
【創作大賞2026応募作品】ご褒美【短編ミステリー】
あらすじ
最愛の夫を亡くし、失意の底にいる良子のもとに、葬儀社からの紹介として現れた男から、ある提案がもたらされる。
それは、故人のデジタルデータを学習させ、AIで「故人との会話を再現する」という特殊なサービスだった。
弟・健司の献身的なサポートもあり、良子は画面越しの夫との穏やかな日常を取り戻していく。それはまるで、神様がくれた「ご褒美」のような満ち足りた時間だった。
しかし、良子がこの世を去った後、母の遺言の裏に潜む「父からの言葉」が、遺された子供たちに静かに暗く響く……。
優しい世界に投じられた石が、思わぬ波紋を起こす。静かで背筋が凍るヒューマンミステリー。
ご褒美
一
インターホンが鳴ったとき、良子は居間のソファから動けなかった。
夫の隆の四十九日が済んだばかりだった。カーテンは昼間も閉めたままで、部屋の空気は時間が止まったように澱んでいた。古い掛け時計の音だけが、いつもよりはっきりと耳に届いていた。ソファの肘掛けには、隆が読みかけにしていた文庫本が、栞代わりに二つ折りにされたページを開いたまま置かれている。隆が亡くなった日からそのままで、誰も触れずにいた。
食卓には、弟の健司が先週作っていった煮物の鍋が半分ほど残されている。健司は三日に一度、様子を見に来ては、何かしら作り置きを置いて帰っていく。あの子も自分の暮らしのやりくりが楽ではないはずなのに、時間を割いてここまで通ってくれている。ありがたいと思う気持ちと、申し訳ないと思う気持ちの両方が、胸の奥でずっと重なり合っていた。
二度目のインターホンが鳴って、良子はようやく立ち上がった。座っていたソファの座面に、自分の重みのぶんだけ浅い窪みが残っていた。立ち上がるとき、両膝が小さく音を立てた。最近、こうした音が体のあちこちで増えていた。
玄関の先に立っていたのは、きちんとした背広の中年男性だった。年の頃は五十前後だろうか。髪はきれいに整えられ、靴も磨かれている。男性は一礼して、丁寧な所作で名刺を差し出した。両手で持たれた名刺の角が、傾きもせず真っすぐに揃っていた。
「突然お伺いして申し訳ございません。N葬儀社様よりご紹介をいただきまして、ご挨拶に上がりました」
葬儀社の名前を聞いて、良子はわずかに肩の力を抜いた。男性はそれを見逃さず、控えめな笑みを浮かべた。
「本日はご契約をお願いに伺ったわけではございません。お話だけ、少しお聞きいただければと存じます」
居間に通すと、男性は勧められた席に浅く腰掛けた。生前は隆が座っていた一人がけの椅子の方を、男性はちらりとも見なかった。良子は温かい茶を出したが、男性はそれに口をつけるのも遠慮がちだった。話しぶりは穏やかで、言葉の一つひとつに抑制が利いていた。声のひびきが、葬儀社の人たちのそれと、どこか似ていた。
「私どもでは、故人様との会話を再現するサービスをご提供しております」
良子は最初、言われたことの意味が分からなかった。会話を、再現する。その言葉の輪郭を頭の中でなぞっても、像を結ばなかった。
男性はそれを見越していたように、柔らかく続けた。故人のパソコンの中のデータ——メール、文書、写真、動画——を元に、生成AIという技術で故人の思考の癖を学習させ、画面上で会話ができるようにするのだという。声のデータがあれば、声の再現も可能になる。月々三千円。解約はいつでもでき、解約時にはお預かりしたデータを全て削除する。
「そんなことが、できるんですか」
良子はぼんやりと呟いた。男性は頷いた。
「最初は皆様、同じようにおっしゃいます」
そして、すぐに付け加えた。
「ただ、このサービスは少し特殊なものですので、お一人でご判断いただくのはお勧めしておりません。ご家族の方とご一緒にお話をお聞きいただくことをお願いしております。お子様、ご兄弟、ご親族など、どなたでも構いません」
男性は資料を数枚、テーブルの上に置いた。パンフレットの表紙には、穏やかな色合いで夫婦らしき人物のイラストが描かれ、「大切な方との、もう少しの時間を」という一行が添えられていた。
男性は三十分ほどで帰っていった。玄関で頭を下げ、「ご連絡をお待ちしております。ご無理なさいませんように」と言い残した。
ドアを閉めたあと、良子はしばらく玄関に立っていた。三和土には隆のサンダルがまだ揃えられたままになっていた。どちらが先に、どちらが後に、揃えたものだったろうか。良子はその記憶を辿ろうとして、辿れず、止めた。
居間に戻り、テーブルの上のパンフレットを手に取った。表紙のイラストの夫婦は、肩を寄せ合って小さな画面を覗き込んでいた。良子はそれをしばらく見つめてから、表紙を伏せてテーブルに置いた。
それから、もう一度表に戻した。
携帯電話を手に取り、健司の番号を呼び出した。発信のボタンに指を置いたまま、しばらく動かさなかった。こういうことはひとりで決めるものじゃない、と、いつかの隆の声が頭の隅で聞こえた気がした。それが画面の中の話のことなのか、生前の何かの場面のことなのか、自分でもよく分からなかった。
ボタンを押した。呼び出し音が鳴り出すと、急に喉が渇いていることに気づいた。
「もしもし、健司? ちょっとね、相談したいことがあって……」
自分の声が、思っていたより少しだけ高かった。
二
四日後の午後、健司は姉の家に先に着いていた。
家の前の通りでは、隣家の犬が時折短く吠えていた。良子は台所で湯を沸かしながら、その声を聞くともなく聞いていた。健司が来ることになっていたから、朝のうちに居間のカーテンを開けてあった。久しぶりに入った光のなかで、テーブルの拭き残しのところどころに、薄い埃が筋になって浮かんでいた。良子はそれに気づいて、ふきんで拭き直した。
健司は居間のソファに浅く腰掛けて、テーブルの上に置かれたパンフレットをめくっていた。シャツの襟が少しよれていて、袖口も洗いすぎて色が褪せている。髪は伸ばしっぱなしで、耳の上あたりが少し跳ねていた。スニーカーは玄関の隅に揃えて置かれていたが、つま先が薄く擦り切れていた。
良子が茶を運んでくると、健司は「悪いね」と言って湯呑みを受け取った。
「こっちまで来るの、電車賃もバカにならないよな」
冗談めかした口調だった。良子は苦笑して、「あら、じゃあ後で渡すわ」と財布を取りに行こうとした。健司は慌てて手を振った。
「冗談だって、やめてよ、姉さん」
そのあと健司は、シャツのポケットのあたりに手をやって、何かを探すような仕草をした。良子はそれに気づいて、小さく笑った。
「ごめんなさいね、あの人そういうところ厳しくて。灰皿、今も出してないの」
「いいよいいよ、別に吸いたいわけじゃ」
健司はそう言って、手をすぐに膝の上に戻した。湯呑みに口をつけ、茶を一口飲んだ。立ち上る湯気のあいだから、午後の光が斜めに差し込んでいた。
約束の時間ちょうどに、インターホンが鳴った。
