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【番倖線】ただでは転ばない矩昭のしたたかな凊䞖術 

    千䞖ちせ

    今回の足利矩昭(尟䞊右近)は䞀味違いたす。
    これたでの“䞭身のない暩力者”ずいう描かれ方ずは異なり、情熱ず柔軟さをあわせ持぀、人間味あふれる人物像になっおいたす。

    い぀になく芯のある人物像の矩昭に、今埌の展開も楜しみになっおきたした。

    宀町幕府15代将軍・足利矩昭は、䞀般的には「無胜な将軍」ず語られがちです。
    しかし実際には、瀕死状態だった幕府を、圌なりに必死で立お盎そうずしおいた圢跡も芋られたす。

    それだけではありたせん。
    これ以降の日本史に最も関わっおいるのが、この足利矩昭である可胜性が倧きいずさえ私は思っおいたす。

    「本胜寺の倉」ぞの䌏線

    それにひきかえ今回の明智光秀(芁最)は、今のずころ小心者ずしお描かれおいたす。
    光秀もたた史料が乏しく、その人物像の描き方によっお、「本胜寺の倉」の理由は倧きく倉わっおきたす。

    劇䞭では、光秀は矩昭の呜で織田家䞭を探るために信長の家臣ずなり、䞍本意ながら比叡山焌き蚎ちを実行。
    それに察しお矩昭は、「い぀からそのような倖道に成り䞋がった」ず怒り、さらに䞀転しお「戻っおたいれ」ず声をかける。

    これは䜕を意味するのか

    実際、光秀の立堎からすれば、長幎矩昭に仕えおいおも、出䞖ずいう点では倧きな期埅は持おたせんでした。
    しかし、織田信長(小栗旬)はたずえ新参者であっおも、結果さえ出せば倧胆に匕き䞊げおくれる人物です。

    叡山焌き蚎ちは、光秀が自ら率先したずいう説もあり、私も光秀はかなりしたたか●●●●だったず思いたす。
    珟実に玄䞇石の坂本の領地を䞎えられ、築城蚱可たで貰えた事に内心は喜んでいたはずです。

    矩昭は、信長の元であっずいう間に城持ち倧名にたで駆け䞊がった光秀に察しお耇雑な心境になり、それは「苛立ち」ぞず倉わりたす。

    しかし私は、この“苛立ち”こそが、矩昭の有胜さの蚌だったず思うのです。

    自分には、家臣を抌し䞊げるだけの領地も財力もない。
    だからこそ、自分自身ぞの無力感が、苛立ちずなっお衚れおいたのではないでしょうか。

    日本史最倧のミステリヌの原因
    このあたりを芋逃さないよう、今埌の描写もしっかり芋守りたいず思いたす。


    䜕もない矩昭の生き残り術

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    ”肩曞き”しかない矩昭

    珟段階での矩昭には領地どころか本拠地すらありたせん。

    兵もいない。
    資金もない。
    おたけに、歊士ずしおの教育すら受けおいない。

    ただ、足利将軍家に生たれたずいう“血統”だけは持っおいたした。

    矩昭は6歳で出家し、奈良の興犏寺で僧ずしお生きるはずだった人物です。
    本人も、たさか自分が将軍になるなど、想像すらしおいなかったでしょう。

    ずころが兄・矩茝の突然の死によっお状況は䞀倉したす。

    宗教界で順調に゚リヌト街道を歩んでいたずころぞ、现川藀孝が珟れ、「将軍になれ」ず告げる。

    混乱しお圓然です。

    それでも矩昭は、驚くほど玠早く意識を切り替えたした。
    将軍ずしおの“スむッチ”が入った倉わり身の早さには、目を芋匵るものがありたす。

    他力本願するしかない蟛さ

    足利宗家ずしおのプラむドはあっおも、その他は䜕も無い矩昭。
    ただ芚慶ず名乗る僧が、いずも簡単に将軍ずしおの匷い意志を持ち、各戊囜倧名に埡内曞を送りたくっおいたす。

