
「存在の王座を、空け渡さない。」——ある老樹の下で
木々が豊かな大きな公園の一画に、一本の老樹があった。
幹は太く、どれほど年を経たのか見当もつかない。枝は広く空へ伸び、その下に深い影を落としていた。
少女はひとり、老樹のそばにある切り株に腰掛け、物憂げに老樹を仰ぎ見た。少女の頭の中は考えたいことに言葉を与えられず、絡まった糸の塊の重さで傾き始め、無意識にそれを解くように髪に触れ始めた。
ふと気付くと、老樹のそばに、一人の老人がいる。地べたに手を当て、目を閉じて座っており、風が吹いても、葉が揺れても、微動だにしなかった。
しばらくしても、老人はそのままの姿勢を保っている。その姿に何故か少女は吸い込まれるように興味を惹かれていった。
少女は恐る恐る声をかける。
「……何をしているんですか」
老人は目を閉じたままゆっくりと少女に顔を向けた。
「木を感じている」
「土じゃなくて⁈ 木ですか」
「ああ。手を当てていると、わかることがある」
少女は先程傾いた頭の向きとは逆に少し首を傾げ、老樹を見た。
「何が、わかるんですか」
「冷たいか、温かいか。息をしているか、していないか」
「土を触っているのに?」
「いや、木に触れている」
老人は静かにそう言った。少女は老人の手から地面をなぞり再び老樹を見上げた。
少し噛み合わない会話に少女は違和感を抱いたが、その違和感を確かめるように再び老人に話しかけた。
「……この木、大きいですね」
「ああ。ずいぶん長く、ここにいる」
「?…樹齢何年なんでしょうね」
「わからない。でも——根はもっと大きく、広い」
少女は目を閉じている老人の顔を見てから再び老人の手を見た。まだ変わらない姿勢から地面に触れられている年老いた手が根を連想させた。しかしその下にあるという根は当然ながら少女には見えない。
噛み合わない会話の違和感は少女の頭を軽く締め付けた。それを解消する為に少女は少し意地悪く聞いてみた。
「この木の根って、どこまであるんですかネ」
「みえないか?」
「えっ!そりゃ見えないです」
「きみは今、何をみていた」
唐突な問いだった。少女は"間違えた"と思い少し戸惑った。
少女はいつの頃からか"間違う"ことにとても慎重になっていたので、息が詰まった。
「……木を。見ていました」
「どこを」
「枝とか、葉とか……」
「根は?」
「見えないから……」
「そうか。根も木なんだが…」
老人はそう言った。少女はすぐさま反論しようとしたが、何かがそれを止めた。そして、なんとなく、老人の続きを待った。
「きみは今、何かに揺れているか」
少女は黙った。見透かされた感覚に、いつもの心が閉じる条件反射が出るも、なぜこの老人にそれが分かったのか?その疑問が反射を抑え、閉じきらない心の隙間から言葉が漏れ出すように出た。
「……揺れている、かもしれません」
「何に揺れている」
「それは……」
少女は言葉を探した。先程の言葉を与えられていない考えが再び少女の頭に遠くからゴロゴロと転がってやって来た。
「言えなくていい。ただ——揺れているのは、きみのどこだ」
「どこ、って……」
「頭か。胸か。腹か。足の裏か」
少女には頭以外の感覚が無くなっていた。
「……頭、だと思います。ぐるぐると」
「頭だけか」
少女は老人にそう問われたことで、少しだけ胸の真ん中に眼が向いた。
「胸も、かな……。なんか硬いです」
「そうか」
老人は頷いた。
「きみは今、頭だけで考えている。それはそれでいい。でも——胸の硬さも感じている」
「はい…」
「きみには、身体がある。だが、今の君は頭と胸の一部しかない。わしにもそう観える」
「え?…」
「両足も、両手も、腹も、腰も、背中もない」
少女はそう言われて、自分の身体に眼を向けるが、その感覚はとても遠く薄かった。
その時、少女の全身を撫ぜるように風が吹き、少しだけ少女は自身の輪郭が浮かび上がるのを感じた。
「そして身体はひとつじゃない。幾つもあって、層になって重なっている」
「どういうことですか?」
老人はいつの間にか身体の向きを変え、少女に対面して座っていた。そして流暢に手振りを入れて話し始めた。
「一番上の層——きみが今ぐるぐるしている、言葉や思考が動く層がある。ある考えではこれを思惟的身体と呼ぶ」
「しいてきしんたい…?」
少女は漢字を当て嵌めようと試みるが、見当がつかなかった。
老人は、少女の戸惑いに構うことなく話し続けた。
「その下に、骨や筋肉や血流——身体として測れる層がある。
さらにその下に、気持ちよい・嫌だ、感情、本能——感覚が動く層がある。
そしてさらに深く——考えるより前に、すでに何かが届いている層がある。
理解より先に、応えなければならない感覚が生まれる層がある。
意図より前に、動きが準備される層がある。
そして一番深いところに——言葉にならない、しかし全てがそこから来る層がある」
