日が終わっている。
悪い一日ではなかった。会議はあったし、メールも返した。
昼は好きなものを食べた。夜はドラマを一話見た。それなのに、布団に入って天井を見るとき、その日が手元にない感じがする。
一日分の厚みが、どこかに消えている。
「今日を生きた」という感覚が薄い。
これをずっとうまく言葉にできなかった。
結婚し、子どもが生まれ、家を買った。
仕事と子供と家のことをこなせば、一日が終わる。空白がない。
仕事でも食材の買い出しでも、タスクを効率よく終わらせることしか考えないで過ごしてきた。
ここ最近は、子どもが少し手を離れて、週末に空白ができたのをいいことに、よし、好きなことをしようと思い立ち、気になったことを片っ端から試してみた。
釣り・キャンプ・サウナ・ランニング・スポーツジム、おじさんが好きそうなことは大体やった。
最初は興味が続くが、ある程度すると飽きがくる。
そして次に移る。
また飽きて、次に移る。
そのうち、新しい趣味をすること自体に飽きてくる。心が踊らない。
そして、スマホを見る時間が長くなる。
丁寧に暮らしたい
そんな中、本屋に行くとひとつのコーナーが必ず目に入るようになった。「スローライフ」や「DIY」の本が棚の一角を占めている。
廃材で作った棚、自分で焼いたパン、手入れされた小さな畑。
SNSでも同じだった。
週末に薪を割っている人、庭に小屋を建てている人、古道具を直して使っている人。「そう、こういうのがいい」という感覚が自分の中から湧き出てくる。
何に惹かれているのかうまく言えなかった。
完成した棚が欲しいわけではない。自分でパンを焼きたいとも、薪を割りたいとも思っていない。それでも、廃材を加工する鮮明な手の写真や、窯から出したパンに触れている指を見ると、惹かれている自分がいる。「丁寧な暮らし」をしている人たちの、自分でやっている、という手触りが画面を通して伝わってくる。
二十代のころ、未来はまだぼんやりしていた。
自分がどこへ行くのかわからず、未来はずっと漠然としていた。
今いる場所よりまだ見ぬ場所のことばかり考える。
若い自分にとって「今日」は通過点で、目的地はもっと先にあった。
おじさんになると、少しずつそれが変わっていく。
未来は「今日の延長」で、突然別の場所に着くとは思わない。
今日がこうなら明日もだいたいこうだし、来年もだいたいこうだ。
悲観しているわけではない。ただ、未来への期待の質が変わった。
そうなると、人は今いる場所に目を向け始めるのだと思う。
暮らしに目を向け始める。
今日の、この食卓の、この器の、この空間の一部の中にいる自分に、少しずつ意識が向く。それが「丁寧に暮らしたい」という感覚につながっているのかもしれない。
毎朝、音楽を聴く。
アプリが「あなたへのおすすめ」を並べてくれて、その中から良さそうなものを選ぶ。確かに自分が選んでいる。けど夜になって、今日何を聴いたかを思い出そうとすると、思い出せないことがある。「音楽を聴いた」という記憶はある。でも、何を聴いたかが出てこない。
本もそうだ。「あなたが好きそうな本」がどこからでも届く。読書アプリ、メルマガ、SNSのおすすめ投稿。買って読むと面白い。けれど、その本を「見つけた」という感覚がない。渡された、という感触に近い。
動画はさらに徹底している。次々とレコメンドされるものを疑いもなく延々と見続ける。それらの動画のほとんどは、私が探したものではなく、アルゴリズムが私の傾向を分析して、私の前に差し出したものだ。寝る前の大切な時間を費やして見ている映像に対し、自分で選んだ感覚がないことに違和感を持たなくなっている。
探していたころ
二十代のころ、私は本屋の棚を渡り歩いていた。
目的の本があることもあれば、ないこともあった。何かを探しているわけではないが、棚を眺めながら歩く。タイトルが目に入る。手に取る。裏表紙を読む。最初の一ページを読む。買うかどうか迷う。迷ったまま棚に戻し、また別の棚に行く。そして、戻ってきてもう一度手に取る。
こういう時間を、週に何度か過ごしていた。渋谷のブックファーストだったり、最寄り駅の小さな書店だったり。小さな書店のほうが棚に個性があって、知らない本に出会えることが多かった気がする。店主の趣味が棚に出ていた。
新宿のタワーレコードにも頻繁に通っていた。とにかく売り場が巨大で行くたびに新しい発見があった。試聴機がいくつか置いてあって、ジャケットが気になったものをかけてみる。最初の三十秒で「違う」と思ったり、「これだ」と思ったりした。インディーズ時代のアジカンを初めて聴いたのも新宿のタワレコだった。勘で買って外れることも多く、外れは外れでそれなりに傷ついた。それでも懲りずに、来週もまた訪れる。
