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ここにいてもいい

    第一章

    春になったからといって、世界が急に変わるわけじゃない。

    駅前のパン屋は相変わらず朝から忙しそうで、踏切はいつもの時間に閉まって、通学路の桜は満開を少しだけ過ぎていた。春の風はまだどこか冬のにおいを残していて、その風が吹くたびに、花びらが足元をすべっていく。昨日までは枝にあったものが、今日は地面の上にある。そのくらいの変化なら、毎日いくらでも起きている。

    それでも、少しくらい何か変わるんじゃないかと期待してしまうのは、この季節のせいなのかもしれない。

    カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ますと、しばらく天井を見つめたまま動かなかった。枕元にあるスマートフォンのアラームを止め、通知を眺める。

    天気予報
    大学からのお知らせメール
    夏実からの《今日一緒に学食行こ》というメッセージ

    返信は、たぶん既読をつけるだけで十分だろう。
    行くに決まっているのだから、わざわざ言葉にする必要もないと思った。

    一人暮らしを始めてちょうど一年になるこの部屋は、もう迷わず動けるくらいには馴染んでいる。
    少しだけ立て付けの悪い扉の開け方も、起き上がって五歩でキッチンに着くことも、部屋の電気のスイッチの位置も、体が覚えていた。
    それでも、今日は少しだけ、部屋の空気がいつもと違う気がした。
    新学期だからだろうか。二年生になったからだろうか。それとも、ただ春だからかもしれない。
    結唯はそのどれとも決めきれないまま、クローゼットを開けて、しばらく立っていた。

    去年の四月は、何もかもが初めてだった。
    洗濯機の音の大きさに驚いたことも、ゴミの分別のルールを何度も確認したことも、冷蔵庫の中のものを腐らせてしまったことも、今となっては懐かしい。
    最初の頃は、毎日が小さな判断の連続で、疲れて帰ってきては、何も考えずに眠りたいと思っていた。

    引っ越しの日、母がカーテンの色を選ぶのに、ずいぶん時間をかけて付き合ってくれたことを思い出す。
    「結唯が決めなよ」と言われて、無地のベージュと薄いグレーの間で三十分近く悩んだ末、結局、母が「じゃあこっちにしよっか」と決めてくれたグレーのカーテンが、今も窓にかかっている。

    あのとき、自分で選べなかったことを、結唯は特に気にしていなかった。むしろ、最後の一押しをしてくれることに、ほっとしていたくらいだった。

    一年経って、その判断の多くは、考えなくても体が勝手にやってくれるようになった。それは楽になったということだ。楽になったはずなのに、今朝はなぜか、クローゼットの前で立ち尽くしてしまう。

    「これでいっか」

    誰に言うでもなく呟いて、手前にあった生成りのニットを選ぶ。決めたというより、選ぶのをやめた、という感覚に近かった。カーテンの隙間から、朝の光がまた一段と強くなっていた。

    大学までの道は、桜がほとんど散って、歩道の端に薄いピンク色の縁取りを作っていた。花びらを踏まないように歩く人と、気にせず踏んでいく人がいて、結唯はいつも前者だった。理由はない。ただ、なんとなく、そうした方がいい気がするだけだ。
    去年、右も左もわからないままこの道を歩いていたことを思うと、少しだけおかしかった。今はもう、信号のタイミングも、混みやすい時間帯も、コンビニのレジが二人体制になる時間帯まで、体に入っている。慣れた、ということが、良いことなのか、少しさみしいことなのか、よくわからなかった。

    正門の前で、一年生らしき集団が、キャンパスマップを片手に立ち止まっているのが見えた。きっと、去年の自分もちょうどあんなふうに、地図を片手に迷っていた。
    あのときは、誰かについていくことしか考えていなかった。今は、地図なんて見なくても、目的の教室まで最短距離で歩ける。それだけの一年だった。

    学食に着くと、夏実と沙苗がすでに窓際の席を確保していた。

    「結唯、遅い」

    夏実が、トレーの向こうから半分だけ顔を上げて言う。今日のトレーには、日替わり定食と小鉢がふたつ載っていた。夏実はいつも、迷わずメニューを決める。

    「ごめん、履修のことちょっと考えてて」
    「まだ決めてないの? もう四月も半ばだよ」

    沙苗が、味噌汁の椀を両手で包みながら、うんうんと頷く。彼女のトレーには、夏実とまったく同じ定食が載っていた。

    「二人とももう決めたの?」
    「私はもう出したよ」
    「わたしも。まぁ、夏実に合わせただけだけどね」
    「合わせたって言うか、丸投げでしょ」
    「えー、そんなことないよ、たぶん」

    三人で笑う。結唯は自分のトレーを置きながら、ふと考える。
    沙苗の「たぶん」は、結唯の口癖の真似だ。いつからか、二人とも結唯の言い方を面白がって使うようになっていた。真似されるのは嫌ではない。むしろ、自分の一部が誰かの中に残っているようで、少しくすぐったい。

    「で、結唯は結局どうするの、火曜の三限」
    「うーん……たぶん、文化人類学のやつにする、と思う」
    「思う、って」

    夏実が眉を上げる。責めているわけではない。ただ面白がっている。

    「他に候補あったの?」
    「メディア論と、あと、統計の基礎、みたいなやつ」
    「統計はやめときな、去年泣いてる先輩見た」
    「え、そんなに?」
    「レポートの量がやばいって。文化人類学は、なんか映像見るだけの回もあるらしいよ」
    「じゃあ、それにする」

    即決だった。夏実の一言で決まってしまうことに、結唯自身は特に抵抗を感じなかった。むしろ、決める作業をひとつ肩代わりしてもらえたようで、ほっとした。この二人といると、決められないことを笑われても、傷つかない。それがずっと居心地がよかった。
    そこへ、トレーを持った久代竜哉が通りかかり、断りもなく夏実の隣に腰を下ろした。

    「なに、また結唯の履修相談?」
    「もう相談ですらないよ。ただの様子見」
    「結唯って、いつまでも決めないよな。それはそれですごい特技だと思う」
    「特技っていうな」

    結唯が笑いながら小突く真似をすると、久代はへらっと笑っていた。

    「俺なんて、履修登録、始まって五分で終わったよ。適当に埋めるだけだから」
    「それはそれでどうなの」
    「効率的って言ってほしい」

    四人で笑う。この程度の軽口が、気楽だった。
    深く考えなくていい。
    何かを証明しなくていい。
    ただ、その場にいればよかった。
    トレーを片付けながら、こういう時間がいつまでも続けばいいな、と思った。

    午後は必修のゼミがあった。
    今期から始まるグループ研究の担当決めで、教授が「特に希望がなければ、前から順に机を合わせて」と言うと、教室は特に揉めることもなく、自然に近くの席同士でグループができていった。
    結唯は、たまたま前の席に座っていた三人と組むことになった。名前もまだよく覚えていない相手だった。

    「テーマ、何にする?」

    グループの一人がそう言うと、別の一人が「地域活性化とかでよくない?」と適当に返した。結唯は「それでいいと思う」と頷いた。それ以上、何か意見を出すことはなかった。
    悪いテーマだとは思わなかったし、他に案があるわけでもなかった。

    「朝倉さんは、資料集めとかで大丈夫? 発表は苦手な人がやらなくていいし」
    「あ、うん、たぶん大丈夫」

    決まってしまえば、それでよかった。役割を割り振られることに、抵抗はない。むしろ、自分の希望を聞かれて、何も浮かばずに沈黙が流れることの方が気まずかった。
    誰かが最初の一言を発して、それに頷く。それだけで、物事は前に進んでいく。楽だ、と結唯は思う。
    同時に、自分がこのグループの中で、いてもいなくても大差ないような気もした。ただ、それを寂しいと感じるほどのことでもなかった。資料を集めて、言われた通りにまとめて、発表当日は隅の方で頷いていればいい。それで単位はもらえるし、誰にも迷惑はかからない。大学生活の多くの場面は、そういうふうにして過ぎていった。

    ゼミが終わって廊下に出ると、窓の外には新緑の中庭が見えた。四月の日差しは、どこか眩しすぎて、結唯は少し目を細めた。
    午後の講義を終えて図書館に寄り、来週提出のレポートのために何冊か本を借りた。
    窓際の席で少しだけ読み進めてみたけれど、集中力が続かず、結局スマートフォンで友人のSNSを眺めて時間を潰してしまう。誰かの投稿に「いいね」を押しながら、何をするでもない、こういう時間が嫌いではなかった。借りた本は、結局その日のうちには開かなかった。

    夕方が近づいて、結唯は荷物をまとめてサークル棟の会議室へ向かった。今日はサークルの新入生歓迎会の打ち合わせがある日だった。
    結唯たちが所属しているのは、留学生との交流や語学交流を軸にしたサークルで、正式な名前は少し長い。普段はみんな、ただ「サークル」とか「交流会」とだけ呼んでいる。新入生向けの交流企画や、留学経験者の話を聞く会、学園祭での展示など、活動は年間を通して細々と続いていた。

    結唯がこのサークルに入ったのは、去年の春、夏実と沙苗が見学に行くというので、なんとなくついていったのがきっかけだった。英語が得意なわけでも、留学に強い憧れがあるわけでもない。
    ただ、初めての場所に一人で足を踏み入れる勇気がなかっただけだ。二人が「ここでいいか」と決めたので、結唯も「たぶん、いいと思う」と頷いた。

    サークル棟の会議室に集まったのは、夕方五時を過ぎた頃だった。
    折りたたみ椅子が並べられ、十数人のメンバーが思い思いの場所に座っている。新入生歓迎会の打ち合わせは、サークル長の塚原さんが仕切っていた。ホワイトボードに担当を書き出しながら、てきぱきと指示を出していく。

    「受付は朝倉さん、案内は篠田さん、大内さんは交流企画のサポートね。久代は……まあ、手が空いてるところ埋めて」
    「雑用ってこと?」

    久代が笑いながら突っ込むと、塚原さんは真顔で「そう」と返した。部屋が小さく笑いに包まれる。

    「あと、今学期の交流会の日程なんだけど」

    塚原さんが別の紙を取り出して続けた。留学生を招いての交流会を五月に、学園祭での展示企画を秋に、それぞれ予定していること。今年は例年より新入生の希望者が多そうだという話。結唯はメモを取りながら、去年の自分がこの場でどんな顔をして座っていたかを、ぼんやりと思い出そうとしたが、はっきりとは覚えていなかった。けれど、今と変わらずこうやって誰かが決めることに頷いているだけだったと思う。

    「交流会、去年より規模大きくする?」

    夏実が挙手気味に聞くと、塚原さんは「予算次第かな」と苦笑いした。
    そんなやりとりを、結唯は特に口を挟むこともなく聞いていた。意見がないわけではなかったが、口に出すほどのことでもない気がして、いつも通り黙って頷いているだけだった。
    塚原さんは、まとめ役という言葉がよく似合う人だと、結唯は思う。誰かが揉めそうになると、絶妙なタイミングで話をまとめる。頼りにされるというのは、こういうことなのかもしれない。
    打ち合わせの終わりに、塚原さんがふと思い出したように言った。

    「あ、紹介するの忘れてた。芦沢」

    視線の先にいたのは、少し離れた席でパイプ椅子に浅く腰掛けていた男性だった。

    「二年だけど、一年間留学で休学してたから。知ってる人もいると思うけど、知らない人もよろしく」
    塚原さんがそう紹介した。

    結唯はその名前よりも先に、「留学」という言葉に反応していた。
    軽く会釈するその人は、特別気負った様子もなく、ただ自然にそこにいた。
    周りの数人が

    「芦沢くん、休学中どこにいたんだっけ」
    「え、久しぶり」

    と気安く声をかけている。
    彼はその一つ一つに、面倒くさがらずに答えていた。誰かに慣れている、というより、誰からも自然に話しかけられる何かを持っている人だった。

