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自分の歌の下手さについて思うこと

    最近久しぶりに音楽活動を再開しました。
    私は基本的に自分の声で歌うスタイルで曲を作っているのですが、ふだん歌の練習は一切していませんしカラオケにも行きません。何故そんな私が自分で歌っているかというと、今から10年ほど前に今は亡きSOUND DESIGNERという雑誌で楽曲コンテストに参加した際に「この手のコンテストだとインスト曲じゃ話にならない」ということで歌モノに手を出した事がきっかけです。

    コンテスト応募曲を書いた際に生まれて初めて歌詞を書いたレベルで歌モノはやったことがなかったのですが、経験がないということはコネもないということで歌ってくれる人の伝手も一切なかったため「自分で歌うしかない」となって自分の声を録り、結果としてその曲が賞を獲れたので「別に自分で歌っていいんだ」となってそのまま続けている感じです。(ちなみにコンテストの評ではボーカルが下手な点は普通に大幅減点されていたと記憶しています)

    その頃から10年ほど経ちましたが、練習していないのでボーカルとしての腕は一切成長していません。ただ、歌が下手な状態で作り続けていたため下手なりにどうにかする方法も掴めてきました。

    例えば歌声ヘロヘロでも2回同じフレーズを録音し、片方にかなり強いピッチ補正をかけてやや小さめの音量で鳴らし、もう片方は薄めにピッチ補正をかけて音量大きめで重ねる、みたいなことをすると、全体的にそこそこ自然に上手く歌えている雰囲気になります。また、訓練していないボーカルだとリズムがハシったりモタったりしますが、このあたりのタイミング補正はあまり行わないでおくと全体的にドライブ感が出てきて曲全体のリズムが生き生きとしてきたりします。そんな感じのやり方で、歌声壊滅的だなあと思いつつもどうにか自分の喉で曲を録っています。

    現代の製作環境であれば自然に聴こえるAI系のボーカルシンセなども結構出てきていると思うので、どうしても自分で歌わなきゃいけないという事情は昔よりはなくなっていると思います。

    10年前の私が現代の製作環境を持っていれば自分で歌ってなかっただろうなとも思いますが、なんだかんだ作詞作曲演奏歌唱など自分で全てをこなして作品を出していると「自分の作品の世界観」というのはどうしても自覚的にならざるを得なくなってきますし、「自分の作品を固定の人が歌う」というのは音楽性としてシグネチャーにもなりえるとも思うようになりました。

    自分自身の創作の向き合い方として「クオリティの高い整った音を出したい」とかよりは「『自分の音はこれだ』と自分で納得できる音を出したい」みたいな考え方でやっているので、あんまり「ボーカルがかわいい歌ウマ女子の声じゃない」とか「イケメンボイスじゃない」みたいな話は悩まないようになりました。そもそも自分自身かわいい歌ウマ女子でもイケメンでもないですしね。

    また、「これ録ってみたけどやっぱちょっと違うな」で何度もボーカル録り直したりしても、自分一人で完結していれば最終的な完成度がいまいちでも人からの評価が散々でも全部自分に返ってくるだけなので誰とも気まずくならなくて気楽でもあります。

    曲作りというのは、プロレベルの曲を書いてプロレベルの演奏家やボーカリストを集めてプロレベルの音を録って神ミックス師が混ぜないと出来上がらないという事はありません。近年は製作環境も進化してきていて楽器演奏や歌唱が全然できなくても割とどうにか作品として整えられるようになってきていますし、何より、私は曲を作る際に表面的なクオリティを整えることが創作における唯一の正解とは限らないと思っています。

    「コード進行がショボい」、「メロディラインがコード進行から浮いている」、「リズムが走って崩れている」、「声が音程を外している」、「ミックスバランスが偏っている」というのは、「そうなっているからこの曲はダメ」ということではなく、その「整ってなさ」をどのような意味だと思わせるのかが重要なのではないかと最近は思っています。

    例えばレッド・ホット・チリ・ペッパーズのジョン・フルシアンテはギターのカッティングの名手として知られていますが、「Live in Hyde Park」での「By the Way」のアウトロの演奏は教科書的な「上手い」カッティングとは異なり、ピッキングする右手を振る速度も遅くて左手の押弦もしっかりしておらず、一音一音がハッキリ出ていないルーズな演奏です。そんな感じのぐちゃっとしたカッティングプレイがしばらく続いたあとにヘロヘロなギターソロにつながっていくのですが(註:かなり昔に聴いた記憶のまま書いていましたが、実際にはソロ前のカッティングはタイトです。比較的ルーズなのは最終盤の弾き方のところの記憶ですね)、これは「あいつライブだと言うほど上手くないよ」という話ではまったくなく、逆にこの荒くて整っていない演奏にこそ彼の人物像が現れていて非常に魅力的なライブ演奏だと感じます。むしろ私は10代の頃にこのトラックを聴いたことで彼のギタープレイが大好きになってコピーしていました。

    演奏に関してもクリーンさや正確さがすべてではないと思いますし、同様に曲の作り方でも「ミックスバランスが全体的に大味、急に突飛な雑音が入る」、「意味のわからない展開の飛び方をする」、「逆に何故か全然展開しないまま時間だけが過ぎていく」という曲があったとしても、見せようによっては作者の大らかさ、雑さ、ユーモラスな人間性の演出として機能すると思います。
    こういった人としての温度感をどう作り出していくかを真面目に考える事こそがこれからのAIとの共存時代において創作者としての価値となっていくのではないかと感じたりもしています。

    ここまでアンチテク、アンチ理論と受け取られかねない事をつらつらと書きましたが、私は「これからみんなAIに取って代わられるのに演奏の練習したり理論書読んでなんの意味あんの?」みたいな事を言いたいわけではありません。練習や勉強とは別次元の話として、曲を作っていく中で「自分はどういう人間で何を聴かせたいのか、どう見せたいのか」という点をパラメーターの一つとして頭の片隅に入れてみると、もう少し曲に人間的なエグみや苦みやしょっぱさなどが振りかけられて、誰にも真似されることのない自分味が染み出している代替不可能なものが出来あがっていくのではないかと思います。

    また、ジョージ・ベンソンっぽいギター入れたいと思ったら現状は死ぬほど頑張ってギターを練習するしかないですから、やりたい事が練習の先にしかないのであれば妥協せず練習する、というのも人間性の見せ方の一つだと思います。

     
     
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