
お喋りな姉の結婚
姉が大きなバラの花束を抱えて旅行から帰ってきた。鮮やかな真っ赤なバラは姉の腕の中で目一杯、花を咲かせていた。
誰がどう見てもプロポーズの花束だった。姉は嬉々として「会わせたい人がいる」と家族に向かってそう言った。
一年ほど前から彼氏はいるんだろうなと薄々は気づいていた。家の物干し竿にたまに川崎フロンターレのタオルとTシャツが干されていて、サッカーファンは誰もいない我が家に明らかに馴染んでいなかった。姉が誰かと観に行ったのは明白だった。
今年のバレンタインデーには夜な夜なチョコを手作りしていた。姉が今まで誰かにお菓子を作っているところを僕は見たことがない。大量のチョコを買い込んでボウルに溶かし、クッキーと生チョコを作っていた。
僕にも形の崩れたクッキーをタッパーに入れてくれたが、出来のいいものは綺麗に包装されて丁寧に紙袋に入れられていた。「弟の扱いが雑だろ!」と不服ではあったが、それなりに美味しく頂いた。
姉の婚約者Tさんは休日の昼下がりにやってきた。「娘さんを僕に下さい!」的なベタなやり取りが始まるなら僕はお邪魔虫だろうと思い、自分の部屋に身を潜めていた。時おり、下から笑い声が聞こえてきて結婚の挨拶は和やかに進んでいるようだった。
その日の晩はTさんも交えて家族でパスタ屋さんに行った。その席にはちゃっかり僕も同席した。初めて会ったTさんは姉よりも一回り年上だけど、物腰が柔らかく優しそうな人だった。どことなく父と雰囲気が似ているような気がした。
姉とTさんが話している姿を僕はこの時初めて目の当たりにした。相手が年上だから姉は気を遣っているのかと思いきや、普段の家にいる時と変わらない様子で仲良さそうに話していた。
姉は家では超絶お喋りなのだが、二人の間でもそれは発揮され、姉がずっと先導して話していた。姉は自然体でいられる人を見つけたんだなと、それが少し羨ましく思えた。
姉はいつだって我が家の中心にいた。姉が家に帰ると、玄関を開けた瞬間に「聞いて聞いて」と話し始める。仕事の愚痴、恋愛の話、何でも母に明け透けに話していた。僕が間に挟む余地はなく、マシンガンのようにとめどなくお喋りが始まる。
我が家の会話の中心にはいつも姉が立っていた。
僕はそんな姉が少し苦手だった。姉がいると自分の居場所を奪われたような居心地の悪さを常に感じていた。姉が自分本位の人間に見えてうるさく感じ、「早く出て行けばいい」と思っていた時期もあった。
でも、それは姉の「家族にだけ見せる顔」であった。姉にもちゃんと余所行きの顔があって、上手く使い分けていたのだとTさんと話す姉を見て知ったのだった。
姉が本当は川崎フロンターレに興味がないことは知っていた。スポーツが下手な姉だ、サッカーが好きなわけがない。でも、相手に合わせて一緒に観戦できる優しさを姉は持ち合わせていた。
これから姉はTさんとお互いの生活を擦り合わせて、ひとつの家族になっていく。既に「家でのお喋りな顔」をTさんに見せていた姉は結婚生活も大丈夫だろうと思った。
Tさん、姉でいいんですね。後から「うるさいから返品します」と言われても我が家にはもう要りませんよ!
その日の食事会は緊張感もなく、和やかな雰囲気で終わった。大した話もせず、本当にただ食事をしただけだった。Tさんも緊張していただろうに緊張損だったはずだ。でもそれがなんだか家っぽいなって思った。
姉は五月の頭に入籍した。それなのに資格の勉強が忙しいとか言って引っ越しの準備が進まず、結局、新居でTさんと新婚生活を始めたのは七月からだった。
うるさかった姉がいなくなり、何もない静かな部屋を見て寂しく思うかもしれないと、僕はほんの少しのセンチメンタルを抱えて、姉の部屋の扉を開けた。しかし、予想に反して唖然とした。
部屋が全く片付いていなかった。
何を持ってったの?と思うほど、部屋には姉の私物が大量に残されていた。散乱する服たち、ノートパソコンまでそのまま置いてある。僕からしたら信じられない!
なぜそのままの状況かと言うと、姉は実家から数百メートルの場所に引っ越したのであった。
姉の婚約者Tさんも川崎出身、というか近所の人なのである。僕が小学生の頃、学校に行く途中にやたらクリスマスのイルミネーションが派手な家があったが、どうやらその家の息子らしかった。
いつも友達と「凄いね」と言い合ってたので、それを聞いて「あの家かよ!?」と驚いてしまった。あの超ハッピー家族だったのか!!
姉の運命の相手はずっと近くにいたのであった。
双方の実家に近い住まいで姉は新婚生活を始めた。だから、姉はうちに多少荷物を置いてもいいと思っている。何なら引っ越ししても結構な頻度で家にやってくる。
母は孫が出来たら世話をさせられると嘆いていたが、どうせ孫を見たら鼻を伸ばして甘やかすに決まっている。
今でさえ「心配だわ」と言って、母は姉の家に赴きおかずや果物を渡している。母の方が姉の家に通ってるように見える。なんだかんだ姉が目の届く範囲にいることに安心している。
僕は姉が居なくなって寂しいだろうか。日常の中で姉が上手くやってるかなんて考えたりはしない。僕には自分の生活があって、それで手一杯だ。
ただ、姉がいなくなった我が家は少し静かになった。父もあまり話す方ではないし、三人だけの食卓はなんだか寂しいような気がする。
姉のお喋りをずっとうるさいと思っていたが、その賑やかさこそが我が家の食卓だったことに気が付いた。
姉は我が家の灯火だった。
今度は僕がその役目を担わないといけない。姉がいた頃のように上手く出来るかは分からないけど、食卓の温もりを絶やさないようにしたい。
姉に負けないくらいマシンガントークが出来る日をいつか目指してみるんだ。