発売日にロッキンオンを買っていた。毎月、雑誌が店頭に並ぶ日を把握していた。駅の本屋に入って、棚の前に立つ。どのアーティストが表紙に来ているかは、そこに着くまでわからない。目当てのバンドが表紙を飾っていたとき、「あった」という感覚があった。レジで紙袋に入れてもらい、電車に乗る。まだ読んでいない雑誌を持って電車に乗るあの感触が、今でも微かに残っている。
スマホを持つ前は、電車の中では窓の外を眺めたり、吊り広告を読んだり、向かいに座った知らない人の服を観察していた。あの頃は何も考えていなかった、と言いたいが、実際には色々と考えていたと思う。昨日のこと、来週のこと、最近気になっていること、特に解決しようとしているわけでもないことを。思考は順番に来て、順番に去っていった。信号待ちも、レジの行列もそうだった。
その隙間の時間に、私は何を考えていたんだろう。
今はその隙間がない。電車に乗ればスマホを開く。信号を待つあいだにもスマホを開く。レジに並びスマホ・・・。何か調べているわけでも、誰かに連絡しているわけでもなく、なんとなく指紋認証をして、流れてくるものを眺める。それはそれで退屈をしない。でも、思考が「沈殿」しない。
沈殿、という表現がぴったりか分からないが、コーヒーの粉が底に沈むように、その日の出来事や自分を纏っている感情が、ぼんやりとした時間の中で少しずつそこに溜まっていく感じ。あのころ、当たり前のようにしていたこと。
”探して、見つける”、ただそれだけ。
特別なことは何もない。でも今の私には、あの「見つけた」という感覚がほとんどない。毎日スマホを通して、差し出されたものをただ”受け取っている”だけ。
「発見した記憶」と「受け取った記憶」は、どちらも「手に入れた記憶」だ。
でも、そのふたつはまるで手触りが違う。
受け取った記憶はなめらかで、発見した記憶はざらざらしている。
ざらざらしているほうが、記憶に残る。
あのころと今
あの頃、タワーレコードで買ったアルバムを今でもよく聴いている。
ザ・ストーン・ローゼズのセカンド・カミング。期待して買って、最初に聴いたときは「違う」と思った。ファーストと全然違う。重くて、長くて、暗い。でも、お金を使ったからもったいなくて、何度も聴いた。そのうち、その重さが好きになっていた。そうして、今でも手元にあるプレイリストの一つになっている。
本も同じで、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」は、最初は買って失敗したと思った。何が書いてあるのか、何を感じればいいのかもわからないまま読み終えた。それでも何かが頭の端に引っかかって、数ヶ月後にもう一度読んだら、ページをめくる手が止まらなくなった。
映画トレインスポッティングを初めて観たとき、夢も目標もないドラッグまみれの若者の話に、埋めようのない距離を感じた。それでもなぜか頭に残っていて、気になってもう一度観ると、あの映画の「空気」が快感になった。
エヴァンゲリオンも最初はついていけなかった。終盤に向かうほど意味がわからなくなり、最終回を観ても何も解決していなかった。それでも、そのわからなさが頭の中に居座り続けた。
今は、アルゴリズムは私の傾向を分析して、「好きそうなもの」を先に出してくれる。外れのない世界にいる。
あのころ何度も聴き返したのは、次の選択がなかったから。
今は常に次の待ち行列が待機している。「違う」と思った瞬間に、別のものが差し出される。「わからない」まま放置した作品は、”こちらもおすすめ”の下に埋まっていく。
外れがなくなると、驚きもなくなる。
「わからない」体験もなくなる。
驚きのないところに、記憶は積もらない。
手応えということ
スポーツをする人は、「手応え」という感覚をよく話す。ボールをバットで打った手応え、壁を押したときの反発、地面を踏んだときの蹴り返し。手応えは、力をかけたときにそれが跳ね返ってくることで生まれる。押した力が、そのまま消えていくのではなく、何かに当たって戻ってくる。その感触を、手応えと呼ぶ。
私は、人生の手応えを求めているのではないか、と思い始めた。
去年、屋久島で縄文杉を目指した。往復十時間、ガイドなしの一人旅。