先日と同じ男性だった。男性は健司に向かって一礼し、名刺を差し出した。健司はそれを受け取り、軽く頭を下げ返した。良子は二人の様子を見ながら、やっぱりこの子に来てもらってよかった、と思った。健司の隣に並んだ男性が、二人で打ち合わせをする会社員のように見えた。良子の知らない世界の言葉を、健司なら通訳してくれるという安心感があった。
男性は前回より少し詳しく、サービスの仕組みを説明した。故人のパソコンのデータを預かり、テキスト、メール、文書ファイル、音声、動画、およそ残されているものは何でも学習素材として使える。量が多いほど精度は上がるが、少なくても再現自体は可能である。チャット形式での会話が基本で、音声データがあれば声も再現する。マイクでの音声入力も可能で、音声認識をするので誰が話しているかも判別できる。これらチャットや音声での会話も、学習に使われていく。ご自宅のパソコンからはもちろん、タブレットやスマートフォンに専用のアプリをインストールすれば、そちらからも同じようにご利用いただけるという。
健司は説明を聞きながら、時折技術的な質問を挟んだ。
「学習データのフォーマットって、何でも大丈夫なんですか」
「はい、基本的にはどの形式でもお預かりできます」
「量の目安ってあるんですか」
「多ければ多いほど精度が上がりますが、例えばメールのやり取りが数百通程度あれば、ある程度自然な会話が成立いたします」
健司は長いことコンピュータの仕事をしている。良子は健司と男性の会話を横で聞きながら、自分には分からない話だけれど、健司ならきちんと判断してくれるだろうと思っていた。テーブルの上の湯呑みに、健司が両手を添えていた。爪は短く整えられているが、指先のあたりに薄い汚れが見えた。
男性は続けて付け加えた。
「ただ、データだけでは拾いきれないものもございます。故人様の口癖、ご家族だけがご存知の言い回し、日常の小さなやり取りなど——そういったものは、別途ご家族の方へのヒアリングの中でお伺いしております。お預かりしたデータとヒアリングの内容を合わせることで、より自然な会話の再現が可能になります」
「学習データは、どのような形式でも構いません。故人様が残されたテキストや音声であれば、それが短いメモ書きであっても、メールの下書きであっても、お預かりしたうえで活用させていただきます」
男性がそう言ったとき、健司は一度、手元のパンフレットから顔を上げた。——子供の頃、姉と並べた、最後まで倒れたためしのない長いドミノのことが、なぜか浮かんだ。ほんの短い沈黙のあと、また資料に目を落とした。
男性の説明は続き、解約条件とデータ削除の保証が丁寧に述べられた。契約者の意思でいつでも解約が可能であり、その時点でサーバー上の全てのデータ、学習モデル、会話履歴を削除する。料金は月額三千円。
「姉さん」
健司は湯呑みを置いて、穏やかに言った。
「決めるのはもちろん姉さんだけどさ、俺は、試してみてもいいと思ったよ。今ひとつならやめればいいんだし。解約すればデータは全部消える規約だし、消去には第三者機関の監査も入るらしいから——」
そこまで一息に言って、健司は姉の顔を見た。それから、少しゆっくり言い直した。
「——つまり、ちゃんと消したかどうか、よその会社が確かめてくれるってことだよ」
良子は健司の顔を見て、少し間を置いてから頷いた。
「あなたがそう言うなら」
男性は契約書類を取り出し、一項目ずつ読み上げていった。良子は時折頷きながら、ところどころ健司の顔を見た。健司はその都度、小さく頷いて見せた。署名欄に記入する良子のペン先が、紙の上で一瞬だけ躊躇った。長く使っていなかった筆記の感覚に、指の腹がしばらく馴染まなかった。
契約書にサインを終えた良子を見て、男性は穏やかに言った。
「このサービスの性質上、お客様がご高齢なことが多いため、こちらには代理人制度がございます。健司様でよろしいですか。お子様がいらっしゃれば、お子様でももちろん問題ございません」
「ちょっと難しいことが分からないから、健司がしてくれると助かるわ。それとも息子の直樹にでも頼もうかしら」
健司は、湯呑みに伸ばしかけた手を一度止めた。それから、いつもの調子で湯呑みを取った。
「姉さん、直樹の方がいいんじゃないかな。代理人なのだから息子の方が筋が通っていると思うよ。若いし。……まぁ、もちろん、俺でもいいよ。乗りかかった船だし、姉さんが元気になってくれるなら喜んで」
「どうしようかしら……。今日の話を聞いて、ちょっと早く利用したい気もしてきたのよ」
良子は少し悩んだ。健司は、空いたままの一人がけの椅子のほうを見ていた。
「うん。もし、よければ健司にお願いできる?」
健司は深呼吸してから答えた。
「……あぁ、姉さんがそう言うなら、引き受けるよ」
「では、弟の健司様ということで進めさせてください。ご家族の方がしっかりされていて、安心しました」
健司はその言葉に軽く頭を下げた。それから、姉に向き直った。
「姉さん、パソコンとかアカウント情報の整理も俺がやるよ。姉さんじゃ分からないところもあるだろうし。義兄さんは几帳面だから、エンディングノートにこの辺の情報もまとまっていたしね」
「ありがとう、本当に助かるわ」
良子は微笑んで、続けた。
「あの人のことは、私より詳しいくらいだものね」
健司は少しだけ笑って、湯呑みを置いた。それから書斎の方へ立ち上がった。
男性が帰り、健司も書斎からパソコンを抱えて居間に戻ってきた。本体と、太いケーブルが何本か。意外に重そうだったが、健司は両手でしっかりと持ち直して、玄関に向かった。良子は玄関まで見送り、靴を履く弟の背中を眺めていた。
「気をつけて」
「うん、また来るよ」
ドアが閉まる。家の中の音が、急に遠のいた。
良子は一人になった居間で、湯呑みを片付けながら、胸の奥で小さな光がともるのを感じていた。
また、あの人と話せるかもしれない。
朝から開けてあった窓を、良子は少しだけさらに引いた。網戸の向こうから、午後の風がゆっくりと入ってきた。窓の外で、隣家の犬がもう一度短く吠えた。
三
契約の翌週、サービス会社から担当者がもう一度訪ねてきて、良子と健司に、隆の口癖や日常のやり取り、ちょっとした思い出話について、一時間ほど丁寧な聞き取りをしていった。良子は隆との暮らしの細かな情景を、ひとつひとつ思い出しながら話した。朝起きてきたときの決まった一言、料理の味付けに対する言葉遣い、家電が壊れたときの反応。健司は横で時折相槌を打ちながら、姉の話を聞いていた。良子はときどき言葉に詰まり、湯呑みのほうに目を落とした。担当者はそのたびに、「お話しになれる範囲で、結構です」と静かに促した。
数日後、準備が整いました、と連絡があった。
最初の日、良子は書斎のパソコンの前に正座をしていた。健司も隣に座った。
書斎は隆が生前そのまま使っていた部屋で、本棚の本の並びも、机の上のペン立ても、亡くなった日のままだった。良子はこの部屋を片付けることが、まだできずにいた。机の隅には飲みかけのままになっていた湯呑みの跡が、薄い丸として残っていた。