    「芦沢は、確か北欧だっけ」
    「そうそう。帰ってきてから寒がりになったって言ってたよね」

    そんな会話が、周りで交わされているのが聞こえてくる。結唯は芦沢と呼ばれる人物と面識がなかったが、彼の名前や噂は、これまでも何度か耳にしたことがあった気がする。

    国際交流系のイベントで顔を出す人。
    留学から帰ってきたばかりの先輩。
    断片的な情報が、今日、ひとつの人物として結唯の前に現れた。

    結唯は人物そのものより、彼の周りにある言葉に引っかかっていた。

    留学。
    知らない町。
    知らない言葉。

    自分の生活の中には出てこない単語が、彼の存在を通してすぐそこにあるように感じられた。

    「あの人、去年もちょこちょこ噂聞いたな」

    隣に座っていた夏実が、小声で言った。

    「モテるって話?」

    沙苗が興味津々といった様子で顔を寄せる。

    「モテるっていうか、誰にでも優しいから、みんな勝手に意識しちゃう感じ? 知らないけど」
    「でも、留学ってなんかあこがれるよね」
    「それはそうかも」

    夏実は特に深い意味もなさそうに、そう言って肩をすくめた。結唯はその会話をなんとなく聞きながら、自分がなぜか、その人を気にしていることに気づいた。深い理由はない。ただ、留学、という言葉の持つ響きが、まだ耳に残っていただけだ。

    「じゃあ、新歓は二日後ってことで。よろしく」

    塚原さんの一言で打ち合わせは解散になった。
    夏実と沙苗はバイトがあるとかで先に会議室を出ていく。結唯は一人、荷物をまとめながら、もう一度だけちらりと見た。塚原さんと何か話しながら笑っていて、結唯の視線には気づいていない。それでよかった。ただ少し、気になっただけだ。
    会議室の窓の外は、もうすっかり夕暮れの色に染まっていた。

    駅までの道を、結唯は一人で歩いた。
    夕方の空気はまだ少し冷たくて、コートの前を掻き合わせながら、今日聞いた言葉を頭の中で繰り返していた。

    留学。
    休学。
    北欧。

    自分がそんな場所に行くところなんて、想像したこともなかった。
    大学と、アパートと、たまに帰る実家。結唯の世界はだいたいその範囲に収まっていて、それで十分だと思っていたし、今もそう思っている。友達もいる。サークルにも居場所がある。何かが足りないわけではない。

    途中のコンビニで、いつも買うカフェラテを買った。レジの店員も、もう顔見知りだ。「今日も同じのですか」と笑われて、結唯も「はい、いつもの」と笑い返す。こんな小さなやりとりの積み重ねが、この一年で自分の生活を作ってきたのだと思うと、それだけで十分に満ち足りている気がした。
    ただ、さっき聞いた言葉たちが、頭のどこかに小さな灯りのように残っていた。
    部屋に帰り着き、電気をつけて、結唯はベッドに座ったまま履修登録の画面を開いた。結局、火曜の三限は文化人類学に決めた。決めた、というより、夏実の一言で締め切りが近くて選ばざるを得なかった、という方が正しいかもしれない。それでも、決まったことには変わりない。

    画面を閉じて、ふと窓の外を見る。
    知らない場所へ行く自分なんて、想像もできなかった。
    けれど今日、初めてその言葉が、ほんの少しだけ、輪郭を持って自分の中に入ってきた気がした。
    それが何かの始まりだとは、この時は知らなかった。

    第二章

    翌日は、拍子抜けするくらい普通に過ぎた。
    一限の講義に出て、途中で睡魔と戦い、学食で夏実と沙苗と他愛のない話をした。今日の話題は、沙苗が寝坊して五分だけ遅刻したことだった。

    「五分は遅刻のうちに入らないでしょ」
    「入るよ。夏実がいつも早すぎるだけ」
    「結唯はどう思う?」
    「そんなことないと思うけど、たぶん」

    結唯が口を挟むと、二人が同時に「また、たぶんって」と笑った。いつものやりとりだった。窓の外は昨日と変わらない春の陽気で、教室のざわめきも、いつも通りだった。
    帰りにコンビニでヨーグルトを買って、部屋でレポートの続きに取りかかろうとしたけれど、思うように進まなかった。鞄の中には昨日もらった新歓の資料が入っていて、紙の角が指に当たるたび、明日のことを想像した。
    受付の座席表
    配布物のチェックリスト
    進行表
    目を通しておかなければと思いながら、結局その夜は資料を開かないまま眠ってしまった。
    そして次の日、新歓本番を迎えた。

    サークル棟の一階ロビーには、手作りの案内看板と風船がいくつか飾られていて、朝から落ち着かない空気が漂っていた。新入生たちが緊張した面持ちで出入りする中、結唯は受付のテーブルに座り、名簿にチェックを入れる係だった。
    夏実は入り口で案内、沙苗は奥の交流企画コーナーの補助、久代はどこもかしこも人手が足りないところを走り回っている。

    「お名前と学部を教えてください」

    同じ言葉を何十回と繰り返した。名簿の欄が少しずつ埋まっていくのを見るのは、単純に楽しかった。中には緊張のあまり、学部名を言い間違えて照れ笑いする新入生もいて、そのたびに結唯も一緒になって小さく笑った。

    「あの、英語とか、得意じゃなくても入れますか?」

    おずおずと尋ねてきた新入生に、結唯は思わず笑ってしまった。去年の自分と同じ顔をしている。

    「大丈夫ですよ。わたしも去年、友達についてきただけだったので。英語、そんなに得意じゃないです」

    新入生が少しほっとした顔をするのを見て、結唯は名簿にペンで丸をつけた。こういう瞬間が、結唯は好きだった。誰かの不安を、軽くできた気がする。
    途中、久代が息を切らして受付に駆け込んできた。

    「結唯、マイクの電池ある?」
    「電池? ここにはないと思うけど」
    「マジか。沙苗のとこの音響、電池切れたって」
    「会議室に予備なかったっけ」
    「見たけど見当たらなくて。誰か持ち出したのかも」

    結局、久代は「コンビニまで行ってくる」と言って走っていってしまった。それを見送りながら、結唯は思わず笑ってしまった。毎年、こういう小さなトラブルが必ず一つは起きる。去年も交流会で似たようなことがあったし、今年もそうだ。それすらも、どこか懐かしいような、楽しい騒がしさだった。
    しばらくして、電池を手に戻ってきた久代が音響ブースに駆け込むと、途切れていたBGMがまた流れ出した。沙苗が「久代くん、ヒーロー!」と大げさに拍手をして、周りが笑う。結唯もその輪の中で、一緒になって拍手をした。

    昼過ぎ、受付が少し落ち着いた頃、道に迷った様子の新入生の一団が入り口でうろうろしているのが見えた。誰も手が空いていない。結唯が席を立とうとすると、先に動いたのは芦沢さんだった。

    「こっちですよ、案内します」

    彼はそう言って、新入生たちを廊下の奥へ導いていった。慣れた足取りで、迷いがない。その後ろ姿を見送ってから、結唯は受付に戻った。地図を渡すでもなく、ただ自分の足で先導していく姿は、結唯の目に少し新鮮に映った。
    しばらくして、新入生の案内を終えた芦沢さんが受付の前を通りかかり、結唯に軽く声をかけた。

    「受付、ずっと座りっぱなしで大変じゃない?」
    「そんなことないです。芦沢さんこそ、さっきの案内、すごく手慣れてましたね」
    「ああ、これくらいは」

    彼は少し笑って、近くの椅子に腰を下ろした。
    休憩、というより、なんとなくそこに留まっているという感じだった。ロビーの喧騒が少し遠くに聞こえる。窓から差し込む午後の光が、彼の座る椅子のあたりだけを、少し明るく照らしていた。

    「留学してたって聞きました。どこにいたんですか?」

    結唯が尋ねると、芦沢さんは少し意外そうな顔をした。それから、思い出すように視線を斜め上に向けた。

    「北欧の方。最初の一ヶ月なんて、毎朝道に迷ってたよ」
    「え、芦沢さんでも?」
    「俺でもって、どういうこと」

    芦沢さんが笑う。結唯も、つられて笑ってしまう。

    「なんか、迷わなそうなイメージだったので」
    「地図アプリの電波が悪くて、結局、通りの名前の看板を一個ずつ確認しながら歩いてた。それでも間違えて、真逆の方向に二十分歩いたこともある」
    「二十分は迷いすぎです」
    「本当にそう思う。あのときは泣きそうだった」

    芦沢さんは苦笑いを浮かべながら、当時の失敗談をぽつぽつと話した。
    洗濯機の使い方がわからず、一週間分の洗濯物を溜め込んでしまったこと。
    スーパーで買ったつもりのヨーグルトが、実はサワークリームだったこと。
    近所の掲示板に貼ってあった古い貼り紙を信じて、とっくに閉店した店に何度も足を運んでしまったこと。
    結唯はそのひとつひとつに、素直に驚いたり笑ったりした。

    「ヨーグルトとサワークリームの間違いは、さすがにやばいです」
    「さすがに気づいたよ、味がおかしくて。でも本当に一瞬、これが向こうのヨーグルトの味なのかって疑った」
    「疑っちゃだめですよ」

    結唯が笑うと、芦沢さんも同じように声を出して笑った。ロビーの喧騒の中で、二人の間だけ少し違う時間が流れているような気がした。
    知らない世界にも、こんなふうに、ただの失敗や戸惑いがあるのだと、初めて実感した気がした。留学、という言葉から結唯が想像していたのは、もっと輝かしくて、遠くて、自分には手の届かないものだった。けれど今聞いた話は、拍子抜けするくらい、身近な失敗談だった。

    「その話、あんまり人に言わないでね」

    芦沢さんが少し照れたように言うと、結唯は小さく頷いた。

    「秘密にしておきます」
    「うん、俺たちだけの秘密ね」

    そう言われて、結唯は妙にくすぐったい気持ちになった。大したことではないとわかっている。ただの失敗談だ。それでも、誰も知らない小さな話を、自分だけが知っているという事実が、特別に感じられた。

    その後、芦沢さんは塚原さんに呼ばれて、また新入生たちの輪の中に戻っていった。結唯はしばらく、彼が話していた、道に迷った朝のことや、ヨーグルトとサワークリームを間違えたことを思い返していた。受付の列は、気づけばまた新入生で埋まり始めていた。

    新歓の後片付けが終わったのは、夕方の六時を過ぎた頃だった。折りたたみ椅子を畳み、余った紙コップやパンフレットを段ボールにしまう。塚原さんが「お疲れさま、余ったお菓子好きに持って帰っていいから」と言うと、久代が真っ先に段ボールに飛びついた。

    「うわ、これ美味しいやつじゃん」
    「がっつきすぎ」

    夏実が笑いながら久代の手からクッキーの袋をひとつ奪い取る。沙苗はというと、片付けの途中でどこかへ姿を消したと思ったら、来客用のジュースを勝手に開けて飲んでいるところを塚原さんに見つかり、軽くいじられていた。

    「沙苗、それお客さん用」
    「あ、ごめん、喉渇いてて」
    「まあ、今日はいいけど」

    そんなやりとりを見ながら、結唯は段ボール箱を積み重ねる作業を続けていた。誰かが仕切るでもなく、自然と役割が分かれて、片付けは思ったより早く終わった。最後に、余ったお菓子を輪になって分け合いながら、少しの間、みんなで今日の反省会のようなものをした。

    「受付、結構混んでたよね」
    「案内班、道間違えて新入生ちょっと迷わせちゃった」
    「それ言うなら、久代、名簿の記入頼んだのに全然埋まってなかったじゃん」
    「俺のせいにするなよ、あれは絶対に列の並び方が悪い」