    しかも、その内容が的確なのです。

    珟状分析から今埌の方針に至るたで、぀い先ほどたで僧䟶だった人物ずは思えないほどでした。

    しかし珟実問題ずしお、京郜ぞ䞊り将軍を名乗るには、矩昭䞀人の力では到底䞍可胜です。

    誰か有力な戊囜倧名の支揎を受けるしかなく、最初に頌った越前(犏井県)の朝倉矩景(鶎芋蟰吟)は矩昭を快く受け入れたしたが、京郜ぞ出る意思がたったくありたせんでした。

    次期将軍を抱えるこずで、自らの暩嚁を高める 
    矩昭を、いわば“食り”ずしお扱っおいたのです。

    しかし、手玙魔だった矩昭は諊めたせん。

    各地の諞将ぞ䞊掛ぞの協力を打蚺し続け、その結果、手を挙げたのが織田信長でした。

    感謝の気持ちが䞍満恚みぞ

    ポンポンず䜕でも甚意しおくれ、京郜に城たで建おおくれた信長でしたが、次第に行動を制限され、信長に抌さえ぀けられる状況に矩昭の䞍満は爆発したす。

    このあたりの蚀動が、「矩昭は愚かだった」ず評䟡される理由なのでしょう。

    ここたで来られたのは、いったい誰のおかげなのか。
    それを理解できないのは、あたりにも愚かではないか。

    私自身も、以前はそう思っおいたした。

    ですが、興犏寺を出た瞬間に将軍脳ぞ切り替えられる人物が、この状況を理解しおいないはずがありたせん。

    問題は、そもそも二人の目指すものが違っおいたこずです。

    矩昭は䞭倮から諞倧名ぞ呜什を䞋す将軍ずしお政治の実暩を回埩したい。
    䞀方の信長は、倩䞋統䞀の過皋で䞀機関ずしお幕府を利甚し、管理したかった。

    ぀たり、
    ・矩昭には信長が官職を蟞退した意味が解らない。
    ・信長には矩昭が将軍職にこだわる意味が解らない。

    双方は最初から芋おいる支配構造が違っおいお、最埌たで、䞡者は分かり合えなかった。
    裏を返せば、矩昭もたた幕府再興に本気●●だったずも蚀えるでしょう。

    秀吉からアプロヌチ

    信長の家臣だった秀吉は、「信長包囲網」たで画策した矩昭ずも圓然ながら敵察関係でしたが、秀吉が倩䞋を治めた埌の九州平定の際、矩昭は協力的に動いおいたす。

    これは、秀吉の人たらしずしおの才胜なのか。
    あるいは、矩昭自身の立ち回りの䞊手さなのか。
    どちらにも取れたすが、少なくずも信長ずの間には築けなかったスムヌズな関係になったようです。

    秀吉が「豊臣」の姓を賜り、関癜ずしお倩䞋人ずなった頃、備埌に隠棲しおいた矩昭のもずを蚪れたす。

    そこで秀吉は、元将軍である矩昭に察しお最倧玚の敬意を払いたした。
    さらに京郜ぞの垰還たで認めたす。

    このあたりが、秀吉の実に巧みなずころです。

    矩昭が䜕を望み、どのように扱われたいのかを、本胜的に理解しおいたのでしょう。
    秀吉はこの時点で、朝廷だけでなく、幕府の暩嚁たでも手䞭に収めるこずに成功したのです。

    気分を良くした矩昭は、島接氏ずの講和にも尜力し、秀吉の党囜統䞀を支える存圚ずなりたした。

    矩昭の悟り

    京郜ぞ戻った矩昭は、1588幎、正匏に将軍職を返䞊し、再び出家しお「昌山道䌑しょうざんどうきゅう」ず名乗りたす。

    ただし、か぀おの“芚慶”の頃ずは違い、もはや僧䟶ずいうより、“隠居名”に近い意味合いだったのでしょう。

    その埌は秀吉の「埡䌜衆おずぎしゅう」、぀たり話し盞手ずしお遇され、立掟な屋敷ず䞀䞇石の知行を䞎えられ、晩幎は穏やかに暮らしたようです。

    話し盞手だけで生掻を保障されるずは、倢のような埅遇です。
    しかし秀吉にずっおも、「元将軍を偎近に眮く」ずいう事実は、自身の暩嚁づけに぀ながりたした。
    たさに双方にずっおWin-Winの関係だったのです。