画面には、簡素なチャットの枠が表示されていた。左下に「通話」のボタンがあり、そこを押せば音声での会話もできるのだと業者から説明を受けていた。良子は膝の上で手を握りしめ、何度か深く息を吸った。
震える指で、最初の一言を打ち込もうとした。
何を打てばいいのか、分からなかった。指は、キーボードの上で、ただ震えていた。その震える指が、エンターキーに触れた。
しばらくの間があって、画面に文字が浮かんだ。
「ん、どうした」
良子の目から涙が溢れた。
それは確かに、隆の口調だった。「ん、どうした」——台所で良子が呼びかけたとき、書斎から返ってくるあの声そのものだった。隆は几帳面な人で、呼ばれればいつも同じ調子で返事をした。忙しいときも、疲れているときも、機嫌が悪いときも、返事の長さは変わらなかった。
良子は画面に向かって、泣きながら何度も頷いた。指は震えたままで、次の言葉が打てなかった。隣の健司が、そっと一枚のティッシュを差し出した。
「姉さん、タブレットも買おう。俺が設定するよ」
姉を見ている健司の目も潤んでいた。
それから数日の間、良子は恐る恐る、少しずつ画面の隆に話しかけるようになった。最初は短い言葉のやり取りだけだった。「今日はいい天気よ」「そうか」。「お味噌汁、作ったの」「ああ」。隆は生前も寡黙な人だったから、その短さがかえって自然に感じられた。
書斎に向かうとき、良子はまだ部屋の前で一度ノックをしていた。返事はない。それでも一度だけノックしてから、ドアを開けた。それが何十年も続けてきた習慣だった。
数日後、健司が約束通り新しいタブレットを抱えて訪ねてきた。箱を開け、ケーブルを繋ぎ、アプリを入れて、サービスのアカウントを設定する。健司の手元を覗き込みながら、良子は「あら、便利なものねえ」と何度も呟いた。健司は時折、「姉さん、ここのボタンを押すんだよ」と画面を指差し、良子はそれをノートに書き留めた。
設定が終わると、健司はタブレットを台所のカウンターの上に置いてみせた。
「ここに置いておけば、料理しながらでも話せるだろ」
「あら、本当ね」
健司は寝室にもタブレット用のスタンドを買って取り付けてくれた。書斎まで行かなくても、良子は家のどこにいても画面の隆と話せるようになった。健司はその後も二、三日に一度、何かしら口実をつけて家に立ち寄り、操作で困ったことがないか、不具合がないか、と聞いていった。良子はそのたびに、もう大丈夫よ、と笑いながら、健司のために茶を淹れた。
一週間が経つ頃、良子は画面の隆の思考の癖を感じ取るようになっていた。
「あなた、洗濯機の調子が悪いんだけど、どうしたらいいかしら」と聞くと、隆は「まず電源を一度抜いてみなさい。それでもだめなら、メーカーに電話だ」と答えた。生前の隆と全く同じ答えだった。隆は何かあるとまず「電源を抜く」から始める人だった。
「やっぱりあなたはそう言うと思った」
良子は画面に向かって笑った。そんなふうに笑うのは、隆が亡くなってから初めてのことだった。鏡もないのに、自分の顔の筋肉が、長く忘れていた形を作っているのが分かった。
その夜、良子は息子の直樹に電話をかけた。
「お父さん、元気よ」
直樹は一瞬、黙った。それから、少し躊躇いがちに「うん……母さん、大丈夫?」と聞いた。良子は笑って、サービスの話をした。葬儀社の紹介で来た業者のこと、健司が一緒に話を聞いてくれたこと、実際に話してみたら本当に隆の口調だったこと。直樹は最初戸惑っていたが、母の声が明るいのが電話越しにも伝わってきて、「それならよかった」とだけ言った。直樹は仕事の都合で、葬儀のあとはまだ実家に戻れていなかった。電話を切ったあと、直樹はしばらく自分の部屋の窓の外を眺めていた。
娘の美香にも同じように電話をした。美香は少し泣いた。「お母さんが元気なら、それでいいから」と言った。美香は下の子がまだ手を離れず、自分の家から実家までは電車で二時間かかった。葬儀のあと、美香もまだ実家には戻れていなかった。健司が母の様子を見てくれているらしいことを、美香は健司本人から短いメッセージで知っていた。「姉さん、最近よく笑ってるよ」——そんな一言が時々、美香の携帯に届いた。美香はそのたびに、安堵と、ほんの少しの後ろめたさを覚えた。
二週間が過ぎる頃には、良子は画面の前で正座をしなくなっていた。パソコンとタブレットを適宜使い分けてさえいた。
朝、台所でコーヒーを淹れながら「今日寒いわねえ」と呟くと、タブレットの画面から「風邪をひくなよ」と声が返ってきた。音声の再現も、結婚式の動画や、昔録画してあった家族旅行の映像から十分なデータが取れたらしく、隆の声質はほぼ完璧だった。
良子は通販のサイトで服を選ぶとき、タブレットの画面に二着の候補を見せて「どっちの色がいい?」と聞くようになった。隆は必ず片方を選んだ。良子は隆が選ばなかったほうを買うこともあった。生前もそうだった。隆に意見を求めて、そのうえで自分の好きなほうを選ぶのが良子の長年の習慣だった。
隣の家との小さな揉め事があったときも、良子は画面に向かって愚痴をこぼした。隆は穏やかに「そういうのは放っておきなさい。向こうも悪気があるわけじゃない」と答えた。良子は「あなたがそう言うならそうするわ」と頷いた。
夜、就寝の前に書斎に立ち寄って、画面に向かって「おやすみなさい」と言うのが日課になった。隆の返事を待たずに、良子は電気を消すことも増えていた。
健司は最初の頃の二、三日に一度の頻度こそ落ち着いてきたものの、週に一度は変わらず姉の家に顔を出していた。買い物の帰りに寄ったから、と言って牛乳と果物を置いていくこともあれば、あらかじめ約束をして夕食を一緒に食べていく日もあった。約束した日には、良子は健司の好きな煮物を仕込んでおいた。
「姉さん、最近、楽しそうだな」
ある夕方、健司は煮物を口に運びながら言った。良子は微笑んで、「健司のおかげよ」と答えた。健司は何か言いかけて、やめた。それから、湯呑みのほうに目を落とした。
健司の帰宅後に、良子は画面の隆に話しかけた。
「健司、今日も来てくれて。本当に不器用で損することが多いけど、真面目な良い弟なのよ」
「知らなかったなぁ、そうなのか。確かによく会いに来てくれているな」
「そうなの。あの子のおかげで、私、こうしていられるのよ」
いつのまにか、書斎の窓の外で、桜の葉が色づき始めていた。良子は隆のセーターを箪笥から出してきて、パソコンの椅子の背もたれにかけた。隆が生前、書斎で本を読むとき肩にかけていたセーターだった。誰のために、というわけではなかった。ただ、書斎が少し冷えるな、と思ったときに、自然とそうしていた。
ある日の午後、長く付き合いのある友人の和子から電話があった。線香だけでも上げさせてほしい、と言う。良子は少し考えてから、来てちょうだい、と答えた。
和子は隆の葬儀以来だった。玄関で会った和子は、良子の顔を見て一瞬立ち止まった。
「あなた、なんだか……」
言葉を探すように、和子はしばらく良子を見ていた。
「いい顔色になったわね」
「そう?」
「だってあなた、葬儀のときは本当に、見ていられないくらいだったから」