    軽口が飛び交う中、結唯は自分がその輪の真ん中で笑っていることに気づいた。特別なことは何もない。ただ、今日一日を一緒にやり遂げた人たちと、疲れを分け合っている時間だった。ふと隣を見ると芦沢さんもその輪の中にいて、久代にからかわれながら「俺は案内うまくいった方だと思うけど」と苦笑いしていた。
    こういう時間が、結唯は好きだった。誰か一人が特別なわけではなく、みんなでひとつのことをやり遂げた後の、少しだらしない空気。夏実の笑い声も、沙苗の呑気な失敗も、久代の軽口も、芦沢さんの穏やかな相槌も、全部が同じ輪の中にあった。

    新歓の後片付けが終わり、それぞれ帰路につく頃には、もう外はすっかり暗くなっていた。駅までの道を夏実たちと並んで歩きながら、結唯は今日の疲れが、心地よい疲れだと感じていた。
    風呂上がりに髪を乾かしながら、結唯は今日一日のことを思い返した。受付で見た新入生たちの緊張した顔。夏実の案内する声。沙苗が交流企画のブースで誰かと盛り上がっている様子。そして、芦沢さんの話していた、北欧の町で道に迷った朝のこと。
    秘密というほどのことではない。誰かに話したところで、何がどうなるわけでもない小さな話だ。それでも、あの会話を思い出すと、胸の奥がほんの少し温かくなる。
    留学とか、知らない町とか、自分とはかけ離れていると思っていた言葉の持ち主が、実は、道に迷ったり、ヨーグルトとサワークリームを間違えたりする人なのだと知ったことが、結唯には新鮮だった。遠い世界の人だと思っていた人が、近くに感じられる。そのことが、結唯には妙に嬉しかった。ドライヤーの音の中で、その日のことをしばらく反芻していた。今度、サークルで顔を合わせたら、どんな顔をすればいいだろう。そんなことを考えている自分に気づいて、結唯は少し恥ずかしくなり、そのまま布団に潜り込んだ。

    翌日、サークル棟に顔を出すと、後片付けの残りをしているメンバーが数人いた。芦沢さんもその中にいて、結唯と目が合うと、軽く手を上げた。

    「昨日、お疲れさま」
    「お疲れさまでした」

    それだけの挨拶だった。けれど、芦沢さんはそのまま結唯の近くまで歩いてきて、少し声を落として言った。

    「例の話、ちゃんと秘密にしてくれてる?」
    「もちろんです。誰にも言ってません」
    「よかった。まだ、帰ってきたばっかだからもうちょっとみんなにかっこつけておきたいんだよね」

    軽い調子で言う芦沢さんに、結唯はつい笑ってしまった。

    「それなら、話さなくてもよかったんじゃないですか」
    「いや、なんか朝倉さんには言いやすかったのかも」

    さらりと言われた一言に、結唯は一瞬、返す言葉に詰まった。深い意味はないのかもしれない。ただの世間話の延長かもしれない。それでも、「朝倉さんには言いやすかった」という言葉は、思いのほか長く耳に残った。

    その日はそれ以上、特別な会話をするでもなく、二人はそれぞれの作業に戻った。ただ、片付けを終えて部室を出るとき、芦沢さんが「また今度、話そう」と言い残していったのを、結唯は帰り道で一人思い返していた。どういう意味で言ったのかはっきりとはわからなかった。ただ、次に会う理由が、また一つできたことだけは確かだった。夕暮れの駅前は、いつもより少し賑やかに見える気がした。

    第三章

    新歓が終わってから一週間が過ぎた。
    この一週間でサークルの空気は一気に賑やかになった。新入生が増えて、企画会議も交流イベントの準備も、これまでよりずっと活気があった。結唯は交流企画班としてイベントの手伝いに回ることが多く、必然的に、同じ班に入った芦沢さんと顔を合わせる機会が増えた。
    交流企画班の仕事は、地味な作業の積み重ねだった。留学生への案内資料を翻訳サイトと首っ引きで作ったり、次の交流会で使うゲームのルールを考えたり。地道な作業だったが、誰かと一緒に机を囲んで、黙々と手を動かす時間は、それだけで居心地がよかった。窓の外では、新緑がいよいよ濃くなり始めていた。

    「この時間帯、朝倉さんは大丈夫? 難しかったら別の日でも」

    会議のたびに、芦沢さんはそうやって結唯の予定を気遣った。最初のうちは、単に丁寧な人なのだと思っていた。けれど何度か重なるうちに、結唯はあることに気づいた。芦沢さんは、結唯の「たぶん」を、受け止める。

    「たぶん、大丈夫だと思います」

    そう答えると、たいていの人は「たぶんって」と笑うか、「じゃあ決まりね」と流すかのどちらかだった。夏実などはいつも後者だ。決めるのが速い夏実にとって、結唯の「たぶん」は、次の話題に進むための合図のようなものになっている。それが悪いとは思わない。そういうものだと思っていた。
    けれど芦沢さんは違った。

    「たぶんね。ダメそうなら言って。調整するから」

    そう言われた瞬間、結唯は自分でも驚くくらい、ほっとした。
    自分の「たぶん」をちゃんと受け止められると、こんなに楽になるものかと思った。
    帰り道、芦沢さんとたまたま方向が同じで、駅まで一緒に歩くことが何度かあった。特に約束したわけではない。ただ、会議が終わる時間が同じで、駅までの道も同じだった、というだけのことだ。

    「朝倉さんって、あんまり決めたがらないよね」

    ある帰り道、芦沢さんがふと言った。責めるような響きはなかった。夜の街灯が、二人の影を長く伸ばしていた。

    「そう、ですかね。たぶん、そうかもしれないです」
    「別に悪いことじゃないと思うけど」
    「え?」
    「決められる人が偉くて、決められない人がだめ、みたいな話でもないでしょ。朝倉さんは、ちゃんと周りを見てるから、すぐには決めないだけなんじゃない」

    そんなふうに言われたのは、初めてだった。夏実や沙苗にとって、結唯の優柔不断さは、からかいの種であり、同時に当たり前に受け入れられているものでもあった。けれど、それを言葉にして肯定されたことは、これまでなかった気がする。

    「無理しなくていいよ、って、言いたくなる」

    芦沢さんがそう言って、少し笑った。結唯は、その言葉が自分の中にすとんと落ちてくるのを感じた。

    「無理してるつもりは、ないんですけど」
    「うん、そうだと思う。でも、決めなきゃって困ってる顔、たまにしてるから」

    図星だった。周りが早々に決めていく中で、自分だけがいつまでも決められないことに、結唯は密かに引け目を感じることがあった。それを見抜かれていたことに、少し驚いた。
    その日の作業終わり、二人で夕飯を食べに行くことになった。

    「何食べたい?」

    そう聞かれて、結唯はいつものように「うーん、たぶん、なんでも」と答えた。

    「なんでもって言われると、逆に困るんだけど」
    「あ、ごめんなさい。じゃあ、その……」

    考えようとしたが、何も思い浮かばなかった。ラーメンか、定食か、それとも他の何か。選択肢を並べれば並べるほど、どれも同じくらいどうでもいいような気がしてくる。結局、しばらく黙り込んでしまった結唯を見て、芦沢さんが小さく笑った。

    「じゃあ、俺が知ってるいい店連れて行っていい?」
    「はい、お願いします」

    ほとんど反射的に、結唯はそう答えていた。ほっとした自分に、気づいてはいた。何を食べるか、どこに行くか。そうした小さな選択のひとつひとつを、芦沢さんに委ねることに、結唯はもう、ほとんど抵抗を感じなくなっていた。連れて行かれた店は美味しかったし、それで何も困ることはなかった。ただ、店を出るとき、結唯はふと、今日一日、自分が何かを決めた瞬間があっただろうかと考えたけれど、結局思い当たらなかった。
    もっとも、それを気に病むほどのことでもない、と結唯は結論づけた。美味しいものが食べられて、楽しい時間を過ごせたなら、誰が決めたかなんて、些細なことだと思った。

    ゴールデンウィーク明けの週末、サークル主催の交流会が開かれた。今学期から日本に来たばかりの留学生を招いて、簡単な自己紹介や日本語のミニゲームをする企画だった。結唯は受付と会場整理を任され、夏実と沙苗も準備で駆り出されていた。
    会場では、芦沢さんが留学生たちの輪の中心にいた。片言の英語と、身振り手振りと、覚えたてらしい簡単なフランス語を混ぜながら、緊張した面持ちの留学生たちを次々と笑わせている。

    「あの人、なんであんなに自然に話しかけられるんだろう」

    沙苗が紙コップを並べながら、感心したように言った。

    「留学してたからじゃない? 向こうでも、たぶんああやって誰かに話しかけてたんだと思うよ」

    結唯がそう答えると、夏実が横から茶々を入れた。

    「結唯、芦沢さんのことよく見てるね」
    「そんなことないよ、たぶん」
    「また、たぶんだ」

    三人で笑いながら、それでも作業の手は止めなかった。会が進むにつれて、緊張していた留学生たちの表情も少しずつ和らいでいく。芦沢さんが誰かの名前の発音を間違えて笑われ、それを気にする様子もなくもう一度挑戦している姿を、結唯は少し離れた場所から眺めていた。

    「俺、フランス語は独学だから、発音、結構怪しいんだよね」

    休憩中、結唯のところにやってきた芦沢さんが、そう言って笑った。

    「全然。ちゃんと通じてたと思います」
    「通じてたならよかった。ああいう場でちゃんと笑ってもらえると、こっちも安心する」

    結唯は、彼が誰かを笑わせるために、実はそれなりに気を張っているのだということに、初めて気づいた。誰にでも自然に話しかけられるように見える人にも、見えないところでの努力があるのだと思うと、遠かった存在が、また少し近くなった気がした。
    会が終わって、留学生たちが「楽しかった、ありがとう」と口々に言いながら帰っていくのを見送りながら、夏実が伸びをして言った。

    「なんか、いい会だったね」
    「うん。準備は大変だったけど」

    沙苗が頷きながら、余った菓子をこっそり摘んでいる。結唯もその隣で、同じように小さな達成感を味わっていた。誰か一人の手柄ではなく、みんなで作り上げた時間だった。この温度感が、結唯は嫌いではなかった。

    バイト先のカフェの帰り、偶然芦沢さんと鉢合わせたこともあった。

    「あれ、朝倉さん、珍しいね」
    「駅前のカフェでバイトしてて。さっき終わったところです。芦沢さんは?」
    「本屋でちょっとだけ。今日はもう終わり」

    どちらからともなく、駅までの道を並んで歩いた。他愛のない話ばかりだった。バイト先の変な客の話、サークルの企画が思うように進まない愚痴、最近見た映画の話。夏実や沙苗との会話とそう変わらない、軽い雑談だ。

    「今日、常連さんに、コーヒーの豆の産地変わったでしょって言われて。全然変わってないんですけど」
    「舌が肥えすぎてる人、たまにいるよね」
    「そうですよね。わたし、正直よくわからないです、豆の違いとか」
    「わからなくていいんじゃない。美味しく飲めれば」
    「それはそうですけど、なんか、プロっぽく振る舞えたらいいなって思っちゃいます」
    「そのままでいいと思うけどな」

    そんな会話が、二人の間には自然にあった。
    夏実たちといるときと違うのは、結唯が何かを決めなくても、会話が止まらないことだった。

    どこ行く?
    何食べる?

