
【小説】夏が駆ける音《最終話》
夏の湿った夜の町を先生と二人並んで歩いた。繫華街から少し離れたこの通りは閑散としていた。先生は「コンビニに寄っていい?」と聞いて、近くのコンビニで缶ビールを一本買った。僕には緑茶のペットボトルを手渡してくれた。
近くの公園のベンチに二人で腰を掛ける。夜の公園は街灯が二本あるだけで、辺りは真っ暗だった。昼間の喧騒とは一変して、夜の公園はひどく寂しく思えた。先生が缶をプシュと開けて、勢いよくビールを喉に流し込んだ。
「あー美味しい、本当は生徒の前でお酒なんて飲んじゃ駄目だけどね」
「いや、構わないです」
僕は貰った緑茶を飲めずに両手に挟んで、太股の上に置いている。
「青山君、今日のライブかっこよかったよ。初めてステージに立つ青山君を見たけどなんか感動しちゃった。普段の教室にいる雰囲気と違うんだもん。プロだったよ」
「僕らはまだそんなレベルじゃないですよ」
言いたいことは山ほどあるはずなのに、言葉が喉の奥につかえて上手く出てこない。
「最後の曲、凄く良かったよ。途中で涙が溢れてね、止まらなかったんだ。なんか自分の気持ちをそのまま歌われてる気がしたの」
先生は話しながらまた瞳に涙を溜めていた。先生も僕も似たもの同士だ。どうしようもない苦い恋をしている。この気持ちから離れてしまえたら楽なのに。
「先生は不倫してますか?」
僕は覚悟を決めてその言葉を発した。先生の顔を真っ直ぐに見つめる。先生は視線の置き場に困ったように俯いて、少し考え込んでからゆっくりと口を開いた。
「青山君、千里さんに会ったんでしょ?」
千里さん、あの男の名前を初めて知った。先生がその名前を呼ぶ声が優しくて、胸がチクリと痛んだ。
「ごめんなさい、つい感情的になってしまい失礼なこと…」
「ううん違うの、千里さんとはもう別れたんだ」
先生の声は消え入るように弱々しかった。
「前からずっと早く別れなきゃって思ってたから」
先生の声が涙で滲む。
「僕のせいですか?」
「違う、青山君のせいなんかじゃないよ。いつかはきっとこうなっていたから」
先生の表情は髪の毛で隠れてよく見えない。
「千里さんはね、大学の時の先生なんだ。私が教員として働き始めた頃ね、生徒との接し方に悩んでいたの。学級崩壊じゃないけど、凄い荒れたクラスだった。誰も話を聞いてくれなくて、毎晩眠れない日々が続いて、千里さんに相談に乗って貰っていたんだ。そしたら、千里さんに少しずつ惹かれていったの。奥さんがいることも全部分かっていたのにね」
こんな話は生徒にするべきじゃないねって先生は力なく笑った。
「千里さんを責めないであげてね。あの人は優しいだけだから、困ってる捨て猫がいたらきっと拾ってしまうだけなんだ」
「そんなの知らないですよ」
僕が不貞腐れて言うと、先生はくすりと笑った。
「青山君がね、千里さんに怒って水をかけてくれて私の目も覚めたんだ。自分だけが苦しい恋はもうやめようってやっと思えた」
先生の目から宝石のような涙が零れた。涙で濡れても先生の顔はやっぱり綺麗だと思った。
「先生、好きです」
胸の奥にずっと潜めていた言葉を僕はようやく口にした。
「僕はずっと先生に声を届けたくて音楽をやっているんだと思います」
音楽で世界を救いたいとかそんな大それたことじゃない。目の前にいる先生の心を少しでも軽くするために、僕はギターを握るんだ。
「ありがとう、ごめんね」
先生は僕の目を見て優しくそう言った。
「青山君を見ていると眩しいよ。自分の夢に真っ直ぐでキラキラしていて、私なんかよりずっと立派だよ」
僕はペットボトルをぎゅっと握りしめる。先生に振られる未来は最初から見えていたのに、やっぱり胸が苦しくなった。
「私ね、夏休みが明けたら教師を辞めて実家に帰ることにしたんだ」
先生の唐突な報告に僕の両目が見開く。先生はどこか吹っ切れたように凛とした表情をしていた。
「なんでですか?何も辞めなくてもいいじゃないですか!」
僕の声が静かな公園に響く。先生は困ったように眉を下げた。
「これは自分なりのけじめなの。この街にいたらまたあの人に会いたくなってしまうから。もう誰かに依存して生きるのはやめたいんだ。青山君みたいに自分の足でしっかりと立っていたいって今日のライブを見て思ったんだよ」
先生はもう泣いていなかった。代わりに僕の目から涙が流星のように流れていた。どうすれば良かったんだろう。どうすれば先生を救えたんだろう。何も解決出来なかった無力さが僕を押しつぶす。
「先生、寂しいです」
「うん、私も寂しいよ」
「実家はどちらなんですか」
「宮城県、冬になると雪が一面に積もるんだよ」