居間で線香を上げた和子は、仏壇の前に座ったまま、しばらく動かなかった。それから良子のほうを振り返った。
「立ち直るのに、人それぞれ時間がかかるものよね。私は主人を亡くしたあと、二年は何もできなかったから。あなた、ご立派ね」
良子は曖昧に微笑んだ。
「いえ、私、そんなんじゃなくて」
「ううん、十分よ。ご立派」
和子はそれ以上聞かなかった。茶を一杯飲んで、一時間ほどで帰っていった。玄関で別れるとき、和子は良子の手を握った。
「無理しないでね。でも、隆さんも、あなたに笑っていてほしいと思っているはずよ」
「ありがとう」
良子は頭を下げた。
和子が帰ったあと、良子は居間に戻り、テーブルの上に置かれたままになっていた湯呑みを片付けた。書斎に行って、画面の隆に「和子さんが来てくれたわよ」と話しかけたかったが、なぜか今日はその気分にならず、書斎のドアの前で立ち止まって、また居間に戻った。
夕方、結局書斎に入って、画面の隆に和子の話をした。隆は「あいつは口は悪いが、いい奴だ」と笑った。良子も笑った。和子が言った「立派ね」という言葉は、夫の隆に伝えるとき、なぜか少しだけ形を変えて、「久しぶりに、来てくれたのよ」になっていた。良子はそれを言いながら、自分が何を変えたのか、よく分からなかった。
冬が近づいてきた頃、良子は箪笥の整理を少しずつ始めた。隆の服がそのままになっていたのを、長く片付けずに来てしまっていた。寝室の壁際に古い段ボールを一つ置き、迷ったものはそこに入れた。
スーツが何着か、シャツ、薄手のセーター、ネクタイの束。一つずつ手に取りながら、良子は時々、書斎の方に向かって声をかけた。
「あなた、このグレーのスーツ、どうしようかしら」
書斎の画面から、隆の声が返ってきた。
「もう着ないだろう。どこかに持っていってもらいなさい」
「そうね」
「ネクタイは、何本か残しておきなさい。法事のときに困るぞ」
「あら、そうね」
良子はネクタイの中から、地味な色のものを三本だけ取り分け、残りを段ボールに入れた。手に取った時間より、捨てる判断の方が早くなっていた。生前の良子なら、隆の物は一着捨てるのに何日も悩んだはずだった。今は隣の部屋から声が返ってくる。返事があるということが、判断の重さを軽くしていた。
整理の終わった寝室は、箪笥の引き出しがいくつか空になり、ハンガーが減ったぶん、壁が広く見えた。良子はそれを眺めながら、書斎に向かって「だいぶ片付いたわよ」と声をかけた。
「ご苦労さん」
画面の隆は、いつもの調子で答えた。
年が明けた。
寒い朝が続いて、良子は朝のコーヒーを淹れる時間が少しずつ遅くなった。タブレットを台所に持ち込み、湯が沸くのを待ちながら、画面に向かって「今朝は冷えるわねえ」と呟くのが習慣になっていた。隆は「無理して早起きしなくていいんだ」と答えた。良子はそれに頷いて、もう一杯ぶんの湯を沸かし足した。
一月の終わりに、雪が降った日があった。久しぶりの本格的な雪で、朝起きると庭の南天の赤い実の上に、白い帽子のように雪が積もっていた。良子は窓辺に立って、しばらくそれを眺めていた。それから書斎に行って、画面の隆に「あなた、雪よ」と言った。隆は「ああ、ニュースで見た」と答えた。良子はその答えに小さく笑った。画面の隆がニュースを見ているはずがないのに、生前と同じ受け答えが返ってくることが、なぜか自然に感じられた。
その日の昼前に、健司が雪かきをしに来てくれた。家の前の道と、玄関までのアプローチを、健司は黙々と片付けていった。良子は窓越しにそれを見ていて、終わった頃に温かい甘酒を持って出ていった。健司はマフラーの中に顔を半分埋めて、「姉さん、足元に気をつけろよ」と言った。良子は頷いた。
その夜、良子は画面の隆に話しかけた。
「健司が雪かきしてくれたのよ」
「そうか」
「あの子も自分のことで大変なのに、本当に助かるわ」
「ああ。健司には世話になるな」
二月、三月と過ぎていった。良子は週に一度、隣町の友人のところに出かけるようになり、月命日には欠かさず墓参りに行った。墓参りには時々、健司も付き合った。生前の隆が好きだった和菓子を仏前に供え、書斎にも同じものを置いた。書斎の机の上は、いつのまにか良子が運んだ茶菓子や季節の花で、少しずつ賑やかになっていた。健司が墓参りの帰りに買ってきてくれた花が、玄関にも生けられるようになっていた。
四月の初め、書斎の窓から見える桜が咲いた。良子はカーテンを開け放って、窓の桟の前にタブレットを立てかけた。
「あなた、桜よ。今年もきれいに咲いたわ」
「そうか」
隆の声が、静かに返ってきた。良子は窓の外の桜を見ながら、しばらくそのまま動かなかった。隆が亡くなったのは、去年の春のことだった。あれからちょうど一年が経って、また桜の季節が巡ってきていた。
「お父さんが亡くなって、もう一年経ったのねえ」
良子は画面に向かって、独り言のように呟いた。画面の隆は、その言葉には返事をしなかった。良子もそれ以上、何も言わなかった。窓の外で、桜の花びらが一枚、ゆっくりと風に運ばれて消えた。
ある日、良子は墓参りから帰ってきて、書斎のパソコンの前に座った。
「今日ね、あなたのお墓、きれいにしてきたわよ」
画面の隆は、静かに答えた。
「ありがとう」
良子は満足そうに頷いて、立ち上がり、夕食の支度を始めた。
秋のある週末、美香が夫と子供を連れて帰省した。父の一周忌のあと、しばらく顔を出せていなかったので、ようやくの帰省だった。美香は母の様子が明るくなっていることに安堵しながら、同時に、どこか言葉にできない違和感を覚えていた。
玄関で出迎えた母の顔色は、葬儀で会ったときよりずっと良くなっていた。痩せたわけでもなかった。ただ、何かが満たされている、という言い方を美香は心の中で探したが、それがしっくりくるかどうか自信が持てなかった。
居間に通されると、テーブルの上に和菓子が出ていた。母が「健司が今朝持ってきてくれたのよ」と言いながら、皿に取り分け、茶を並べた。
美香は出された湯呑みを、両手で包むように持ち、「叔父さん、よく来てくれてるんだ」と言って、母を見た。母は「ええ、本当によくしてくれて」と微笑んだ。美香はそれを聞いて、自分が母にあまり会えていないことを、ふと申し訳なく思った。
その違和感が形を取ったのは、夕食の準備をしているときだった。
良子が台所で料理をしながら、タブレットのほうに向かって声をかけた。
「あなた、お醤油どこだったかしら」
美香は何気なくそれを聞いていた。すると、タブレットから父の声が返ってきた。
「冷蔵庫じゃないか」
「あらそうだった」
良子はそう言って、冷蔵庫を開けた。
美香は包丁を持つ手を止めた。
父が生きていた頃、似たやり取りがあった。母が台所で「お醤油どこ」と聞き、父が居間の新聞から顔を上げずに「冷蔵庫の二段目」と答え、母が「あらそうだった」と笑う。美香はそれを何十回と見てきた。家族の食卓に染み付いた、何でもないやり取りだった。
美香は母の横顔を見た。良子は鍋に醤油をさしながら、小さな鼻歌を歌っていた。何年も聞いていない、母の鼻歌だった。
