
【小説】水とオリーブオイル 最終話
ディナーは翔がずっと行きたいと言っていたピザ屋に行った。翔の会社の先輩から勧められたお店だった。こじんまりとした店内には海外のお客さんも多く、活気に溢れていた。お互い食べたいピザを選び、シェアすることにした。翔はシーフード一択で、私は悩んだ末クアトロフォルマッジを選んだ。きっとお互い、自分では選ばないものを相手が選んでいたと思う。食の好みが似ていないのも、悪くはないと思った。
焼き上がったピザは耳が分厚く、パンのようだった。少し焦げた匂いが食欲をそそる。
翔は大きな口でシーフードピザを頬張った。私もシーフードに手をつける。魚介の旨みが口いっぱいに広がる。美味しい!と思わず声が溢れた。でしょ?ずっと食べたかったんだよね〜、と言って黙々と食べ進める。翔は「誰と」とは言わなかった。細かいことにいちいち反応してしまう私には気にも留めず、お気に入りのシーフードを食べ続けた。
店を出た頃は21時。今日は土曜日だからもう少し帰るのが遅くなってもいい。
二軒目に行きたかったが、付き合って3ヶ月過ぎた今でも、お酒をあまり飲まない翔に二軒目を誘って良いのか分からず、気を遣ってしまう。
とりあえず、翔が歩く方について行き、腕を組んだ。
「お腹いっぱいだね〜!美味しかった!」
私は明るい声で、手のひらでポンポンと翔の腕をたたいた。
突然顔に熱を感じたと思ったら、翔の体温だった。翔の顔が近づき、私はびっくりして肩をすくめた。覗き込んだ翔がいたずらっ子のように笑う。
「おれの家4駅先だし、おれの家で飲み直す?」
嬉しさが心の奥から込み上げてきた。自然に顔が綻ぶ。
「うん」
私も微笑み返してさらに翔にくっつく。
私が翔を支える。どんな翔でも選ぶ道を応援する。だから、ずっと翔の隣を歩きたい。
翔の顔を見ようと顔を上げた時、空にはくっきりとオリオン座が見えた。翔と歩いた季節は、私は秋と冬しか知らない。春も夏も、そして来年の秋と冬も、一緒に歩けますように。
帰り道、お酒とおつまみを買おうとコンビニに寄った。
翔は重くない荷物でも「持つよ」と言ってコンビニの袋を私から取る。ありがとう、と言って翔の腕にまた掴まる。
翔の家に行くのは初めてだった。そもそもお家デートが初めてだった。
翔の家に入った瞬間、柔軟剤の匂いがした。
私の好きな翔の匂い。
リビングには、白い壁とグレーのソファ。
テレビ台の上には何も置かれておらず、生活感らしい生活感がない。
唯一、人が住んでいる気配を感じたのは、仕事用デスクの上に置かれたノートパソコンと数冊のビジネス書だけだった。
ソファーに腰掛け、各々缶を開ける。
「お部屋、綺麗だね」
「物がないだけだよ」
「ちょっと、間取り見ていい?」
私は立ち上がって、部屋を探検した。
「コンロ綺麗なんだけど。ちゃんと使ってる?」
シンクはある程度の使用感があるのに、コンロだけは綺麗で、思わず吹き出してしまった。
「使ってない、料理してないから」
翔も笑って、冷蔵庫見てみ?と開けた。冷蔵庫の中には飲み物しか入ってなかった。
二人で笑いながら、リビングに戻る。
「気にしないから座っていいよ」と言いながら、翔がベッドに腰掛けた。私も隣に座る。
「翔くんから宅飲み誘われたの嬉しかったな〜」
「だって、まいちゃん、飲み足りないでしょ?」
「それが理由?」
確かに私はお酒を飲めるタイプだけど、別の理由で誘ってほしかった。膨らませた頬に、翔が不意にキスをした。
翔を見て、私は「なに、いきなり〜」と笑った。すると翔は私の顔を見ず、少し下を向きながらはっきりと言った。
「好きだから」
そして翔は私の正面に立って両肩を押した。ベッドに仰向けになった私に翔が重なった。
可愛かったから、とかじゃない。
好きだから。
翔はそう言った。
ずっと、ずっと、ずっと聞きたかった言葉を、今日やっと聞けた。
「かけるくん、まだ私のこと好きになってくれてないかと思ってた」
やっと本当の気持ちを話せた。
「私もかけるくんのこと、好きだよ」
私は翔の首に自分の腕を回した。
ほのかカップルを含む4人でのご飯を1週間後に控えた頃、翔から時間のある時にちょっと電話したいとLINEが来た。
「今日の21時以降なら空いてるけど、どう?」
翔から電話をしたいなんて珍しい。何か急ぎの用事だろうか。
「分かった、21時に電話するね!」