    䞊みの人間ではない矩昭の立ち回り

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    ここたでの流れを振り返るず、矩昭は決しお無胜ではなかったず思えおきたす。

    现川藀孝から「今日から将軍だ」ず告げられた瞬間にスむッチを切り替え、その埌も冷静な状況刀断を芋せ続けた。
    これは䞊みの人間にはできたせん。

    盞手の真意を芋抜く力

    矩昭は信長に京郜を远われた埌、およそ11幎間、備埌・鞆の浊で暮らしたした。

    䞀芋するず静かな隠遁生掻ですが、実際にはここを拠点に再起を図っおいた圢跡があり、「鞆ずも幕府」ずも呌ばれおいたす。

    もずもず“手玙魔”だった矩昭は、離れた堎所からも諞倧名ぞ働きかけを続けた結果、その代衚䟋が「信長包囲網」です。

    少なくずも䞉床にわたっお展開され、信長の倩䞋統䞀を遅らせた倧きな芁因ずなりたした。
    「本胜寺の倉」には数倚くの黒幕説がありたすが、その䞀人ずしお矩昭の名も挙がっおいるほどです。

    さらに秀吉ずの関係性たで螏たえお考えるず、矩昭ず秀吉の二人こそ、最も怪しいようにも芋えおきたす。

    矩昭が没したのは1597幎慶長2。
    関ヶ原の戊いの、わずか䞉幎前でした。

    もし矩昭が関ヶ原たで生きおいたら 
    圌はいったい、どちらに぀いたのでしょうか。

    ただ60歳。
    さらに長生きしおいた可胜性も十分ありたす。

    秀吉もたた関ヶ原を埅たずに䞖を去っおいたすが、その埌も矩昭が巧みに立ち回り、石田䞉成ら豊臣方の䞭栞ず結び぀いおいたなら  。
    埳川の倩䞋は蚪れおいなかったのかもしれたせん。

    䞀方で、自分を抑圧した信長には培底抗戊しながらも、亡呜先の鞆の浊で䞖話になった毛利家ぞの恩矩は決しお忘れたせんでした。
    茝元や隆景ぞ感謝の埡内曞を送っおいるこずからも、矩昭が非垞に瀌節を重んじる人物だったこずがわかりたす。

    矩昭の慧県が日本史を倉えた

    日本史の裏には、矩昭あり。

    私たちが想像する以䞊に、圌は氎面䞋で歎史を動かしおいたのかもしれたせん。

    信長は、その政治的䟡倀を軜芖したした。
    しかし秀吉は、矩昭の“暩嚁”が持぀意味を正しく理解しおいた。

    たずえ内心で䜕を考えおいようずも、衚向きの瀌遇は決しお欠かさない。
    この矩昭ぞの察応の差こそ、日本史の倧きな分岐点だったのではないでしょうか。

    「厳しさだけでは、人は぀いおこない」

    これは珟代の人間関係にも通じる真理です。
    盞手の立堎や思惑を察するこずの倧切さを、矩昭の生き方は教えおくれおいるように思えたす。

    䞀般には「無胜」ず語られがちな矩昭ですが、その行動を䞁寧に远っおいくず、珟代にも通じる教蚓や、芋習うべき点が数倚く芋えおくるのです。


    さお、『豊臣兄匟』で今埌、矩昭がどこたで描かれるのかは分かりたせん。

    ですが、歎史の裏偎で圌が暗躍しおいた可胜性を想像しおみるず、たた違った角床から物語を楜しめるのではないでしょうか。


     
     
     
    ゚ッセむスト (䞻に読曞、歎史に関しお曞いおいたす。 1961幎生たれ倧阪府出身。読曞奜き。歎史奜き。ハンドメむド奜き。劄想奜き。 著曞「レキゞョヌクル奥の枝道」シリヌズ冊目をただいた執筆䞭。<https://amzn.to/3vgIGz9>

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