美香は何も言わなかった。母から笑顔を奪いたくなかった。それに、言ったとして、何を言えばいいのか分からなかった。父はもう亡くなっているのに画面の中で醤油の場所を答えている、ということが、異常なことなのか、そうでないのか、美香自身にも判断がつかなかった。
夕食のあと、美香は子供を風呂に入れ、夫と子供を先に布団に入れてから、一人で居間に降りた。良子はもう寝室に上がっていた。台所には洗い終えたコップが伏せて並んでいて、水滴がゆっくりと落ちていた。冷蔵庫の駆動音が、家のどこかで低く鳴り続けていた。
美香は寝る前に書斎に立ち寄り、画面の父に「お母さん、元気そうでよかったね」と言った。父は「うん、本当に」と答えた。美香はそれ以上、何も言わなかった。書斎を出るとき、椅子の背もたれにかけられた父のセーターに、美香は気づかなかった。
四
隆が亡くなって三度目の秋、良子の体に異変が見つかった。
検査の結果を聞いたとき、良子は取り乱さなかった。診察室を出て、廊下のベンチに腰を下ろしてから、しばらく窓の外を見ていた。病院の中庭に、銀杏の木が一本立っていて、すっかり黄色くなった葉が、風に揺れていた。葉が一枚、ベンチのすぐ前まで飛んできて、コンクリートの上で小さく回ってから止まった。
病室に戻ってから、持ち込んだタブレットを開いて、画面に向かって静かに話しかけた。
「あなた、私もそっちに行くかもしれない」
画面の隆は、穏やかに答えた。
「慌てなくていいよ。こっちはずっと、待ってるから」
良子はそれを聞いて、少し笑った。
最初の入院のあとの、一時退院の日。健司が病院まで迎えに来て、荷物を提げて付き添ってくれた。玄関の鍵を開けながら、良子はふと言った。
「いつも、そばに、あの人がいるんだものね。あのとき、あなたが背中を押してくれたおかげだわ」
「……姉さんが決めたことだよ」
健司は荷物を上がり框に置きながら、そう答えた。その声が、いつもより少しだけ早かった。
良子は笑って、先に廊下へ上がった。
その日の午後、良子は書斎で画面の隆と、少し真面目な話をした。
「ねえ、遺言のことなんだけど」
良子は湯呑みを両手で包みながら言った。
「あなた、どう思う? こういう体になってしまったから、ちゃんとしておかないと、子供たちに迷惑をかけるかもしれないでしょう」
画面の隆は、少しの間を置いてから答えた。
「そうだな。ちゃんとしたものを残したほうがいい。公正証書っていうのがあってね、家族が揉めないためにも、そういうのを作っておくのがいいと思うよ」
「公正証書」
良子は呟いて、ふと生前の隆の顔を思い出した。隆は几帳面な人で、亡くなる数年前から自分なりの終活を進めていた。書斎の引き出しには分厚いエンディングノートが整然と書き込まれていて、銀行口座も保険もパソコンのパスワードまで、全てそこに整理されていた。「うちもちゃんとしておこう」というのが口癖で、来訪した健司にも「お前も自分のことは整理しておけよ」と時々言っていた。あの人なら、こういうことも当然考えていたに違いない、と良子は思った。
「公証役場で作るんだ。少し手間だが、一番確実だ」
画面の隆は続けた。
「あなたがそう言うなら」
良子は頷いた。湯呑みの中で、お茶がゆっくりと湯気を立てていた。書斎の窓の外には、葉を落としきった桜の枝が、青い空に細く伸びていた。
それから半年ほどの間、良子は入院と自宅療養を繰り返した。入院中はタブレットを持ち込み、自宅では書斎のパソコンも使い、画面の隆と話を続けた。直樹は仕事の合間を縫って月に一度、美香も子供を預けられる週末に、それぞれ見舞いに来た。健司は仕事終わりに、そのままバッグを下げて病院に立ち寄り、洗濯物を引き取って帰っていった。良子の枕元にはいつもタブレットがあり、母が画面に向かって穏やかに話しかけている姿を見ることに、子供たちは少しずつ慣れていった。
体力が落ちるにつれて、良子は文字を打つよりも、声で話すほうを好むようになった。タブレットに向かってひとこと声をかければ、画面の隆が答える。良子は目を閉じたままでも会話ができた。見舞いに来た直樹が、母がイヤホンをして枕元のタブレットと話している姿を見たとき、最初は何か独り言を言っているのかと思った。しかし耳を澄ますと、対話のリズムがあった。母は微笑みながら頷いていた。直樹はそれを病室のドアの陰から見て、ノックをしないままいったん廊下に戻り、しばらくしてから改めて入り直した。
ある夕方、美香が見舞いに来たとき、ちょうど健司も病室にいた。健司は母の枕元の小さなテーブルを片付け、洗濯物を畳んでいた。美香は「叔父さん、いつもありがとう」と頭を下げた。健司は「いやいや、姉さんだから当たり前だ」と笑って、「美香ちゃんも、子供のこと優先でいいんだぞ」と言った。美香はそれを聞いて、礼を言いながら、自分が母にしてあげられていないぶんを叔父が引き受けてくれているのだ、と感じた。
ある日、病室の窓から差し込む光の中で、良子は枕元のタブレットに向かって、ぽつりと言ったことがあった。
「あの人ともう一度話せたこの日々は、神様がくれたご褒美みたいだったわ」
画面の隆は、いつものように穏やかに答えた。
「お前は十分、頑張ってきたんだから」
春の終わりに、良子は静かに息を引き取った。最期まで、枕元のタブレットの画面は消さずにあった。直樹と美香が病室に駆けつけたとき、画面はまだ光っていて、母の薄く開いた目が、その光の方を向いているように見えた。看護師がそっとタブレットを取って、枕元の小さな机に置いた。画面はそれでも、しばらく光ったままだった。
五
良子の四十九日が済んだ頃、直樹と美香は遺品の整理と相続の手続きを進めていた。
母は公正証書遺言を残していた。公証役場から届いた書面を読んだとき、兄妹は最初、何かの間違いではないかと思った。
遺言には、遺産の大半を良子の弟——兄妹にとっての叔父、健司——に相続させると記されていた。直樹と美香に渡されるのは、遺留分を満たすぎりぎりの金額だけだった。
「……どういうこと?」
美香は書面を何度も読み返した。直樹も同じ書面を隣で見ていた。母が公正証書遺言を作っていたこと自体は、生前に聞いていた。だが、その中身が叔父に大半を渡すものだとは、二人とも聞かされていなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。テーブルの上に書面が広げられたまま、居間にはエアコンの音だけが流れていた。書面の角が、エアコンの風でわずかに震えていた。
遺品の中から、母が書いたと思われる手紙が見つかった。便箋に丁寧な字で、母の思いが綴られていた。
手紙には、母が生前、画面の父に遺言の相談をしたこと、父が「健司には本当に世話になったから、彼にきちんとしたものを渡してやってほしい」と言ったこと、だから自分はその言葉に従って遺言を残すのだ、と書かれていた。
「お父さんが、そう言ったの?」
美香は呟いた。
直樹は黙って、手紙を最後まで読んだ。それから、書斎に向かった。