    と聞かれることもない。
    ただ並んで歩いて、話したいことを話して、駅で「じゃあ」と別れる。それだけの関係が、結唯にはひどく気楽だった。

    夏実や沙苗といる時間は、もちろん変わらずあった。三人での昼食も、放課後の他愛ない雑談も、これまで通り続いていた。ただ結唯の中で、芦沢さんと過ごすちょっとした時間の存在感が、少しずつ大きくなっていくのを、結唯自身はまだはっきりと自覚していなかった。

    「今度の交流イベント、当日の司会、朝倉さんもやってみる?」

    企画会議の終わり、塚原さんがそう振ってきたとき、結唯はいつものように「え、たぶん、無理です」と答えかけた。心臓が少し早くなる。人前で話すところを想像しただけで、手のひらがじんわり汗ばんだ。
    けれど、その前に芦沢さんが横から言った。

    「朝倉さん、人前で話すの苦手なタイプだと思う。裏方に回ってもらう方が、たぶん力を発揮できるんじゃないかな」

    塚原さんは「そう?」と首をかしげながらも、「じゃあ司会は久代で」とあっさり話を変えた。久代が「え、俺?」と声を上げるのを、周りが笑って見ていた。
    結唯は、断る理由をあれこれ考えなくて済んだことにほっとしていた。会議室を出るとき、芦沢さんと目が合って、彼が小さく笑いかけてきたのが見えた。
    その夜、部屋に帰ってから、結唯はふと今日のやりとりを思い出した。芦沢さんが止めてくれたこと。自分は人前で話すのが苦手だ。だから、あれは助けてもらったということだ。
    そう結論づけて、結唯はその日のことをそれ以上考えるのをやめた。ただ、布団に入る前に、なんとなくスマートフォンを開いて、芦沢さんとのトーク画面をもう一度見返している自分に、気づいていた。

    数日後、学食で夏実と沙苗と昼を食べていると、沙苗がふと言った。

    「結唯、最近芦沢さんとよく一緒にいるよね」
    「そう? 同じ班だからじゃない」
    「それだけ?」

    夏実がにやにやしながら聞いてくる。

    「それだけだよ、たぶん」
    「またたぶんだ。まあ、結唯がいいなら別にいいけど」

    夏実は特に深く追及することもなく、話題を変えた。ただ、沙苗が少しだけ心配そうな顔をしていたことに、結唯は気づいていた。

    「芦沢さんって、いい人そうだけど、なんか掴みどころないよね」

    沙苗がぽつりと呟いた一言に、結唯は少し引っかかった。

    「掴みどころない?」
    「うーん、誰にでも優しいっていうか。悪い意味じゃないんだけど」

    それ以上、沙苗は何も言わなかった。結唯もそれ以上は聞かなかった。ただ、その言葉は、しばらく頭の片隅に残った。誰にでも優しい人。それは、悪いことではない。ただ、自分に向けられている優しさと、ほかの人に向けられている優しさの違いってなんなのか、結唯はふと考えて、そしてすぐに、そんなふうに考えること自体をやめた。

    第四章

    六月に入ると、サークルの活動はさらに本格的になった。留学生を招いての交流会、学園祭に向けた企画の準備、前期の締めくくりとなる懇親会。予定はいくつも重なり、結唯の一週間は、気づけば芦沢さんと過ごす時間を中心に回るようになっていた。

    「今日、篠田さんたちとご飯行く約束してたんじゃないの?」

    サークルの片付けを終えた後、芦沢さんに尋ねられた。

    「あ……、してました」
    「行かなくていいの?」
    「ここの作業、まだ終わってないので。それに、夏実たちとはいつでも行けるから」

    そう言いながら、結唯は夏実にメッセージを送った。

    《ごめん、今日遅くなるからご飯また今度で》

    短い一言。既読はすぐについて、夏実からは《了解ー》というスタンプだけが返ってきた。それで済んでしまうことに、結唯はむしろ安心した。誰も怒らない。誰も責めない。ただ、予定がひとつ、なかったことになるだけだ。
    似たようなことは、その後も何度かあった。

    買い物
    映画
    新しくできたカフェ

    どれも、結唯にとって楽しみにしていた予定だったはずなのに、サークルの作業や、なんとなく芦沢さんと話す流れになったことを理由に、少しずつ後回しにしていった。
    新しくできたカフェの話は、もともと結唯が「行きたい」と言い出したものだった。SNSで見つけた、クロワッサンが評判の店。夏実と沙苗も乗り気で、三人で行こうと約束していた日の朝、芦沢さんから《今日、企画書の締め切り明日だったの忘れてて、手伝ってもらえたりする?》というメッセージが届いた。

    結唯は少し迷ってから、夏実に《ごめん、今日行けなくなった》と送った。自分から言い出したことだったのに、結局、行かなかった。後日、夏実が写真を見せてくれたクロワッサンは、想像していた通り美味しそうだった。
    《今度また行こうね》
    という夏実の言葉に、結唯は《うん、ごめん》と返したけれど、次にその話が出ることは、それきりなかった。

    企画書は、結局その日のうちに無事完成した。手伝い終えて肩の力を抜く芦沢さんの顔を見ると、結唯は、行けなかったカフェのことは、もうそれほど気にならなくなっていた。
    サークル棟に残って作業を続けるうち、いつの間にか他のメンバーは帰っていて、部屋には結唯と芦沢さんの二人だけになっていることが増えた。
    蛍光灯の白い光の下、パンフレットの割り付けをしながら、芦沢さんはぽつぽつと留学中の話をした。
    市場で値切りに失敗した話。
    言葉が通じなくて、身振り手振りだけで一時間かけて道を聞いた話。
    ホームシックになって、深夜に日本のコンビニのおにぎりの写真を検索していた話。

    結唯はそのたびに、笑ったり驚いたりしながら、聞き入った。

    「よくそんなに覚えてますね、細かいこと」
    「朝倉さんに話してると、忘れてたことまで思い出すんだよね」

    そう言われると、結唯は自分が特別な役割を与えられたような気がした。芦沢さんの話を聞く人。芦沢さんが話したいと思う相手。それは、これまでの結唯にはなかった立場だった。蛍光灯の光の下で、二人分の作業音だけが、静かに部屋を満たしていた。

    夏実や沙苗といるときの結唯は、いつも「合わせる人」だった。何を食べるか、どこへ行くか、二人が決めたことに頷く役割。けれど、芦沢さんといるときの結唯は、「聞く人」だった。似ているようで、少し違う。聞くことにも、選ばれているような感覚があった。誰でもいいわけじゃない、自分だからこそ話してくれている。そう思うと、単純に嬉しかった。
    ある日の作業の合間、芦沢さんが珍しく、笑い話ではない話をしたことがあった。

    「向こうにいたとき、一度だけ、本気で帰りたいと思った時期があってさ」

    いつもの軽い調子とは違う、少し低い声だった。結唯は資料をまとめる手を止めて、彼の言葉の続きを待った。

    「クリスマスの時期だったんだけど、周りはみんな家族と過ごすでしょ。俺だけ寮に一人残ってて。スーパーも早くに閉まっちゃって、コンビニもないし、開いてる店を探して真っ暗な道をずっと歩いた」
    「それで、見つかったんですか、お店」
    「結局見つからなくて、寮に戻って、非常食のクラッカーだけ食べて寝た。あのときは、なんで自分はこんな遠くに来たんだろうって、本気で思ったよ」

    苦笑いを浮かべながら、そう話した。結唯は、それを笑い話として受け取ることができなかった。むしろ、彼のいつもの余裕のある表情の裏に、そんな夜があったことに、胸が締めつけられるような気持ちになった。

    「誰にも、その話したことないんですか?」
    「うーん、あんまり。暗い話だし、みんな留学って聞くと、キラキラした話を期待してる気がして」
    「わたしは、聞けてよかったです」

    そう言うと、芦沢さんは少し驚いたように結唯を見た。それから、ふっと表情を緩めた。

    「朝倉さんになら、話してもいいかなって思うんだよね、なんか」

    その一言に、結唯は自分の中で何かがまた一段階近づいたのを感じた。誰にも見せない部分を見せてもらえている。そのことが、結唯にとっては、これまでのどんな優しい言葉よりも、深く心に残った。

    ある夜、二人で大学近くの定食屋に寄ったことがあった。カウンター席に並んで座り、日替わりの生姜焼き定食を頼む。湯気の立つ味噌汁を挟んで、会話は自然と続いた。店の古いラジオから、聞き覚えのある歌謡曲が小さく流れていた。

    「朝倉さんは、留学とか、興味ないの?」
    「うーん、たぶん、ないです。想像もできないっていうか」
    「そうなんだ。もったいない気もするけど」
    「もったいないですか?」
    「知らない場所に行くとさ、自分が何にもできない人間だってことを、いちいち思い知らされるんだよ。それが結構、こたえる」

    芦沢さんは少し笑いながら、そう言った。箸を止めて、少し遠い目をする。

    「言葉が通じない、道もわからない、当たり前だと思ってたことが全部通用しない。最初の三ヶ月は、正直、毎日ちょっとずつ削られていく感じだった」
    「そんなふうには見えないです」
    「見えないように頑張ってたからね」

    結唯は、その言葉に少し胸を突かれた。誰かに慣れているように見える芦沢さんにも、そんな時間があったのだと思うと、彼のことがまた少し違って見えた。

    「でも、朝倉さんは今のままでも、別にいいと思う。無理に知らない場所に行かなくても」

    その言葉を聞いたとき、結唯の中で、何かが静かに定まった気がした。行かなくていい。知らなくていい。芦沢さんがその世界を知っていて、自分にその一部だけを分けてくれるなら、それで十分だと思った。
    外に出て、自分が何もできないことを思い知る必要はない。芦沢さんがいれば、知らない世界のことは、彼の言葉を通して知ることができる。それは結唯にとって、ひどく都合の良い発見だった。

    「芦沢さんといると、なんか、ここにいるだけでいい気がします」

    言ってしまってから、結唯は少し恥ずかしくなった。けれど芦沢さんは、驚いた様子もなく、静かに笑った。

    「うん。ここなら大丈夫だよ」

    その言葉が、結唯の中にすとんと落ちた。ここなら大丈夫。何かを証明しなくていい。何かを決めなくていい。ただ、ここにいれば。
    定食屋を出て、夜道を並んで歩きながら、結唯は妙に満たされた気持ちになっていた。何かが手に入ったわけではない。ただ、何かを求めなくてよくなった、という感覚だった。空を見上げると、街灯に負けて星はほとんど見えなかったけれど、それすら気にならなかった。

    その週の土曜、特に予定もなく部屋でだらだらしていると、夏実たちとのグループメッセージを見た。明日、三人で遠出しようという話が進んでいる。隣町にできた水族館に行こう、という誘いだった。前なら真っ先に「行きたい」と返していたはずだ。けれど今は、その計画を見ても、心が大きく動かなかった。

    《明日、たぶん難しいかも》

    そう返信を打ちながら、結唯は自分でも、なぜそう思ったのか、うまく説明できなかった。特に予定が入っているわけではない。ただ、なんとなく、今のままでいい、という感覚だけがあった。水族館よりも、あの定食屋のカウンター席の方が、今の自分にはずっと大事なことのように思えた。
    送信ボタンを押した後、結唯はしばらく画面を見つめていた。既読がついて、夏実から《了解、また今度誘うね》というメッセージが返ってくる。誰も、結唯を責めない。だからこそ、結唯は自分の中に生まれた小さな変化に、まだ気づくことができなかった。

    週明け、学食で夏実と沙苗に会うと、二人は開口一番、水族館の話をした。

    「すごいクラゲの水槽があってさ、写真撮りまくった」

    沙苗がスマートフォンを差し出して、青く光る水槽の写真を何枚も見せてくる。結唯はそれを覗き込みながら、「わあ、綺麗」と素直に声を上げた。本当に綺麗だと思った。同時に、その場に自分がいなかったことを、写真を見て初めて実感するような、奇妙な感覚があった。