少女には、"全てがそこから来る層"という言葉だけが、指に絡まった一本の髪の毛のように残った。その髪の毛を確認するように少女は答える。
「体の話ですよね……」
老人は少し間を置いてから、答えた。
「全部で七つの身体だ。しかしこれは相当大まかに分けてのことだ。そしてきみは今、頭だけの一番上の層だけで存在している」
老人はそう言った後、ゆっくりと老樹に向き直った。
少女も老人の動きにつられて、老樹を眺めると、不思議と自分の身体の輪郭が先ほどよりも色濃くなぞられ始めるのを感じ、しばらく言葉が出て来なかった。
「私は、頭しか使っていない、ってことですか」
「頭しか使っていないのではない。頭、つまり一番上の層に、全部が集まりすぎている。そして、下の層への道が、詰まっている」
「詰まる…」
少女は今の感覚に留まりながら、頭の中にあった絡まった糸の塊を思い出していた。
老人は少女の思い出している思考をスーと切り開くように言葉を這わせた。
「その詰まってしまう原因を一つ挙げるならば、速いからだ。
感じ切る前にすぐ言葉にする。経験をすぐ評価に変える。沈黙をすぐ何かで埋める。その速さの中で、下の層が置いてきぼりになる」
少女はまた身体に注意が向いた。"心当たり"その言葉を初めて経験したような感覚を覚えた。
「きみは今、何かに揺れていると言った」
「はい」
「その揺れは、どこから来ていると思う」
「……わからないです」
「君の外から来ているか、内から来ているか」
「外から、だと思います」
「そうだな。外から何かが来て、きみの中で揺れる。——なぜ揺れると思う」
少女はまた黙った。老人は急かさなかった。
「……その何かが、大事だから、ですか」
「大事なのか、それとも——その何かをきみの中心…いや王座に座らせてしまっているのか。だ。」
「王座……?」
少女は、身体の中に馴染みのない"王座"という言葉の気配が立ち上がるのを感じた。
「きみの人生には、王座がある。その王座に、本来きみ自身が座っていなければならない。しかし——外からやってくる何かを、そこに座らせてしまうことがある。他人の評価。誰かの言葉。数字。比較。——それらが王座に座った瞬間、きみはきみの人生の主役ではなくなる」
少女は老人を見た。
「……私、王座を空け渡してるってことですか」
「どう思う」
少女の注目はまた少女自身の内側に向いた。長い沈黙があった。
「……そうかも、しれないです」
「ある人の言葉を借りさせてもらおう」
老人は言葉を取り出してゆくように話し始めた。
「自分の在り方を深く問い続けた人がいた。その人はある大きな試練の中で、こう言った。
昔は、他人の評価がそのまま自分の価値だった。悪口は自分への攻撃だった。病気は自分の崩壊だった。何かが起きるたびに、存在そのものが揺れていた」
少女は老人が取り出した言葉が、自身の内側に置いていかれるように感じた。
「しかし今は違う。悪口は、誰かの中で起きている反応。病気は、身体に起きている現象。評価は、他人の視点。それらは確かに存在する。だけど、それらがわたしそのものではない」
「……」
「そしてその人はこう続けた。——存在の王座を、空け渡さない、と」
少女は胸の奥に空気が入れられたように開き、息が入るのを感じた。
「自我が小さくなったのではない。存在が、自我より大きくなった——とも」
少女は胸に入った息が自然と出てゆくと共に言葉を乗せた。
「存在が……自我より大きくなった」
「ああ」
「自我ってエゴのことですか?」
「そうだ」
「エゴイズムとかエゴイスティックとかの、あの悪いイメージのエゴですか」
「そうだ。しかしエゴは悪いものではない。ただエゴが大きくなり、エゴが暴れ回ると問題が起きる。」
「問題ですか…」
少女は頭の中で絡まった糸の塊がどんどん大きくなるのを想像した。
「エゴが自分自身だと、自分が勘違いしてしまう」
「エゴは自分自身じゃない…」
少女は絡まった糸の塊と少女との間に少し距離が出来たのを感じた。
「エゴは、木で言うならば、葉っぱみたいなものだ。葉っぱは木の一部だ。木そのものじゃない」
少女は老樹の幹から葉っぱへと視線を移してゆくと風が再び吹いた。葉っぱが揺れた後に、自分の髪がなびくのも感じた。
老人はもう一度さっきの台詞を少女の目の前に建てるように置いた。
「自我が小さくなったのではない。存在が、自我より大きくなった…
葉っぱは葉っぱだ。ただ、葉っぱは木がなければ存在しない。枝があり、幹があり、根があって、木がある。大きくなったと感じるかもしれないが、木に気付いたとも言える」
少女は再び老樹の葉っぱから、枝へ、幹へ、見えない根へと視線を移し、老樹全体を眺めながら、老人に聞いた。
「どうやって」
「下に降りたんだ」
「下に?」
「頭の層から、その下へ。さらにその下へ。奥へ。王座がどこにあるかを、頭ではなく身体で気付いた。それだけのことだ」
少女は再度自身の内側に置かれたような老人の言葉を拾い集めるようにしながら尋ねた。