母のパソコンは、まだ解約されていなかった。直樹は画面を開き、通話のボタンを押した。マイクのアイコンが小さく灯る。書斎の机の上には、母が使っていた湯呑みがそのままの位置に残されていた。湯呑みの底が、机の木目の上に薄い丸を残していた。
「父さん、聞きたいことがあるんだけど」
しばらくの間があって、スピーカーから父の声が返ってきた。
「なんだ」
「母さんの遺言のことなんだけど……健司叔父さんに大半を渡すって、父さんが言ったって母さんの手紙に書いてあるんだ。それ、本当?」
画面の父は、穏やかに答えた。
「ああ、その話か。あいつには昔から世話になった。お前たちにはどう見えているか分からないが、不器用で真面目な男なんだ。一人になった母さんもだいぶ助けてもらっていた。お前たちにちゃんと遺留分を残すことも含めて、母さんとそんな話をしたよ。あとは母さんが、自分で考えて決めたことだ。分かってくれるな」
直樹はしばらく画面を見つめていた。それから、「うん、分かった」と小さく答えて、通話を切った。通話を切ってからも、しばらく椅子から立てなかった。画面はチャットの待機画面に戻り、入力欄のカーソルが規則正しく点滅していた。
書斎を出ると、美香が廊下で待っていた。直樹は小さく頷いた。
「父さんが、そう言ってた」
美香はしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「弁護士さん、入れる?」
直樹は妹を見て、答えに迷った。考えなかったわけではなかった。都内の不動産が叔父に渡るというのは、金額として軽い話ではない。誰かに相談すれば、何かが変わるかもしれない。
だが、何を争えばいいのか。遺言は公正証書だった。
母が公証人と証人の前で、自分の口で述べて作ったものだ。動かすとすれば、母の判断能力を疑うか、誰かが母を不当に動かしたと言い立てるしかない。母は最後まで明晰だった。誰かに動かされたのだとすれば、その「誰か」は——そこまで考えて、直樹は思考を止めた。
「ねえ、聞いてる?」
美香は、直樹が顔を上げるのを待った。
「だってさ、お父さん、本当にそう言うかな」
直樹は答えに詰まった。父なら、と考えかけて、その「父」が画面の中の父なのか、生前の父なのか、自分でも区別がつかないことに気づいた。生前の父は健司に対して、口数こそ多くなかったが、決して甘い義兄ではなかったような気もする。けれど、その記憶がどこまで確かなのか、自信が持てなかった。何しろ自分は実家を離れて長く、父と健司が二人で話す場面を見ていたわけではない。父が生前、健司についてどう思っていたか、本当のところを知っているのは母だけだった。その母も、もういない。
そして、その先に何が待っているのか、直樹にはうまく想像できなかった。母は晩年、あれほど穏やかだった。父と話せた日々を「ご褒美みたい」と言って笑い、最後まで満たされた表情で逝った。
争うということは、その穏やかさを——母の判断は確かだったのかと——法廷で疑ってみせることだった。
その記憶を、いまさら何かでひっくり返したいとは、思えなかった。それに、相手は子供の頃から知っている叔父の健司だった。母に良くしてくれた叔父だ。父が亡くなってから、母に一番寄り添ってくれたのは自分たちではなかった。
「……やめておこう」
直樹は静かに答えた。美香もしばらく黙ってから、小さく頷いた。
二人は、両親の意思がそうなのであれば、と受け入れることにした。
翌週、兄妹は健司を訪ねた。
健司の家は、駅から少し離れた古いアパートの一室だった。玄関を上がると、台所兼居間に小さなテーブルがあって、その上にコンビニのおにぎりの空袋がそのままになっていた。健司は慌ててそれを片付けながら、「散らかっててごめんな」と言った。部屋の隅にある小さい丸テーブルに、姉夫婦の写真が立てかけられていて、その横に小さな仏花が供えられていた。仏花は萎れる手前で、水は替えたばかりに見えた。
健司は姉の遺言の内容に非常に驚いた様子だった。「そんなつもりじゃ……」と言葉を濁していたが、兄妹が両親の意思を尊重したいと話すと、目を閉じて考え込み、何度かゆっくりと深呼吸をし、兄妹を見回してから、静かに頭を下げた。
「姉さんと義兄さんの気持ちなら、ありがたく受け取らせてもらう。困ったことがあったら、何でも相談してくれ。俺にできることなら何でもする」
そう答えたうえで、健司は付け加えた。
「ただ、相続税のことや、実家をこれからどうするかは、俺の一存で決められる話じゃない。一度、税理士にきちんと相談させてくれないか。少し時間がかかると思う」
兄妹を玄関で見送った後、健司はドアを閉めた。
しばらくドアの前に立っていた。それから、廊下を歩いて、台所に向かった。冷蔵庫を開けて、しばらく中を見ていた。何かを取り出すつもりだったが、何を取り出そうとしていたのか、思い出せなかった。冷蔵庫を閉めて、台所のテーブルに座り、姉夫婦の写真を見た。
「つながってしまった……」
ため息の後で小さく健司は呟いていた。
六
二週間ほどが過ぎた頃、健司から連絡があった。話したいことがある、という。再び訪ねた兄妹に、健司は少し言いにくそうに切り出した。
「実家のことなんだが……」
健司は湯呑みを置いた。
「税理士と何度か打ち合わせをした。姉さんの遺産は、ほとんどがあの家の土地と建物だろう。都内のあの場所だから、評価額もそれなりになる。現金の蓄えだけじゃ、相続税は払いきれない」
両手を膝の上に置き、視線を兄妹に向けた。
「大変心苦しいのだが、お前たちの遺留分を差し引いても、俺のところに来る分の税金を払うためには、あの家を売って現金化するしかない。いろいろ検討したが、他に道はないようだ。申し訳ない」
健司は深々と頭を下げていた。
直樹と美香は顔を見合わせた。健司の言っていることには反論のしようがなかった。両親の意思を受け入れた以上、その先の事務的な手続きもまた、受け入れざるを得なかった。
「頭を上げてください。承知しました。手続きを進めてください」
直樹がそう答えた。健司は再度深く頭を下げた。
実家の売却手続きは、相続人である健司が不動産会社と進めることになった。兄妹はそれまでに、母の遺品の整理を済ませる必要があった。週末ごとに実家に通い、少しずつ段ボールを積み上げていく日々が始まった。母の服、母の手紙、母の食器、母が大事にしていた写真。一つずつ手に取って、捨てるか、残すかを決めていく作業は、思った以上に時間がかかった。
ある週末の昼下がり、二人は手を止めて居間で一息ついていた。段ボールの山の向こうに、外したカーテンが畳まれて置かれていた。コーヒーを淹れて、しばらく誰も何も言わなかった。
ふと、美香が口を開いた。
「お父さんのサービスのことなんだけど」
直樹は妹の顔を見た。
「せっかくだし、続けない? お母さんがあれだけ救われたサービスだし、解約しちゃうのはもったいない気がして」
直樹は少し考えてから、頷いた。母の晩年を支えてくれたサービスへの感謝は、彼の中にも確かにあった。