    「結唯も来ればよかったのに」

    沙苗が悪気なく言う。

    「今度、また行こうよ。夏休みとか」
    「うん、夏休みならたぶん大丈夫」

    そう答えながら、結唯は自分の「たぶん」が、以前とは少し違う響きを持ち始めていることに、まだ気づいていなかった。以前の「たぶん」は、決められないことへの言い訳だった。今の「たぶん」には、行けるかどうかを自分の中で測っているような、小さな計算が混ざっていた。誰と、いつ、何をするか。その優先順位の中で、水族館は、もう上にはなかった。
    写真を見終えて、三人でいつも通りの雑談に戻った。けれどその途中、結唯のスマートフォンが震えた。画面をちらりと見ると、芦沢さんからのメッセージだった。

    「ごめん、ちょっと返信していい?」
    「いいけど」

    夏実がそう言いながら、結唯の手元をちらりと見た。特に何かを言うわけではなかったけれど、その視線に、結唯は少しだけ気まずさを覚えた。返信を打ち終えて顔を上げると、夏実と沙苗はすでに次の話題に移っていて、結唯は少し遅れてその会話に加わった。

    「結唯、最近スマホよく見てるね」

    沙苗がふと言った。責める調子ではなかったけれど、結唯は「そう?」と、早口で返してしまった。

    「サークルの連絡、色々来るから」
    「そっか」

    それ以上、話は続かなかった。三人はまた別の話題で笑い合ったけれど、結唯はその日一日、水族館の青い水槽の写真と、夏実の短い「そっか」が、頭のどこかに引っかかったまま過ごした。

    第五章

    六月も後半に差しかかり、キャンパスの木々はすっかり青々とした葉を茂らせていた。校門前の掲示板には、もう夏の集中講義の案内が貼り出され始めていた。

    「あ、それもう決めたよ。先週話したじゃん」

    学食でのその一言に、結唯は一瞬、反応が遅れた。

    「そうだっけ……」
    「言ったよ、サークルの後に。結唯、あの日いなかったっけ」

    夏実は特に気にする様子もなく、話を続けた。
    学園祭の展示テーマは『世界の食卓』に決まったらしい。各国の料理を紹介するコーナーを作って、写真パネルと試食を用意する案が通ったという。いつの間にか、そんなことが決まっていた。

    「ごめん、その日たぶん、芦沢さんたちと作業してて」
    「ああ、なるほどね」

    夏実はそれ以上何も言わず、沙苗と次の話題に移っていった。展示のレイアウトをどうするか、写真は誰が集めるか。話はどんどん先に進んでいく。結唯は相槌を打ちながら、その輪の少し外側にいるような感覚を覚えた。責められたわけではない。ただ、置いていかれた、という感覚だけが、結唯の中にひっそりと残った。

    その後も何度か似たようなことがあった。
    三人で決めていたはずの飲み会の日程。
    サークルの誰かの誕生日サプライズの相談。
    学園祭の当日シフト。

    気がつけば、結唯だけがその場にいなくて、後から結果だけを知らされることが増えていた。
    誕生日サプライズの件では、後になって、結唯だけがケーキの絵文字のスタンプで祝うだけの役になっていたことに気づいた。プレゼントを何にするか、いつ集まって渡すか、そうした相談は別のグループチャットで進んでいたらしく、結唯がそれを知ったのは、当日の集合場所を教えてもらったときだった。仲間はずれにされたのではない。ただ、声をかける側が、いつからか「結唯はたぶん来られないだろう」と考えるようになっていた。

    「久代くん、最近あんまり絡んでこないね」

    ある日、沙苗がふと言った。

    「そう?」
    「結唯にはよく話しかけてた気がするけど、最近見ないなって」

    言われてみれば、確かにそうだった。前は学食で会えば必ず何か軽口を叩いてきた久代が、最近は「よっ」程度の挨拶で終わることが多い。悪気があるわけではなさそうだった。ただ、以前ほど、二人の間に会話の糸口がなくなっている気がした。バイトのシフトが被る日も、以前は一緒に休憩を取っていたのに、最近はなんとなく時間がずれている。
    思えば、久代から映画やゲームの話を振られても、最近はうまく相槌が打てていなかった。話題についていけていないのではなく、そもそも、その話をする時間そのものが減っていた。
    でも、きっと大学生活なんて、こういうものだ。学年が上がれば、みんなそれぞれ忙しくなる。サークルの中でも役割が分かれて、話す相手も自然と変わっていく。変わるのは仕方ないことだ。誰のせいでもないし、誰も悪くない。
    そう自分に言い聞かせるたび、結唯は、胸の奥に小さな石を飲み込んだような感覚を覚えた。痛くはない。ただ、そこにあることだけは、はっきりとわかった。
    サークルの定例会議で、結唯はいつからか、夏実や沙苗の隣ではなく、芦沢さんの近くの席に座るようになっていた。誰かがそう決めたわけではない。ただ、会議室に入ったとき、自然と足がそちらに向くようになっていた。
    その日も、結唯が芦沢さんの隣に腰を下ろすと、少し遅れて入ってきた夏実が、一瞬だけ視線をこちらに向けた。何か言うわけではなかった。ただ、いつもの結唯の定位置に、沙苗と並んで座る。結唯はその一瞬の視線に気づいていたけれど、気づかなかったふりをした。
    会議の後、廊下で久代に会った。

    「結唯、期末の過去問持ってるって言ってたよな。あれ、今度貸してよ」
    「あ、うん、たぶん、家のどっかにあると思う」
    「たぶんって、大丈夫か?」

    久代が笑いながら言うのに、結唯はうまく返事ができなかった。頭の中では、さっきの会議での芦沢さんとのやりとりのことを、まだ少し考えていた。

    「ごめん、ちゃんと探しとく」
    「別に急いでないから、いいけど」

    久代は特に気にした様子もなく、軽く手を振って去っていった。それだけのやりとりだったのに、結唯はなぜか、うまく話せなかった自分に、小さな苛立ちを覚えた。以前なら、もっとすぐに軽口を返せたはずだった。過去問の話から、いつものように脱線して、くだらない話で盛り上がれたはずだった。
    けれど今の自分には、そのための余白のようなものが、足りなくなっている気がした。理由はうまく説明できない。ただ、頭の中の容量の多くが、ほかのことで占められているようだった。

    その週末、サークルのグループチャットに、新しいアルバムが共有された。先週末、有志で行った日帰りのバーベキューの写真だった。結唯はその日、芦沢さんと資料作りをしていて参加していなかった。
    写真をスクロールしていくと、夏実が炭をおこしている写真、沙苗が肉を焦がして久代に笑われている写真、塚原さんが仕切っている集合写真。見慣れた顔ぶれが、見慣れない場所で、楽しそうに笑っていた。
    自分がいない集合写真を見るのは、思っていたより奇妙な感覚だった。仲間はずれにされたわけではない。ただ声をかけられて、自分が行かなかっただけだ。それなのに、写真の中に自分の場所がぽっかりと空いているのを見ると、まるで自分がその日、存在していなかったかのような気がした。結唯は、その写真に一つも「いいね」を押せないまま、アプリを閉じた。

    《バーベキュー楽しかったよー》
    と、後から夏実がメッセージを送ってきた。

    《今度は結唯も来てね》

    責める言葉は一つもなかった。それがかえって、結唯の胸を静かに締めつけた。
    芦沢さんとの時間は、相変わらず心地よかった。むしろ、以前より頻度が増えていた。

    《明日、サークル来る?》
    《今週の予定、どんな感じ?》
    《土曜、空いてる?》

    芦沢さんからのメッセージは、いつも結唯の予定を尋ねるところから始まった。最初は、それを気にかけてもらっている証拠だと思っていた。誰かに自分の予定を尋ねられるのは、悪い気分ではない。むしろ、必要とされているようで、嬉しかった。

    《土曜、たぶん空いてます》

    そう返信するとき、結唯はもう、夏実たちとの約束が入っていないかを確認することを、無意識のうちにやめていた。芦沢さんとの予定を優先する。それが、いつからか当たり前になっていた。
    一度、うっかり予定が重なってしまったことがある。夏実たちとのカラオケの予定と、芦沢さんからの《土曜、空いてる?》というメッセージが、同じ日にぶつかった。結唯は少し悩んだ末、《土曜、たぶん大丈夫です》と芦沢さんに返信し、夏実には《ごめん、その日ちょっと用事できた》とだけ伝えた。用事の中身を、結唯は言わなかった。言わなくても、夏実は《オッケー、また今度ね》とすんなり流してくれた。
    そのすんなり流してくれることに、結唯は少しずつ甘えるようになっていた。

    「結唯、最近、前より忙しそうだね」

    ある日、沙苗がぽつりと言った。責めるような響きはなかった。ただ、少し寂しそうな声だった。

    「そう、かな。サークルの作業が立て込んでて」
    「そっか」

    沙苗はそれ以上何も聞かなかった。夏実も、特に何も言わなかった。結唯はそのことに、ほっとした。何も聞かれなければ、何も説明しなくていい。
    その週末、実家の母から電話があった。「最近どう、元気にしてる?」といういつもの質問に、結唯は「うん、サークルとか友達とか充実してるよ」と答えた。けれど具体的なことは、何も言わなかった。隠しているつもりはなかったが、説明するのも面倒な気がして、「サークルとか友達とか」という言葉に、全部をまとめてしまった。

    「無理しないでね」

    母のその一言に、結唯は「うん、大丈夫」といつも通り答えて電話を切った。大丈夫、という言葉が、自分の口からあまりにも簡単に出てくることに、違和感を覚えた。スマートフォンをテーブルに置いて、結唯はしばらくその画面が暗くなるのを眺めていた。

    その夜、部屋に帰ってから、結唯はぼんやりと今日の会話を思い返した。沙苗の「そっか」という一言が、なぜか耳に残っていた。何かを飲み込んだような、短い相槌だった。
    けれど結唯は、その理由を深く考えることをしなかった。人の関係なんて、変わるものだ。みんな忙しい。変わるのは仕方ないことなのだ。
    そうやって、結唯はまたひとつ、考えることをやめた。窓の外では、梅雨の終わりを思わせる生ぬるい風が、カーテンを小さく揺らしていた。

    第六章

    七月に入って、蒸し暑い日が増えた。サークルの活動も落ち着き始めて、もう新歓期の頃の慌ただしさは過ぎ去っていた。それでも、結唯と芦沢さんとの二人で過ごす時間は、減るどころか、むしろ習慣のようになっていた。
    月初めに開かれた交流会では、結唯は自然と芦沢さんの隣で動くようになっていた。飲み物を運ぶのも、留学生への簡単な通訳を手伝うのも、気づけば二人一組のような動きになっている。

    「芦沢、最近朝倉さんと息ぴったりだね」

    塚原さんがそう言って笑ったとき、結唯は照れ笑いを返しながらも、悪い気はしなかった。誰かに、二人のことを一つの単位のように見られる。それは、これまでの結唯にはなかった感覚で、どこか誇らしいような、くすぐったいような気持ちにさせた。

    会が終わった後、夏実が結唯の肩を小突いて「すっかりお似合いじゃん」と茶化してきた。結唯は「そんなんじゃないよ」と返しながら、内心では、その言葉を否定しきれない自分に気づいていた。片付けを終えた会場には、二人分の足音だけがしばらく響いていた。

    《今日は来る?》

    朝、目が覚めると、たいてい芦沢さんからそんなメッセージが届いていた。

    《予定は?》
    《大丈夫? 無理しないでね》

    その言葉のひとつひとつに、結唯は温かさを感じていた。誰かが自分の一日を気にかけてくれている。それは、これまでの結唯の生活にはなかった感覚だった。夏実や沙苗は、結唯の予定をいちいち尋ねたりしない。約束があれば集まるし、なければそれぞれ別のことをする。それが普通の距離感だった。
    けれど芦沢さんは違った。毎日のように、結唯の一日を確認した。そのことが、結唯にとっては愛情の証拠のように感じられた。誰かに気にかけられている、必要とされている。そう思うだけで、雨で薄暗い朝も、少しだけ明るく感じられた。

