
2026.6.13 胃もたれ日記
なにをそんなに、私は急いでいるんだろうか。
今日はFP3級の試験日だった。
FP試験には学科試験と実技試験があって、学科試験はクリアしたものの実技は落ちた。一か月後にまたやり直しだ。
この2週間、朝仕事前と帰ってきてからと土日合計4日まるまるほぼすべて時間をかけてやってみたものの、なかなか平日疲れて寝てしまったり朝起きれなかったりで、予定通りに行かないだろうと予想して作った予定通りに行かないときのための予定さえも、予定通りに行かなかった。
本当は、受かっても落ちても、頑張ったからということで帰りにパン屋さんんでパンを買って帰ろうと思っていたのだけれど、ひとつ300円越えのパンが並ぶショーケースを前に、受かってないのだから食べる権利はないと判断し足早に去った。代替案としてコンビニで何となく食べたかったパンケーキを手に取り、フルーツをいくつかのせて食べた。マーガリンと餡の挟まれたそれは、最初こそ爆発的においしいと感じたものの、あまりの甘さとくどさにやられ、最後に残ったのは幸福感ではなく胃もたれだった。
マーガリン、と聞いて思い出すのは柚木麻子さんのBUTTERという小説だ。マーガリンとフェミニストを嫌う女性がメインキャラクターで出てくる。冬に半分ほど読んでからというものの開けていないので、これを機に、と読みたいと思うけれども、再来週には別の試験があり、しかもそれは会社から受けなさいと言われているもので、ということはつまり「必ず」合格せねばならないもので、FPを自分で勝手に入れた都合でそちらに時間を取れていない私は、もはやそれが終わるまでは無理そうな気がしていた。
これが終わったら次はこれ、それが終わったらその次は、と永遠にあるかと思われる試験は、別に仕事上仕方のないことで、それなりの給与を頂いているわけであるし、受験料や教材費は会社もちだからいいかと思うけれども、それでもプレッシャーがかかっているのは確かだった。仕事柄失敗や数字のミスが許されないこともあり、仕事をこの4月から始めてから、大学生の頃よく二度寝するとみていた、何かから逃げる夢はみなくなり、その代わりに見るようになったのはデスゲームに参加している夢だった。試験官のような人がいて、私の何かを判断して、私は毎回殺されるのを免れる。免れたところで、いつも目が覚める。殺されるのを免れたとき思うのはいつだって、よかったという単純な気持ちと、それを一瞬で塗り替える、次も何かをクリアしなければ殺されるという恐怖、つまり殺されるまで殺されるかもしれないという恐怖の中にいるほかないということで、そういう夢を見るということは、私は今そういう風に現実を見ているのかもしれなかった。クビになるまでは?仕事を辞めるまでは?いつまでなんだろう?
何か仕事でミスをした時、たったひとつの、それがどれだけ小さな、誰にでも起こるミスでも、嫌われたとか仕事できないと思われたんじゃないかとか、何はともかく「自分は価値のない人間である」と一瞬でも思うのはなぜだろう。人は人を、思ったよりも総合的に判断していることは知っているし、たったひとつのよくあるミスで、私のこれまで積み上げてきた信頼のようなものや私自身へ抱かれている印象というものが、変わってしまうはずがないのに。なぜ、たったひとつで、そうやって思ってしまうのだろうか。
いつだって、何かミスをしたり間違えたりした日には、頭の中で時間関係を無意識で思い出している。あの時だれだれが笑顔で世間話をしてくれたのはミスの後だから、その人は私のことを嫌いじゃないはずだ、なぜなら嫌いな人に世間話をするはずがないのだから。あの時だれだれが話しかけてくれたのはミスのあった前で、そのあと話しかけられた記憶がない、嫌われたのかもしれない…などというように。ミスの前後の周りの変化や、些細な表情、声色の変化をすべて察知し、私は判断している。そんな些細なことで誰かの心を読めるはずがないのに。私がせねばならないのは、そのミスを受けて次はしないようにしよう、などといったミスそのものへの反省のはずなのに、いつだって気になるのは周りの評価で、心の底ではどうだっていいとおもっているのに、いつだって気にしている自分がいる。その証拠に、そうやって逡巡をしばらく繰り返したら次の日には忘れているのだ。世界は私を中心には回っていない。私に私の生活があるように、彼らには彼らの生活がある。そんなことは分かっているし、他者の評価で自分を決定づけることは、昔に比べるとかなり減った。私は私のままでいいと思えるようになり、受け入れたり捻じ曲げたりしてもがいた結果、何だか自分に対して納得感が得られるようになっていた。それでもなお気になるのは、何なのだろう。自分を好きになれば周りの評価なんて気にならなくなると思っていた。ところがどっこいという感じで、依然としてそのツルはがんじがらめに私を縛っている。
仕事場でもいつもずっと急がされている感覚があるし、家に帰っても眠たくなる前に勉強時間を確保せねばと急いでいるし、土日も2日しかない時間をうまく使わねばならないとどこかいつも焦っている。
唯一の救いはやっぱり本で、金原ひとみさんの本を適当に開いては、もう何度も読んだためにすぐに思い出されるその主人公たちのその現実のその一瞬に、私はただ救われる。アタラクシア、アンソーシャルディスタンス、パリの砂漠・東京の蜃気楼、踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君、ミーツ・ザ・ワールド…それらすべて、そしてまだ読んでいない彼女の作品があることは、確実に私の生きる理由のひとつになっている。
とかなんとかそんな感じで6月は終わりそうだ。もっといえば、試験やら仕事やらに追われている内に全部2026年も終わってしまいそうだ。
でもたぶん私は、勉強しなかったら遅れている気がして苦しいのだろうし、勉強したらしたでこうやって追われている感覚を覚えるのだろうし、結局のところ、どっちも同じなのだろうと思う。この頃、そういう乖離や矛盾の中で生きるしかないのだろうということを、受け入れ始めたのか慣れてきたのか分からないが、なんとなく、その矛盾や乖離をどうにかしようとすることがなくなってきた。まあどうしようもないことを経験上悟ったということなのだろう。あるいはそういうものを抱えて生きることに強くなった、あるいはそれでも平気な顔で生きていく、働かねばならないのだから、となったのか。これを大人というのだろうか。あるいは社会人か。でも何はともあれ、そういう生きにくさの延長線上に生きやすさがあるのなら、まあ生きやすい生きにくさならましカナ?とか考えたり。
書いていたら胃もたれが苦しくて何を書いているのか分からなくなってきた。がんばれ胃。明日からまた頑張れ私。