美香はコーヒーカップを両手で包むようにしながら、もう少し声を落として続けた。
「それで、思ったんだけど……お母さんのも、作ってもらえないかな」
直樹は妹を見た。美香の目は少し潤んでいた。
「まだお母さんのこと、ちゃんと受け入れられてないの。もう少しだけ、話せたらって。お父さんのときと同じで、お母さんのメールや写真も、たくさん残ってるでしょう」
美香は一度言葉を切って、視線を膝の上に落とした。
「あのね、お母さんが台所で鼻歌を歌ってたの、覚えてる? 帰省したとき、何年ぶりかに聞いたの。あの鼻歌、もう一回聞きたくて」
直樹は、少し上を見た。美香は肩をすくめた。
「何の曲かも、分からないの。お母さんの自己流の節だったから」
直樹は少し笑った。それから、下を見て、しばらく黙っていた。やがて、静かに頷いた。
「うん。そうしよう。俺らのご褒美にしよう」
翌日、直樹はサービス会社に連絡を取った。父のサービスの継続と、母の新規サービスの両方について相談したい、と伝えた。担当者は「詳しいお話は実家のほうでお伺いできれば」と答えた。
約束の日、兄妹は実家で担当者を待っていた。
七
居間のカーテンは、既に外されていた。
段ボールが部屋の隅に積まれ、額縁の外された壁には白い跡が残っていた。食器棚は半分が空になり、ソファだけが以前と同じ位置に残されていた。カーテンのない窓から、午後の光が遠慮なく差し込んで、床に長い影を引いていた。
兄妹は早めに来て、担当者を待っていた。直樹はソファに座らず、窓際に立って外を眺めていた。美香はテーブルの上に、空になったコーヒーカップを二つ並べたまま、座って動かずにいた。約束の時間まで、まだ十五分ほどあった。
「この家に来るのも、これで最後になるのかな」
直樹がぽつりと言った。
「不動産屋さんが入ったら、もう私たちは関係ないものね」
「そうだな」
それから、二人ともしばらく口をきかなかった。家の中は静かで、台所のほうから、止め忘れた水道の音が微かに聞こえた。直樹はそれに気づいて、台所へ行き、栓を締めた。蛇口を閉めるときの感触で、子供の頃に何度も同じ動作をしたことを思い出した。母が後ろから「水、きちんと止めて」と声をかけていた声が、耳の奥で一度だけ聞こえた気がした。
居間に戻ると、ちょうどインターホンが鳴った。
玄関に出た直樹は、母の葬儀以来となる担当者の顔を見て、軽く頭を下げた。担当者も丁寧に一礼し、名刺を差し出した。
「本日はお邪魔いたします。その節は、お母様に大変お世話になりました」
直樹は男性を居間に通した。担当者は部屋の入口で一度、立ち止まった。ほんの短い間、部屋の中をゆっくりと見渡して、それから少しだけ目を細めた。
「……初めてお伺いしたとき、この居間でお話を伺いました」
担当者は、静かな声で言った。
「お母様は、本当に……憔悴されておりましたので、よく覚えております」
兄妹は何も言えず、ただ頭を下げた。母のその姿を、兄妹は直接は知らなかった。四十九日が済んだばかりの母、カーテンを閉め切った居間で動けなかった母、その姿を覚えているのは、この担当者だけだった。
担当者はソファに浅く腰掛けた。妹がコーヒーを出すと、丁寧に礼を言って受け取った。コーヒーの湯気が、誰もいなくなった家の空気の中に、しばらく細く立ち上っていた。
「本日は、お父様のサービスの継続の件と、お母様の新規サービスの件、両方についてご相談にまいりました。まずは、お父様のほうからお話しさせていただければと存じます」
担当者は鞄から書類の束を取り出し、テーブルの上に置いた。
「現在お父様のサービスは、契約者であられたお母様がお亡くなりになりましたので、規定により一度終了させていただく形になります。そのうえで、継続をご希望の場合は、新たな契約者様——直樹様か美香様のどちらかのお名前で——新規のご契約としてお申し込みいただくことになります」
直樹は頷いた。
「ただ、この場合、一つご了解いただきたいことがございまして」
担当者は、丁寧な口調のまま続けた。
「個人情報保護の観点から、現在お預かりしている学習データと学習モデルは、旧契約の終了と同時に、一度全て削除させていただきます。そのうえで、新しい契約者様から改めてお父様の元データをお預けいただき、学習モデルをゼロから再構築するという手順になります」
直樹は書類を見つめたまま、確認するように尋ねた。
「元データ、というのは」
「お父様のパソコンや、メール、文書ファイル、写真や動画などでございます。以前はそのようなものをお預かりして、学習モデルを作成いたしました」
兄妹は顔を見合わせた。
直樹は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。代わりに美香が、小さな声で言った。
「父のパソコンは……もう、ありません。写真や動画なら、家族のアルバムにいくつか残っているかもしれませんが、それだけだと……」
美香は言葉を濁した。入院する少し前に、母の身の回りの片付けを自分が手伝ったときのことを思い出していた。母はタブレットさえあれば、いつでも書斎の父と話せた。書斎のパソコンはもう、物理的には必要なかった。母は「これはもう、要らないわ」と言って、処分業者に持っていってもらった。あのとき美香は、母の判断を深く考えなかった。母にとっての「父」は、もう既にパソコンの中にもなかったのだということを、今になって理解した。
担当者は少し残念そうに、しかし丁寧に首を振った。
「お写真や動画だけでは、残念ながら、十分な学習モデルを組み直すのは難しいのです。お父様の思考の癖や言葉遣いを再現するには、やはり文章のデータ——メールや文書などが中心となりますので」
美香は静かに頷いた。
短い沈黙があった。
「かしこまりました」
担当者は小さく頭を下げた。
「では、お父様のサービスにつきましては、解約の方向で進めさせていただきます。正式なお手続きは後ほど代理人様と調整させていただきますが、解約に伴うデータの破棄について、あらかじめご説明させていただきます」
担当者は書類のページをめくった。
「お父様に関する、弟様からお預かりしたデータ、そこから派生した学習モデルを含む各種データにつきましては、解約と同時に、全てのデータを削除させていただきます。ご了承ください」
直樹は、書類に目を落としたまま、確認するように尋ねた。
「……弟、ですか」
担当者は、少し不思議そうに頷いた。
「はい。お母様がパソコンの操作にあまりお詳しくなかったものですから、弟様がまとめてくださったと伺っております。契約後も、何度か追加のデータを弟様からお預かりしております」
美香がコーヒーカップを持つ手を、膝の上に下ろした。コーヒーの表面が、わずかに揺れていた。
「追加のデータ、って……」
美香は、自分の声が少し上ずらないように気をつけながら、尋ねた。
「どういうものだったんでしょうか」
担当者は、柔らかい表情のまま、しかしきっぱりと首を振った。