    《今日、雨だから傘忘れないでね》
    《今日の講義、何限まで?》
    《終わったら教えて》

    ひとつひとつは、ささやかな気遣いだった。傘を忘れないでという言葉に、悪意などあるはずもない。結唯はそのメッセージに、律儀に

    《傘持ちました》
    《三限までです》
    《終わりました》

    と返信するのが、いつの間にか一日のリズムの一部になっていた。返信し忘れると、なんとなく落ち着かない気持ちになる自分にも、自分でもまだ気づいていなかった。
    ある日、講義が長引いて、《終わったら連絡して》への返信を忘れたまま、図書館で調べものをしていたことがあった。ふと気づいてスマートフォンを見ると、二時間近く経っていた。芦沢さんからの新しいメッセージは来ていなかったけれど、結唯は妙に落ち着かない気持ちになり、慌てて《すみません、今終わりました》と打った。
    既読はすぐについたが、返信は少し間があってから来た。
    《うん、お疲れさま》
    それだけの、いつも通りの言葉だった。それなのに、結唯はその二時間の間、自分がずっと何かを気にしていたことに気づいて、少し戸惑った。何を気にしていたのだろう。芦沢さんが心配するかもしれないことだろうか。それとも、返信をしなかったことで、何かが変わってしまうかもしれないという、漠然とした不安だろうか。
    その夜、沙苗と電話で話していたときのことだった。

    「結唯、なんか今日予定あるの?」
    「え?」
    「なんか、ずっと上の空な感じする」

    沙苗にいわれて、結唯は初めて気づいた。特に何か約束があるわけでもないのに、無意識のうちに連絡が来ていないか考えてしまう。いつからそうなったのか、自分でもはっきりとは思い出せなかった。電話の向こうで、沙苗は特に深く追及するでもなく、次の話題に移っていった。

    「ごめん、なんでもない」

    そう答えながら、結唯は自分の言葉が、自分に向けた言い訳のように聞こえることに、うっすらと気づいていた。

    夏休みが近づくと、大学は期末試験の空気に包まれ始めた。図書館の自習席はほとんど埋まり、学食でもみんな参考書を広げて勉強するようになる。結唯もその例に漏れず、試験対策に追われていた。
    去年は、テスト前になると夏実の部屋に三人で集まって、お菓子を持ち寄りながら勉強会をするのが恒例だった。今年もその話が出たとき、結唯は「行けたら行く」と答えたきり、結局一度も顔を出さなかった。芦沢さんとの予定が、いつも先に埋まっていたからだ。

    「結唯来ないんだ」

    沙苗が少し残念そうに言ったのを、風の噂で聞いた。直接言われたわけではなかったけれど、その一言は、結唯の中で小さく尾を引いた。

    「一緒に勉強する?」

    芦沢さんがそう誘ってくれたのは、ありがたいことだった。二人でカフェに行き、それぞれの教科書を広げる。芦沢さんは要領がよく、結唯がつまずいている統計の問題を、わかりやすく説明してくれた。

    「ここ、こう考えるとわかりやすいよ」
    「あ、なるほど、そういうことか」

    教えてもらうこと自体は、単純にありがたかった。ただ、いつからか、結唯は自分でまず考えてみる前に、芦沢さんに聞いてしまう癖がついていた。わからない問題があると、教科書を読み返すより先に、《これ、どう考えればいいですか》とメッセージを送る。答えはすぐに返ってくる。それで問題は解決するけれど、自分でたどり着いた、という感覚は、いつまでも得られなかった。カフェの窓の外を、傘をさした学生たちが足早に通り過ぎていくのを、結唯はぼんやりと眺めた。

    「朝倉さん、この調子だと、試験本番も俺に聞きたくなっちゃうんじゃない?」

    芦沢さんが冗談めかして言ったとき、結唯は笑って「まさか」と返したけれど、内心、図星を突かれたような気がしていた。
    試験勉強の計画も、いつの間にか芦沢さん主導になっていた。

    この教科から先にやろう
    今日はこの範囲まで

    結唯は素直にそれに従った。従うことに、疑問を持つことはなかった。効率的だし、一人でやるより捗る。そう自分に言い聞かせていた。カフェを出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
    ある日、結唯がそう伝えると、芦沢さんは少し間を置いてから言った。

    「今日、夏実たちとカフェ行く予定なんですけど」
    「そっか。楽しんできて」
    「あ、でも、その前に、サークルの作業、手伝おうと思ってて」
    「無理しなくていいのに」
    「ううん、大丈夫。たぶん、そっちを先に済ませてから行きます」

    そう言いながら、結唯は自分がいつのまにか、夏実たちとの約束より先に、芦沢さんとの作業を優先させていることに、はっきりとは気づいていなかった。ただ、芦沢さんとの時間を後回しにすることに、小さな抵抗を感じる自分がいた。資料の束を整理し終える頃には、約束の時間はとっくに過ぎていた。
    結果として、結唯はその日、カフェには一時間遅れて合流した。窓際の席に座っていた夏実と沙苗は、すでにドリンクを飲み終えかけていた。

    「結唯、遅かったね」

    夏実が、責めるでもなく、ただ事実として言った。

    「ごめん、サークルの作業が長引いて」
    「そっか、おつかれさま」

    夏実はそれ以上何も言わず、話題を変えた。最近見たドラマの話、来月のテスト範囲の話。結唯はその会話に加わりながらも、どこか上の空だった。芦沢さんに《着きました》と一言連絡を入れるのを忘れていたことに気づき、テーブルの下でこっそりメッセージを送る。返信はすぐに来た。
    《オッケー、楽しんで》
    その一言に、結唯はほっと胸を撫で下ろした。
    その仕草を、夏実が見ていないとは限らなかった。結唯はほっとしながらも、胸の奥に、うまく言葉にできない思いを抱えていた。夏実の短い相槌が、いつもより素っ気なく聞こえた気がした。
    その日の帰り道、芦沢さんからメッセージが届いた。

    《今日、ごめんね。引き止めたみたいになって》
    結唯は少し驚いた。芦沢さんがそんな風に謝るのは、珍しいことだった。

    《ううん、わたしが決めたことなので》
    《そう言ってもらえると助かる。でも、朝倉さんには朝倉さんの時間があるんだから、俺にそんなに合わせなくていいんだよ》

    その言葉を読んで、結唯は胸の奥がざわついた。合わせなくていい、と言われたのに、なぜか、突き放されたような気がした。

    《合わせてるつもりはないです。自分で決めてます》

    そう返信を打ちながら、結唯は自分の言葉に、わずかな違和感を覚えた。本当に、自分で決めているのだろうか。
    少し間を置いて

    《そっか、それならよかった》

    とだけ返ってきた。それきり、その話題は終わった。

    結唯は、芦沢さんが時折見せる、ふとした戸惑いのような表情を思い出した。まるで、自分が何かを結唯から取り上げてしまったことに、うっすらと気づいているような。けれど、それを言葉にして確かめる勇気は、結唯にはまだなかった。スマートフォンの画面を閉じて、結唯はしばらくベッドに横になったまま、天井を見つめていた。

    それから何日か経った、蒸し暑い午後のことだった。サークルの部室で、結唯は一人で交流会の資料を整理していた。そこへ、久代がひょっこり顔を出した。

    「あれ、結唯、一人?」
    「うん、芦沢さん、今日は用事あるみたいで」
    「珍しい」
    「珍しい?」
    「だって最近コンビみたいな感じだろ」

    軽口のつもりだったのだろう、久代はそう言って笑った。けれど結唯は、その言葉に少しだけ棘を感じた。自分と芦沢さんの関係を、周りがどう見ているかを示しているようで、落ち着かなかった。

    「別にコンビとかじゃ、ないけど」
    「あ、ごめん、そういう意味で言ったんじゃなくて」

    久代は少し慌てたように手を振った。それ以上、その話には触れなかったけれど、結唯はその日、久代とうまく話せなかった気がした。前ならもっと自然に軽口を返せたはずなのに、言葉がうまく出てこない。久代が部室を出て行った後、結唯はしばらく、資料を整理する手を止めて、窓の外を眺めていた。
    その少し後、資料を職員室前のコピー機に出しに行った帰り、結唯は廊下の角で、塚原さんと芦沢さんが立ち話をしているのを見かけた。声をかけようとして、けれど何となく、そのまま足を止めた。

    「芦沢、最近、朝倉さんとずっと一緒だよな」

    塚原さんの声が、廊下の静けさの中で、思いのほかはっきりと聞こえた。責めているような口調ではなかった。ただの世間話のようでもあり、探るような響きもあった。

    「そうだな」

    芦沢さんの声は、いつもよりわずかに低かった。

    「別に悪いって言ってるわけじゃないけど。篠田さんたちが、なんか気にしてるみたいなこと言ってたから」
    「……そうか、なんか悪いな」

    芦沢さんはそれ以上、何も言わなかった。塚原さんもそれきり話題を変えたようだった。二人は連れ立って、廊下の反対側へ歩いていった。
    結唯は、コピーした資料を抱えたまま、しばらくその場に立っていた。
    夏実たちが、気にしている。
    その言葉が、思いのほか重く胸に落ちた。同時に、芦沢さんの短い返事に含まれていた、微かな戸惑いのようなものも、気になって仕方なかった。廊下の窓から差し込む光が、二人の消えていった方向をぼんやりと照らしていた。

    聞くつもりのなかった会話だった。聞いてしまったことを、結唯は誰にも言わなかった。芦沢さんにも、夏実にも。ただ、その日から、結唯の中で、何かがほんの少しだけ、軋むような音を立て始めていた。

    夕方、部室を出ようとしたところで、芦沢さんから電話がかかってきた。

    「もしもし、今日、結局サークル行けた?」
    「はい、資料の整理だけ済ませました」
    「そっか、お疲れさま。今からでも会える? ちょっと話したいことあって」

    結唯は少し迷ったが、「大丈夫です」と答えていた。頭の中には、今日提出しなければならない小レポートのことがちらついていたけれど、それを口にすることはなかった。

    駅前のベンチで待ち合わせて、芦沢さんは特に大した用件もなく、ただ最近あった出来事を話しただけだった。留学時代の友人から連絡が来たこと、就活を意識し始めた先輩たちの話。結唯はそれを聞きながら、頭の片隅で、まだ手をつけていないレポートのことを考えていた。

    「朝倉さん、なんか上の空?」
    「あ、いえ、大丈夫です」
    「無理してない?」
    「無理、してないです」

    そう答えながら、結唯は自分の言葉に、わずかな苦さを感じていた。無理はしていない。ただ、少しずつ、何かを後回しにする癖がついているだけだ。レポートも、夏実たちとの時間も、久代との軽口も。全部、「また今度」で片付けられるようになっていた。

    その夜、レポートを書き終えたのは、日付が変わる直前だった。ぎりぎり間に合ったことに安堵しながら、結唯はふと、こんなに追い詰められたのはいつ以来だろうと考えた。以前の自分なら、もっと余裕を持って提出していたはずだった。
    その週の終わり、夏実からめずらしく、《二人きりで会いたい》という連絡が来た。指定されたのは、いつもの学食ではなく、大学から少し離れたカフェだった。

    「どうしたの、改まって」

    結唯が笑いながら席に着くと、夏実は少し真面目な顔をしていた。

    「結唯、最近、大丈夫?」

    直球で聞かれて、結唯は一瞬、言葉に詰まった。

    「大丈夫だよ。なんで?」
    「いや、なんとなく。前より会う回数減ったし、結唯、なんか、前より自分の予定、自分で決めてない感じがして」

    夏実の言葉は、思いのほか的確だった。結唯は、それを認めることも、否定することも、どちらもうまくできなかった。

    「そんなことないよ、たぶん」
    「またたぶんだ」

    夏実は小さく笑ったけれど、それ以上は深く踏み込んでこなかった。ただ、コーヒーカップを両手で包みながら、少し寂しそうに言った。

    「結唯がそれでいいなら、いいんだけどさ」

    その言葉には、責める響きも、引き止める響きもなかった。ただ、心配している、というだけの、まっすぐな言葉だった。結唯はその夜、部屋に帰ってからも、夏実の「それでいいなら」という一言を、何度も思い返した。いいのかどうか、自分でもまだ、はっきりとはわからなかった。