「最近、瞑想とかマインドなんとか、って言葉を聞いたことがあります。」
「ああ、聞くな。マインドフルネスだ。」
「それと、同じですか」
「同じ、場合もあるかもしれないが、身体に注目するのを"ある考え"ではまず大事にする」
「どういうことですか」
「瞑想を、頭を静める技術として理解する人は多い。雑念を手放す。思考を止める。静寂に至る——それも悪くはないが、それは葉っぱの話だ。ある考えは枝、幹、根に注目してゆく」
「葉っぱは木の一部で、全部じゃない」
「そうだ。葉っぱから視線を降ろしてゆく。そして見えない根にも注目してゆく。ある考えでは瞑想はそういうものだと捉えている。」
「降りる……」
「葉っぱという頭の層から、感覚の層へ。さらにその下の層へと降りていくことが、ある考えでは下降という」
「下降…で、どうやって降りるんですか」
老人は少女の視線と馴染むように眼を合わせてから言った。
「もう、君はやったじゃないか」
少女はハッとした。老人は小さく笑った。
「身体の経験が先だ。まず身体を置くこと。世間は先に地図を渡す。でも、地図だけ持っていても、その地を歩いたことにはならない。歩いてみて初めて、地図の見方もわかる」
「……経験が先」
「そうだ。頭だけでは、歩けない。根が無くては、木は立たない。土が無ければ根は張れない」
少女は土に眼を移し、その下にある根を想った。
「この木は」
老人がゆっくりと言った。
「枝も葉も、風が吹けば揺れる。でも根は揺れない」
「根が深いから?」
「深いからだ。そして——根はどこまで続いていると思う」
「土の中……?」
「土の深層は?」
「地下……?」
「その先は?」
「マグマ…?」
「その先は?」
「……⁈」
少女は少し目を見開いた。
「地球……」
「そうだ。この木は、地球に根を張っている。そして空気があり、雨が降り、太陽の光がある。木はその全ての中で、生きている」
今度は老人の言葉が身体に流れて来るように少女は感じていた。
「……この木は、地球と繋がっている」
「そうだ。地球とも宇宙とも繋がっている。繋がって無ければ、存在しない。これに例外はない」
「身体も……そういうことですか」
「きみの身体の深層も、同じだ。一番深い層は、きみだけのものではない。言葉にならない、しかし全てがそこから来る——その層は、もっと大きな何かと繋がっている」
少女の注目はまた身体に注がれていった。身体の中はとても静かに感じられた。
「頭の層で揺れていたきみは、葉っぱそのものだ。でも——きみには枝があり幹があり、根があり、そして根が張っている土がある。その土の深層は、地球だ。そこは揺れないし、傷つかない。本来の在り方で、ただそこに在る」
「……なんか、すごく大きい話になりましたね」
「すごく身近な話をしているつもりだったが」
「え?」
「きみの身体の話をしている。これ以上、身近な話はない」
少女は少し笑った。初めて笑った。
「重要なのは、答えを見つけることではない」
老人は静かに言った。
「問いを設けることだ。頭の層はすぐ答えを欲しがるが、大事なのは経験だ。経験に導くには問いを置いておくこと」
「問いを置く…経験…でも、頭がまたぐるぐるしそうです」
「そうだな。それはしょうがない。ただ——君は頭だけではないことはもう分かったね。枝があり、幹があり、根があり、地球と繋がっている…まずは、その身体を感じること。それを忘れないこと」
再び少女は身体に注目していた。
「きみは今それが出来ているね。」
「はい」
「それが、入口だ」
少女はもう一度、老樹を仰ぎ見ながら、身体にも眼が向いていることに気付いた。
風が来た。枝葉が揺れた。少女の身体の中でも揺れる何かがあり、その奥に静かな何かがあるのも感じた。
地面の下で、老樹の根が静かに張り続けているのを、少女は初めて——なんとなく、感じた気がした。
"王座"その言葉がふと、身体の奥から思い出されるようにやって来た。
少女はその感覚をしばらく味わっていた。
老人がスーと立ち上がったのを、少女は眼の端で捉え、我に返った。
「ありがとうございます」
自然と少女からついて出た言葉だった。
「……また会えますか」
「機が来ればまた…こちらこそありがとう」
そう言って、老人はゆっくりと礼をした。その礼が少女にはとても美しく、その余韻がゆっくりと遠のいていくのを眺めていた。そしていつの間にか老人は、その場から消えてゆくように去っていた。
少女が我に返った時には、老人の姿はどこを探しても見当たらなかった。少女は戸惑いながら、礼をしたい気持ちでいっぱいだったその時、少女は老樹に気付いた。そして、老樹に向き合い、大きく深呼吸してから、深々と一礼した。そして少女は老人と同じように土に触れてみた。
すると少しだけ土の中の根を感じられているような気がした。
響生の國 Chikahno
この物語は、響生の國の教育体系『響学』から生まれた物語である。