
負けた日の夜に少年漫画の主人公に少しだけなれた日。
プレゼン当日の朝、きすけは少しだけ胸を張っていた。
正確には胸を張っていた、のだけれど、その気持ちは会議室のドアを開けた瞬間に、静かに萎んでいった。
隣の会議室から漏れてくる声。他部署のチームが、徹夜明けの目をしながらも、恐ろしいほど精密な資料を仕上げていた。数字は美しく整列し、スライドの一枚一枚が、まるで夜景写真みたいに隙がなかった。
きすけも、頑張った。何日も夜更かしをして、資料を作った。丸い頭を抱えながら、何度も文字を打っては消した。
でも、目の前の光景を見て、思った。
――自分の「頑張った」なんて、誰かの「当たり前」の中に、簡単に埋もれてしまうんだな。
プレゼンは、無難に終わった。可もなく不可もなく。拍手はあったけれど、それは礼儀としての拍手で、きすけの胸には何も残らなかった。
会社を出ると、東京の夜はもう本格的に息をひそめていた。ビルの灯りが川面に滲んで、まるで誰かがこぼした絵の具みたいに揺れている。
まっすぐ帰る気にはなれなくて、きすけは当てもなく歩いた。
歩いているうちに、目に入ったのは、古びた漫画喫茶の看板だった。ネオンの一部が切れていて、「24時間ネットカフェ」の「間」の字だけが光っていない。
——時、24 ットカフェ。
なんだか自分みたいだ、と思った。大事な部分が、ひとつ抜け落ちている。

受付でぼんやりした声のスタッフに案内され、狭い個室に体を沈める。フリードリンクのコーヒーは薄くて、期待していた味の半分もしなかったけれど、それすら今日は、ちょうどよかった。
「頑張っても報われないことは、頑張った人にしかわからない静けさで押し寄せてくる。」
きすけはそう思いながら、何をする気力もなく、棚から適当に漫画を一冊抜き取った。少年漫画。表紙のヒーローは、今にも敵に殴られそうな体勢で、それでも笑っていた。
読むつもりなんてなかった。ただ、時間を潰したかっただけだ。
でもページをめくるうちに、物語の中の主人公は、負け続けていた。何度も、何度も。ライバルに、実力差に、才能という名の圧倒的な壁に。
それでも彼は、立ち上がるたびに、ちゃんと立ち上がり方が下手だった。かっこよくなかった。膝が震えていたし、涙も拭わずに前を向いていた。
その不格好さに、なぜか笑えてしまう。
「本当に強い人は、負けない人じゃない。負けたことを、ちゃんと数えられる人だ。」

そのセリフが出てきたコマで、きすけは思わずページをめくる手を止めた。
きすけは自分の負けを、数えていただろうか。
いや、数える前に、目を逸らしていた気がする。隣の部署の資料を見た瞬間から、自分の頑張りごと、なかったことにしようとしていた。
「頑張りを比べた瞬間、頑張りは競技になる。でも本当は、頑張りは記録じゃなくて、記憶でいい。」
個室の壁は薄くて、隣からは誰かの小さないびきが聞こえてくる。奥の方では、キーボードを叩く音がぽつぽつと響いていた。深夜のこの場所には、それぞれの「今日はもう無理」が、静かに寄り添って眠っている。
正確には眠っている、のだけれど、その中できすけだけが、まだ少し起きていた。
漫画のラストページ。主人公は結局、あの試合には負けた。それでも次のコマでは、もう次の目標に向かって、走り出していた。
派手な逆転も、感動の名言もなかった。ただ、次のページがあるだけだった。
「明日がある、というのは、慰めじゃなくて、単なる事実だ。事実は、思ったより優しい。」
きすけはふと、自分の丸い手のひらを見た。ずっと握りしめていたことに、今さら気づく。指をほどくと、そこには何も残っていなかった。プレゼンの緊張も、隣の部署への劣等感も、握っていたつもりで、実はもう蒸発していたのかもしれない。
窓の外――といっても漫画喫茶に窓はないのだけれど――の向こうに、東京の夜がまだ続いているのを、きすけは知っている。ビル群の灯りは、誰かの頑張りの証拠みたいに、消えることなく点り続けている。
「夜景は、誰かの眠れない夜の総量でできている。だから、少しだけ優しい光に見えるのかもしれない。」
きすけは漫画を閉じて、棚に戻した。表紙のヒーローは、相変わらず不格好に笑っていた。
個室を出ると、受付の時計は深夜3時を回っていた。あと少しで始発が動く時間だ。ドリンクバーでもう一杯だけ、薄いコーヒーを注ぐ。

まあ、負けたことは、負けたことだ。それは変わらない。
でも、負けを数えられる人になりたい、と思った。かっこよくなくてもいい。膝が震えていてもいい。
終わらせるのも、諦めるのも最後は自分だ。
それは一番簡単な逃げ道かもしれない。
でも、一度逃げた心は、次も同じ道を探してしまう気がした。
きすけは伸びをして、小さくあくびをした。まあ今日くらい、もう一回だけ頑張るか。