    自分の予定を、自分で決める前に、まず芦沢さんとの関係を基準にして考えている。そのことに、結唯はまだ、はっきりとは気づいていなかった。ただ、夏実の素っ気ない相槌と、久代の気まずそうな顔と、芦沢さんの言葉が、その夜、いつまでも頭の中で交互に響いていた。

    第七章

    大学の中庭では、期末に向けたレポート課題の話題が飛び交うようになっていた。結唯の生活は、相変わらず芦沢を中心に回っていたけれど、そのことに疑問を持つことは、もうほとんどなくなっていた。慣れる、というのは、そういうことなのかもしれない。

    ある日の講義の合間、結唯はふと、自分のノートを見返していて、几帳面な文字が並ぶページの端に、いつの間にか予定のメモが増えていることに気づいた。

    資料まとめ
    サークル、交流企画
    カフェ、本屋

    ノートの端に並ぶ言葉の中に、名前は書かれていなかった。それでも誰との約束なのかは明らかだった。
    それに気づいたとき、結唯は一瞬だけ手を止めた。けれど、講義のチャイムが鳴って、それはすぐに講義の内容にかき消されてしまった。

    その日の夜、部屋の本棚を整理していて、結唯は隅に追いやられていた古い読書ノートを見つけた。去年の春から書き始めた、読んだ本の感想を書き留めるだけの簡単なノートだった。最後のページを開くと、日付は二ヶ月以上前で止まっていた。
    以前は、寝る前に少しずつでも本を読んで、気になった一文を書き写すのが習慣だった。誰に見せるでもない、自分だけのための時間だった。それが、いつのまにか途絶えていた。忙しかったから、というのは簡単だ。けれど、忙しさの中身のほとんどが、芦沢との時間だったことを思うと、素直にそう片付けてしまっていいのか、少しだけ迷いが生まれた。

    ノートを閉じて本棚に戻しながら、結唯は、自分一人のためだけの時間が、この数ヶ月でどれだけ減っていたかを、初めてぼんやりと数えてみようとした。数えようとして、うまく思い出せないことに気づいた。棚に戻したノートの背表紙が、他の本に埋もれて見えなくなるのを、結唯はしばらく見つめていた。
    その週の半ば、サークル棟の廊下で、夏実とばったり会った。

    「あ、結唯。ちょうどよかった、来月頭に旅行行こうって話、盛り上がっててさ」
    「旅行?」
    「うん、沙苗と、あと何人かで。日程調整してたんだけど……」

    そこまで言って、夏実は少し言葉を切った。廊下の窓から差し込む光が、夏実の横顔を白く照らしていた。

    「あ、でも結唯、最近忙しいよね。無理にとは言わないけど」

    悪気なく、本当に何気なく、夏実はそう言った。誘っているのか、誘っていないのか、自分でもよくわからないような言い方だった。
    結唯は「たぶん、行けたら行く」と、いつも通りの返事をした。夏実は「オッケー、決まったら連絡する」と言って、軽く手を振って去っていった。
    それだけのやりとりだった。責められたわけでもない。仲間はずれにされたわけでもない。ただ、その一言が、結唯の中に妙に長く残った。
    無理にとは言わないけど。
    その言葉の裏にあるものに、結唯は初めて、はっきりと気づいた。夏実はもう、結唯が来るかどうかを、前提として期待していない。誘われないわけではない。ただ、断られることを、最初から織り込んで誘っている。

    いつから、そうなったのだろう。
    結唯は廊下に立ち尽くしたまま、しばらく夏実が去っていった方向を見つめていた。去年の春、右も左もわからないまま二人についていったときのことを思い出す。あのときの自分と、今の自分の間に、いつのまにか薄い膜のようなものができている気がした。誰が作ったわけでもない。ただ、少しずつ、積み重なってできた膜だった。廊下を吹き抜ける風が、結唯の前髪を軽く揺らして通り過ぎていった。

    その日の夕方、サークル棟に残って、結唯は芦沢と二人で夏の企画資料をまとめていた。窓の外はまだ明るく、梅雨の合間の湿った風が入り込んでくる。長机の上には、印刷したばかりのパンフレットの束が積まれていた。

    「そういえば、篠田さんたちと旅行行くって?」
    「あ、うん。誘われました。行けたら、だけど」
    「行くの?」

    その質問に、結唯は少し言葉に詰まった。行きたいのかどうか、自分でもよくわからなかった。

    「わからないです、たぶん。でも、ここの作業もあるし」
    「そんなの気にしなくていいのに」

    芦沢はそう言いながら、資料をめくる手を止めなかった。責める調子ではない。いつも通りの、優しい声だった。

    「作業は俺がやっておくから、行っておいでよ」

    結唯は、その言葉に何かを言い返そうとして、うまく言葉が出てこなかった。行っていいと言われている。なのに、行くという選択肢が、なぜかすんなりと自分の中に入ってこない。まるで、行くための筋肉が、いつのまにか衰えてしまったかのようだった。

    「でも……」
    「無理にとは言わないよ。朝倉さんがここにいたいなら、ここにいてもいいし」

    ここにいてもいい。
    その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが止まった。
    これまで何度も聞いてきたはずの言葉だった。優しい言葉のはずだった。ここにいてもいい。誰かにそう言ってもらえることが、どれほど安心だったか。新歓の受付で、企画会議の帰り道で、定食屋のカウンターで、何度もその言葉の変奏を聞いてきた。

    無理しなくていい。
    ここなら大丈夫。
    ここにいてもいい。

    そのたびに、私は安堵してきた。
    けれど今、同じ言葉が、まったく違う響きで耳に届いていた。

    「ここにいてもいい」
    そう言われてはじめて、私は気づいた。
    私は、ここを選んだんじゃない。
    選ばなくてもいい場所に、慣れてしまっていただけだった。

    夏実の「無理にとは言わないけど」も、芦沢の「ここにいてもいい」も、そのときの私には、同じ形に聞こえた。
    どちらも、私がもう選ばなくなっていたことを、静かに照らしていた。

    夏実は、私が来ないかもしれないことに慣れていた。
    芦沢は、私がここに残ることに慣れていた。
    そして私は、そのどちらにも、自分で選ばずに応えていた。

    私は、ここにいることを選んだのではなかった。ここにいることが、いつのまにか、選ばなくていい場所になっていただけだった。
    思い返せば、いつもそうだった。

    司会をやらなくていいと言われたとき。
    無理しなくていいと言われたとき。
    合わせなくていいと言われたとき。

    そのすべてが、優しさだったはずなのに、気づけば、私の周りから「決める」という行為そのものが、少しずつ取り除かれていた。誰も奪ったわけではない。私自身が、差し出すように手放していた。

    「朝倉さん?」

    芦沢が、資料をめくる手を止めて、私の顔を覗き込んだ。心配そうな、いつもの優しい顔だった。その顔を見て、私は自分がどれだけこの優しさに寄りかかってきたかを、今さらのように思い知った。彼を責める気持ちは、不思議と湧いてこなかった。ただ、自分自身に対して、静かな驚きだけがあった。

    「……なんでもないです」

    私はそう答えて、資料に視線を戻した。けれど、指先はもう、さっきまでと同じようには動かなかった。
    どの順番で資料を並べるか。
    そんな小さなことなのに、私は芦沢の顔を見そうになった。
    見る前に、手を止めた。
    それだけで、少し怖かった。

    窓の外では、雨が降り始めていた。湿った空気が部屋の中に忍び込んでくる。私はしばらく、その音だけを聞いていた。作業を続ける芦沢の手元と、窓を打つ雨音と、自分の中でゆっくりと形になっていく何かを、同時に感じていた。
    何か大きな出来事があったわけではない。誰かが私を傷つけたわけでもない。ただ、小さな言葉がひとつ、いつもと違う角度で私の中に落ちてきただけだった。それだけのことなのに、もう、さっきまでの自分には戻れない気がした。

    その夜、部屋に帰ってから、私は電気もつけずに、しばらく玄関に座り込んでいた。
    靴も脱がないまま、膝を抱えて、暗い部屋の輪郭だけを見つめる。ここは、一年前の春に自分で選んだはずの部屋だった。契約書にサインをしたのも、家具を選んだのも、自分だった。なのに、この数ヶ月、自分は一体、何をどれだけ自分で選んできただろうか。

    たぶん、と私はいつも言ってきた。たぶん、で済ませられることが、楽だった。誰かに決めてもらうことが、優しさだと思っていた。夏実や沙苗の後ろを歩くことも、芦沢の隣で立ち止まることも、同じように「楽だから」という理由で受け入れてきた。
    けれど、たぶんという言葉の裏で、私は何を手放してきたのだろう。
    暗闇の中で、これまでの数ヶ月の場面が、順番も脈絡もなく浮かんでは消えていった。
    新歓の受付で聞いた、道に迷った話。
    定食屋のカウンターで交わした、ここなら大丈夫という言葉。
    企画会議で、自分の代わりに司会を辞退してくれた声。
    そのひとつひとつは、たしかに温かかった。今もその温かさを、嘘だったとは思わない。

    思い出せば、久代の軽口がだんだん減っていったのも、夏実が少しずつ素っ気なくなっていったのも、全部、同じ流れの中にあった。あのとき感じた小さな違和感を、私は何度も見て見ぬふりをしてきた。変わるのは仕方ない、と自分に言い聞かせるたびに、本当は何かに気づきかけていたのだと思う。気づきかけては、その先を見ないようにしてきた。

    塚原さんと芦沢が廊下で話していたときのことも、今なら少し違って見える。
    夏実たちが気にしている、という言葉。
    あれを聞いたとき、自分はどこかで、聞かなかったことにしようとしていた。知ってしまえば、何かを選ばなければいけなくなる。それが怖かったのかもしれない。
    ただ、その温かさに包まれている間に、私は自分で考えることそのものを、少しずつ忘れていったのだと思う。
    玄関の床は冷たくて、しばらく座っていると、膝の裏が痺れてきた。それでも、私はすぐには立ち上がらなかった。今夜だけは、この冷たさをちゃんと感じていたかった。

    第八章

    それから三日間、私はいつも通りに講義に出て、いつも通りにサークルの作業をこなした。芦沢からのメッセージにも、これまで通り返信をした。

    《今日は来る?》
    《はい、行きます》
    《予定は?》
    《特にないです》

    言葉のやりとりは、何も変わっていなかった。
    けれど、その言葉を打つたびに、自分の指先がどこか遠くから動いているような感覚があった。何かを演じているわけではない。ただ、これまで無意識にやってきたことに、初めて意識が追いついてしまった、という感じだった。一度気づいてしまうと、もう元のようには、何も考えずに《たぶん大丈夫です》とは打てなくなっていた。

    その三日間、夏実や沙苗にも、いつも通りに接した。何か聞かれるかと身構えていたけれど、二人とも特には気づいていないようだった。それが、心細かった。自分の中でこんなに大きなことが動いているのに、外からは何も変わって見えない。そのことに、私は奇妙な孤独を感じていた。

    三日目の夜、私は芦沢にメッセージを送った。

    《明日、少し話せますか》

    返信はすぐに来た。

    《うん、いいよ。いつものとこでいい?》
    《できれば、二人だけで話したいです》

    少しの間を置いて、《わかった》とだけ返ってきた。
    その短さに、彼が何かを察している気配を感じた。スマートフォンの画面を閉じて、私はしばらく暗い天井を見上げていた。