何だろうとも思うが、どうせ後で分かるからいいやという軽い気持ちでいた。
翔と話したい。今はただそれだけ。
21時。仕事から帰宅し、少しゆっくりしていたら、あっという間に約束の時間になった。
翔から「今からかけるね!」というLINEとともに、電話がかかってきた。
「突然ごめん。仕事終わり何してた?」
「夜ご飯作ってドラマ観てた」
「今大丈夫だった?」
「全然大丈夫だよ〜!21時に電話するって決めてたし!何かあった?」
「突然で申し訳ないんだけど」
どんな前置きでも、普段の会話と変わらない心持ちでいた。スマホを片手に食後の紅茶を飲む。
マグカップに残った紅茶はすっかり冷めていた。
ドラマはとっくに終わっているのに、テレビだけが無音のまま光っている。
窓の外では向かいのマンションの明かりがぽつぽつと消え始めていた。
「この間のデートから、少し自分の気持ちが分からなくなって...」
一瞬何を言っているのか、分からなかった。何も発せず、次の言葉を待った。
「本当に突然でごめん。おれ、この先まいちゃんと向き合い続けられるか分からなくなった」
これは別れ話だ。
翔は私と別れたいんだ。
でも何で?この間、私に好きって言ったじゃん。
数日前の幸せな記憶が走馬灯のように蘇る。動揺はあったが、翔と話をしなければと、頭の中を整理した。
「かけるくんが私に対して何か不満があって、そこを直したら、かけるくんの気持ちは変わると思う?」
んー、という翔の小さな声と住宅音が重なる。
「まいちゃんのこと嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、自分の気持ちが溢れなくて」
私はこの時確信した。
翔の言った「好き」は私に伝えるための「好き」ではなくて、自分に言い聞かせるための「好き」だった。そして、翔の私への本心は、これまでの行動にちゃんと表れていた。
私が不安に思った直感は、やっぱり正しかったんだ。
付き合っている人に好きになってもらえないことほど、不幸せなことはないと思う。私は翔のことが好きだが、翔に縋っても幸せになれない。
「分かった、別れよう」
自分でもびっくりするくらい、すんなりと言葉が出た。私はどんな状況でも、自分の幸せを第一に考えられる人間だと、自分の強さに思わず感心した。
「でも、私がかけるくんのことを好きだった気持ちは本当だよ」
翔は自分にとって、好きな人と付き合えた初めての人だった。スキンシップが好きではなかった私が、翔と出会って、触れられることの安心感を知った。思いやりをもらって、それ以上の思いやりを返したいと思った。
翔との電話が切れた途端、涙が溢れた。
私は好きな人としか触れたくないのに、翔はスキンシップを取ることで、好きな気持ちが溢れ出るか自分の気持ちを確かめる人だった。
私は手を繋ぐことより、ハグやキスの方が大きな愛情表現だったのに、翔はハグやキスは挨拶のようにカジュアルで、手を繋ぐ行為の方が恋人としての決意を示すものだった。
同じ時間、同じ空間、表面上は繋がっていても、心の奥底で私たちは交わっていなかった。そもそも私たちは住む世界が異なるかのように。
結局、ほのかカップルを含む4人でのご飯は、ほのかと私の2人で行くことになった。
「そっか、案外かけるもチャラいんだな〜。そんな行動したら、普通好きだって私も思うよ!」
ほのかは「あんなやつ〜」と言いながら、オリーブオイルを付けたパンを頬張る。私の代わりに腹を立てるほのかに「そんな悪く言わないで」と宥める。
ほのかと一緒に翔の悪口を言ったら、泣いてしまいそうだった。
3ヶ月という短い恋だったけれど、自分の中では気持ちが大きく揺るいだ濃い3ヶ月間だった。翔と出会って、私はちゃんと人を好きになれることを知った。そう思うと、紹介してくれたほのかには感謝の気持ちでいっぱいだった。
水を飲もうとコップに手を伸ばす。コップから一滴の水滴が落ちた。
水滴は、黄金色のオリーブオイルの中で丸く形を保ったまま揺れていた。
混ざりそうで混ざらない。
同じお皿にいても、最後まで溶け合うことはない。
翔と私みたい、とふと思った。
私は翔の中に溶け込むことができなかった。
水滴の入ったオリーブオイルにパンをくぐらす。
「美味しい」
オリーブオイルの香りが広がる。
私はもう一度パンをちぎった。