僕は東北の雪を知らない。それが宮城という土地をひどく遠くに感じさせた。先生は生まれ育った街で新しい一歩を踏み出すことに決めたんだ。僕にそれを引き留める権利はあるだろうか。
「青山君、ブランコ乗ろうよ」
先生は突然そう言って立ち上がると、誰もいないブランコの方へ駆けていく。
「ちょっと、先生!」
僕はペットボトルをベンチに置いて、先生の後を追った。先生は軽快にブランコにひらりと飛び乗った。
「ブランコ乗るの久しぶりだな。大人になったら乗る機会なんてないもんね」
先生はどこか楽しそうに子供っぽく笑った。先生は地面を蹴って、ゆっくりと漕ぎ始める。僕はブランコの紐を掴んだまま、揺れる先生をただ眺めていた。
「青山君もさ、漕いでみなよ。結構楽しいよ」
先生が今どんな気持ちでブランコを漕いでいるのか、僕には分からなかった。でも、夜空に近づく先生の横顔は恍惚としていて、美しかった。僕もそれにつられるように地面を強く蹴ってみた。夏の湿った風を切って、空高く上っていく。
「凄い、青山君漕ぐの上手だね」
「先生が下手なんじゃないですか」
気付いたら僕は先生よりも高く宙を舞っていた。僕が足を前に出す度に、ブランコの勢いは増した。夜空に綺麗な星が並んでいて、後少しで掴めそうだった。自然と笑顔が零れた。ただ楽しかった。こうして先生と並んでブランコを漕ぐ時間が、もう二度と訪れないとしてもただ楽しかったんだ。
「青山君、バンドは絶対に続けてね。そして、いつか成功したら宮城県にライブに来てね。私、絶対に観に行くから」
「はい、絶対にライブに行きます」
「ありがとう、その日を楽しみにしてるね」
それから僕たちはずっと他愛もない話をしながらブランコを漕ぎ続けていた。夏の暑さを吹き飛ばすように、もう会えないことを誤魔化すように、ずっと遠くまで、どこまでも行ける気がしてブランコをただ漕いでいたんだ。
夏休みが終わり、学校へ通う気だるい日々がまた始まった。何も変わらない教室、少し肌の焼けた生徒たちが近況を話して盛り上がっている。変わったのは、この学校にもう先生がいないことだけだった。
始業式で校長先生から広見先生が一身上の都合により退職したことが発表されると、生徒たちの間で衝撃が走った。この一ヶ月で僕は気持ちの整理は付いていたけれど、この学校のどこにも先生の影が見当たらないことはやはり寂しかった。
「あー疲れた、夏休み明けから六限まであるって拷問だよ」
丘が手で顔を仰ぎながら、文句を垂れる。
「これから毎日早起きなんて嫌だね」
照本がそれに同調する。
「おまけにこれからバンド練習だろ?忙しすぎるよ、過労死するよ」
「嫌だったら来なくていいぞ」
僕は振り向かずに丘の文句を受け流して、前を歩く。
僕らはまた一か月後にライブを控えていた。あの日のライブをきっかけに、ライブの出演の誘いが少しずつ増えていた。劇的にバンドが人気になったわけではないけれど、見てくれる人は以前よりも増えたような気がする。
東京革命はあの日のライブを境に、メジャーデビューが決まった。有名な音楽プロデューサーが観に来ていたらしい。久しぶりにスタジオで会った横田さんはレコーディングの準備に追われているようで忙しいと嘆いていたが、その顔はどこか充実していた。僕らもその後に続きたいと思った。
「青山―、せめてアイスでも食べてから行こうぜ」
「いいね、それは賛成」
丘の提案でスタジオ近くのコンビニに立ち寄った。三人で円を作りアイスを食べる。一口齧れば、ソーダの爽やかな味が口いっぱいに広がった。終わる気配のない夏を少し緩和してくれる味だった。
「先生のいる宮城県は暑いのかな」
「分かんね、こっちよりかは涼しいんじゃない?」
先生が今住んでる街を僕は想像することしか出来ない。僕は先生が平穏な朝を迎えていることを心の中で願った。
「広見先生は大丈夫だよ」
「きっと楽しくやってるよ」
照本と丘が僕を見て強く頷いた。僕も「うん」と小さく頷き返す。
このふたりとバンドを組めて良かった。心からそう思った。バンドのリーダーである僕がいつまでも落ち込んでいたら駄目だよな。
いつの日かユートピアで全国を周って、先生の住む街を訪れる。最前列で見守る先生が僕らと過ごした日々を思い出して涙ぐむんだ。先生にはこの街にいた日々が間違っていなかったって思っていて欲しい。そんなライブをする。
僕が音楽を続ける理由が先生だったように、今度は先生の明日を生きる理由に僕らの曲がなるんだ。そんなライブをする日が来るまで、僕は二人と共にギターを鳴らし続ける。
「さぁ、行こうか」
アイスの棒をゴミ箱に捨てて、地面に置いていたギターケースを肩に掛けた。今日もそれは肩に重くのしかかる。僕は希望を背負って歩き出した。