    芦沢に話をしたいと伝えた翌日、サークル棟の裏手にある、誰も使わない非常階段の踊り場で、私たちは向かい合った。夏の日差しの中で、ぬるい風が階段の隙間を吹き抜けていく。手すりに積もった埃が、西日を受けて微かに光っていた。

    「話って、何?」

    芦沢は、いつもと変わらない、穏やかな声で聞いた。けれど、その目には、いつもより少しだけ緊張の色があった。

    「少しの間、ひとりで決める練習をしたいんです」

    私は、できるだけ簡単な言葉を選んだ。話す言葉を、たくさん用意していたはずなのに、いざ口を開くと、それだけしか出てこなかった。踊り場の下では、部活帰りの学生たちの声が、遠く聞こえていた。西日が、私たちの足元に長い影を落としていた。
    芦沢は、少しの間、黙っていた。

    「俺が何か、間違えた?」
    「そういうことじゃないです。芦沢さんは、ずっと優しかった。それは本当です」
    「じゃあ、なんで」
    「たぶん……優しくしてもらうことに、慣れすぎてたんだと思います。自分で決めなくていいことが、楽だったから」

    そこまで言って、私は言葉を止めた。それ以上は、うまく説明できる気がしなかった。説明したところで、この気持ちが正しく伝わるとも思えなかった。頭の中には、この数ヶ月の場面が次々と浮かんでは消えていたけれど、そのどれもを、彼に理解できる形に翻訳する自信がなかった。
    芦沢は、しばらく踊り場の手すりに視線を落としていた。それから、小さく息を吐いた。

    「そっか」

    短い一言だった。責めるでも、引き止めるでもない。ただ、何かを受け止めたような、静かな声だった。

    「気づいてたのかもしれない。俺も、朝倉さんがここにいてくれることに、安心してた部分があったから」

    彼はそう言って、少し自嘲するように笑った。

    「留学から帰ってきて、なんだか自分の居場所がうまく掴めなかった時期があって。朝倉さんと話してると、ちゃんと必要とされてる気がして、それに助けられてたんだと思う」

    その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。芦沢は、優しかった。ただ、私も、彼も、それぞれの心地よさの中で、お互いに何かを手放しかけていただけだったのだ。誰かを傷つけようとした人は、この関係の中に一人もいなかった。それでも、静かに壊れていくものは、たしかにあった。

    「ごめん」

    芦沢がそう言ったので、私は首を振った。

    「謝らなくていいです。私も、ちゃんと自分で決めてこなかったので」

    それが、私たちの最後の会話らしい会話になった。サークルでは、その後も顔を合わせることがあったけれど、以前のような二人だけの時間は、自然と減っていった。気まずさはあったが、それ以上に、静かな納得のようなものが、私たちの間にはあった。すれ違うとき、芦沢は小さく会釈をするようになった。それだけで十分だった。
    それからの一週間は、正直、あまり楽しいものではなかった。
    芦沢と過ごしていた時間の分だけ、予定表にぽっかりと空白ができた。夏実や沙苗にすぐに連絡する気にもなれず、かといって一人でいることに慣れているわけでもない。放課後、行くあてもないまま、大学の裏にある小さな公園のベンチに座って、ただ時間を潰すだけの日が続いた。

    スマートフォンを開いても、誰かからのメッセージを期待している自分に気づいて、少し嫌になった。《今日は来る?》も、《予定は?》も、もう届かない。それが寂しいのか、ほっとしているのか、自分でもよくわからなかった。
    一人で夕飯を作るとき、誰かに「今日何してたの」と聞かれることもない。誰かの予定に合わせる必要も、誰かに予定を確認される必要もない。ただ、その静けさに、私はまだうまく馴染めていなかった。作った夕飯は、いつもより品数が少なくて、味付けも少し濃かった。
    金曜の夜、部屋でレポートを書いていたとき、ふと、締め切りまでまだ余裕があることに気づいた。誰かに急かされたわけでも、誰かのために先に片付けたわけでもない。ただ、自分のペースで進めた結果、そうなっていた。それだけのことが、少しだけ誇らしかった。
    同時に、こんなふうに一人で何かを進めることの心細さも、初めて実感した。決めることは、思っていたより疲れる。誰かに委ねていた頃の楽さを、恋しく思う瞬間がなかったと言えば嘘になる。それでも、レポートを書き終えたとき、私は誰にも報告しなかった。ただ、自分の中だけで、小さく完結させた。

    雨の日、傘を忘れそうになって玄関で立ち止まったとき、反射的に《傘忘れないでね》というメッセージを待っている自分に気づいて、少し笑ってしまった。誰も、もう教えてくれない。自分で覚えていなければならない。当たり前のことのはずなのに、それを一つずつ思い出していく作業は、思っていたよりずっと骨が折れた。
    夏実や沙苗との距離は、すぐには元に戻らなかった。

    旅行には、結局行かなかった。誘われなかったからではない。「今回はやめとく」と、自分から断った。理由は説明しなかったし、二人も深くは聞かなかった。ただ、その代わりに、次の週末、三人で近所のカフェに行こうと自分から誘ってみた。

    「珍しいね、結唯から誘うの」

    夏実が驚いた顔をした。

    「たぶん、そうかも」
    「またたぶんだ」

    沙苗が笑うと、夏実もつられて笑った。何かが劇的に変わったわけではない。ただ、少しずつ、以前のような軽口が戻ってきていた。カフェのテラス席で、三人はしばらく他愛のない話をした。夏実が最近ハマっているドラマの話、沙苗がバイト先で失敗した話。話の輪の中に、自分がちゃんといることを、私は意識しながら確かめていた。

    「結唯、なんか、ちょっと痩せた?」

    沙苗がふと私の顔を覗き込んで言った。

    「そう見える? 別に何もしてないけど」
    「なんか、雰囲気変わったのかも。前より、しゃんとしてるっていうか」

    うまく言葉にできないなりに、沙苗はそう表現した。私は「そうかな」とだけ答えて、アイスティーのグラスに口をつけた。変わった、という実感は、自分自身にはまだそれほどなかった。ただ、誰かがそう言ってくれることが、悪い気はしなかった。

    「そういえば、学園祭の展示、結局どうなったの」

    私が尋ねると、夏実は待ってましたとばかりに説明を始めた。写真パネルの配置、試食コーナーの担当割り振り。知らないうちに決まっていたことのひとつひとつを、今度はちゃんと聞いて、頷いて、時々質問を挟んだ。

    「今度から、決めるとき呼んでよ」
    「え、いいの? 結唯、面倒くさがるかと思ってた」
    「面倒じゃないよ。ただ、知らないでいるの、あんまり好きじゃないなって思って」

    その言葉は、自分でも少し驚くくらい、すんなりと出てきた。
    その夜、部屋に帰ってから、私は本棚の隅から、あの読書ノートを引っ張り出した。二ヶ月以上、開かれていなかったページをめくり、久しぶりに万年筆を手に取る。何を書けばいいのか、最初は少し戸惑った。けれど、今日読んでいた文庫本の、印象に残った一文を書き写しているうちに、手が自然と動き出した。
    たった数行のことだった。それでも、誰に見せるでもない、自分だけのための時間を取り戻せたことに、私は静かな満足を感じていた。ノートを閉じて棚に戻すとき、これからは、こういう時間を簡単に手放さないようにしよう、と思った。窓の外では、七月に入ったばかりの夜風が、少しずつ夏の匂いを運んでき始めていた。

    久代とも、学食で前のような他愛のない会話を交わすようになった。「最近、どう」と聞かれて、「普通だよ」と答えると、久代は「珍しいじゃん」と目を丸くした。

    「たぶん、って言わなかったな、今」
    「言わなかった?」
    「言わなかったよ。普通って言い切ってた」

    指摘されて、自分でも驚いた。無意識のうちに、そう言っていたらしい。久代は「なんか変わった?」と首をかしげたが、それ以上は深追いしなかった。ただ、以前のような軽い調子で「じゃあ今度、履修かぶってる講義、一緒にサボろうぜ」と笑った。私も「サボらないよ」と笑い返した。それだけのやりとりが、以前よりも少しだけ、大事なものに感じられた。

    サークルの定例会議でも、少しずつ変化があった。学園祭の展示について、塚原さんが「何か意見ある人いる?」と聞いたとき、私は以前なら黙って頷いているだけだった。けれどその日は、写真パネルの配置について、自分の考えを口にしてみた。

    「入り口側に、留学生のインタビュー写真を並べたらどうですか。人の顔が最初に見えると、立ち止まってもらいやすい気がして」
    「あ、それいいかも」

    塚原さんがホワイトボードにメモを取る。夏実が「結唯、意外とちゃんと考えてるじゃん」と茶化してきたけれど、その声には、以前とは違う響きがあった。からかいというより、少し嬉しそうな響きだった。
    会議の後、沙苗が隣に来て言った。

    「結唯、最近ちゃんと自分の意見言うようになったね」
    「そう、かな」
    「うん。前は、いつも誰かの後ろにいたけど、最近は、前にいる気がする」

    その言葉に、私は何と返せばいいかわからず、ただ小さく笑った。認められた、というより、自分でもまだ実感の薄い変化を、誰かが先に見つけてくれたような気がした。

    ある朝、電話が鳴った。
    画面に表示された名前を見て、私は少し身構えた。芦沢ではなかった。夏実だった。

    「もしもし」
    「結唯? 今日、これから空いてる? 沙苗と駅前でお茶しようって話してて」
    「あ……」

    一瞬、いつもの癖で、予定を確認しようとする自分がいた。頭の中で、今日のスケジュールを反射的に思い浮かべる。講義はない。バイトも夕方からだ。けれど、確認するまでもなく、今日は何もない。誰かの予定を基準にする必要も、もうなかった。

    「予定は? 大丈夫?」

    夏実がそう聞いてきた。それは、かつて芦沢が何度も口にしていた言葉と、同じ響きを持っていた。けれど今、電話越しに聞こえてくるその声には、かつて感じていた気配はなかった。ただ、単純に、誘ってくれているだけだった。予定を握られているのではなく、予定を尋ねられているだけだ。その違いに、私は安堵していた。

    「うん、もう大丈夫」

    私は、そう答えた。今日の予定のことでもあり、それ以外の、もっと大きな何かに対する答えでもあるような気がした。声に出してから、自分の言葉の重みに、少しだけ驚いた。

    「そう。それなら駅で待ってるね」

    電話が終わると、私は出かける準備をした。クローゼットを開けて、今日は迷わず、お気に入りの水色のブラウスを選んだ。「たぶん、これでいいか」ではなく、「これがいい」と、はっきり思えた。窓から差し込む七月の朝日が、部屋の中を明るく満たしていた。

    部屋を出るとき、一度立ち止まって振り返った。
    そこには、変わらない私の部屋があった。
    契約書にサインをしたのも
    家具をひとつひとつ選んだのも
    他でもない自分だった。それを、今さら疑う必要はない。これからも、私が帰ってくる場所であることに変わりはなかった。
    背後で、カチリとラッチの噛み合う無機質な金属音が響いた。
    その音は、何かからの解放を告げるものではなかった。ただ、内側と外側を、静かに分けるだけの音だった。勝利でも、劇的な始まりでもない。ただ、今日、私はこの音を、自分の意思で鳴らした。それだけのことだった。

    私は、まだ熱を持ちきらない朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、待ち合わせ場所に向かって歩き出した。
    知らない場所へ、まだ行けるかどうかはわからない。留学も、遠い町の話も、相変わらず自分には縁遠いもののような気がする。それでも、少なくとも今日、私は自分でこの扉を閉めて、自分でこの道を選んだ。
    駅の改札の前で、夏実と沙苗が手を振っているのが見えた。私は小さく手を振り返して、歩調を少しだけ速めた。
    たぶん、それだけで、十分だった。

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