トロッコ道をひたすら歩く。電波はなく地図アプリも使えない。一歩一歩ただ前に進むしかない。苔が厚く積もった森で雨音と自分の足音だけになった。仕事のこと、締め切り、期限が過ぎたチケット。そういうものが、森の湿気に溶けていくようだった。5時間歩いてゴールに辿り着いたとき、静かに、ただ、そこにいて、じっとしていた。縄文杉は「待っていたよ」と言っている気がした。5時間かけてきた道を戻り、尾之間温泉の熱すぎるお湯に浸かったとき、その日がまるごと手元にあった。一日分の厚みと今日を生きたざらざらとした摩擦が、ちゃんと体に残っていた。
あの日の屋久島で何が起きたかを考えると、私は「時間をかけた」のだと思う。十時間、自分の足だけを頼りに歩いた。電波はなく、差し出されるものは何もなかった。ただ歩くことで、思考が落ち着き、生きている感覚が戻ってきた。
それが、手応えだった。
便利さは、この手応えを少しずつ消していく。曲を探す必要がなくなった。本を選ぶ手間が省けた。移動中の暇がなくなった。そして便利で快適な世界ができあがった。
でも、その滑らかな世界が「探して見つけた」ざらざらな手触りを奪っている。探すことには手間がかかる。間違えてしまうことも、外れを買うこともある。時間をかけても見つからないこともある。その手間のひとつひとつが、摩擦だ。摩擦があるから、手応えが生まれる。
「発見した記憶」がざらざらしていたのは、そこに摩擦があったからだと思う。発売日の帰り道も、外れのCDを買って帰った夜も、記憶に残っているのは、その摩擦が手応えを生んでいた。
では、不便さに戻ればいいのか、とは思わない。スマホを捨てろとか、アルゴリズムを拒否しろとか、そういうことではないと思う。
タイムラインでは、サウナや登山の投稿が流れてくる。散歩、古本屋、手書きの日記。不便な場所に行き、時間のかかる方法を選んでいる人たちがたくさんいる。でも、これは「熱さが好きだから」でも「山が好きだから」だけではないと思っている。そこにあるのは、時間をかけたこと、自分で探して選んだことで生まれる摩擦。何かに当たって戻ってくる感触、接触における反発。私が取り戻したいのは、こういうことだったのだと思う。
流れていく日々の中で、自分が確かにそこにいたという感触を残したいのだ。
一日を手に入れる
少し前のこと、平日の夕方にブックオフに入った。
特に目的はなく、会社が終わって、まっすぐ帰りたくない気分だった。駅の前にあることは知っていたが、入ったことはなかった。蛍光灯が明るく、本棚に値札シールが貼ってある。百円コーナーから順に眺めていった。
棚を眺めていると、見覚えのある表紙があった。沢木耕太郎の「深夜特急」。二十年前に読んだ本だ。タイトルを見た瞬間、内容がぼんやり戻ってきた。バスの車窓、宿の一室、読んでいたころの自分の部屋の光景。そういうものが、ひとかたまりになって浮かんできた。
家に帰って、すぐに最初の数ページを読んだ。文章のリズムが当時読んでいたときと同じように感じられた。あるいは私の記憶が、そう感じさせているのかもしれない。どちらでもよかった。ただその夜は、その日が手元にあった。
今日、私は何をしたか。会社に行って仕事をして、帰りにブックオフに寄って、本を買って帰った。それだけのことだが、それが一日として存在していた。
「丁寧に暮らしたい」という言葉に共感するたびに、自分が何を求めているのかを考え続けていた。器を買い揃えることではない。添加物を避けることでもない。朝早く起きることでも、部屋を整えることでもない。もちろん、そういうことが好きな人はそれでいい。でも私が感じていた「共感」は、そこではなかった。
二十代のころ、私の一日は手元にあった。発売日に本屋へ行き、直感でCDを買い、次に見るべき映画を探していた。その一日には、私が押した力が返ってくる場所、摩擦があった。
今の一日は、なめらかだ。
効率的で、快適で、よく最適化されている。
でも、押した力はどこかに消えていく。何かに当たって返ってこない。
一日があっという間にすり抜けていく。
私は丁寧に暮らしたいのではなかった。
人生の手応えを取り戻したかったのだ。
自分で見つけた一日が欲しかった。
アルゴリズムに差し出されたものではなく、棚を歩いて、間違えて、引き返して、見つけたものが欲しかった。そういう一日は、布団に入ったときに手元にある。厚みがある。「今日を生きた」という感触がある。
人生との接触面を、私は取り戻したいのだと思う。摩擦から逃げないこと、手間を完全に省かないこと、隙間をすべて埋めないこと。それが「丁寧に暮らすこと」の正体ではないかと、思っている。
それは、「暮らしを整える」という話ではなく、「自分が今日を生きた」という感触を取り戻す話だ。
天井を見ながら、今日のことを思う。
今日は手元にあるか。今日は自分のものか。
毎日そういうことを問いながら、眠りにつく。