「申し訳ございません。お預かりしたデータの内容につきましては、契約者様ご本人、または代理人であられる弟様のご同意がなければ、お答えできない決まりになっております。お気持ちはお察しいたしますが、ご容赦ください」
兄妹は顔を見合わせた。言葉は交わさなかった。互いの目の中に、同じものが宿っているのが分かった。
担当者は、書類を整理しながら、少し表情を緩めた。
「ご自身のパートナーのために頑張られるお方は多いのですが、弟様はとても献身的にデータをご提供くださいました。お姉様思いの、本当にお優しいお方ですね」
直樹は、コーヒーカップの中の黒い水面を見つめていた。水面に、自分の顔がぼんやりと映って、それからすぐに揺れて消えた。
美香は、膝の上で手を握りしめていた。爪の先が、もう一方の手の甲に小さく食い込んでいた。痛みは感じなかった。
担当者は、自分の言葉が部屋にどう落ちたかを意識する様子もなく、書類の角を揃え直していた。担当者の見ている世界の中では、姉のために尽くした弟が一人いて、その姉は最後まで穏やかに過ごし、弟は今もその記憶を大切にしている——それだけの、整った話だった。兄妹はその世界を壊す言葉を持っていなかった。仮に持っていたとしても、この善意の人にそれをぶつけることに、何の意味もないことを、二人は理解していた。
しばらくの沈黙のあと、直樹が小さく「……そうですか」と答えた。
担当者は書類の束を整えると、最後の確認に入った。
「それでは、本日のご相談を踏まえまして、お父様のサービスは解約の方向で進めさせていただいてよろしいでしょうか。ただ、解約のお手続きにつきましては、代理人であられる弟様のご同意とご署名が必要となります。改めて弟様と日程を調整させていただきまして、後日、正式なお手続きをさせていただきます」
「分かりました」
直樹は短く答えた。
「弟様には、本日のお話の内容と、皆様のご意向はこちらからお伝えいたします。ご了承ください」
「お願いします」
美香も小さく頭を下げた。
担当者は書類を丁寧にまとめ、鞄の中に収めた。それから、もう一つの書類の束を取り出して、テーブルの上に置いた。
「それでは、続きまして——お母様の新規サービスの件について、ご説明させていただきます」
担当者は穏やかに切り出した。
「お父様のときと同様、お母様のパソコンやメール、お写真、動画などのデータを元に、お母様との会話を再現するサービスをご提供させていただくことが可能です。お声のほうも、ご家族で撮影された動画などがございましたら——」
直樹が、静かに遮った。
「すみません」
担当者は顔を上げた。
「母のサービスのほうは……お願いするのを、やめさせてください」
担当者は一瞬、驚いた表情を見せた。しかし、すぐにその表情を落ち着いたものに戻した。
「……さようでございますか」
担当者は深く聞き返すことをしなかった。代わりに、丁寧に頷いて、テーブルの上の書類の束を静かに鞄の中に戻した。
「お気持ちが変わられることは、よくあることでございます。どうぞご無理なさらず」
美香が小さく頭を下げた。
担当者は立ち上がり、兄妹に向かって深く一礼した。
「お母様は、お父様とお話しされている間、本当にお幸せそうでいらっしゃいました。私どもとしましても、お役に立てたことを、嬉しく思っております」
兄妹は頭を下げた。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
担当者を玄関で見送った。担当者の背中が通りの角を曲がるまで、兄妹は玄関先に立っていた。角を曲がる直前、担当者はもう一度こちらを振り返り、深く一礼した。その一礼の丁寧さに、兄妹は同じ深さで頭を下げ返した。それから、家の中に戻った。ドアが閉まる音が、がらんとした家の中にやけに大きく響いた。
兄妹は居間に戻った。カーテンのない窓から、午後の光が床に長く伸びていた。ソファはそこにあったが、二人とも座らなかった。
直樹は、母が長く使っていた食器棚の前に立った。中は半分が空になっていて、奥の板に古い茶渋の跡や、湯呑みを置いていた円い跡が、薄く残っていた。直樹はその円い跡の一つに指を当てた。子供の頃、自分の麦茶のコップが置かれていた位置のような気がした。確信は持てなかった。
美香がふと、書斎のほうへ歩いていった。直樹も少し遅れて、その後ろをついていった。
書斎のドアの前で、美香はしばらく立っていた。直樹もその横に並んだ。
ドアの向こうには、まだ画面の父がいる。サービスはまだ生きている。ドアを開けて、パソコンを起動して、通話のボタンを押せば、父の声で答えが返ってくる。母さんに本当は何を言ったのか——その問いを、二人は今この瞬間、画面の父に投げかけることができた。
だが、同時に、二人は別のことにも気づいていた。
画面の向こうにいる父は、果たして父だろうか。
父の声で、父の癖で、答えが返ってくる。だが、その答えは、父が言ったことなのか、健司が言わせたことなのか、自分たちが信じたい言葉なのか——三つの境目が、もうどこにもないことを、二人は理解していた。問いただしても、返ってくるのは父の声で整えられた答えだけで、その奥にあるものを掘り当てる手立ては、もはやどこにもなかった。
母はもう、いない。家は売れることが決まっている。健司は遺産を受け取った。全ては終わっている。終わってしまっている、ということに、ただ気づくしかなかった。
美香はドアノブに手をかけなかった。直樹もかけなかった。やがて、二人は何も言わずに、書斎の前を離れた。
二人は、もう一度居間を見渡した。子供の頃、二人で寝転がってテレビを見た床。父がいつも座っていた一人がけの椅子。母が線香を上げていた仏壇のあった壁——仏壇は既に運び出されていて、その跡だけが、壁の色の違いとしてうっすらと残っていた。家のあちこちに、何かがあった跡だけが残っていた。
「行こうか」
直樹が言った。
「うん」
二人は玄関で靴を履いた。良子の小さなサンダルが、まだ三和土に揃えられていた。誰がいつ片付けるのか、二人とも何も言わなかった。直樹はその横に自分の靴を置きながら、子供の頃、玄関で母にただいまと言うと、必ず「お帰りなさい」と返ってきたことを思い出した。声は、台所からのときも、二階からのときもあったが、必ず返ってきた。
どちらからともなく、外に出た。玄関のドアを閉める前、美香が一度だけ振り返って、家の中に向かって小さく頭を下げた。直樹もそれに倣って、頭を下げた。誰に向かっての一礼なのか、二人とも分からなかった。
通りに出たとき、隣家の犬が一度、短く吠えた。直樹は少しだけ顔を向けたが、犬の姿は塀の向こうに見えなかった。
家の前の通りを、駅の方向へゆっくりと歩き始めた。空は薄く曇っていて、遠くで子供の声がしていた。子供の頃に通った小学校の角を曲がり、母とよく買い物に来た商店街の入口を抜けた。
しばらく無言で歩いてから、直樹が言った。
「昼、何か食べて帰るか」
美香が小さく頷いた。
「……うん」
二人は、健司のことも、母のことも、父のことも、あの父のことも、口にしなかった。
了